teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:808/3593 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

歴史家としてのフーコー その1

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年12月20日(土)23時02分40秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://cruel.org/other/foucault.html

Foucault as Historian

キース・ウィンドシャトル (Keith Windschuttle)
(Critical Review of International Social and Political Philosophy Vol 1, No 2, Summer 1998, pp 5-35, Robert Nola (ed.) Foucault, Frank Cass Publishers, London, 1998 にも再録)

要約: フーコーの「歴史」と称するものはいい加減であり、実際の歴史とは全然対応していない。実際の歴史と並べてみると、フーコー流の「知」の考古学や系譜学はでたらめ。かつて中世にキチガイがうろついていたのは、連中が人間として権利を認められていたからではなく、人間以下の動物としか思われていなかっただけのこと。精神病院に入れたのは、別に人間以下のもの(「他者」)を排除するためじゃなく、人間として見たからこそ世話をしてやろうという発想が出たのだ。刑務所だって、受刑者を矯正し、労働倫理をにたたき込むためだった、なんてことはない。そんな発想はごく最近のもので、啓蒙主義の発想はむしろ正反対。「性の歴史」も古代ギリシャやローマに勝手にホモのユートピアを妄想しているだけのひどい代物。 頭を抱えるフーコー
注: 写真と本文は関係ありません。


  1966 年にミシェル・フーコーは、「人間の死」というフレーズを提唱したことで、かなり学会の注目を集めた。これはニーチェの有名な「神の死」というフレーズを露骨に下敷きにしたものだ。このフレーズで宗教の終わりを宣言したニーチェは大いに悪名を高め、そして当時台頭しつつあった「反人間主義」一派もかなり悪く言われることになった。『言葉と物』でのフーコーによれば、「人間の死」というのは理性に従う生物としての人間や、強力な個人の決断によって左右される歴史といった、人文主義的な概念の終焉を意味していたのだそうだ[1]。実際の歴史は主体のないプロセスであり、人は自分の歴史を築いたりしないばかりか、「人」という概念そのものがもう時代遅れなのだ、とフーコーは論じた。

  フーコーはこの主張を当時の反人文主義的な思想家たちと共有していた。たとえばフランス歴史学のアナール学派などは、みんな歴史というものがどんな個人よりはるかに強力な力によって動かされていると論じていた。反人文主義の主な主張は、個人という主体の自立性などというものは幻想だということだった。人間をめぐる出来事の中心的な役割を、意識と自由意志に帰した人文主義の伝統はまちがっていた、とかれらは言う。反人文主義の一派によれば、人間の行動と思考は無意識に支配されていているので、人文主義は目的を持つ行動が意識によって導かれているという想定を捨て去らなくてはならない、という。アナール学派など別の一派は、地理と人口の力が人類の運命を左右すると主張した。

  一方でフーコーは、歴史家というのは政治活動家の役割を避けられないと信じていた。すべての知識は権力を生み出すというのがフーコーのこだわりだったので、歴史家の生み出す知識も、何らかの政治的目的に奉仕するものでしかあり得ない。ほとんどの歴史家は、現体制を指示する伝統主義者たちだ、とフーコーは述べる。だが、一方では「新しい歴史家」がいて、「われわれのような社会における組織化された科学的言説の制度と機能に結びついた中央集権化の力」に対抗するような「従属知の蜂起」を育む支援を行うという[2]。1970 年代に、フーコーはこの蜂起を導くのが権威に逆らって闘争する追放された者たち、とくに精神病患者や囚人たちなのだと主張した。

  こうしたアイデアを主張したのと同時期に、フーコー自身も過激な監獄解放運動に関わっていて、会合に出たり助言をしたりしていた。かれの議論では、囚人たちのような集団の「ローカルな知」は、その直接の状況に対する粗野な反応でしかないのだ、と論じた。かれらは、以前に同じ行為を繰り返していた先人たちについての歴史的知識を持っていないのだ、と。だからかれらの要求は、それに同情的な知識人――たとえば自分――による解釈で補ってやらねばならないのだという。そうした知識人は、フーコーの定義によれば「特殊領域にかかわる知識人」であり、自分の「衒学的な歴史的知識」を、社会追放者たちの「排除された知」と結びつけるのだ、と。この連帯は「隷属知」または「闘争の歴史的知識」を生みだし、それは権威の味方をする学問の力と対抗できるほどのものなのだという[3]

  1971 年の「ニーチェ、系譜学、歴史」という文の中で、フーコーは「実質的な歴史」(ニーチェのことば)と伝統的な歴史を区別して考えるべきだと宣言した[4]。フーコーの説だと、伝統的な歴史のねらいは過去について何かパターンや合理的なイベントのシーケンスを見つけることだが、これは不可能なのだという。というのも、人間の性質や意識には、何一つ一定の部分や普遍的な部分がないからだそうだ。時代が違えば相互に関連づけることはできないし、新しい時代はそれ以前の時代の中に生まれ育まれるものではない。新しい時代――あるいはフーコーの昔の用語を使えば「エピステーメー」や「discursive formation」――は、説明不可能な形で突然脈絡なしに現れるのだ。歴史は発展は進化のパターンは一切持たない。というのも過去はブツ切りの無関係な展開が並んでいるだけのものでしかないからだ。

      「実質的な歴史」が伝統的な歴史と違うのは、一定の部分がないということである。人間のどんな部分も――その肉体でさえも――自己認識や他人の理解の基盤となれるほどの安定性を持ってはいない。歴史の包括的な味方を構築し、過去を辛抱強い連続的な発展としてたどろうとするための伝統的な装置は、系統的に破棄しなくてはならない[5]。

  フーコーによれば、歴史というのは客観的な知識の生産を目指すことはできない。むしろ、歴史家が過去に対する客観的で超然とした観察者だという思いこみをなくすことを目指すべきなのだ、という、これをやるには「知というものを視点として捉える」ことが重要だ:

      歴史家達は、自分たちの研究の基盤がある特定の時代や場所にあるということを示す要素や、論争での嗜好――かれらの学究における避けがたい障害――を示すような要素を消去しようと、大いに手間をかける。ニーチェ的な歴史観は、その視点を明確にし、その不公平さを認識する。ニーチェ的な歴史の認識はゆがんでいて、意図的な評価、肯定、否定となっている。それは抜きがたく有害な痕跡にも触れて、それに対する最良の対処薬を処方しようとする[6]。

 つまり、客観性は不可能なので、歴史家たちは意図的に偏向した解釈をすべきだというわけだ。でも、この見方をとるならば、過去に何が起きたかについての真実を追究するのはどうなってしまうのだろう? フーコーはこの点でかなりはっきりしている――過去に起こったことはすべて、何らかの視点から見なくてはならない。ほとんどの人が、おおむね基本的な歴史的事実と見なすようなことでさえ、独立したものとして見てはいけない。バスチーユ襲撃やウォーテルローの戦いといった事象の細部は、決して客観的に見ることはできず、政治的な解釈を通じてのみ見ることができるのだ。

      つまりある事象は、決断でもなく、条約でもなく、支配でもなく、戦闘でもない。様々な力の関係の裏返しであり、権力の奪取であり、ある用語体系を使っていた者たちからそれを奪い取り、かれらに刃向かうものとして使うことなのである[7]。

  そういうことなら、フーコー自身の歴史家としての主張はどういう立場に置かれるのだろう? 客観的に書こうとすることはできないと当人が認めている。この点については少なくとも、フーコーは一貫性を持っている。自分の歴史は、フィクションと呼ばれるべきだとかれは何度も認めている。1967 年に行われた観念史『言葉と物』に関するインタビューで、フーコーはこう述べている:「私の本は単純明快な「フィクション」です。小説なんです」[8] 。そしてそのフィクション的な立場を発明したのは自分ではない、と付け加えている。それはかれが執筆している時代の認識論(エピステーメー)の避けがたい結果なのだそうだ。つまり、その時代の観念史家は、フィクション以外のものを書きようがないのだ、と。でも1977 年頃には、まだ自分の歴史がフィクションであることを認めつつも、フーコーは一方でその中に真実の概念を挿入しようと試みている。

      私は自分がフィクションしか書いたことがないことは十分に認識しています。でも、だからといってそこに真実がないというつもりはありません。フィクションが真実として機能する可能性はあると思うし、フィクション的な言説が真実としての効果を持てると思うし、真実の言説が育むものを育む、つまり何か未だ存在していないものを「捏造」するをこともできると思うんです。人は歴史を「創作する」に際して、それを真実にする政治的現実を根拠にして創作するのだし、歴史的真実を根拠にしてまだ存在していない政治を「創作する」のです[9]。

  さて、フィクションの中に真実があるという発想には賛成してもいい。一部の文学作品、たとえば小説や演劇は、人々に関する真実を捉えていたり、「真実味を持つ」ことはできるだろう。これはお馴染みの考え方だし十分に認められる。また、歴史家が客観性を保つのがとても難しいこともよく知られている。というのも歴史家だって、自分の時間、空間、文化的な立場が持つ想定や概念の中で作業を始めているからだ。でもだからといって、伝統的な歴史を否定し、その客観性の主張を排除して、かわりに「実質的な歴史」、つまりあからさまに党派的な過去の見方で置き換えるべきだろうか? この疑問には二つの方向から答えられる。一つは内部的な一貫性の面から。二番目は、フーコー自身の研究が、他の歴史家、特にかれがひどく見下す伝統主義者たちとの競合にどこまで耐えられるか、という点だ。

  議論内での一貫性の問題については、フーコーのもっとも忠実な支持者たちでさえ、もはや擁護できずにいる。そうした支持者の多くはフーコーについて「力点の推移、方向性の変化、論者たちが作品中の断絶、差異、不連続性について語るのを可能にしてくれる展開や再整理」[10]などがあると語る。こうした表現は、単に矛盾と一貫性のなさを言い換えただけだ。これはフーコーの反人文主義的立場(この立場をフーコーは一度も明確に取り下げていない)と、歴史家の役割についてのフーコーの発想との比較でも見られる矛盾であり、一貫性のなさだ。歴史というのが主体を持たないプロセスであるという発想は、「新しい歴史家」の役割としてかれが挙げる、排除された集団が権威に対して闘争するための「従属知の蜂起」の育成というものと真っ向から対立してしまう。かれらに助言する「特殊領域にかかわる知識人」の台頭を呼びかけることで、フーコーは自由意志に基づいて行動できる意識を持った主体に訴えているわけだ。同じことが、フーコーの述べる抑圧された者についても言える。人々は意識を持った意志に基づいて、意味があると判断しない限り、自動的に抵抗したりするわけではない。そして意志がなければそもそも抵抗もできない。

  つまりフーコーの政治は、歴史家の正しい役割に関するかれ自身の分析と完全に矛盾している。さらに、以下の『監獄の歴史』の議論で指摘するように、歴史家は過去のできごとに合理的なシーケンスやパターンを見つけることはまったく不可能であるというフーコーの主張は、刑罰という主題について自分の大発見を発表しようとするときには当のフーコー自身が無視しているものだったりする。

  フーコーの歴史家としての資格を確かめるもう一つの方法は、実際にかれが書いている歴史を見ることだ。特に、フーコー自身が書いた「実質的な歴史」を検討し、同じ分野に貢献した他のもっと伝統的な歴史家の成果と比べてみるといいだろう。本稿がこれから行うのはこのアプローチである。つまり、フーコーの主要な歴史分析とその信頼度について、もっと伝統的なアプローチで見つかった証拠に照らして検証しようというわけだ。
各種施設の起源

  フーコー初の主要作品『狂気の歴史』は、狂人とされた少数の人々や、それを処置しようとしてきた精神病院の職員だけに関わる状況の歴史として構想されたものではない。それは 過去300年の西洋の歴史の本質を理解するにあたり、核心となる問題なのだ: 「いずれにしても、〈理性〉ー〈非理性〉の関連は西欧文化にとって、その独自性の重大な一面を形づくっている」 [11]。フーコーは特に、狂気の処置についての伝統的な説明や、もっと広くは科学としての医学の成長に関する伝統的な説明を覆そうとしている。過去二百年にわたる進歩と知識増大のかわりに、フーコーはまったくちがった説明をする。かれの著書が扱う時期、1650 年代から 1790 年代は、人文科学が広範な抑圧の新しい手口を見つけた時期なのだった。ほとんどの歴史家はこの時期を理性の時代や啓蒙時代と考え、知識の基盤がそれまでの宗教信仰や迷信にかわり、理性的で科学的な手法になった時代だと理解している。フーコーにとっては、理性の地位が上がったということは、狂気が人間の一状態だということが否定されたということになる。そしてこれは、狂人にとってのみならず、西欧社会を支配するようになった倫理的価値にとっても、深刻な影響をもたらしたのだ、とフーコーは主張する。

  フーコーの主張では、中世やルネサンス期には、狂人は社会の見慣れた一員であり、狂気は人間経験の通常の一部に十分含まれるものとして受け容れられていた。狂人は村や山谷を自由にうろついた。ときには狂人は見せ物とされ、芝居や娯楽の種となった。フーコーは、こうした中世的な狂人への対応の本質は「阿呆船」に現れているという。これは本物の船で、自分の理性を探し求める狂人たちをのせてライン川をのぼったり下ったりしていたのだという。この船は「気違いという船荷をある都市から別の都市へ運んで」おり、それを見た人たちは人間にふりかかる災難の中で狂気が差し迫ったものだという怖いイメージを味わうことになったのだった。一部の中世の考え方では、狂人たちは聖なる知識への洞察を持っているとされていたが、一般には地域コミュニティの中で、かたわや不幸な人々として大目に見られていた。「文芸復興期には狂気はいたるところに現存していて、そのイマージュやその危険を介して個々の経験と混ざっていた」とフーコーは書く [12]。

  でも1650年以降、ヨーロッパ社会はフーコーの言う「大いなる閉じ込め」というものを始めた。一夜にして大量の人々――フーコーによればパリ人口の 1 パーセント――がフランス、イギリス、オランダ、ドイツ、スペイン、イタリア各地に急速に設立された病院や慈善院や作業所に収容された。一部は新しい施設に入れられ、一部は何世紀も前に隔離病院や癩病院だった建物に入れられたが、この新人口はどちらの場合にも「癩者より厳重に追放された」 [13]。最初、この隔離された人々は身分の低いいくつかの集団――失業者、貧困者、犯罪者、狂人を含んでいた。これはこうした施設ができたのが経済の不況期であり、したがって「無一物で社会的な絆をもたぬ人々、新しい経済発展にともなって、一時期、不安定な状況におかれたり、見棄てられた階級の人々」を標的にしていた。だから大いなる閉じ込めは「西欧世界全体に作用した経済危機にたいして十七世紀に採られた対応策の一つを形づくっている。実際、[その経済危機とは]賃金の低下、失業、貨幣価値の低下などの事実の総体」 [14]。 (訳注:邦訳はこうなっているが、英訳だと最後の部分は「貨幣の不足」となっている。両者の意味は反対だがどちらが正しいかは不明。だが当時はアメリカからの金銀流入で貨幣は増えていて大インフレになっていたから、英訳がまちがっている可能性が高い。) だがフーコーは、当局は自分ではこうした大いなる閉じ込めを経済的な手法とは認識していなかったと断言する。むしろ貧困の増大や怠惰さの増大は、貧困者自身の欠点、「規律のゆるみと風俗の乱れ」[15]から生じるものと見られていたという。これに対する対処法として、人々を施設に隔離して一日中働くよう強制したというわけだ。つまり労働倫理が社会の全員にとっての普遍的な処方箋となった。

  フーコーは、この発展をヨーロッパの中産階級台頭と結びつける――交易と新しい産業都市が、収監施設の設立による労働倫理の確立の先鞭をつけた、というわけだ。これは中産階級の台頭に伴う道徳的価値と、自分たちの価値観を普遍的なものにしようとするこの階級の試みの根底にある裏面をあらわにするものだ、とかれは論じる。教条マルクス主義歴史家の言いそうな解釈ではある。だが、フーコーの著書の主要な原動力は、マルクスではなくニーチェからきている。ニーチェは、西洋哲学の中心的な特徴は、人間を理性的な存在、理由づけを行う生物として定義することだと言う。ニーチェは、これは伝統的な見方における大きな欠点なのだという。なぜかといえば、人間の他の側面、たとえば無意識、自発性、享楽性、自滅性などを無視してしまうから、とのこと。フーコーの著書は、狂気の歴史というのは実は、理性という概念が狂気という概念を抑圧した歴史なのだ、と論じる。

 フーコーに言わせると、中世では狂気というのは自律した概念であり、人間の状態の一部として認知されていた。だが理性の時代の到来とともに、狂気は「非理性」、つまり理性の反対として定義されるようになった。「非理性との比較において、それによってのみ、狂気は理解されることができた」 [16] 。そして、「理性」がいまや人類を定義づける特徴となった以上、理性的でない人物は人間としての地位を失った。そして動物でしかない存在となったのだ:

      古典主義時代には、狂気は見せ物である、だが格子の向こう側から見せられるのである。そかも、狂気が姿を見せる場合、一定の距離をおいてであり、理性の視線にさらされたままであって、この理性はもはや狂気と近親関係を持たないし、あまりにも似通っているために巻き添えをくうように感じる必要ももはやない。狂気は見られるべき物となった。もはや自己自身の奥底にある怪物ではなく、奇異な機構をそないた動物、ずっと前から人間が消滅している動物性となったのである [17]。

  啓蒙主義の古典時代の末期、フランス革命が現代の到来を告げたとき、あたらしい抑圧形態が席巻したのだ、とフーコーは述べる。18 世紀の収監施設では、狂人たちは労働したがらない、労働できないという性質によって、他の収監者たちとはちがった存在となっていた。現代はこれに対して三つの方法で対応した。一つは、狂人専用の癲狂院の設立。第二に、狂人たちを鎖など、これまで収監施設では一般的だった物理的拘束具から解放したこと。第三に、狂気というのを医学問題として定義づけたこと。

  狂人の地位が、動物から病人へと変わったというのは、狂人の人間性を認め、その状態が一時的なものにすぎないと認識した結果のように思える。だがフーコーは、そうした見方は間違っているのだと固執する。医療従事者たちは、自分たちが精神異常だと定義づけた人物を収監する新しい力を与えられた。さらに、この収監の目的は、その人物が医学的な治療の対象となるようにすることだった。したがって、医学的な定義は法的保護を排除するもので、その人物がコミュニティの中で生きる権利を排除してしまう。狂人が法的、社会的地位を回復する唯一の方法、つまり完全な人間としての地位を回復する方法は、医学的治療に対してよい反応を示すことだけだった。精神科医や他の医師が求める適正な反応とは、社会の規範を受け容れるということなのだ、とフーコーは強調する。全体としてフーコーは、精神治療の法律や狂人の処置というのを、現代社会が自分たちの「正常」の定義を押しつけてそれを侵犯する者たちを処罰するための、現代社会の悪質な武器であると描き出すのだ。

  『狂気の歴史』はフランスでフーコーの学問的評価を確立したし、1964 年にはこの本のおかげでクレルモン=フェラン大学で哲学教授の職を得ることになった。次著『臨床医学の誕生』はフランスで 1963 年に刊行され、前著ほどは評判にならなかったものの、狂気に関する本の主要テーマをさらに進めたものとなっていた。医学は進歩の歴史だと言われるが、そんなのは嘘だ、とフーコーは論じる。19 世紀の科学的アプローチは、病気の原因と治療法に関する客観的な知識の段階的な発展ではないのだ、とかれは言う。むしろ単に別の形の医学に置き換わっただけなのだ。序文でフーコーは抜け目なく、何か特定の医学に対して肯定的な立場も否定的な立場も取ろうとする本ではないのだ、と主張している。またこれは、科学としての医学や病気の観念史や起源の研究でもない。むしろそれは、病人が「知識の対象となり得るものとして構築された」方法についての研究だという。どういう意味だろう?

  『臨床医学の誕生』で、フーコーは十八世紀末に西洋医学に生じた「大いなる断絶」を見つけたと主張する。これは「医学的知識の突然変異」であり、医学の研究対象と、医療の臨床手段の変化を指す[18]。18 世紀末まで、医師は個々の患者よりも病気に感心があった。初期の医学は、主に各種の病気をその類似性や相違にもとづいて分類して整理しようという試みであり、その発生パターンを理解しようとする試みだった。病人は、その病気が占める領域のごく一部でしかなかった。医学者は主に、その病気が特定個人にどう現れているかよりも、その病気のもっと広い問題に関心があった。19 世紀には、医師の「科学的な欲求」が個人の病理学的な分析に移行した。これは医療の力点を個人の身体へと移行させ、その病気の症状がどういうふうに肉体組織にあらわれるかへと関心が移った。いったんこの移行が起こると、医学訓練や分析においては死体解剖や検死解剖が中心となった。こうした出来事が行われる施設が診療所となり(これは最初は病院に限られた)、この行為は臨床医学として知られるようになった。フーコーは、フーコーは、この新しい仕組みは医師が患者に問いかける方法の変化に示されているという。18 世紀には中心的な質問は「どうしたのですか?」だった。19 世紀には医師はこう尋ねた:「どこが痛いのですか?」[19]

  フーコーがこの本を書いたのは、医学史の改訂版を提示するためだけではなかった。医学が他の人文科学すべてにどう影響したかを示そうとしたのだ。かれは、自分が医学で指摘した概念的な断絶が、他の分野の追従したモデルとなったと考えている。病気の分類から個人の分類への移行は、「個人に関する初の科学的言説(ディスクール)だ」とかれは言う。したがって「西洋人は、自分自身の目の中で自分を科学の対象として構築できる」 [20] 。ここから、人間行動や人間集団や社会の研究は三つの中心原理が導かれた。まず、実証的で客観的な手法を使うと主張する学問を通じた人間の研究に基づいていること。第二に、死体の研究は個人の死と有限性を西洋文化やその社会科学に統合することになった。第三に、集団と社会の研究は、医学における正常と病理的な存在との差と同じように、峻別に基づくものとなった[21]。

  『狂気の歴史』と『臨床医学の誕生』のどちらでも、フーコーの最終的な目的は、知識の医学モデルから導かれた人文科学すべてには、権力の側面が関わっているのだと実証することだった。個人を健常者と病人、正気人と狂人、正常と病理的人間などに区別する力を持つことで、こうした学問に基づく職業は権威を持つようになり、それは抑圧に等しい。決められた型におさまらない人物は、施設に収監されて治療をうけ、服従させられる。フーコーによれば、このシステムはマルクス理論が言うような国だの中産階級だのから生まれるのではなく、人々の思考様式、特に人文科学が形成されている方法から生じるのだ。

  施設に関する第三の著作『監獄の誕生』で、フーコーはその理論を主要な対象である監獄のみならず、その他数種類の施設にまで拡張している。これは英語圏でフーコーの著作に大きな関心を引き起こしたテーマであり著作だった。かれは、18 世紀における現代の誕生が生み出した規律施設は、それまでにないほど深く社会体の中に処罰する力を導入したのだ、と論じている。どんな目的のためのものであれ、施設はきわめて似通った発想で作られ、厳しい時間割と規格化された建築、制服、収容者の階級、区分、点数が定められている。そのねらいはほとんど常に同じだ――個人の時間と空間の利用をコントロールし、収容者の人格と価値観を変え、成員たちを以前の文化から切り離して、その制度のみから生まれたアイデンティティを抱かせ、内面に規律的なエートスを育ませること。こうした手法や目的は、宗教教団の修道院などで中世に生まれたものだが、現代になって広く採用され、しかもそれは監獄だけに適用されたのではない、とフーコーは論じる。それはいまの施設すべての根底にある組織原理となったのだった――病院、学校、軍の兵舎、工場など。各種の施設が他の施設で行われていることを繰り返したり真似したりすることで、そのプロセスはゆっくりとすすみ、やがて一般的な手法の設計図となってまとめられた:

      それら諸過程が活動していたのは最初は私立学校(コレージュ)においてであり、のちには章恰好においてであり、それらは施療院の空間をゆっくり攻囲し、数十年のうちに軍隊組織を再構造化した。その諸過程の拡がりは時としてたちまちのうちに、ある地点から別の地点(軍隊と技術学校とのあいだ、もしくは私立高等中学校(コレージュ)と公立高等中学校(リセ)とのあいだ)へ及んだし、また時にはゆっくりと、しかも一段と控え目に(大規模な工場の老獪な軍隊組織化の例)及んだ [22]。

  この主張は衝撃的ではあったが、必ずしも独創的というわけではない。アメリカの社会学者アーヴィング・ゴッフマンも 1961 年の著書『精神病院』で、「完全な精神病院化」について似たような批判を行っている(がフーコーはこの著作に触れていない)。だがフーコーの研究は単にこうした施設が持つ共通の性質を指摘するだけにとどまらず、今日の我々がすべて未だに従属している、規律と権力関係の根底をつきとめた、と主張している点でずっと野心的なものだった。権力の現代の処罰方式から生まれてきたのは「微細な」権力体系であり、それは中心を持たず、あらゆるところに入り込み、万人に影響する。ちなみにこの時点で、こうした歴史的な権力関係の対等をたどろうとする野心は、1971年にフーコーが行った、過去のパターンや合理的なシーケンスを見つけようという試みは無駄であるという宣言とまったく相容れないことは指摘しておこう。が、まずはお手並み拝見。

  フーコーは『監獄の誕生』を、1757 年パリにおけるロベール・フランソワーズ・ダミアンのルイ十五世暗殺未遂による公開死刑執行の様子から始める。それは延々と続く、部分的には不首尾の公開八つ裂きであり、死刑執行人は結局、受刑者がまだ生きているうちに四肢を切断して、手足をむしり取る馬たちが予定通りに作業できるようにしてやらなくてはならない。続いてフーコーは、80 年ほど後にパリ少年感化院で行われる懲罰の様子を描く。その様子はまったくちがっていて、収監者の一日の時間を占有すべき厳密な活動とその時間を示した時間割で表されている[23]。 読者はこれによって、恐怖にもとづく懲罰方式から、秩序と時間遵守による懲罰方式への転換を認識するようになっている。だがフーコーは、これが改善だと考えないし、人間性への配慮のしるしだとも考えない。この80年間での苦痛と残酷さの減少は、「刑罰処理の対象そのものが置き換わる」ことで「刑罰操作の対象自体が置き換わった」ことで十分以上に埋め合わされてしまったのだ、という。

      身体に猛威をふるった罪ほろぼしの後に続くべきは、心・嗜好・意志・素質などにたいして深く作用すべき懲罰なのだ。その原則を決定的に定式化したのはマブリーであり、「こう語ってよければ、懲罰は身体よりもむしろ精神に加えられんことを」と述べている[24]。

  関心が「精神」へと向くと同時に、処罰実務に関わる人々の権力と権威主義も増加した、とフーコーは言う。その人たちはリベラルなふりをしていたが、実は正反対だったのだ。正義を執行するだけでなく、今やこの人々は犯罪者を「治療」したがるようになった。もはや監獄の囚人を罰するだけでは気が済まず、治療や矯正にも手を出そうとした。結果として、社会の処罰支配は縮小するどころか拡大し、社会科学の新理論や規律も広がった。最も直接的な結果として、新しい階級の人々と、満たされるべき新しい関心とが発達した――心理学者、精神科医、ソーシャルワーカー、処罰改革者――こうした人々が、犯罪行為の存在にたかって生きる人々として、裁判官や弁護士や警察などの伝統的な人々に加わることとなった。一見すると「改革」に見えたものは、フーコーに言わせると刑罰システムを人間的にしたのではなく、刑罰システムを社会生活のほうに拡大したのだった:「違法行為にたいする抑制と処罰を、社会と共通な外延をもつ、正規な機能にすること、(中略)一層多くの普遍性と必然性による処罰であること、処罰する権力を社会体のいっそう奥深くに組み込むこと」 [25]

  こうした新しい価値観と人員が組み合わさることで、フーコーが言うところの「身体に対する権力の技術」が生み出された。「権力のテクノロジー」と「政治的技術」という概念は、フーコーが哲学者マルチン。ハイデッガーの哲学からそのまま拝借してきたものだ(が、『監獄の誕生』ではこれは明記されていない)。ハイデッガーは、現代社会が普遍的奴隷化に等しい技術システムを作り出してしまったと主張していた。フーコーはこの発想を拝借して、独自に「身体」と「精神」の区別を作り上げた。この「精神」は何ら宗教的な意味を持たず、むしろ現代社会が生み出した、内面化された従属性のあらわれとなっている。

      精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこう言わねばならないだろう、精神は実在する、それは一つの実在性を持っていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に――より一般的には、監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に、ある生産措置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々に行使されるのだと。この精神の歴史的実在性がある、と言うのも、この精神は、キリスト教神学によって表彰される意味での精神と異なり、生まれつき罪を犯していて罰せられるべきだというわけではなく、むしろ、処罰・監視・懲罰・束縛などの手続きから生まれ出ているからである。(中略)ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神 [26]。

  全体としてのフーコーのねらいは、自分が調査した施設――精神病院、病院、監獄――の歴史が、現代社会を支配する当局の持つ権力の一般形態のモデルとなっていることを示すことだった。こうした施設をコントロールする科学/学問――精神医療、臨床医学、犯罪学――は人を客体化する「視線」を確立した。それはすべてを見通す眼であり、人々を研究対象にしてしまう。これによって、当局は法を制定することから、規範の動因、あるいは道徳の押しつけへと移行するようになった。フーコーのねらいは、現代生活のほとんどの側面もあた、社会科学とそこから導かれる専門実務の圧政下にある、というものだった。学校の内部でも家庭の内部でも、工場でも第三世界の植民地でも、人々は自分が想像しているほど自由ではない。その人生は、二百年以上前に現代が誕生したときの概念によって支配されているのだ。
 
 
》記事一覧表示

新着順:808/3593 《前のページ | 次のページ》
/3593