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「エルサレムの平和の為に祈れ」

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 1月25日(日)16時05分19秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000nihonnsi1.htm

日本のイメージ図

http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000nihonsi00.htm

関連記事:旧約聖書に預言されていた日本の使命

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3117

1. 神話時代から聖徳太子まで:

 日本国の成り立ちを考える時、大陸からやってきた2つの大きなトピックスが挙げられる。
 一つは、BC660?神武天皇が北イスラエル王国の末裔(エフライム)であることであり、もう一つは、AD4cに大陸から東方キリスト教信者でユダヤ系民族の秦(はた)氏一族が来て、キリスト教を伝え、また日本に日本らしい文化を伝えた事である。この時キリシタンの時代よりも遥か昔にキリスト教が伝来し、神話時代からのサマリヤのユダヤ的一神教と融合して、本来の唯一神道(キリスト教的神道)が形成され、一種のリバイバルが起こっていた。

 日本には初めからの先住民族というものは存在せず、中国系、モンゴル系、朝鮮系、東南アジア系、中東系、ヨーロッパ系などが移り住んだ混血の民族である。その中で、高い文化水準を持った大陸からの民として、サマリヤの血筋を引くイスラエル10部族の内のエフライムが日本にやってきて、支配階級に就いた事は十分考えられることである。
 日本の伝説的な初代天皇と言われている、神武天皇は、サマリヤの王と自称している。(*1)
 日本人がすべてイスラエルの末裔というわけではないが、状況証拠(*2)から、少なくとも皇族にはその血が流れている、という説は非常に有望であり、今後の発見が待たれるところである。
 卑弥呼の時代にもあるように、サマリヤの偶像崇拝(太陽神崇拝)や占いの伝統は、本来のヤーウエ信仰と共に並行して、初期からそのまま日本に引き継がれていたと考えられる。
 イスラエルからはるばる中央アジアのキルギスを経て、マナセ族と分かれたエフライム族の一部は、このように日本に移り住んできたのである。逆に、聖書預言によるならば、終わりの時、再びシルクロードを通ってイスラエルに向かう事も十分考えられる。(**)

 一方、4世紀の古墳時代の初期に、秦氏一族は、2万人もの人々が大挙して、朝鮮半島から日本に移り住む事を天皇から許された。秦氏はユダヤ人の東方キリスト教信者であり、バルハシ湖南部の弓月(クンユエ)国の民であったが、万里の長城建設の苦役から逃れて、朝鮮半島を経由して日本に流れてきたのである。
 中東やアジアに離散したユダヤ人にとってユダヤ性を色濃く有する東方キリスト教は受け入れやすかったと考えられる。東方キリスト教はローマ・カトリックから異端として非難されているが異端ではない。
 秦氏一族は日本に来て、多くのイエス・キリストの神社(*3)を設立したのみならず、いわゆる日本らしい文化(*4)を伝えた人々である。
   秦氏とその末裔が作ったイナリ(INRI)神社は、6世紀から8世紀初頭までは、何らかの形でイエス・キリストを祭った神社で、その霊験あらたかな御利益(病気が治った、命拾いした、田畑に水が湧いた、など)のゆえに、たちまち庶民の間に広まり、全国一多い神社になった。すなわち、いわばしるしと不思議によるリバイバルが起こっていたと考えられる。空海によって仏教に捻じ曲げられ、キツネが祭られるようになったのは後の9世紀になってからの事である。(*5)

  さて、6世紀になって、大陸から仏教が入ってきた。次々と入ってきた仏像と共に、天然痘などの疫病が入ってきたので、神道派の人々は仏像を”疫病神(やくびょうがみ)”と呼んだ。
 聖徳太子は593年摂政となった。彼は元々、唯一神道であり、これを中臣御食子(なかとみのみけこ、鎌足の父)より学んだ。しかし、後に熱烈な仏教徒であった実力者の蘇我氏に妥協し、(”篤く三宝を敬え”の)三宝を、”儒、仏、神”としたものと思われる。彼は、仏教や儒教を外国の神道であると考えていた。この事は622年に編纂された”先代旧事本紀大成経”に書かれている。これは後に、さらに変遷し、日本書紀が書かれた時(720)に、道慈という僧によって、”仏、法、僧”にすり返られた。(by.中部大・大山誠一教授) 当時、蘇我氏は神道派の物部氏を滅ぼしたが、大化の改新(645)の時、絶頂期にあった蘇我入鹿は殺され蘇我氏は滅亡した。
 古事記における、一番最初に現れた造化三神は元々一つの神で、三位一体のキリスト教の神を現わす。
 聖徳太子の伝説的な事柄(名前が厩戸豊聡耳皇子(うまやど とよとみみのおうじ、イエス様のように馬屋の前で生まれた、10人に一度に聞いて正確に聞き分けた)、光り輝くオーラ)は、彼がキリスト者、あるいは、キリストに関わる者である事をうかがわせる。聖徳太子が建てたといわれる、大阪の四天王寺は、元々は玉造(たまつくり)の地にあったイナリ神社(イエス・キリスト神社)で、どちらも西門に鳥居がある。

 平城京(710)以降、大陸から仏教が本格的に入ってからは、神道はさらに変遷し、その結果、権力争いや戦乱の止むことがない日本の暗黒時代の歴史になっていった。 (以下、略歴を記述)

 マホメットが回教を広める(610-)、ペルシアの景教消滅
 中国が隋から唐に変わる(618)、遣唐使
 唐の玄奘三蔵がインドに旅行(629-645)
 平城京(710)・・唐の長安を模倣し、多くの犠牲と技術(秦氏一族もこれに関わった)を駆使して完成
 古事記(712)、日本書紀(720)・・どちらも仏教に都合が良いように、史実が意図的に書き換えられた

 奈良に大仏建立(752)・・帰化人の指導で三年かかって完成。世界最大の銅像。開眼式にインドからボダイ僧正が招かれ、全員が筆に結んだ紐を握って眼を書き入れるという、悪霊的な儀式を行なった。
 →  この頃(8世紀半ば)から、平城京内で、朝廷に背く反乱勢力による醜い権力争い。道鏡という僧(766法王になる)は天皇の位を狙った。
 平安京(794)・・あまりの不吉な混乱のため、桓武天皇が政治を改めようと早くも遷都(一時、長岡京に遷都しようとしたがそこでも殺人が起こりさらに遷都した)
 空海(弘法大師) 帰朝(806)・・真言宗 → イナリ神社にキツネの偶像が入る
 遣唐使廃止(894)、唐の滅亡(907)
 仏教における死者崇拝(先祖崇拝)はペルシャの習慣から来た。(*6)
 8世紀の中ごろから開拓土地の私有化が許される。

 一連の平安大震災(850~888)により国中が動乱・疫病
 荘園(900頃-)・・各地に荘園が起こり、荘官という代官が武装していく → 武士の発生

 保元・平治の乱(1156、1159)・・貴族(藤原氏)が京都で政治を怠けている間、武士が強くなり、貴族どおしの争いに、雇われた武士が活躍するようになった。
 壇ノ浦(1185)、鎌倉幕府(1192)・・源氏は貴族にはならず、武力による封建支配。
 元寇。幕府の経済力弱化。
 南北朝60年の戦い(1334-1392) → 地方にも大きな変化
 室町時代は中央の力が弱く、全国に常に戦いがあり非常に不安定な時代。武装した農村(惣村(そうそん))の土一揆。倭寇。 (餓鬼の時代)
 応仁の乱(1467)・・室町幕府の重臣どおしの戦いで、地方から大勢の武士が参戦し、京都は11年間の戦いで荒れ果て、寺も民家も破壊し尽くされた。
 戦国時代(15世紀末から100年間)・・地方の争いは、次第に統一された戦国大名を生み、下克上の本格的な戦乱の世になった。

  *1  神武天皇(BC660?)はサマリヤの王と自称。(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト → カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト = サマリヤの王、ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者) 民謡のはやしことばなどと共に、意味不明の言葉だったので、変遷を受けずに残っているものと思われる。
 また、日本神話の姻戚関係がヤコブの家系と酷似している。(ヤコブ・・・ニニギ、ラケル・・コノハナサクヤヒメ、レア・・イワナガヒメ、ヨセフ・・山幸彦、アセナテ・・トヨタマヒメ、エフライム・・ウガヤフキアエズ、ベリア・・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)、ヨシュア・・歴代の天皇へ)

  *2
     ・ ユニコーンはヨセフ族の紋章。70人訳で、申33-17の「野牛」が”一角獣”と誤訳された。(西欧ではさらに馬に角) 日本神道の狛犬は、正式には、右に獅子(ユダ族)、左に狛犬(角が有る・ヨセフ族)。
     ・ 太陽神崇拝(アマテラス)は、南のユダではヨシヤ王によって廃止されたが、北のイスラエルではアッシリア捕囚まで本来のヤーウェ崇拝と並行していた。
     ・ ヤタの鏡の裏の文字:円の中の文字はヘブライ語で、”有りて有る者”というよりも”ヤハウェの光”の意
     ・ ただし、DNA鑑定では南のユダに全面的に移動したレビ族(Ⅱ歴11-13)の末裔しかわからない。レビ族の血を引く民は、外見上全く異なるアフリカ南部のレンバ族に見出されている。
     ・ キルギス語と日本語(訓読み)の類似性、キルギスの伝承

  *3  日本神道(特に、八幡(ヤハタ=ヤーウェ)、イナリ(INRI(インリ)=イエス・キリスト))は、本来、大陸からの渡来人である秦氏一族によってもたらされた東方キリスト教。景教(ネストリウス派の事、西方のローマ・カトリックによって、景教はキリストの人性を否定する異端とされたきた)ではない。
 景教は、東方キリスト教とは別ルートで伝わったもの(教理はほとんど同じ)で、使徒トマス、ナタナエルに始まり、西アジア一体に広まり、635年には中国皇帝に公式訪問して布教許可をもらっている。”大秦(たいしん)景教流行中国碑”(西安、781)。
 秦氏は、アマテラスではなく、”アメノ ミナカ ヌシ”(天の中心に座す主なる神)を祭った。
 日本最古のイナリ神社の糸賀稲荷(535、和歌山県有田市)のある地方は、”王子信仰”(神が尊い御子の姿で顕現する)が盛んな所である。太秦(うずまさ)神社、大酒(ダビデ)神社も秦氏が作った。伊勢の20年ごとの式年遷宮は、幕屋の移動を思わせる。
契約の箱にそっくりの神輿(みこし)が担がれる事は、749年宇佐八幡宮で始まった。

  *4  秦氏は日本らしい文化や技術・芸能をも伝えた。(養蚕、機織、冶金、製鉄(農具)、清酒、雅楽など) これらの文化は、時代が変わっても全く変わらず現在までも引き継がれている。
 秦氏の子孫の羊太夫(7~8世紀)は和同開珎を鋳造する工場を作った。(埼玉県秩父で銅発見(707)、和同開珎(708)) また、彼がいた群馬県の多胡の地でも養蚕が始められた。
 ユダヤ性としては、古墳の埴輪の髪型(みずら)がユダヤ人やカザール人のものとそっくり。風呂好き・清潔好きの民。その他、従来の天皇家の慣習と重なる部分がある。

  *5  2002年の稲荷神社における霊の戦いの時現れた、悪霊によって汚されている写真(ページの下部)

  *6  原始仏教には死者を弔う風習も行事も無かった。中国やインドにおける仏教はもともと出家主義で、中国では死者を大切にしない宗教だと非難を受けていた。ペルシャ系のソグド人や西アジアから来た景教徒は死者の弔いを大切にし、”日に7度、生者と死者のために祈っていた。”(大秦景教流行中国碑) 彼らが中国で勢いを伸ばしていったので、仏教徒は恐れ彼らの慣習を仏教的な装いにして、いわゆる”盆”の行事を始めた。

   (参考文献) 「日本の中のユダヤ文化」 久保有政 学研、 「日本・ユダヤ封印の古代史」 同著 徳間書店

2. キリシタン・リバイバルから明治維新まで:

 キリシタンの時代は、まさに戦乱の暗黒が極まった戦国時代の後期にあって、著しい光を放つものであった。キリストの再臨も、世界の暗闇の力がクライマックスに達した時になされる。
 ただし、キリシタン・リバイバルの期間は非常に短く(ザビエルから秀吉による禁止まで38年の布教、島原の乱・鎖国まで約52年の大迫害)、結果的に、終わりの時の日本の大リバイバルに対する神の備えとしての役割を果たすものであった。すなわち、神の御前にささげられた、彼らの殉教の血ととりなしこそが、現在の私たちにとって非常に大きな相続財産になっているのである。

 1543年 種子島にポルトガル人漂着、鉄砲伝来。
 1549年から、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、平戸・島原(長崎)、山口などを経て、京都まで伝道した。多くの大名たちは、南蛮船と貿易がしやすくなるので、鉄砲欲しさに、布教を許した。しかし、信者になった大名は、キリシタン大名と呼ばれ、その領民には信者が著しく増えた。キリシタン大名には、豊後(大分)の大友義鎮、肥前(長崎)の大村純忠、有馬晴信、播磨(兵庫)の黒田孝高、摂津(大阪)の高山右近、小西行長がいた。(高山右近は後の迫害でマニラへ追放)

 1569年 信長は、ルイス・フロイスに会い、京都での布教を許し、代わりに海外の情報を手に入れた。また、オルガンチノは信長の許しで、京都と安土に南蛮寺という教会を建てた。また学校を建て、文学や音楽などを教えた。当時非常に多くの人達が戦乱ですさんだ状態から逃れ、神の救いを得るために、キリスト教は急速に庶民の間に浸透していった。また、大阪・堺では貿易商人でにぎわい、南蛮船貿易が行なわれ、鉄砲の技術を取り入れ国内で鉄砲を製造し、また、茶道(千利休)などが行なわれた。
 信長は1560年に桶狭間で強豪の今川義元を破った。彼は日本統一のための新しい考えを持ち、古い勢力や流通の制度を改めようとしていた。1571年に鎌倉時代からの古い勢力の延暦寺(僧兵を持つ)を焼き討ち、皆殺しし、1573年には足利幕府を滅亡させた。キリスト教を導入する事は、手こずらせていた浄土仏教勢力を弱体化させる目的でもあった。 元々、阿弥陀如来による他力本願の救済を説く浄土教と、神との契約による救済を説くキリスト教は構図的に近いものがあり、信者としては乗り換えやすい面があった。 しかし、1582年、本能寺の変で明智光秀(3日天下)に奇襲され信長は自害した。
 伊東マンショら4人は、1582年長崎を出発して、苦労して3年後にローマに着き、法王と会見した。8年後に帰国した時は、すでに秀吉が1587年にキリスト教を禁止した後だった。

 信長の後を継いだ足軽出身の秀吉は、1583年絢爛豪華(けんらんごうか)趣味で有名な大阪城や京都に聚楽第という城のような屋敷を建てた。他の大名たちもまねをした。(桃山文化)
 秀吉は1587年に九州を平定したが、その同じ年に統治を揺るがすほどの勢力になっていたキリシタンを除く目的で、キリシタンの禁教令を出した。
 26聖人の殉教(1596、 京都・大坂で捕縛 11月15日、長崎で磔の処刑 12月19日、内6人が外国人宣教師)を初めとし、キリシタンへの迫害は次第にエスカレートしていった。(磔、火刑、穴吊りの刑、海に沈める、火山に投げ込む(島原)、など) しかし、処刑の様子を見ていた人達の中から、さらに新しい信者たちが生まれたり、キリストをあかししなかった事を悔い改める者たちが多く現れ、次々と殉教していった。この時、信仰的に弱いとみなされていた人達が、他の人達の信仰を奮い立たせた事が記録に残されている。(ちなみに、”信仰の悲しみ”という言葉はうそで、ほとんどのキリシタンたちは喜びに満たされて殉教していった。”処刑の時、自分の十字架に走り寄った。”)
 本家本元のローマでは法王の権威は弱くなり、信仰的にも純粋なものではなく、制度であり、かつ、相変わらずマリヤや聖人崇拝などの偶像を含んでいるものだったが、そこから遠く離れた宣教地の日本では聖霊様が働き、主から最高の栄誉が与えられる、キリストの名のゆえの殉教が成し遂げられていった。

 驚くべき事は、ネロ帝やドミティアヌス帝などのローマの時代の全殉教者数に次いで、この短期間の日本のキリシタンの時代の殉教者数が史上第2位だったという事である。 もし、秀吉、家康、家光らが、懐柔策を取っていたならば、日本は有力なカトリック国になっていただろう。しかし、神は、終わりの時代に日本を用いるために、このようにされたのである。
 日本が他に行き場の無い島国だった事もあるが、当時日本がいかにリバイバルし、そして徹底的に撲滅されていったかわかる。この事は、終わりの時代の日本についても言えるのではなかろうか。(反キリストによる、キリスト者を絶滅せよという干渉と、日本のツロ化(エゼ26-28章))
 すなわち、殉教か、海外宣教かである。 「自分の命を守ろうと努める者はそれを失い、主のために命を捨てる者はそれを得る」 これは、どちらにも言える事である。

 1600年関が原の戦いは天下統一の為の最終的な内戦になった。東西の戦力が拮抗した天下分け目の大戦争になると目されていたが、小早川の寝返りで一日で勝負がついた。
 1603年家康・江戸幕府、1615年大阪夏の陣(豊臣家二代で滅亡)、1635年外国船長崎のみ、1637年島原の乱、1639年ポルトガル人の来航禁止・長崎の出島にオランダ人のみ(鎖国の完成)
 徳川時代には、踏絵が行なわれたが、踏絵を堂々と行ない隠れキリシタンになる者も多くいた。東北地方は迫害がそれほど強くはなかったので多くの隠れキリシタンがいた。(伊達正宗もキリシタンらしい) マリヤ観音、墓石に十字架など。
 (明治5年(1872)2月24日、キリスト教禁止の高札の撤去まで、約300年もの間キリスト教禁止の時代が続き、隠れキリシタンたちは代々に渡って潜伏して、ひそかに不完全な信仰を続けていた。開国の時、キリシタンである事を明らかにした約3000人の人が逮捕されたが、欧米からの猛烈な抗議によってキリスト教は解禁された。)

 江戸時代は、徳川幕府の支配による、天下泰平の比較的穏やかな時代とされているが、同時に、非常につまらない時代であった。(全体的に平穏であったのは、キリシタンたちのとりなしで、日本が平和である事、同じ日本人どおしが争わない事などが祈られていたのではないかと思われる。)
 一年おきの参勤交代(1615武家諸法度)や建物や街道などのインフラの整備・修理をさせることは、地方大名の経済力を無くすのに有効で、藩の財政を圧迫し、武力蜂起ができないようにした。江戸時代は頻繁に百姓一揆が起こり、260年の間3000件以上にもなった。これは幕府を倒す要因の一つになった。改革のたびに、武家たちはきびしい質素・倹約を命じられた。比較的元気だったのは町人達であった。

 さて、ペリーなどの来航によって、日本は泰平の眠りから覚める時が来た。鎖国によって江戸時代は軍事力も、技術も文化的なものも、何もかも停滞していたのである。
 ペリー浦賀に来航(1853)。翌年、アメリカに強制されて1854年日米和親条約
 この頃、再び天皇に国家の主権を持たせるという尊王思想が起こり、外国からの勢力に対抗するという、尊皇攘夷になっていた。1858年伊井直弼がかってに修好通商条約を結んだ為、尊皇攘夷派を怒らせ、桜田門外の変(1860) しかし長州(山口)や薩摩(鹿児島)は、外国の軍事力の強さを知り、尊王倒幕論を主張した。そのため幕府は1867年に長州征伐を行なおうとしたが、これはかえって薩長を同盟させ倒幕力を強めた。

 1869年(明治一年)慶喜 大政奉還、しかしそれでは収まらず、薩長土肥(土佐(高知)、肥前(佐賀))の軍勢(官軍)は京都で徳川家を破った。 官軍は天皇を連れて江戸に向かい、江戸城が無血で引き渡され新しい皇居となり、江戸は東京と改められた。
 明治政府は、四民平等(1869)、国民皆兵(1872)を定め、それに対する不平氏族が政府から脱退し、元薩摩藩西郷隆盛らの抵抗があった。(西南戦争)
 板垣退助らの自由民権運動により1890年第一回総選挙が行なわれた。1889年当時のプロシア(ドイツ)を手本に、憲法が発布された。
 明治時代は、富国強兵をスローガンに、製鉄(八幡製鉄所)、造船、炭坑、製糸などの官営工場が作られ産業が急速に発展していった。かつて秦氏の末裔の羊氏のいた群馬県に作られた富岡製糸工場は、士族の娘などが実習し、全国の工場に技術を伝えた。国力を強める為に、農村の娘などが安い賃金で長時間働かされた。(女工哀史)

 明治政府は、政府内部の話し合いで、日本も欧米に倣ってキリスト教を国教にしようという話まで出たが、結局、新たに設立する新形式の神道を国教にする事にし、国家神道の構築が進められ、天皇も仏教から神道に改宗させられることになった。(和魂洋才) 欧米の列強がもっと強ければ、キリスト教国になっていたかもしれない。
 しかし、明治天皇個人はキリスト教を重要視し、日本の古代神道を調べさせ、多少の行き過ぎもあったが、多くの状況証拠によって日本人のルーツがユダヤ人である可能性が高い(日ユ同祖論)とみなしていた。そして、明治天皇の内親王・仁(しのぶ)妃殿下の長男である(すなわち孫の)小林 隆利(たかとし)氏を、キリスト教の牧師にした。ある雑誌への小林氏へのインタビューによると、明治天皇は彼の母親に、”私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし神道は本来ユダヤ教である。”と言ったそうである。(*)

 日本に入ってきた、ドイツやアメリカからの伝統的キリスト教は、多くは知識人の間のみで伝えられ、そのキリスト教精神は文化に多少の影響をもたらしたが、その多くは知識だけにとどまり、カリスマなどの教理は無く、そのため一般庶民にインパクトをもって広く浸透するようなことは無かった。

 (ヨーロッパではキリスト教は合理主義によって形骸化状態。アメリカにおけるペンテコステ・リバイバルは1900年にやっと始まり、20世紀の初期にはカリスマ信仰は異端視され迫害されていた。 第二次大戦後の日本への福音宣教も、この時点ではまだ伝統的な福音派によるもので、明治維新の時と同様にキリスト教化は不振であった。カリスマ信仰が入ってきたのは最近の事であるが、主の御声に聞き従っての宣教か、と言うとまだまだである。)

   *  大阪の堺市鳳において牧会されている牧師
 小林牧師は、今年73才(96年時点で) メシヤニックの働きをもされている。
 師によると、八咫(やた)の鏡のレプリカは現在、皇居にはなく、明治神宮に移されたそうである。また、皇太子が割礼を受けている。昭和天皇は戦争開始の内閣決定に署名を拒否されたが、軍人に取り押さえられて無理矢理はんを押させられた。マッカーサーにはじめて会見したときに、「わたしが『罪』(この言葉を使った)だから、わたしを処刑して、国民を許してくれ。」と述べた。
 昭和天皇がクリスチャンであったことは、彼が、小林隆利牧師の母(仁)と一緒にクリスチャンの家庭で育ったこと、定期的に牧師を宮中に招いておられたこと、侍従長を始め 周囲をクリスチャンで固めていたこと、平成天皇のためにクリスチャンの家庭教師(女性)を招いたこと、音楽の教育にカリスマ派のクリスチャンを招いていたこと、戦後マッカーサーに宣教師と聖書を要請したことから見ても明らかである。クリスチャンの病院活動(聖隷ホスピス)に対し下賜金を数度にわたって与えた。
 平成天皇は、現在、牧師を招いて宮中で聖書講義を受けておられる。(どうぞ、お祈り下さい)
 また、三笠宮(オリエント学を専攻する学者)も天皇家の起源について興味を持って取り組んでおられる。

大戦の時代から戦後の経済進出まで:

 20世紀は日本にとってまさに激動の世紀であった。日本人の民族的な特徴、すなわち、非常に侵略的、かつ、協同的な性格は、”第二次大戦時の侵略戦争”、および、”戦後の経済進出”において、2度に渡って著しく現わされた。ほとんど無から、これらがなされたのである。 その中には、ヨセフ族への預言を思わせる、非常に幸運な導きがいくつかの場面で見られた事は否めない事実である。
 そして、みことばが語る主の御心の中心的祝福は、戦争や経済ではなく、キリスト教の宣教を担って海外に著しく進出する事である。三度目の海外進出は、実に聖霊様によってなされるのである。

 征韓論はすでに明治の初期に西郷隆盛らによって唱えられていたが、欧米視察の外遊から帰ってきた岩倉、大久保らによって一旦は否定された。ここに、荘園・鎌倉時代からの古くからの”武士の霊”が引き続き、初めから日本政府に暗躍していたのである。これは、後の軍国主義へ発展していった。世界は、欧米諸国による帝国主義の時代で、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアなどの強国がアジアに進出していた。日本もこれに倣って、富国強兵、帝国主義の旗印の元に、朝鮮、中国へと進出していったのである。
 ”靖国神社”は、戊辰戦争の時の官軍(薩長土肥)の戦死者を祭ったのが始まりで、その後、日清・日露戦争の戦死者を加え、さらに太平洋戦争の戦死者(7人のA級戦犯含み、この事がアジアを怒らせている)が祭られた。(”戦争の霊”が働いている。 死者崇拝の起源は中国の仏教以前のペルシャの慣習にさかのぼる。(1.の下注*6参照))
 内村鑑三らが庶民に伝道し、あまりに人が集まり影響が大きかったので、恐れた政府が天皇を崇拝するように、教育勅語などを作った。

 1877(明10)イギリス領インド帝国、 1890(23)第一回帝国会議
 1894(27)-98 日清戦争、黄海の海戦(最初の対外戦争) ・・ 朝鮮入手
 1900(33) 義和団事件 ・・ 中国の農民、舟夫、苦力らによって起こされた反英、排日の反乱で、この時ハドソン・テーラーらによって作られていた中国国内の教会は焼き討ちされ、鉄道なども破壊された。イギリスはボーア戦争(南アフリカ)、アメリカは米西(スペイン)戦争(占領地の取り合い)で兵を送る事が出来なかったので、鎮圧軍の兵力2万の80%は日本軍だった。この義和団事件によって日本はイギリスの信頼を得(日英同盟)、帝国主義国家の仲間入りをした。

 1905 中国分割 ・・ 日・台湾、大韓、福建、露・中国北部、独・山東、英・中部、仏・南部
 1904-5(37-38) 日露戦争 ・・ 満州へ進出してきたロシアに宣戦、旅順激戦、日本海海戦で奇跡的にバルチック艦隊を破った。(辛勝)
 1911 中国に辛亥革命、1912 中華民国、 1917 ロシア革命(*後の時代も再び共産主義が復活する)
 1919(大8) インド反英運動(ガンジー)、中国・反日運動
 1920(9) 国際連盟加入
 1923(12) 関東大震災 ・・ この時デマが流れ多くの在日朝鮮人が虐殺された
 大正7年から昭和初期まで民衆の力が強まり、サラリーマンが増え、大衆娯楽が盛んになった。昭和初期まで、退廃的文化(エロ・グロ・ナンセンス)の時期
 この時期、平民への伝道活動もなされた ・・ 救世軍(山室軍平ら) 1899平民の福音・ベストセラー、1900排娼運動、1918救世軍社会事業、1923関東大震災に救済運動

 1929(昭和4) 経済大恐慌、世界中に失業者溢れる、軍部の台頭(大東亜共栄圏の野望)
 1931(6) 満州事変 ・・ 日本軍が引き起こした事件で、満州国をでっち上げ、軍が満州を支配した。
 1933(8) 連盟脱退、 ヒトラー・ドイツ首相   1936(11)2・26事件
 1937(12)日中戦争・日本軍南京を占領、このためアメリカ、イギリス、フランス、オランダは、石油・他の物資を日本に輸出禁止した。 日・独・伊三国同盟
 1939(14) ドイツ・ポーランドへ侵入・第二次世界大戦開始

 1941(16)12月 ハワイ真珠湾奇襲・太平洋戦争となる。(これは全くの軍部の独走(東条英機)で、昭和天皇は無理やり承認の判を押させられた) ・・ 多くの人々や軍人たちが日曜日に教会で礼拝中に奇襲されたので、アメリカ人を怒らせた。この事は、生産力の高いアメリカの反撃を招き、ドイツもアメリカを敵に回すことになり、連合軍による第三帝国の殲滅へつながっていった。
 日本軍は同じ日に、イギリス、アメリカの植民地の香港、フィリピン、マレー半島を取った。
 1942(17) ユダヤ人大虐殺始まる、ミッドウエイ、ガダルカナル敗戦、日本軍が勝利しているという嘘の放送
 1944(19) サイパン全滅、本土空襲、特攻隊、  (最後まで戦って全滅する事を”玉砕”と言った)
 1945(20) 東京大空襲3/10(10万死)(* 京都などの古い文化財のある所は焼夷弾攻撃をまぬかれた。(後のあかしの為))、 5/7全ドイツ軍降伏、原爆投下・8/6広島、8/9長崎(計30万死)、8/15 連合国に無条件降伏

 大戦時の日本のキリスト教界は、聖霊様の力に頼る事を知らないゆえに、まことに情けない状態で、天皇を礼拝する事、および、全教派が日本キリスト教団に統一された事を神のみ心と妥協し、韓国では日本の牧師が行かされ天皇崇拝(すなわち偶像崇拝)を民に強要する大きな罪を犯した。しかし妥協しないで獄に入れられた一部のグループ(ホーリネス)もあった。(戦後は日本キリスト教団から多くの教派に分かれていった)

 戦争は終わり、マッカーサー連合軍が進駐し、戦犯は処刑され、財閥は解体されたが、1946(21)新憲法が発布され、天皇制は存続し、日本の象徴とされた。そして、戦争の放棄が憲法でうたわれるなど、他の国に真似のできない平和主義に一転した。日本が他国の侵略を受けにくい世界の端に位置するというのも幸運な要素であった。
 1948年に、イスラエル国が約1900年ぶりに再建された事は、日本や世界の平和と関連があるようにも思われる。アメリカの経済を支配するユダヤ人も、日本が唯一ユダヤ人を迫害した事の無い国であり、また、真珠湾によりアメリカが戦うようにさせ、ドイツからの解放を間接的に導いたと考え、さらには、一部の日ユ同祖論的な見方により、日本人に対し好感を持ったようであった。
 戦後、ドイツが多くの賠償金を支払わなければならなかったのに比べ、豊かなプロテスタントの国アメリカの指導の元、日本が植民地にもならず、食料や物資の供給などの寛大な処置を受けたことは、幸運としか言いようが無い。一つには、ソ連との冷戦の水際に置かれ保護されていたからである。(このラインは後に朝鮮半島に移り、朝鮮は南北に分裂した) もう一つには、アメリカ政府が真珠湾攻撃を無線傍受で知っていながらアメリカ国民に知らせなかった事が発覚するのを恐れたからであろう。
 また、日本がアジアに出て行った事は、結果的にはアジアを独立に導いた。

 さて、戦後、欧米のキリスト教の宣教師たちが日本に教会を建て、精力的に伝道していったが、現在に至るまで低迷を続けているのは周知の通りである。(1990年の統計で、カトリックや異端も含めて約0.88%、実質0.5%。現在でもあまり変わらない。一方、隣の韓国では35%、中国では未公認の約10%のクリスチャンがいる) 日本は宣教師の墓場と言われ、迫害は無いが人々は救われない。このパーセンテージの少なさは、イスラム圏などを除き、イスラエル、フランスに匹敵する。

 1960年(昭和35)からの10年間は、高度成長時代。資源を持たない日本であるが、政府は高度成長策を採り、原料を輸入、製品を輸出し、国内生産は順調に増大し、機械工業6倍、鉄鋼4.2倍、化学3.6倍、他の産業も2倍以上、GNP4.6倍であった。
 日本人は欧米に追いつけ追い越せの勢いでよく働き、生活水準は急速に向上して行った。新しい発案力は弱いが、外国から入って来た物を真似て、さらに良いものに作り上げる力がすべての分野で発揮され、世界有数の技術立国となっていった。

 1960(35)日米安保、 1970(45)大阪で万博、 1972(47)日中国交回復、 (48)オイルショック
 1995(平成7)阪神淡路大震災

 さて、経済の分野でも日本は積極果敢に海外に進出して行った。中でも自動車販売は世界中のシェアを独占しそうな勢いだったので、アメリカ、ヨーロッパからさまざまな政治的圧力(ジャパンバッシング)を受けた。
 そこで、行過ぎた企業間での競争に打ち勝ち、価格攻勢を計るため、部品や原料の一部を賃金の安いアジア各国で作らせるために、生産ラインを外国に出していった。
 その結果、技術は流出し、国内は生産の空洞化が起こってきた。バブルから平成不況への落ち込みは、このような構造不況による。また、一般消費の低迷で不況に追い討ちをかけている。さらに、近年、自然災害が頻繁に起こり国家の財政を圧迫している。今、我々は人間的な手法ではどうしようもない状況に置かれているのである。

4. 日本のリバイバルの展望:

 日本の歴史を見てきて、リバイバルの要素とそれを妨害する要素に分けられる。良いものも悪いものもすべて外国から入ってきた。

 前提として、ヨセフ、エフライムの祝福があるが、その上に、キリシタンの殉教の血がリバイバルを保証している。
 天皇家が度重なる危機(鎌倉幕府、明治維新、太平洋戦争の終戦時)にもかかわらず、約2600年も継続した事は、日本に対する主の祝福のあかしに他ならない。(イギリス王室でさえ1000年)
 また大戦の時、京都などは焼夷弾攻撃をまぬかれ、あかしの時のために文化財が保護された。
 日本は、何回かの侵略の危機に際して、実に幸運な目に会いつづけた。 2度の元寇は2度の台風で撃退された。キリシタン迫害でカトリック国の報復を受けなかった。日露戦争で当時最強のバルチック艦隊を奇跡的に破った。大戦時の相手がアメリカだったので、戦後侵略されず、むしろ保護された。
 また、出ると祝福されるのはヨセフ族の特徴。
  創49-22~26(ヤコブによる終わりの日の預言): 「若枝は垣を越える(海外宣教)」
  申33-13~17(モーセの祝福): 1.「主からのあらゆる賜物」、2.「野牛の角で国々の民を突き倒していく」

 このように、福音宣教はイスラエルから始まり、終わりの時代には反対に、東の端にある日本からイスラエルに戻っていくのである。

管理人注:私はそうは思わない......何が福音宗教だ!!イスラエルから東の橋にある神の国日本に一本の木として統一されるのだ。そこに真の千年王国のシャローム(平安)がある。そして日本は100年後世界のリーダーとなるのだ。今生きている人々が全て死んだ後に....。


 リバイバルの要素は、

 1. 基本的には、インリ信仰に見られる、しるしと不思議のリバイバル。秦氏の唯一神道は、ある時点で聖霊様が働き多くの御利益が現わされ、急速に全国に広まった。日本人の多くは、ヨーロッパ人のような理屈ではなく、しるしによって心開かれ、福音によって変えられるというイスラエル的な特徴を持つ民である。(「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求する。」(Ⅰコリ1:22))
 ただし、しるしと不思議のリバイバルに対する今までの歴史に無かった新しい要素として、若年層、子どもが用いられ、また主の訓練によって子どものように単純な信仰なった者を通して主のわざがなされる。本来、日本人はイスラエルのように律法的になりがちであり、景教徒、メシヤニックのような律法の慣習を守るクリスチャンは信仰的に弱く、アジアなどのリバイバルの起点になり得ない。これらは日本のイスラエル性のあかしとなる為のものである。 その上、現代の日本人は欧米の影響を受けすぎて、あまりにも知的過ぎるのが欠点である。従って、預言で語られているように、若年層が日本のリバイバルを担い、アジアなどの世界宣教に出て行く。これは純粋に神の栄光が現されるためである。
 また、若年層自体の救いの為には、従来のオーソドックスな福音宣教ではなく、きわめて芸術的、創意的な内容のメディア伝道(ビデオ、テレビ)による。(by.ミッシェル・コーラル)

 2. キリシタン大名型リバイバルは、異質な西洋の文化と共に来た。政治家や実力者が救われ、それゆえ地域の自治体や政党レベルでリバイバルする。ただし、これは、世の利得の欲望や妥協、偶像などの不純物を含む場合、信仰が純粋であるかどうかを試みる為、迫害・殉教の試練が後にやってくる。(インドネシアの迫害も)
 政治家が救われ、政党がキリスト教化される事は、あらゆる社会事業などにおいて、クリスチャンが活動しやすくなるのはもちろんの事、今までの歴史において常にあった政治的な妨害の要素を取り除くうえで非常に重要である。

 3. 海外からの器の油注ぎを起爆剤とするリバイバルで、海外からの良いものを改良し、よりすぐれたものとして海外に出して行くように導かれる。日本人は、戦前の武力でも、戦後の技術力でも非常に侵略的で、出ると強いという特徴を持つ。三回目は、あらゆる主の祝福が結集した、非常に強力な海外宣教である。

 4. 天皇の救いによるリバイバル。天皇は霊的には日本の”王”であるから、日本にみことばの祝福が成就し、イスラエルと一つになる方向で、国全体が祝福を受ける。皇族とそれにつく者がユダヤ的なクリスチャンになってイスラエルに移住する時が来るかもしれない。天皇が抜けた後は単なる異邦の島ツロである。

 5. イスラエルは、時計の短針のように全体的な傾向を表現し、平和的、発展的なリバイバルの要素でる。1948年に、イスラエル国が再建された時に、急に日本や世界が概して平和になったように、エルサレムの平和のためのとりなしが不可欠である。またこの時から、世界中に癒しを中心とするカリスマ運動が始まり、「教師」の職が回復した。
 イスラエルと教会は、互いに一方が祝福されると他方も祝福される関係にある。逆に言うなら、終末の大艱難の時イスラエルが堕落する時、世界も大きく堕落する。今後のクリスチャンへの迫害と世界の大リバイバルについては、イスラエルについてのエゼ36~39章にある大きな変化の予告に対応して起こる。(ユダヤ人のイスラエルへの移動 → ユダとエフライムの合体 → 偽りの中東和平、ゴグ・マゴグ → イスラエルの回復と世界の大リバイバル)

  「エルサレムの平和の為に祈れ」


関連記事:エゼキエル書37~19

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3116

 妨害の要素としては、

 1. 仏教哲学や自力本願は非常に反キリスト的な思想(自己中心)で、キリスト教の教理(愛、三位一体など)とことごとく相反する。これは、原罪を持つ人間が考えやすい広き門であり、自然啓示からも、もう一度客観的にあかしされなければならない。(*)

 2. 仏教の偶像崇拝、他力本願は、律法に違反するので、神によって呪われる結果をもたらす。偶像(特に、奈良の大仏)に関連する、インドからの戦いの霊が日本に長期に渡る戦乱ののろいを招いたと考えられる。(ヒンドゥー教では破壊の神のシバ神に相当。これはオーム真理教にも働いた悪霊である。)

 3. 仏教の先祖崇拝、靖国の死者崇拝は、ペルシアや西アジアの霊的慣習が中国を経由して、仏教と共に日本に入ってきたもの。

 4. 霊的姦淫(唯一神道の変遷、大戦時の教会の妥協)は、ホセア書にあるイスラエルの堕落の特徴で、特に注意しなければならない。

    *  物質の構成要素の素粒子自体も、数学も、デジタル回路も、神の愛と三位一体をあかしする。

 素粒子は、1.不確定性原理: 粒子であり同時に波動でもあり、またエネルギーでもある。 2.コペンハーゲン解釈: 物質はそれ自体では存在の意味を持たず、他があって初めてそれが認識される、まさにそのような存在。アインシュタインによる実在論は否定された。

 オイラーの公式; 自然対数の底 e の i ・π乗は、-1。(ここで、i =√‐1、π(円周率)=3.14159265358・・・、e =2.7182818284・・・) なんと、マイナスの定義に、円周率と自然対数の底、虚数単位という数学上の基本定数が全部入っているエレガントな関係になっている。思索を最も純粋にした数学の、基本数学定数それ自体が、独立した存在ではなく、相互に関連し合って、しかもマイナスを表現している!。

 論理回路にあっても、論理的な負である符号の反転の要素が無ければ、何ら発展的な回路は作れない。デジタル回路はNAND回路が基本となる。(NAND=AND + NOT)
 被造物である自然は根底から、自己中心を否定する構造になっている。

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