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歴史家としてのフーコー その2

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年12月20日(土)23時06分55秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://cruel.org/other/foucault.html

狂気と啓蒙時代

  狂気の歴史に対するフーコーの関心は、現代の理性という概念を定義づける特徴の一つが差異や他者性の排除にあるというニーチェとハイデッガーの主張にヒントを得ている。フーコーの狂気研究では、中世においては社会に狂人の居場所があったと主張されている。だが 18 世紀啓蒙主義が当時の新しいやり方で、人間を基本的に理性的な生き物だと定義すると、狂人は他者(または人間の別側面)のあまりに明白な表象だったために、恐れと嫌悪の対象となった。フーコーに言わせると、1650 年から 1789 年にかけて、癲狂院があれほど建てられて狂人を社会から隔離しようと試みられたのは、まさにそれが理由なのだった。狂気の歴史でフーコーは、ハイデッガーの主張を支持しようとしている。つまり、理性的な人間という人文主義的な概念は、息苦しく、差異の排除という点と、アイデンティティの一意的な概念の押しつけという点で後退だったという主張だ。だが他の歴史家がフーコーの説明を細かく検討してみると、歴史的な記録はこの主張にしても、他の哲学的な論点にしても、フーコーの主張を裏付けるものはほとんどないという結論に達している。

  フランスでは、最近になって精神病院の起源についてフランスの歴史家マルセル・ゴーシュとグラディス・スウェインが研究を発表したが [27]、これは「大いなる閉じこめ」が啓蒙時代と同時に起こったというフーコーの説がまったく不正確だと示すものだった。「大いなる閉じこめ」は確かに起こったのはまちがいないが、それは 1650 から 1789 年にかけてではなかった。この期間に、フランスで収監された人数の成長は、人口成長率よりわずかに大きい程度で、 2,000 人からおよそ 5,000 人になっただけだった。もっと大規模な収監は、ほとんどが 19 世紀の産物、特に 1815 から 1914 年にかけて生じている。この時期の精神病院収監者の数は、5,000 人から 100,000 人へとはねあがった。したがってゴーシュとスウェインによれば、大収監は啓蒙哲学者の時代の産物ではなく、むしろフランス革命とナポレオン失墜に続く民主主義時代の産物なのだった。

  イギリスでも状況は似たようなものだ。1700 年から 1900 年にかけての狂人の扱いの歴史に関するアンドリュー・スカルの説明だと、17 世紀にも 18 世紀にも、狂人を閉じこめようという国主導のめぼしい運動は存在していない。

  実はイギリス側での狂人の管理は、あいかわらず場当たり的で無秩序であり、ほとんどの狂人は家に閉じこめられたり山野をうろついたりしていて、収監されたのはごく一部だし、それも一般に小さな癲狂院にいるだけで、当時出現しつつあった「狂人取引」はそれがほとんどだった[28]。

  スカルによれば、フーコーの言う「古典時代の大収監」中のイギリスでは「狂気の『追放』はなかった。貧困な狂人を管理しようという真剣な試みもなかったし(中略)、ブルジョワ的な勤労習慣を身につけさせようなどという試みはないに等しかった。(中略)18 世紀のわずかな精神病院での生活を特徴づけていたのは、怠惰さだった」

  歴史家はまた、中世の考え方についてのフーコーの説明について、似たような幻想があると指摘している。中世に狂人がそこらをうろついていたのは、別に当時の人がそうした差について寛容だったからではないし、かれらが人間について多面的な概念を受け容れていたからでもない。この時代は実は、教会と国が一体となっていて、宗教の教義と政治イデオロギーが一体化していた。 こうした社会は階層化していて非博愛主義的だったから、一部の人が人間以下だとか人間でないとか決めつけるのは、現代の民主社会よりもずっと簡単だった。つまり狂人に与えられた寛容は、かれらが人間以下の存在と見なされたり、人間以上(つまり聖なる存在)とみなされたりしたためだった。どっちにしても――そしてヨーロッパでは人間以下の存在として見るのが通例だった――狂人は人間ではなく、コミュニケーション不可能だと思われていただけだったのだ。

  このような環境では、完全な人間とされない連中もコミュニティで暮らせたし、面倒さえ起こさなければ収監しなくてもよかった。完全な人間ほどは理解力がなく、苦しむ能力もないとされていたので、からかってもよかったし、子供が追い回してもかまわなかったし、見せ物にしてもよかった。村の愚者の地位は家畜と大差なく、村の光景の見慣れた一部として受け容れられていた。「だが狂人が問題を引き起こしたら、ぶちのめされたし閉じこめられた。あるいは追放されてのたれ死んだだろう。いずれにしても、精神医療による抑圧と、それ以前のほとんど自由放任に近い容認という 安易な対比図式はまちがいなく幻想でしかない」[29]。そして阿呆船だが、歴史家のエリック・ミデルフォートはそれが実在したという証拠を必死で探したが無駄に終わった。それはでっちあげであり、フーコーが想像を広げすぎただけだと言う。「確かに狂人がときどき船で追放されることはあった。だが狂った巡礼たちで一杯の船が理性を求めてさまようなどという話を示したものはどこにも見つからない」[30]

  狂人に対して現代社会が示す反応の説明についても、フーコーはやはり当てにならない。狂気が民主博愛的社会で公共政策上の問題になったのは、こうした社会が狂人を他者として見ることをやめ、人間ではない存在としてとらえずに、同じ人間であり他のみんなと同じ基本的な地位を持つ個人だとして受け容れたからだ。そしてかれらがひどい扱いを受けたら、その責任者はふつうは社会的に非難されて罰せられる。狂気はもう笑いものになったり好奇心の対象になったりしない。現代のほとんどの時期において、大多数の人々は、狂人が隔離されているのはいいことだと思っている。でもそれは、かれらが人間以下の存在と思われているからではなく、不穏当な行動や危険な行動をする人々だからだ。でもオーストラリアやアメリカなど多くの西側諸国では、精神病院の収容コストがあまりに増大してきたため、社会復帰政策をうちだして、多くの精神病院を閉鎖している。今日では、かつて維持されていた隔離は大幅に縮小されている。

  現代が権利の平等性を訴えたなら、なぜ19世紀の民主社会は狂人を精神病院に隔離する大いなる閉じ込めを生み出し、かれらを社会に統合させようとしなかったのだろうか? 施設監禁が当初大いに支持されたのは、収監者に治療が必要な状況をもたらした外部世界の環境的な影響から収監者を切り離してやればよいという発想があったからだ。19 世紀前半には、狂気や犯罪性、アル中、貧困の原因としては外部世界の道徳的腐敗がもっぱら指摘されていた。19 世紀広範囲なると、この道徳的な説明のかわりに、狂気の医学モデルが支持されるようになり、それがフーコーの言うとおり現在に至っている。だがフーコーの主張とはうらはらに、精神病院は狂人を排除しようという社会的意志ではなく、統合しようという意志のあらわれだ。社会環境を変えることで、古い問題や習慣が治療された新しい人格が作り出され、そうすればやがてかれらを外部世界に出せるようになる――精神病院創設者たちはそう考えていた。

  さてもちろん、精神病院処置の歴史を読んだ人ならだれでも[31]、精神病院に代表される社会実験はこうした目的を実現できなかったことは知っている。外部環境を排除しきるのは不可能だったし、隔離プロセスそのものが、予想もしなかった問題を引き起こした。収監者が依存症になったりへつらうようになったりして、内部の運営も権威主義的になり、さらには精神療法そのものが、精神病院の患者の多くをきちんと診断も治療もできなかった。19 世紀末には、一部の西洋諸国では大規模精神病院を閉鎖しろという市民運動が起き始めていた。1950 年代には、大いなる閉じ込めはその最後の日々に突入していた。だがこうした問題や失敗はあるにせよ、精神病院がもたらす狂気像は、それが根本的に抑圧的だったというフーコーの主張とは合致しない。その複数の側面すべてにおいて、精神病院は狂気を条件次第の一時的な状態だとして扱い、その人物の基本的人権はまだ法的に存在しているのだという立場をとっていた。狂人がその状態のために通常の人権を奪われているときも、市民として法の正当な手続きの下にあり、その権利が奪われるのも一時的であり永続的ではなかった。狂人は、中世の状況とはちがって、民主社会では決して低次の人間として定義されることはなかった。フーコーの中心的な主張――つまり狂気の歴史は、「他者」または人間の非合理な部分を排除することでおかしな人間概念を押しつけたというニーチェとハイデッガーの説を支持するものだという主張――はまったく成り立たない。
処罰・刑事理論とその実際の証拠

  フーコーの監獄論『監獄の誕生』もまた、狂気に関する理論と同じく致命的な批判の余地がある。ここでもかれは、歴史上で起きたことを自分の理論的な枠組みに押し込めようとしているし、ここでもたくさん年代的なまちがいをしている。フーコーがある時代に起きたと称していることは、実は全然別のずっと後年に起きているのだ。フーコーの扱う範囲は広大なので、時期がどうしたとかいう指摘は重箱の隅をつつくような衒学的なものに思えてしまうが、それらを並べてみると、フーコーの論じている変化の原因には別の説明ができることがわかる。フーコーは著作の中で、実際の時期についてあいまいな書き方をすることが多いが、処罰改革についてはかなり具体的だ。フーコーによると、一八世紀末が「刑事裁判にとっての新時代」だったと主張する:

  法律と犯罪にかんする新理論、道徳もしくは政治の分野での処罰権の新たな正当化。旧王令の廃止、慣行の消滅。《近代的な》法典の立案もしくは起草、すなわち、ロシアでは一七六九年、プロシアでは一七八〇年、ペンシルヴァニア州とトスカナ公国では一七八六年、オーストリアでは一七八八年、フランスでは一七九一年、革命歴第四年、一八〇八年と一八一〇年 [32]。

  フーコーはこうした改革の詳細についてあまり語りたがらないが、その共通の特徴は、犯罪者の身体に向けた処罰の排除だという。「多くの修正のうち一つを私はとくに記憶にとどめておきたい。つまり公開スペクタクルとしての拷問の消滅である」(訳注:ここ、邦訳では「つまり、身体刑の消滅である」となっている)。これに続いてかれは、一部のヨーロッパ諸国で死刑執行につきものだった拷問が衰退した様子を描く。これはおおむね正確で議論の余地がない。そして、落とし戸式の絞首台やギロチンのおかげで、死刑そのものもやがて効率が高まり、公開制が下がったことを述べる。だがフーコーの議論にとっては残念なことに、魂ではなく身体を的にあいた法制度が衰退したとフーコーが主張するまさにその時期に、実際にはそれが大幅に増大したという証拠があるのだ。これはかれが無視したものだが、同じく議論の余地のないものでもある。18 世紀末にヨーロッパの処罰方式に生じた大きな変化は、刑務所の時間割などではなく、死刑の拡大だったのだ。

  これに関するイギリスの証拠は、フーコーの執筆時にもすでに確立されていた。イギリスで死刑となる犯罪の数は、1688 年には 50 種類だったのが、1765 年には 160 くらいとなり、1815 年にはおよそ 225 種類(正確な数はだれにもわからない)となった [33]。現代の法学者や歴史家は、保守はも左よりの人々も、その増加の理由について意見が一致している。まず、農業の商業化によって、それまでは慣習的な権利だったりささいな違反だったりしたもの(森の枯れ木を拾ったり、池の魚を釣ったり、木から葉や果物を盗む)敬意犯罪となったこと。そして第二に、商業側からのニーズ増大のために、新しい兌換紙幣や交易を守るためい、偽金づくりや偽造が死刑の対象となったこと。18 世紀には、紙幣偽造で起訴された者の三分の二は実際に死刑になってしまった。「死刑以外でこれほど無慈悲に処罰された違法行為はない」とマイケル・イグナティエフは書いている [34]。

  1780 年代まで、殺人、窃盗、通貨偽造、機械の破壊といった主な犯罪のほとんどは、むち打ち、焼き印、さらし台、追放、死刑によって処罰されてきた。100 年たつとこうした処罰はほとんどの西欧・北欧諸国では懲役刑にかわっていた。だがフーコーは、この移行のタイミングについて、狂人の収監のときと同じように不正確だ。イギリスでは、各種の刑事犯罪の種類が大幅に減ったのは、1832 年の民主改革の後だった。死刑執行も、死刑の宣告も、それに続く数年で減った [35]。イギリスの司法システムは、身体刑に対する難色を示すようにはなっていたが、1861 年のむち打ち法が可決するまでは法文からは除去されなかったし、その後も強盗の罰として杖打ちは残された。イギリスは公開の死刑執行を 1868 年まで続けたが、これはオーストラリアへの犯罪者追放をやめたのと同じ年だ。これらもまた、自由と民主主義の新しい興隆に伴ってのことだった。「古い習慣が滅び」、司法による死刑や身体刑が珍しいできごととなり、刑務所が「立法府によって作り出された新しい犯罪すべての処罰のための通常の機械的処罰」となったのは、フーコーが主張する 1780 年ではなく、 1880 年代なのだった[36] 。つまり、当時の処罰方式の改革につながったのは、啓蒙主義がもたらした「法と犯罪にかんする新理論」などではなく、ここでも民主主義や自由主義、博愛主義といった価値の台頭だったわけだ。

  『監獄の誕生』で、フーコーの目的は単に刑罰の歴史をたどることではない。最終的な目標は、現代社会を支配するとかれが考えている規律の力の発展を示すことだ。アンシャン・レジームにおいては、王さまは社会的秩序を強制しようとして、違反者の身体に対して即座に処罰を加える力を臣下に与えた。現代は、「一般監視」レジームを導入し、これは「王権関係」を「規律関係」で置き換えたという。さらに、王権による処罰は犯罪行為に対するものだったのに対し、現代社会の規律は犯罪者の人間性に向けられるものであり、処罰するよりは矯正し、正義を執行するのではなく、違反者を変化させて社会の求める行動に適合させることなのだ、とフーコーは述べる。

  フーコーは、こうした発展が歴史的な転換というべきものだと主張する: 「十七世紀と十八世紀における規律・訓練装置の漸進的な拡張であり、全社会体に及ぶその装置の多様化であり、概括して名付けうるとすれば規律・訓練社会の形成である」 [37]。 現代の規律の一部は、中世やそれ以前にまで溯る歴史を持っていることはフーコーも認める。刑務所という制度、そして独房の分割は、キリスト教修道院のモデルから導かれたものだ。学校の秩序は、これまた別の宗教教団によるモデルから生じている。公立病院は海軍・陸軍病院の例から生まれている。工房の規律は何世紀も前からある。でも 18 世紀後半には、権力の影響の効果倍増が、こうした施設内部の新しい知識蓄積を通じて実現される地点が到達されたのだった。:

  そうなると規律・訓練は《技術論的な》敷居をまたぐわけである。最初に病院、ついで学校、もっと後に工場は、単に規律・訓練によって《秩序化される》にとどまらなかったのであり、規律・訓練のおかげでそれらは、客体化のあらゆる機構がそこでは服従矯正の道具という価値をもちうり、しかもそこでは権力のあらゆる増大が存在可能な知識を生み出す、そうした装置になった。この技術論上の体系に特有のこうした絆をもとにしてこそ、臨床医学・精神医学・児童心理学・心理教育学・労働合理化などが、規律訓練の構成要素として形成されることができた [38]。

  フーコーは、「規律社会」の一般モデルを提示すべく登場した刑務所設計の一種類があるのだと論じる。これがイギリスの啓蒙思想家ジェレミー・ベンサムによるパノプティコンだ。パノプティコンは中央に監視塔が置かれ、その周囲に数階建ての独房が円状に配置されていて、独房のそれぞれに開放型の鉄格子入りの壁がついていて、それが監視塔のほうを向いている。ベンサムは、看守が「すべてを見通す」監視塔から自分のほうを向いている数百の独房で何が起きているか一目で見渡せるのだ、と提案した。ふーこーによれば、「一望監視方式」は社会科学が現代社会の成員たちの活動を監視する方式のモデルなのだった。それは監視による規律だ: 「つまり終期のない質問(=尋問)であり、精密でいつもいっそう分析的な観察となって際限なく延ばされる調査(=証拠調べ)であり、けっして閉じられることのない調書の作成でもあり同時に検査(=試験)の激しい好奇心とからみあう打算的な穏便さあふれる刑罰でもある判断(=判決)」(である) [39]。

  フーコーは、こうして生じた変化が基本的には哲学・思想的なものだと言い続ける。どこかの時点で新しい発想が考案された。そしてその発想の力があまりにすごくて、やがてそれはフランスの王や宮廷打倒だの、イギリスの政治システム再編だのといった非常に劇的な政治的変化を引き起こしたのだ、というわけだ。

聞き手: あなたは、抑圧の歴史において中心的となる一時点を同定しましたね。刑罰の処方から、監視の矯正への推移時点です。

フーコー: その通りです。権力の経済から見て、人々を見せしめの刑にあわせるよりも監視下においたほうが効率もよく、収益性も高いという理解が生じた時点です。(中略)十八世紀は、いわば神経細胞的な権力レジームを発明したわけです。権力はそこでは、社会体の上から機能するのではなく、社会体の中で機能するわけです。政治権力の公式な形態の変化はこのプロセスと結びついていましたが、でもそれは介入や置き換えによって生じたのです。社会が宮廷や王といった要素の排除に向かったのは、この局所的で微細な権力形態の制度化に伴ってのことでした。ある種の権力が社会体の内部で行使されるようになると、王権神話はもはや不可能となりました。すると王権は空想的な人物となり、古めかしいと同時に化け物じみた存在になったのです [40]。

  この手の下りを見ると、なぜフーコーが大学であんなに人気があるのか納得がいく。政治的王朝の崩壊は、実はある巨大なアイデアの結果でしかない。マルクスは、哲学者・思想家が権力を握るためにはブルーカラーのプロレタリアート革命に依存しなくてはならないと述べた。でもフーコーは、社会思想家を手前味噌で社会の最も強力な成員だということにしてしまったのだ。

 これは学部向けの教本としてはなかなかに刺激的かもしれないが、いろいろ困った点がある。そもそも、フーコーがこうした動きの源泉として挙げる啓蒙思想家の著作を読んでみると、フーコーの理論とまるでそぐわないのだ。例えば、死刑や身体刑にかわって懲役刑を導入しろと唱えた最初の 18 世紀思想家であるチェザーレ・ベッカリアは、犯罪が個人の選択の結果であると信じていた合理主義者なのだった。 ベッカリアは、犯罪者の人格や出自の性質が、その刑罰において勘案されるべきだという発想に大反対であり、犯罪者は法の下に平等の扱いを受けるべきで、罰は犯罪に見合ったものにすべきだと論じていた。つまりこの思想家は、古い「王権関係」の中にがっちりはまった形で考えていたのだった。フーコーの主張とはうらはらに、ベッカリアは自分の習慣方式が犯罪者の矯正や改悛を目指すべきだという提案をはっきり拒絶している。「矯正は犯罪者といえども押しつけられるべきではない」とベッカリアは書いている。「そしてそれが強制されるという事実そのものが、その有用性や実効性を失わせるにとどまらず、それは犯罪者の権利にも反するものである。犯罪者は、法的な処罰に苦しむ以外に何も強制されるべきではない」 [41]。

  フーコーが現代のシステムに関する責任をずっしり負わせているジェレミー・ベンサムは、それに輪をかけた古典的自由主義者だった。ベンサムの功利主義心理学は、すべての個人は自由な計算する行為者であり、快楽の追求と苦痛の回避を追求しているのだと述べる。効用主義的な視点から見れば、処罰の意義というのは犯罪者に対し、法を遵守するかわりに犯罪を選んだ時点でおまえは計算ミスをしたんだぞ、と示すことだった。ここでも、処罰は犯罪者の性質とは関係なく、犯罪そのものの性質に対応すべきものだ。ベンサムのパノプティコンの設計は、犯罪者が自分の自由の喪失をよく考え、法を犯さなければ享受していたはずの自由と対比させるための場所を提供する以外には、矯正の試みは一切無い。犯罪者が刑務所内で行う仕事はすべて、釈放時によき市民となることを意図したものではなく、刑務所を建設した建設業者が利益を挙げる一助としてのことでしかない。というのもベンサムは、今日「民営化」刑務所と呼ばれている仕組みを最もはやく提唱した人物の一人だからだ [42]。

  フーコーが大きく取り上げる人文科学――精神医療、犯罪学、児童心理学等々――は、別に啓蒙哲学の一環として 18 世紀に登場したのではない。実はそれが台頭してきたのは、その 100 年くらいあとで、ベッカリア、ベンサム、ジェームズ・ミルなど刑罰学について書いた自由論者の表明した人間の性質に関する見方への批判として生じたものだ。スコットランドの歴史家デヴィッド・ガーランドは、最近になってヴィクトリア時代後期イギリスの刑罰制度研究を刊行している。そこには、その理論的な発想のもとがはっきり示されている。 1880 年代まで、この制度はそれぞれの個人を「まったく同等に」扱えと定めており、その人物の犯罪の種類や個々の特徴はまったく考慮しなかった。犯罪者の性質というのは、単に受刑者というだけだった。一般受刑者から多少なりともちがった扱いを受けたのは、子供と狂人だけだった。だが今日の刑罰制度を特徴づける思想や実践が誕生するのは、やっと 1890 年代になってからのことだ。それは古典的な自由主義方式を三つの点で否定する。まず、それは受刑者の形式的な平等性を廃し、それぞれの個人の特性を考慮するようになる。特に、その事物がどこまで自分の行動に責任を負えるかについて考慮するようになった。第二に、法学以外の分野での研究を認識するようになり、そうした人文科学の結論を、犯罪性を軽減できる要因として採用するようになる。たとえば思春期の心理的な問題や、アル中の医学的性質、一部の違法者たちの経済的な苦労などが考慮されるようになる。結果として、受刑者は各種の社会的・心理的区分に分類されるようになり、それぞれは異なる制度的なプログラムを必要とした。たとえば未成年やアル中、精神障害者とされた人々には、はっきりちがう施設プログラムが求められるようになった。第三に、未成年向けの矯正学校や、職業訓練・体験プログラム、収監なしの保釈や監督といったものだ [43]。

  この新しい刑罰制度は、イギリスには 1895 年から 1914 年にかけて導入され、その他いくつかの西洋諸国にも同時期に導入されたものだが、フーコーのいう規律レジームに最も近いのはこれだ。これは国が犯罪者たちを、平等で自由で合理的な主体としてではなく、性質や責任が様々に異なる個人として扱うようになったからだ。国と受刑者との関係はもはや処罰しろという契約上の責務としては捉えられず、改革と矯正を生み出すための積極的な試みと捉えられるようになった。この新しい国家は、保護者を自認し、公式的な平等性からはずれた状態を改善するために介入し、市民を悪徳や犯罪から救い出そうとする [44]。

  この新しい介入主義的な国家は、18 世紀末刑も王主義のリベラリズムからは劇的な変化となっている。それは後に「福祉国家」と呼ばれるものにつながる、二十世紀初頭に起きた政府の役割見直しを反映したものなのだ。フーコーの理論のほとんどに対応しているのは、18 世紀後半ではなく、20 世紀初頭なのである。たとえば、イギリスの刑務所改革の最初の歴史家ビアトリスとシドニー・ウェッブは、一方で 20 世紀福祉国家の支持者でもあった。この二人はまた、各種の社会調査手法のパイオニアでもあるが、かれらの考案したものはフーコーが現代の監視装置として挙げているものだったりする [45]。

  さてここまでくると、フーコーの言う「規律社会」と福祉国家の収監政策や実践との間に多少の関係はあるにしても、フーコーの議論が総崩れであることはわかる。啓蒙主義時代の刑罰改革と、二十世紀の刑罰改革の間にほとんど関係がないということは、哲学・思想の力に関するフーコーの中心的な主張は完全に崩れてしまう。規律社会のあらゆる歴史が展開された、18 世紀のある一時点に生まれた一つのアイデアなどというものは存在しなかった。さらに、これはフーコーの説明と他の歴史家の発見とが多少は関連している時期についてすら成立していない。デヴィッド・ガーランドがかなり詳しく説明したように、1895 年以降に起こった規範化と分類化は、自然なものでもなければ不可避的なものでもなく、「刑罰学の真の本質」が単純に展開するようなものでもなかった。それは競合する勢力どうしのはっきりした闘争の結果であって、監督者たちは施設の効率よい運営を求めて競合し、新しい社会科学や医学の専門家たちは、新しい領域を自分の勢力下に置こうと競争し、国民たちは正義の原則に基づいて処罰を行えと要求する一方で、犯罪率や再犯率を下げろと要求し、同時に刑務所制度の維持費用を節約しろという相反する要求を行って政治家はそれに応えようとしていた。言い換えると、刑罰理論などというのは。現実の混乱した政治的な競合の中の一要素以上のものであったことはない。そしてその結果は決して不可避なものなどではなかった。

  つまり、現代を啓蒙主義哲学から導かれる思考体系に支配された時代として描こうというフーコーの試みは、あらゆる点で失敗している。だったら、かれのいうフィクション的で視点依存的な実質的歴史なるものはどうなるのだろう。歴史家が自分の時代の見方からどれだけ自由になれるかについて、どういう見解をとるにしても、フーコー自身の仕事やその批判者の仕事が実証的なデータと情報――精神病院の収監者数、刑罰制度改正の時期、医療や処罰方式の改革者たちが残した文献のことばによっていることはまちがいない。フーコー自信のデータを他の人々のデータと並べてみると、結論は二つある。一つは、これまで述べてきたような点ではフーコーの批判者たちのほうが正論であり、フーコーの結論は実質的に破壊されるということだ。二番目の、手法的に見てもっと重要な結論は、こうした問題に白黒つけるのは、そこで双方が利用し、依存している実証データなのだということだ。フーコーは証拠の利用について明らかにいい加減で無頓着だが、捏造したり歪曲したとは言っていない。証拠は歴史的な記録から導かれたものとして使っている。つまり、客観的なものとしてそれを使っているわけだ。
古代ギリシャの同性愛

  本稿の冒頭で述べたように、フーコーの有名な「人間の死」宣言は、個人という主体の自律性と、自由意志の比定という人文主義の伝統を否定するものだった。だが 1980 年代になると、当のフーコーがこうした発想への敵意をこっそり棚上げしてしまった。1984 年に刊行された「性の歴史」の第二巻と第三巻で、フーコーはそれまで罵倒してきた人文主義の用語や概念を著作に持ち込むようになる。倫理的に行動する個人の「主体」と「自由」が、どちらも古典ギリシャやローマの倫理の称揚の一部となっている。この新生フーコーによれば、個人は自分を「倫理的な主体」として形成しなければならない。かれは倫理の基本的な実践を「節制 (self-mastery)」と定義し、これは「自由の思慮深い実践」から導かれるものだという[46]。

  だが節制、または自己統御の概念は、文化的な影響と無関係に機能したわけではない。フーコーによれば、性的な事柄で個人が採る態度はすべて、その時に支配的な文化やイデオロギーに影響される。性関係が社会でどのように表現されるかは、常にそのときに優勢なイデオロギーの「言説(ディスクール)」の産物なのである。セクシュアリティは、したがって 「散漫に構築」される。さらに、根底にある人間の性質は、現代人が異性愛とか同性愛とか呼ぶような固定した確固たるものではまったくないのだ、とフーコーは主張する。自然はヒトを両性具有生物にしたのだが、今日われわれはもっと限られた性的嗜好を受け容れている。それは言説(ディスクール)がそう命じているからにすぎないのだ。性の歴史第二巻の『快楽の活用』で、フーコーは古代ギリシャ人たちがもっと自分たちの自然な性向に忠実だったと述べる。フーコーによれば、古代ギリシャ人たちはバイセクシュアルで、「若者や娘を同時もしくは順次、愛することができた」。

  ギリシャ人が男なり女なりを自分から自由に選んでいた点を念頭におきつつ、彼らの《男女両性愛》を話題にするのはかまわない、だが、彼らにとってその [自由な選択の] 可能性は、欲望の両面感情的で《男女両性愛的な》二重構造に準拠するものではなかった。彼らの見解では、男なり女なりにたいして欲望をいだかせるにいたるもの、ただ一様にそれは、性差はなんであれ、《美しい》者にたいする、自然本性によって人間の心に植えつけられた欲なのであった [47]。

  フーコーはイギリスの歴史家 K. J. ドーヴァーの研究に依拠して、ドーヴァーの古代ギリシャ男性同性愛に関する解釈を支持する。中でも、近年のゲイ作家が広く絶賛する少年愛カルトなるものが支持されている。これによると、ギリシャ人達は同性愛関係を特殊なものとは考えず、むしろまったく自然なものと思っていた。唯一の制約としては、参加者たちはある種のプロトコルや習慣に従わなくてはならないということだ。少年愛(フーコーはこれを「ボーイ・ラブ」と呼びたがるが)の場合の習慣は、少年側は求愛され、相手をじらさなくてはならず、かれの評判は保たれねばならず、そしてお金を要求してはいけない。しかし少年の肛門を犯してはならない――年配の男は、すまたしか許されないのだった。古典ローマ文化では、「少年への愛」についての議論は少ないし、それどころか糾弾も少なからず存在する。フーコーはこれを認めつつも、少年愛が普通だったのだと主張しつづける。「この実践は依然よく行われていて、自然であるとあいかわらず見なされていた点は、すべてのテクストが明示している」とかれは書く [48]。

  このドーヴァーやフーコーたちの解釈は、アメリカの古典学者ブルース・ソーントンに否定されている。ソーントンは、古代ギリシャ人がセックスにどんな意味を与えていたかを研究している。著書『エロス:古代ギリシャの性に関する神話』[49] は、フーコーと同じように、古代ギリシャから残った文献を分析して、この問題に対する古代ギリシャ人の態度を分析したものだ。だが、フーコーの読みが紀元前4世紀の医療・哲学文献に限られているのに対し、ソーントンは紀元前 8 世紀から 1 世紀までの全文化からの悲劇や喜劇、詩、口承、伝説、歴史、哲学を検討している。

  ソーントンはギリシャの同性愛について二章を割いているが、これはフーコーの主張するかれらの自然な両刀遣い (バイセクシュアリティ) を否定するものとなっている。ソーントンは、ギリシャが男を性的に犯すのも女を性的に犯すのも同じだと見ていたことを示すような証拠は何もないことを示す。男同士のセックスは、傲慢の罪を犯すものであり、性的にとんでもないことだった。受け身のホモ、つまり肛門を刺し貫かれる男性は、「恥」と「怒り」をもって見られていた。プラトンとクセノフォンはどちらも男性同士のセックスについて、まともな頭の男性なら近親相姦と同じくらい嫌悪すべきものとして考えていた。アリストテレスは、同性愛は自然の乱れか習慣によってもたらされたゆがんだ状態だと見ていて、はっきり「異常」だとしている。アリストファネスの芝居の一部には同性愛者が確かに登場するが、それは腐敗と頽廃と結びついている。『騎士』でのアリストファネスの主張は、アテネの腐敗があまりに進行しすぎたために、政治家として最も重要な資質は同性愛を含むあらゆる欲望の恥知らずな追求になってしまった、ということだ [50]。

  ソーントンにいわせれば、ギリシャの哲学者は同性愛を歴史上の発明物として見ており、「自然に反する」もので、人間のゆがんだ創造力の結果であり、誘惑への弱さの結果なのだと考えていた。エウリピデスのような劇作家は、逆に同性愛を「自然の産物」と見ており、それに捕らわれた人間にとっては抑えようのないものだと考えていた。だが後者のような場合でさえ、同性愛は理性と法の力をひっくり返すような破壊的力をもたらす犯罪として描かれている。たとえばエウリピデスの「クリュシッポス」では、オイディプスの父ライオスはペロポスの息子を誘拐して強姦し、それによってオイディプスの近親相姦と父親ゴロしと、人や家畜や作物の命を破壊し尽くすテーバイの崩壊を招く、エロチックな無秩序の連鎖反応を引き起こしてしまう [51]。

  では、ギリシャのバイセクシュアリティという発想がなぜ広まったのだろう。ソーントンによれば、一部は残った文献の読み違えであり、一部は証拠の選択的な利用のせいだという。たとえばフーコーの読みは同性愛がはっきりと非難されている大量の古典劇や詩を無視している。プラトンの『饗宴』などの古典文献に、同生態の魅力に関する議論が多少あるというだけで、フーコーはその断片が普遍的な文化的価値の表明だと解釈する。確かに貴族には同性愛の伝統があったようではあるが、それはいつの時代も、ごく少数のエリート的なマイノリティでしかなかった。「少年愛」という概念は、確かに老貴族が他の貴族家庭の若者にとって教育的社会的な師匠役を果たすという実在の伝統からきている。だが、その関係に同性愛的な性交が伴うなどというのは、あらゆる人にとっては考えるだにおぞましいことだったということをソーントンは示す。年配者と少年が同性愛に及んでいるのを描いたツボは確かにあるが、それが古代ギリシャの典型だと考えるべき理由はない。児童ポルノの通販雑誌があっても、それが現代の標準とはいえないのと同じことだ。

  ソーントンは、かのソクラテスに同性愛傾向があったことは認めている。プラトンは、ソクラテスが美青年アルキビアデスに対する欲望と闘っていたと語っているからだ。でもプラトンは、ソクラテスがこの誘惑に屈せず、その欲望を実行には移さなかったと断言する。古代ギリシャの大思想家の一人が隠れた同性愛者だったからといって、その時代のギリシャ男性すべてについて何かが言えるわけではないし、ましてすべての男性の天性について何が言えるわけでもない。フーコーの解釈――古代ギリシャの一部の男性はホモだったから、人類の性的嗜好はすべて両性的なのだという解釈――は論理としていい加減だというだけでなく、ソクラテスが生涯をかけて維持しようとした理由づけに対する冒涜でしかない。

*  *  *  *  *

  もちろん、歴史研究において問題なのは、単にフーコーの理屈だけではない。ここで示そうとしたのは、フーコーの歴史がその手法的アプローチの点でも、証拠や研究の成果を利用する方法の点でも、いやもっといえば、証拠が正確でなくてはならないとか、研究が包括的であるべきだといった必要性に対するいい加減な態度の点でも、まったく不適切なものだ。当のフーコーもとっくにこうした批判が出ることを確信していた。1969 年に『知の考古学』の冒頭で、かれはこう予想している:

 歴史の不可侵な権利を攻撃し、歴史性として考えられるものすべての基盤を攻撃したことで、糾弾されることになるだろう。だがだまされてはいけない。そのように猛然と詠嘆されているのは、歴史の消滅ではない。そこで衰退しつつあるのは、主体の構築された活動とこっそり、だが確実に結びついていたあの歴史の一形態でしかないのだ [52]。

  フーコーにとっては残念なことに、そんな衰退は起こらなかった。本論が示したように、フーコーと伝統的な歴史家の研究を同じ立場で比較してみると、明らかに基盤を欠いているのはフーコーの試みのほうなのだ。

訳者コメント

 おもしろーい。翻訳にあたっては、引用箇所は「ニーチェ、系譜学、歴史」、『臨床医学の誕生』『知の考古学』とインタビュー以外はすべて邦訳に準拠している。やれやれ手間だったぜ。でもフーコージャーゴンとかでまちがっているものがあったらご教示いただければ幸甚。

 著者の批判はときどき極論に走っていて疑問に思えることはある。この文を読むとフーコーは個人の主体とか自由意志を否定したかのように読めるけど、それはないんじゃないかな。完全に自由だと思われていた部分にも人の選択を左右する別の要因があるという意味で、それまで思われていたよりも自由の余地は狭いかも、というだけであって、完全にないと入っているわけではない(はず。いまからフーコーを全部読み直すのはメンドすぎ)。ただ、ヒューマニズムが理性的な「人間」というものをでっちあげるために、人間以外の存在を捏造し(たとえばキチガイ、犯罪者、病人、子供)、それを「他者」として排除することで、「ああいうのではないのが本当の人間なんだよ」という形で「人間を定義づけました」というフーコーのお話はかなり変だ、ということでございますな。

 さらにそういう発想が啓蒙時代に生まれ、それが社会管理技術としてパノプティコン的一望監視社会の基盤となり現代に至る、というフーコー的なお話も、実際にかれが証拠としてあげる代物からはまったく裏付けられない、ということ。かれの持ち出す、物理的な規制と法的規制、規範的規制等々の相互依存関係という図式そのものは確かにとてもおもしろいし、示唆的だ。でもフーコーがそれを歴史的に実証したと思ってはいけない、ということね。

 パノプティコンを持ち出してきて、「見られている(かも)」という意識がそれぞれの個人の内部に規範力を持つようになる、という創発理論的な権力の発生は、お話として楽しいし、またそれ自体は権力の一つの発現様式として実在するし、まちがってはいない。でもそれが本当に啓蒙時代に起源を持つのかはあやしい。本稿には書いていないけれど、この発想は実はずっと古い。「神様が見てるから悪いことをしないようにしよう」「閻魔さまが見てるから、地獄にいかないようによいことをしよう」という発想はまさに、「監視の可能性」→「規範の内面化」→「個人の規制」という社会統治の方法であって、これははるか昔から存在していたし、時の権力が昔から使ってきたものだ。結局、それの有無だけでは何も言っていないに等しい。あとはそれをどう使ったか――テクノロジーとの関連で話をするのかな。でもそれは本稿とは別の話だ。

 フーコー批判としては、他にJ.G.メルキオール『フーコー―全体像と批判』(河出書房新社)も参照。これもおもしろそう。こうした批判に逃げをうつなら「重箱の隅だ」「フーコーにおける歴史的『事実』とはメタファーであり云々」といったような話をするんだろうなあ。さらに、「当人たちが何を主張していたかは関係ない、なぜなら微細な権力はまさにその行使者がそれを意識していないのに機能するのがポイントだから」とかね。

 あと、著者のキース・ウィンドシャトルはオーストラリアの歴史研究者。最近、オーストラリア入植の各種資料を詳細に調べて、入植時に起こったとされる、アボリニジーの大虐殺なるものが実は起きていないようだという研究を発表して、歴史修正主義者だと罵倒されている(どっかで別の「大虐殺」で似たような話がございますな)。これを本稿の評価にどこまで加味するかはあなた次第だ。

YAMAGATA Hiro
 
 
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