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カルトの世紀 その1

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 1月 5日(月)23時18分17秒
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  http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html

関連記事:カルト273

http://satehate.exblog.jp/20495980/

カルトの教義 その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/870.html

カルトの教義 その2

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/871.html

なんとなく見ていた60年代のグループ・サウンズやフォーク・ソングについて音楽ファンが語り合うネット空間に、ある聴き慣れない団体名が頻繁に登場するのに気付いたのは、つい最近のことだった。
その名を「道徳再武装運動(MRA=Moral and Spiritual ReArmament)」という。
当時、東大や早稲田などの都内の大学では、全共闘が猛威をふるい、政治だけではなく文化面でも、左翼運動が若者たちの流行となっていた。新宿ではフォークゲリラが活動していた。
そうした動きに対抗する文化運動が、当時から左翼思想とは一線を引いていた慶応の湘南ボーイ達を中心に産まれた。「亜麻色の髪の乙女」でヒットを飛ばしたヴィレッジ・シンガーズ、マイク真木(真木蔵人の父)がやっていたGSグループのマイクス、ハイファイセットに曲を提供していた滝沢洋一などに代表されるソフト・フォークというその運動は、後の「湘南サウンド」の源流となった。
その中心にいたのは、マイクスのメンバーで、ニュー・フォークスやシングアウトという外国人メンバーも交えた大人数のフォーク・コーラス・グループなどもやっていたロビー和田という人物だった。ロビー和田はバードコーポレーションというレコード・レーベルも運営していた。
後にシングアウトはCHICAGOのようなブラス・ロックへと変化し、合唱団的な部分は、NHKの歌番組『ステージ101』へと流れていったという。ロビー和田は音楽プロデューサーになって、和田アキ子や西条秀樹をはじめ、阿久悠との共作も含めた数々のヒット曲を手掛け、最近では葉加瀬太郎のクライズラー&カンパニーなどをプロデュースしたりと、今も第一線で活躍している。
そのロビー和田の属していたのが謎の団体、MRAだった。MRAは、「日本の良さを再認識し、日本を自由主義国家として築こう」というテーマを持ち、学生運動によって荒廃した学校に道徳を導き入れ、本来の学生の姿を取り戻そうという運動を展開していた。

MRAは、フランク・ブックマン博士という人物が提唱し、20世紀初頭にアメリカ・ペンシルヴァニア州立大学で始まった。(現在はIC=Initiative of Changeという名で、NGOとして活動している。)
元はキリスト教福音主義派の社会改革運動で、公衆の前で自分の罪(主に性的な過ち)を告白し、悔い改めることを主眼にしていた。
当時、ペンシルヴァニアは禁酒法施行中にも関わらず、学生は酒に溺れ、大学の秩序は乱れきっていた。そんな中、ブックマンは独特の洗脳的テクニックを駆使して、酒の密売人を含む学生数人を改心させる。(この方法は、後にその洗脳効果だけを抽出した、Alcoholic Anonymousというカルト的なアルコール中毒治療グループとして知られることになる。)
さらに1921年、ブックマンはイギリスへ渡って新しい精神運動を起こし、オックスフォード大学の学生たちに影響を与えた。この運動は「オックスフォード・グループ」と呼ばれるようになった。(後にオックスフォード大学からの抗議でこの名前を使うことをやめさせられた。)
第二次大戦突入の前年にあたる1938年、軍備増強に狂奔するヨーロッパ諸国の姿を見たブックマンは、軍備に代わる世界的規模での道義と精神の再武装(Moral and Spiritual Re- Armament)を唱え、MRA運動を全世界に向けて提唱した。
しかしナチのヒムラーやヘスと特別な関係があったブックマンは、1939年にアメリカに上陸するなり、「わたしはヒットラーに感謝する」「神の支配するファシスト独裁に賛成だ」などと発言して、アメリカの世論からつまはじきにされた。(未見だが、ラース・フォン・トリアーの映画『ドッグヴィル』にはMRA運動にかぶれた狂信的な人物が登場するそうだ。)
プリンストン大学などの名門校で禁止措置に合うなど一時は下火になりかけていたMRAが再び勢力を盛り返したのは、戦後、ブックマンが運動の中心を宗教問題から社会運動にきりかえて、労使協調を主張し始めてからだった。
左右の対立が強まり、ソ連の影響下で左翼運動・労働運動が激化し始めていた冷戦時代にあって、MRAの存在は、西側の体制の利益に合致していた。MRAの大会には各界の名士が集結するようになり、世界中の政府や企業、右翼勢力から膨大な資金が集まり始めた。
MRAは、ロンドンのウェストミンスター劇場やスイスのジェネーヴ湖畔の巨大なパレス・ホテルを買収し、50万ドルをかけてロサンジェルスの本部を買い、ミシガン州マキナック島に訓練所を建設し、映画『グッド・ロード』を制作した。
ただの禁欲主義カルトから反共右翼カルトに転身したMRAは、ルール地方の有力者だったシューマン仏外相、中国国民党右翼の暗殺団C・C団の指導者・陳立夫などの熱烈な支持を受けた。
ブックマンはアメリカのマーシャル・プランの受け皿を作り、いわゆる「シューマン・プラン」(重工業の共同運営)、欧州鉄鋼・石炭共同体(ECSC)の設立に貢献し、今日のEUの礎を築いたと言われる。ルール地方では共産党の組織率が72%から25%に下がるなど、労使協調が深まった。シューマンは、「経済分野にはマーシャル・プラン、政治・軍事の分野には北大西洋条約、精神生活には道徳再武装」とまで言ってのけている。
ブックマンは、戦後のドイツとフランスの和解に大きな役割を果たしたとも言われる。
独のアデナウワー首相とシューマンを結びつけ、 1946年から1950年までに3千人のドイツ人と2千人のフランス人をスイス・コーのMRA国際会議場に招き、寝食を共にしての和解活動を行った。
コーは、旧オーストリア帝国皇后エリザベートも宿泊した、スイス・モントロー近くの由緒ある山岳保養地で、現在もMRAの本部として、毎年夏に国際会議が開催されている。

MRAは戦後間もなく日本にも上陸した。
尾崎行雄の三女で日韓女性親善協会を設立した相馬雪香、渋沢栄一のひ孫で同記念財団理事長・渋沢雅英、日銀総裁で鳩山内閣と岸内閣の蔵相も務め、サンフランシスコ講和会議の日本全権の一人として吉田茂と共に訪米した一万田尚登といった、錚々たる日本のエスタブリッシュメントが、MRAのメンバーになった。
1962年、日本をMRAのアジア拠点に据えることを目的とし、十河信二・国鉄総裁を中心に、小田原にMRAアジア・センターが完成した。初代日本会長は石川島播磨重工業(IHI)の設立者で東芝社長と経団連会長を歴任した土光敏夫だった。
池田勇人首相は、MRAの大会で、その思想が日本の新しい「人づくり」とぴったり合う、と挨拶し、26日に首相の私的諮問機関「国づくり」懇談会の初会合を開いた。
MRA運動は、戦後の日本において、海外渡航手段の一つであり「外国への窓」として貴重な存在だった。占領期間中、MRAの会員には、一般の国民よりずっと以前から海外旅行が許可されていた。
1950年6月、戦後初めてマッカーサーが出国を認めた72名の大型使節団が、コーのMRA世界大会に出席した。ブックマンは「日本はアジアの灯台たれ」と言って日本代表団を激励した。
石坂泰三東芝社長、浜井信三広島市長、大橋傳長崎市長などのメンバーに混じって、若き中曽根康弘がいた。アメリカ行きの飛行機が離陸するのを待つ間、中曽根は三井財閥の一行に「10年したら私は総理大臣になる」と野心を打ち明けたという。
実際にはそれは32年後まで実現しなかったが、その間、中曽根はいくつもの内閣ポストに就き、ロッキード事件やリクルート事件に連座しながらも奇跡的に無傷を保った。
中曽根は首相になった後、「日本のいまの状況を見ると、日本こそ道徳再武装が必要である。教育と道徳という問題を、政治が取り上げなければならない。憲法改正と教育基本法改正がその道徳的基礎を確立する基本になる。」と語っている。
ちなみに中曽根と主張を同じくする教育改革国民会議の来山武(元大阪女子短大教授)も、論文の中で「教育再武装」「個人の尊厳と自律性を前提とした道徳再武装」といった言葉を使っている。
日本代表団はヨーロッパから米国に渡り、北村徳太郎、栗山長次郎が米議会で太平洋戦争について謝罪した。浜井広島市長はロサンゼルスで「私たちは、誰に対しても恨みは抱いておりません。同じことが二度と起こらないようにあらゆる努力を払ってほしいということです。」と語った。
浜井のこのMRA派遣は、「過ちは繰り返しませぬから」という広島の原爆記念碑の碑文作成に影響を与えたと言われる。米軍による原爆投下という残虐行為の責任を曖昧にするこの奇妙な碑文も、こうした経緯を見れば納得がいく。
米軍による占領が終わり、日本人の海外渡航許可が容易に得られるようになると、MRAは、米日間の文化交流プログラムの名のもとに、日本の指導者たちとその予備軍を欧米への官費旅行に招待し、外国の指導者に引き合わせ、労使協調と反共についての説教を吹き込んだ。
1953年、東芝の勤労部長と労組委員長が共にコーのMRA会議に参加。石川島播磨重工労組の柳沢委員長もこの会議に参加し、土光敏夫との「信頼関係」を築いた。これが、日本全体の協調的労使関係の形成につながった。

ジャーナリストの大宅壮一は、『昭和怪物伝』に収録された右翼宗教団体・生長の家の教祖・谷口雅春についての文章の中で、MRAについて触れている。
「世界旅行で私が得た大きな収穫の一つは、MRA(道徳再武装運動)というものの正体が非常によくわかったことである。戦後日本人で外国へ行ったものの中で、“MRAの招待”というのが大きなパーセンテージを占めている。その中でも国会議員、地方議員、知事、市長などの公用族が多い。しかし比率からいってもっとも多いのは革新政党の議員や労組の幹部である。かれらはわれもわれもとMRAの大会に出かけて行って何を得たであろうか。(中略)スイスのコーというところに、MRAの夏期練成道場がある。これは、“道場”といっても戦時中の日本にあったような殺風景なものでなくて、すばらしく豪しゃなホテルである。/世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食って、 “チェンジ”する、すなわち心を入れかえるのである。階級闘争や有色人種運動の指導者が、資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。近ごろの流行語でいえば“洗脳”だ。/中国では、革命に協力しない反動分子を“思想改造所”という監獄に入れて“洗脳”を行っているが、MRAでは、ありったけのぜいたくをさせることによって同じ目的を達しようというのである。ただしその手段が全然逆であるとともに、チェインジさせる方向も正反対である。」

教祖のフランク・ブックマンには後に日本政府から勲章も授与され、中学の道徳の教科書にも載っている。
(その2に続く。)
 
 
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