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オプス・デイの正体

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 1月18日(日)23時22分41秒
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オプス・デイの正体 その1

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20061001

オプス・デイは、もともとユダヤ人スパイ、ベラスコも設立に関わったスペインのフランコ将軍率いるファランヘ党支援のためにユダヤ国際金融資本が資金提供をし、その資金をもとに設立された秘密組織でした。

以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)からの引用です。

    「オプス・デイ」とは、ラテン語で「神の仕事」という意味である。1928年10月、当時、全く無名であったスペインのカトリック司祭のホセマリア・エスクリバ(ユダヤ人)により、マドリードにこの秘密結社は創設された。この結社は創立当時のイエズス会によく似ている。

    組織内は現在においても秘密主義そのものである。一応、表向きは、各自の職業、地位、生活条件の中で、キリスト教の徳を体現していくということを提唱し、個人主義的福音を唱えているようである。かつて、この結社の中にいた社会学者のアルベルト・モンカーダは、この結社の経験をもとに出版した本の中で次のように書いている。

    「オプス・デイは一種の秘密組織です。社会的構造(規約)も秘密です。実際の会員数や、会員名の大半も秘密です。それに経済構造も秘密です。運用資金を追っていくとスイスの銀行にたどり着きますが、どのような財産運営をなされているのか誰も知りません。」

    スペインに第二共和国が出来たのは、1930年から36年の間であった。カトリック教会は共和国の指導者マヌエル・アサーニャにより、「スペインはすでにカトリック教国ではない」とカディス議会で宣言された。

    ユダヤ人のフランコ将軍率いる反共和国軍にカトリック陣営が加わり、内戦に勝利し、再び、カトリックは公式な国家宗教となった。国家カトリック主義という言葉が生まれた。この主義を持つカトリックのエリートたちにより、「オプス・デイ」という平信徒組織が生まれてきた。ヒトラー、ムッソリーニが死に、ファシズムはヨーロッパから消えたように見えたが、スペインのみはフランコ体制として残った。そのフランコ体制を政治的、経済的に支えたのが、オプス・デイであった。

    1939年、内戦勝利後、オプス・デイの創設者エスクリバは小冊子『カミーノ』を著し、布教と組織の拡張的福音を唱えた。1945年ごろには、マドリード、バレンシス、バルセロナなどの大都市で、徐々に共鳴者が増えていった。エスクリバは組織拡張の目的として、結社加入者を知識人、官僚、中上流階級の上層部エリートに的を絞った。かくて、精神生活のみならず、社会的、政治的影響力を強めた。

    オプス・ディは古来のイエズス会に似ているが、カトリシズム内における闘争型の近代的プロテスタント倫理の最初の表れであった。1950年ごろ、フランコ政権の中枢に入ったオプス・ディの「テクノクラート」たちは、国家行政の合理化をなし、世界資本主義システムにスペインを組み入れることに成功した。彼らは「スペインの奇跡」の演出者といわれ、フランコ将軍の非民主的な独裁体制から国民の眼をそらすことができた。

    かくてスペインを実質的に支配したオプス・デイは、国際金融資本家たちの強力なバックアップを得て、ローマ・カトリックを支配すべく動き出したのである。

オプス・デイの正体 その2

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20061002

    ヴァチカンの財政難に目をつけた黒い貴族とオプス・デイは、カトリック教徒のフランコ将軍を動かし、ヴァチカンに接近していった。かくて、フランコ将軍の力添えを得て、国際金融資本(特にユダヤ人)がオプス・デイのルートでローマ・カトリックと結びつくのである。

    ピオ十二世は、オプス・デイを実質的なローマ・カトリックの支配者の地位に押し上げていった。一方、オプス・デイはラテンアメリカの「解放の神学」を破壊すべく数多くの工作をした。したがって、ラテン・アメリカのかなりのカトリック司祭はオプス・デイの配下にある。

    ヴァチカンの財政・資金は一切、公表されていない。世界中には十億のカトリック信者がいる。プロテスタントは合計で八億人。すなわち、人類の五人に一人がカトリック信者である。

    7兆リラ(1990年当時で1兆500億円)と30億ドルの金塊が、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)の金庫に預けられているといわれる。他にも世界中の銀行に、膨大な額の金が預けられていることは疑いがない。

    しかし、一時、ヴァチカンの投資ビジネスのアンブロシアーノ銀行とヴァチカン銀行が13億ドルの損出を出して、ヴァチカンが財政難に陥ったときがあった。このとき、その財政危機を救ったのはオプス・デイであった。

    アンブロシアーノ銀行は1898年、カトリック教会によって設立された。アンブロシアーノ銀行とヴァチカン銀行は闇の組織をでっちあげ、兵器メーカー、ポルノ出版社、避妊用ピルのメーカーなどの株を所有し、利益をあげていた。この事業を背後で操っていたのが、国際金融資本の首領、ユダヤのロスチャイルド財閥であった。

    ローマ・カトリックとユダヤ教は、闇のトンネル組織を通じて密接に結ばれていった。オプス・デイはハリウッドの二流役者ロナルド・レーガンを育て上げ、アメリカ大統領に仕上げた。レーガンが大統領になると、オプス・デイはレーガンを動かし、1984年にヴァチカンをアメリカが正式に国家として承認させることに成功した。

    1985年、レーガン大統領は45歳の実業家、スペイン系ユダヤのジョン・N・ガウディを、30人からなる国の機関の「コロンブス記念委員会」の長に任命した。この委員会のメンバーにはベーカー国務長官、モスバーカー商務長官も名を連ねた。ガウディはオプス・デイのメンバーである。彼はコロンブス帆船の複製製造、帆船ツアー、グランドコロンブス・レガッタ等々の企画をした。ユダヤ人のコロンブスの壮挙(?)を讃えるべく、国際ユダヤ資本家たちとオプス・デイが仕組んだ一大ショーであった。レーガン時代、オプス・デイの有力メンバーがホワイト・ハウスとペンタゴンで数多く重要な職についたのであった。

    レーガン政権が発足すると、オプス・デイは自らの結社員を政権の中枢に送り込んだ。

    CIA長官のW・ケーシー、国家安全保障問題担当補佐官のW・P・クラーク、国務長官のA・ヘイグ、彼らはみな、オプス・デイの息のかかったカトリック信者である。彼ら三人が中心となって、秘密ユダヤ組織「連帯」を支援する体制がワシントンにできた。それが、「ソ連共産主義国打倒計画」となった。この計画は、ヨハネ・パウロ二世とレーガンの1982年6月の会見で具体化された。そのお膳立てをしたのがオプス・デイであった。

    どうしてソ連邦は崩壊しなければならなかったのか。国際金融資本家(特にロスチャイルドとオッペンハイマーの両財閥)にとって、金・ダイヤモンドなどの資源が凋落したソヴィエトは、彼らがどれだけ資金を導入しても、その借金を返す能力がないと判断されたからである。オプス・デイはそのソヴィエト倒産劇のストーリーテラーの役割を演じたのである。クリントン大統領の時代にも、オプス・デイのメンバーが数多くホワイト・ハウスに入った。FBI長官のルイス・フリーアはその代表的人物であった。FBIファイルはオプス・デイに流れ出たのであった。

ローマ法王とオプス・デイvsイエズス会 その1

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20061003

『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用します。

    広瀬隆は『赤い盾』の中でヨハネ・パウロ二世について書いている。

    「第264代法王ヨハネ・パウロ二世はポーランドが生んだ初の法王で、そのためポーランドの“連帯”にヴァチカン銀行を通じて莫大な支援を送り、愛読書はポーランドの作品『クオ・ヴァディス』であることはよく知られている。1981年5月に起きた法王暗殺未遂事件は、この“連帯”との関係を断たせるため、KGBが裏で糸を引き、トルコのテロリスト、アリ・アジャに銃撃させたのが真相だと言われているが、アリ・アジャの組織に係わって武器密輸の疑いで起訴されたのが、ミュージカル映画『南太平洋』の主役ロッサノ・ブラッティであった。」

    1920年5月18日、ポーランドのヴァドヴィツェの軍人の家に、カロル・ヴォイティワ(後のヨハネ・パウロ二世)は生まれた。彼は九歳で母を失った。1938年クラクフのヤギェウェオ大学で文学を学んだといわれるが、はっきりしない。彼はナチ占領下で石切り場や化学工場で労働者として働いていたと自ら語るが、その他にも、ロック・クライマーや素人の役者などをしていたといわれる。彼は共産主義者であり、夢想家であり、パートタイマーの詩人でもあった。当時の彼の試作のひとつの「武装工場労働者」の書き出し、「私は世界の運命に影響を与えることはできない」。1942年、地下組織の神学校で哲学、神学を学んだといわれる。祖国に帰り、クラクフで司教活動。1958年、クラクフ司教。1967年パウロ六世により枢機卿に任命された。

    ホセ・カサノヴァの『近代世界の公共宗教』に、「ヴォイティワ枢機卿はまた、ローマ・カトリック教会内におけるオプス・デイの早くからの支持者にして保護者になった」と書かれている。この本から引用する。

    「ヴォイティワは知識人たちの希望であった。彼はナショナリズムのレトリックを避けたが、それでもナショナリズムの伝統に深く根を降ろしていた。彼は人権の名のもとに共産主義に反対して、広範囲の理解を得たが、それでも世俗的で民主的な国家における寛容な社会という、西洋的なモデルに顔を向けた強い留保を維持していた。(略)ポーランドにおいて、われわれは、自由の友としての彼に挨拶を送った。西ヨーロッパは彼を、教会の進歩的な働きにストップをかけようとする保守主義者とみていた。」

    ヴォイティワはクラクフの枢機卿として、ポーランド・カトリシズム内における最初の信仰復興主義、福音主義的な運動である「オロシス」、もしくは「光明生活」運動を推進した。この運動とオプス・デイは深く結びついていた。ヴォイティワは近代カトリシズムの推進者ではあったが、私的道徳と公共道徳の連結の主張者でもあった。彼は共同体の倫理的な生活の原則を維持する立場をとった。

    ヨハネ・パウロ二世となったヴォイティワは、普遍的な人間らしい価値に由来する諸規範に従って生きよと説いた。彼はキリストの再来であるかのように振舞い、キリスト的な表現を多用し、自らを神聖化して生きた。

    ヴォイティワが法王になったことにより、カトリシズムは「連帯」(ポーランド独立自主管理組合)の台頭に大きく寄与した。グダニスク造船所(旧レーニン造船所)の労働者たちが聖餐式で跪いている映像がテレビに映し出されたとき、「ソヴィエト崩壊の兆し」が見えてきた。オプス・デイは国際金融資本家たちの依頼を受け入れ、ヴォイティワを法王にし、共産主義体制の壊滅への道を開いたのであった。金権教は、一世紀をかけて“育成”した共産主義を捨て去ることにしたのである。

    ポーランドに戒厳令が敷かれ、教会が仲介者の役割を果たした。法王と、あの連帯の指導者のほとんどがユダヤ系の人々であったのは偶然ではない。百年前、ユダヤ系の人々が帝政ロシアで革命を起こしたのと同じように。

    ヨハネ・パウロ二世が就任してまもなく、イエズス会の総長選に法王は介入した。これは過去の歴史には全くなかったことであった。当時の会長のペドロ・アルッペは病に倒れ、その代理にアメリカのイエズス会のフォーダム大学学長のビンセント・オキーフェの任命が有力であった。法王は、次期総長に、79歳でほとんど盲目のパオロ・デッツァを任命しろと押し付けにかかった。イエズス会は法王に請願し、やっとのことで妥協して、穏健派のオランダ人のピェト・H・コルベンバックを選出した。オプス・デイが強力組織のイエズス会を恐れたためである。

    また、法王は、フリーメーソン組織を壊滅させる手段をとった。すなわち、フリーメーソン系が多い枢機卿たちとの会見を控えてしまった。聖職者は政治の圏外にいなければならないと繰り返し語り続けた。しかし、法王は枢機卿たちを二度だけ招集したことがあった。それはいずれも財政危機の討議のときであった。

    では、ポーランドの枢機卿カロル・ヴォイティワが、どうして法王になったかの秘密に迫ろう。この事実を通して、私たち日本人はキリスト教の恐怖を再確認する必要がある。


ローマ法王とオプス・デイvsイエズス会 その2

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20061004

    十億人の信者の頂点に立つ法王は何者だったのか。クラクフの大司教だった時代、ヴォイティワはローマに滞在するたびにオプス・デイの屋敷に招かれた。オプス・デイに反対し続けたパウロ六世は、1975年以降、教会関係者から不審の目で見られるようになった。

    1977年11月、ジャーナリストのテオドル・コールベルは『世紀の欺瞞』という本の中でパウロ六世の物的証拠を挙げて、ニセ法王の存在を証明した。顔写真の比較、声紋の相違点が発見されると、一年後、パウロ六世は死去した。暗殺説が流れた。反オプス・デイゆえに殺されたという説が有力である。枢機卿たちはヨハネ・パウロ一世を選出した。パウロ六世と同じように、ヨハネ・パウロ一世も反オプス・デイ派であった。新法王は就任して三日後に死んだ。ヴァチカン内のフリーメーソンの聖職者を追放しようとしたとの説もある。私はオプス・デイに生前から反対していたためだと思う。この死についてもたくさんの本が出た。中でも、D・P・ヤロップの『法王暗殺』が法王の死因に迫っている。

    こうした中で、カロル・ヴォイティワが法王に選出されたのである。選出直前、ヴォイティワは、オプス・デイの創設者エスクリバの墓の前に跪き、祈りを捧げた。策謀的な祈りは成功率が高いのである。オプス・デイはヴォイティワを法王にすべく動いた。そしてヨハネ・パウロ二世の誕生となったのだ。

    1981年3月2日、法王は「フリーメーソンおよび類似の秘密結社に入会した者は、教会法により破門となる」との声明を出した。この声明を出す前に法王は、エクスリバを讃える儀式に出席し、オプス・デイは秘密結社ではないと語っていた。「オプス・デイはフリーメーソン組織とは無縁である」。では、法王のフリーメーソン非難の声を聞こう。

    「私の子供たちよ。私は再びサタンの秘密組織に加わらないように、あなたたちに警告します。それは本当にサタンの会堂なのです。これらの秘密組織は、兄弟、愛、博愛、人類同胞主義などのラベルを身につけています。しかし、私の子供たちよ、どんなことをいっても、あなたがたの信仰をくつがえそうとしているのです。」

    オプス・デイこそは、ローマ法王が警告する秘密結社の中の秘密結社ではないのか。法王は自らの秘密が暴露されるのを恐れて、「サタンの会堂」について語らざるをえなかったのではないか。何はともあれ、法王自ら語るごとく、サタンの会堂がローマ・カトリック内にあることは間違いないことである。

    エスクリバの後継者であったアルバロ・ポルティージョが1994年に死んだとき、カロル・ヴォイティワはふたたびオプス・デイの屋敷を訪れ、法王ヨハネ・パウロ二世として、亡きオプス・デイの最高聖職者の棺の前に跪き、祈りを捧げたのである。ポルティージョは枢機卿ではなかったので、この法王の行為は歴史上前例のないものであった。

    日本の学者もジャーナリストもフリーメーソンについて書くこと多しだが、このオプス・デイについては全く書かず、無視し続けている。ローマ・カトリックの深部で暗躍した、かつてのイエズス会、そしてフリーメーソンは今や、ヨハネ・パウロ二世の出現によりオプス・デイの支配下にあることを知ろうとしないようである。

    スペルマンが一介のボストンの司祭から、ニューヨークの大司教、そして枢機卿になれたのは、ジョセフ・ケネディの力によった。同じようにヴォイティワが法王になれたのは、オプス・デイの力によった。この二つの例に共通するのは金と権力の力なのである。すなわち、金権教の力により、ローマ・カトリックも言わずもがな、プロテスタントも大きく動かされているという厳然たる事実である。


 
 
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