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落合莞爾疑史 78回

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月21日(土)21時29分56秒
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  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-10.html

77回~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-967.html

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(4)

76回(続)~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-913.html

76回~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-912.html

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3)

75回ー2~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-895.html

75回ー1~http://2006530.blog69.fc2.com/category10-1.html

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

74回~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-880.html

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(1)

以下は78回から

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(5)      評論家落合莞爾

 明治維新を遡ること十年、安政五年(一八五八)は頗る多事の年であった。一月、水戸藩を中心とする攘夷論を抑えるために朝廷の威光を借りようとした幕閣が、日米条約締結を朝議に出した処、岩倉具視・中山忠能ら中下級公家八十八人が条約案の撤廃を求めて列参、座り込みをしたので、孝明天皇は条約締結反対を決断し二十日に不許可の勅答を下した。中下級公家の列参が天皇を動かして条約勅許の阻止を実現したことで幕府の権威は失墜し、世情は幕末に向かって大きく前進を始めた。

 通説は、この列参を中下級公家の幕府に対する鬱屈から出たものと説くが、むしろ彼らの待遇改善要求が条約勅許を機に噴出したと観るべきである。公家社会を幕藩体制の一角に押し込めていたのは、幕府の法制「禁中並びに公家諸法度」であるから、この列参も広く謂えば幕府に対する反抗ではあるが、彼らが処遇の改善を要求した相手は幕府でなく、五摂家・九清華家ら上級公卿であった。自分たちを抑圧しつつ、朝幕間を周旋して利得を専らにする上級公卿に対し反感を募らせた中下級公家は岩倉に煽動され、条約反対を名分に幕府掣肘の形勢を示し、以て上級公卿を震憾させて処遇改善を取り付けようとしたのである。かかる些事が幕府権威の失墜を引き起こしたのは予想の外で、これが幕末現象となった。以後の朝廷は、公武合体と勤皇倒幕の間を揺れながら維新に向かうが、その中心に孝明が端然と座し閑院宮皇統を従え岩倉具視ら側近公家を用いて「堀川政略」を進めていたことを洞察し得ず、左右からの風圧に靡く葦なぞと見做していては、歴史は解けない。

 上級公卿に対する贈賄の甲斐もなく日米条約が不勅許となり、老中堀田正睦が京洛の地で悩んでいる間に、江戸では将軍家定の継嗣を巡り老中松平忠固と紀州藩附家老水野忠央らの南紀派が井伊直弼の大老就任を工作していた。その功成って四月二十三日に大老に就いた井伊は、将軍継嗣を紀州慶福(家茂)に決し、日米条約の締結を強行する。井伊に反感を抱く水戸斉昭は、子息の水戸藩主徳川慶徳を始め、尾張藩主徳川慶勝・越前藩主松平慶永ら親藩を糾合して無勅許締結の非を鳴らすが、井伊幕閣より隠居謹慎の処分を受け、これが安政の大獄の発端となった。公武合体論者の老中阿部正弘と組み、一橋慶喜を病弱の将軍家定の継嗣とするために、養女篤姫を家定の御台所に送り込んだ薩摩藩主島津斉彬は、井伊に抗議すべく薩摩兵五千を率いて上洛せんとしたが、出発を前にして病を発し、七月十五日を以て急死する。異母弟久光派による斉彬の毒殺は、邦家のために惜しむべきことであった。

 南紀派の井伊直弼が大老に就いたので六月二十日家茂が将軍継嗣に決まり、六月二十五日諸大名を招集してその旨を公表した家定は七月五日一橋派の諸大名の処分を決定し、翌日急死する。死因について、大奥御使番の藤波が実家に宛てた手紙に「ごく内々ながら、御どく薬にて・・・水戸・おはり・一ッ橋・越前、まづヶ様なる所、皆くみして居候云々」とあるのが措信に耐え、家茂の決定を憤った一橋派が、不要になった家定を、井伊大老に対する警告の意味で毒殺を敢行したと見て良い。将軍急死が公表された八月八日、孝明天皇から水戸藩に宛てて「戊午の密勅」が下された。内容は①条約無勅許締結に関し幕閣の責任追及、②公武合体の主旨で幕府支援、③攘夷推進の主旨の幕政改革を推進するよう、水戸藩に命ずるものであった。之を知った井伊が、諸藩への直接的な勅命は幕藩体制の根本を揺るがすとして弾圧を決行したのが安政の大獄で、翌六年は攘夷派の朝野要人と志士の逮捕・処罰で終始した。

 新将軍家茂に対する内親王降嫁は、安政の大獄下でヒビの入った朝幕関係を修復するための公武合体策の決め手として浮上したと通説はいうが、そもそも公武合体策は六代家宣の侍講新井白石が唱えた政治理念で、享保十年(一七二五)十月十八日の霊元上皇と将軍吉宗の修学院中之御茶屋における極秘の直接会談で合意した朝幕間の基本契約である。具体策の一つが朝幕縁組で、これを受けて閑院宮家の五十宮倫子女王(上皇の曾孫)が十代将軍家治(吉宗の孫)に入輿するが惜しい哉男児に恵まれず、二女子も夭折した。朝幕ではその後も降嫁の機会を待っていたから、安政五年六月に将軍後継が家茂に決まるや、内親王降嫁が浮上して当然であった。当初は、この年生まれた富貴宮(御母九条夙子)が候補で、適齢の皇妹和宮は既に有栖川宮と婚約中のため遠のき安政六年四月二十七日に翌年冬の人輿の予定が決まる。富貴宮は八月に夭折するが、これに先立つ五月、議奏久我建通らが宮中で和宮の降嫁を内議して、以後は和宮が降嫁候補となる。万延元年(一八六〇)四月十二日、京都所司代酒井忠義から関白九条尚忠を通じて和宮の降嫁を願い出たが、有栖川宮との婚約などを理由に却下した天皇は、重ねての奏請に遭い、侍従岩倉具視の意見を徴したところ、「幕府が条約を破棄し鎖国に復元するならば認めるべき」との奉答があった。岩倉は少壮公家と謀り、朝威を借りんとする幕閣の意図を逆手に取り「攘夷の実行と朝廷の許可なしに重要国事を決定しないことの確約」の条件をつけて降嫁を認めるよう、天皇を説得したのである。幕府から「十年以内に破約し、攘夷を実行する」との奉答を得た天皇は、降嫁をあくまで固辞する和宮に対し、「前年生まれた壽萬宮を降嫁させ自らは譲位する」との決意を示したので、和宮は天下のために降嫁を承ることとなった。万延元年(一八六〇)八月十八日、天皇は結婚了承の内意を伝え、十一月一日に降嫁が公表された。

 降嫁に尽力した久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直の四公家と堀河紀子・今城重子の二女官は、和宮を人質に差し出した「四奸二嬪」として尊攘派から非難され、文久二年(一八六二)尊攘気運が高まると、三条実美ら尊攘派の公家十八人が連名して処罰を求める願書を八月十六日に提出、「四奸二嬪」は蟄居、落飾を命じられた。堀河紀子は岩倉具視の異母妹で天保八年(一八三七)に生まれ、嘉永五年(一八四八)に出仕して孝明の寵愛を受け、安政六年(一八五九)三月二十二日に壽萬宮を産むが文久二年(一八六一)五月一日夭折。同年十月八日に産んだ理宮も翌三年に夭折した(公表事歴)。

 ところが両宮の生存を暗示する状況証拠があり、ことに壽萬宮はその後の事歴と写真から昭和十年代までの生存が明白である。安政五年ころ「堀川政略」が始動し堀川御所の建築が進められる中で、孝明直孫を残すための要員と決まった両姫宮は、文久二年から三年にかけて夭折を偽装して所在を移されたのである。安政六年五月、降嫁候補が和宮に交代したのも、「堀川政略」の都合と考えられる。通説が、①幼過ぎる富貴宮よりも、適齢の和宮を幕府が強いて望んだと謂う片方で、②富貴宮が夭折したから、とするのは相矛盾している。朝廷が、当初候補の富貴宮の存世中(八月夭折)に和宮に切り替えて内議した理由が、富貴宮の健康問題にあるのなら、三月二十二日に生まれた壽萬宮を身代わりにすべきである。和宮に切り替えた理由を、幕府が公武合体の果実たる御子誕生に好都合な和宮への交代を望んだからと謂うが、右の経緯からすると、交代の理由はむしろ朝廷側にある。むろん朝廷側でも御台所の年齢を意識したことは有り得るが、むしろ「堀川政略」の具体化の中で、孝明の直孫を残す目的から、夭折を装った二皇女を堀川御所に隠すと決まった可能性が高く、それならば富貴官の薨去も疑わしくなる。和宮が一転して関東降嫁の候補とされたのは、孝明の妹で直流?ではないため、堀川御所に入る皇女の身代わりとなったのではないかとも推察される。

 慶応二年十二月二十五日、孝明崩御の場所は御所ではなく、堀河紀子邸とされる。四年前に宮中退出と掌侍辞職を命ぜられて霊鑑寺の尼僧となった筈の紀子が、孝明天皇の御幸を待つために秘かに構えた私邸である。その「紀子邸に住んでいた孝明の二人の幼い姫宮が、孝明暗殺の数日前に堀河家に移された」との説(宮崎鉄雄『明治維新の生贅』)が、壽萬宮と理宮が生存していた傍証となる。孝明の死因は、表向き天然痘とされるが、当時から暗殺の噂が立ち、死因として毒殺説と刺殺説が挙げられた。昭和十五年、大阪学士会の講演で毒殺説を立てた医事史家佐伯理一郎博士は、宮中侍医伊良子光順の日誌を解読した結論として、「天皇が痘術に罹患した機会を捉え、岩倉具視が堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」と断言し、「岩倉の姪(?)で、霊鑑寺に尼僧をしていた当の婦人から聞いた」と付け加えた。一方刺殺説は、寵姫私邸の便所に潜んだ長州藩の刺客伊藤博文が、槍で刺殺したと謂うもので、急遽現場に喚ばれて診察した複数の外科医の証言を掲げて、謀主を岩倉具視と指摘する。『中山忠能日記』にも「御九穴より御脱血」と、刺殺を仄めかす記載があり、その他の風聞や間接証拠も世上に多く、いつまでも決着がつかない。

 実はこれも「堀川政略」の一環で、孝明の生存を隠蔽するために関係者が故意に虚報を流布したのである。まず天然痘説は無論虚報で、状況も造りものである。毒殺説は、犯人とされる岩倉兄妹自らが流布したもので、刺殺説の『中山忠能日記』などもその伝である。内科・外科の医師数人が招かれた現場は作り物で、死体はむろん替え玉であった。医者の証言は騙されて行なった偽証であるが、佐伯博士に対する紀子の証言のごときは故意の偽証である。毒殺説と刺殺説の両方を流したのは、論争を招いて決着を付かなくするための、極めて巧妙な手口と見て良い。後人見事にこれに嵌められ、両説激しく論争するが、孝明生存の真相を見抜いたものは今まで本稿以外にない。

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