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落合莞爾疑史 77回

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月21日(土)22時11分52秒
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  堀川辰吉郎と閑院宮皇統(4)    評論家・落合莞爾

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-967.html

 江戸幕末に生じた諸々の現象の根底に横たわる対立は三点あった、①開国の是非、②幕藩体制の存廃、⑤皇統の南北論これである。そのうち最大の対立点は、実は皇統の南北論であったが、下記の「堀川政略」が奏功し、奇跡的な円滑さで南朝復元が実現する。その真相を、朝廷も明治新政府も厳重に隠蔽したのは、「万世一系思想」の通俗的理解に捉われ、ないしは迎合したからであろう。爾来百四十四年、インターネット社会が到来して偽史隠蔽はもはや無理となり、真相を探究し公開する事業が私(落合)に託されたのである。

 皇統の南北交代を目的とする政略の核心は、孝明天皇が崩御を装い皇太子睦仁親王や閑院宮皇統の一部と共に堀川御所に隠棲され、奇兵隊士・大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇として即位することであった(先月稿では「堀川戦略」と呼んだが、今後は「堀川政略」と呼ぶ)。「堀川政略」の立案者は孝明天皇以外にはあり得ず、近親閑院宮皇統と岩倉具視ら側近公卿がこれを輔翼したのである。おそらく天皇は、外寇の接近と幕藩体制の破綻の迫る中、蒼生に潜在する南朝復元願望が噴出してきた新事態を見抜かれ、救国のために南北朝の合体を図られたものと察せられる。

 南朝思慕の念は、教科書歴史に拠れば、幕末に至り水戸学・国学の影響から下級武士・郷士・神官・上級町人らの間に芽生えたとされるが、実の処は北朝に対する歴史観的違和感と足利政権に対する反感が室町時代以来、識字階級に潜在していた。理由は、三代将軍足利義満(一三五八~一四〇八)が真の北朝皇統を暗殺してわが子を皇統に送り込み、後小松帝(一三七七~一四三三)と伏見宮貞成親王(一三七二~一四五六)としたとの簒奪説にある。義満が現に受けた待遇、すなわち①実子が天皇になった皇族が受くべき「太上天皇」の謐号を受けたこと、②継室日野康子が「後小松天皇の准母」とされたこと、が簒奪説を裏打ちする。これを進んで義満の家礼になった上流公卿たちの阿諛と言い繕う者もいるが、わが朝にあっては、古今を通じて、いかなる権臣にもこの待遇をしない。

 義満簒奪説に立つならば、実態は南北朝の対立ではなく、後醍醐皇統と足利王朝との対立となり、ことは天皇の「万世一系」性に関わる重大事なのである。南朝思慕の念は、足利将軍が権力を保持していた時期には表面化せず、江戸時代に入っても、足利政権を復活した形の徳川政権に対する畏れから、表明する者は少なかったが、水戸藩二代藩主徳川光圀が楠公忠臣論を公に鳴らすや、一転して南朝正統論が世を風靡する。光圀が建てた水戸学は、水館派の朱子学的と江館派の陽明学的に別れるが、前者の名分論から導かれた南朝正統論が、後者の知行合一精神と結びついた時、水戸藩内に南朝復元計画が秘かに芽生えても不思議はない。

 幕祖家康の定めた江戸幕府の秘密憲法『元和元年応勅公武法制』は、水戸中納言を副将軍とし将軍廃立の権限を与えた。すなわち水戸中納言は自ら将軍に就かず、幕府の悪政を認定した時には尾張・紀州の両家から新将軍を選び、両家に適材なき時には広く諸侯から将軍を選ぶ権限である。歴代の水戸藩主が歴史研究を怠らなかったのも、畢竟将軍廃立の職責に備えたものと観るよりない。しかるがゆえに、水戸学の南朝正統論は決して空論でなく、その真意は政体変改を機に現行北朝を排して南朝皇統を復元することで、光圀が後南朝の熊野宮信雅王の子孫を探し当てて会津藩領澤村に保護した主旨もそこにあった。「公武法制」の内容を窺い知った雄藩も将軍廃立の日に擁すべき新天皇を予備すべく、隠れた南朝皇統を探し求めた。古来、反乱勢が天皇に請うて倒幕の綸旨を賜る例から、北朝天子を擁する徳川氏に対抗するには南朝発給の綸旨を必要と考えた、井伊氏の尊良親王系三浦天皇、毛利氏の光良親王系大室天皇、伊達氏の後亀山系小野寺天皇のほか、紀州徳川家が高禄を給した護良親王系井口氏も、皆これ南朝の末裔である。土佐勤王党員で宮内大臣を長く務めた伯爵田中光顕は、後年三浦天皇を称する三浦芳聖に、「吉田松陰先生は、足利偽朝を倒して長州萩にいる南朝後裔を天皇に立てねばならぬと言われた」と語ったという。江戸幕府でも、変乱の際に新天皇として擁立するため、東叡山寛永寺に皇子を招いて、輪王寺宮法親王とした。

 皇統南北論は、幕藩体制の中核をなす下級武士・下級公家らの体制批判、すなわち待遇改善要求とも連動していた。米穀生産を財政基盤とする幕藩体制において、主な俸給生活者は武士・公家及びその使用人らであった。貨幣経済の浸透と商品生産の多様化が進むと、国民総生産における米穀生産の比率は低下するが、これは、俸給を玄米で受け取る俸給生活者階級の国民経済に対する地位が相対的に低下することを意味するから、武士・公家の、ことに下層部の窮乏化は著しく社会的地位も低下し、代わって経済的・社会的地歩を高めたのは、増大する商品の取引の自由を享有しながら租税負担の少なかった商人階層であった。

 俸給生活者階級の経済的窮乏化を救う措置を何ら講じ得ない幕藩体制に対する不満は、滔々とした暗流となって湧き上がろうとしていた。安政三年(一八五六)、将軍家定に輿入れ予定の篤姫(後の天璋院)を近衛家の養女とする一件で、主君島津斉彬の密命を受けた西郷吉之助が京都で見た情景がそれであった。幕藩体制を支える知識階級下層部が経済的窮乏のために動揺を始めれば、幕藩体制は安定を失い、体制の上層部が着々と進めている公武合体運動も、上滑りに終るしかない。西郷がそれを知ったのは、おそらく建春門外の学習院であろう。下級公家の研修所として弘化四年(一八四七)に開講した学習所は、嘉永二年(一八四九)に孝明天皇から「学習院」の勅額を賜る。安政初年には各藩の志士が秘かに出入りするようになり、下級公家と交流し、国事を論ずるに及び。体制維持のため公武交流の場が、体制批判の場に変じたのである。

 水戸中納言斉昭は、「公武法制」所定の職責を果たすべき時期の到来に備えた。弘化四年、水戸斉昭の十歳の七男慶喜が、将軍家慶の命で御三卿の一橋家に養子入りする。嘉永六年(一八五三)家慶が病死すると、後嗣の家定が病弱のため、将軍後継問題が生じた。将軍就任資格を有する一橋慶喜が最有力候補となるが、大老井伊直弼ら南紀派の推す紀州慶福(後の家茂)との争いで一橋派は南紀派に敗れる。さすがの斉昭も、幕政の現状を未だ悪政に至らぬと見て、「公武法制」を持ち出すことはしなかったのである。

 泉湧寺所蔵の孝明天皇御尊影を描いたのは側近の堤哲長である。家禄三十石で家格名家の下級公家の哲長は、貧乏を凌ぐために秘かに町医者渡世をしていた。天皇が世情を熟知しておられたのは、側近公家の情報によるもので、公家の背後に光格天皇の登極を機に堂上方忍者となった丹波大江山衆がいた。堤哲長は、妾の渡辺ウメノが丹波穴太村のアヤタチ上田吉松の従妹に当るところから、ウメノを通じて大江山霊媒衆の情報を得ていたのである。

 当初は公武合体を期しておられた孝明天皇が側近と「堀川政略」を謀られたのは、仄聞するに学習所が開講した弘化四年(一八四七)で、嘉永五年(一八五二)ころに六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘密御所を営む計画が立てられた。すなわち、将来の開国に伴う皇室の東遷に備えて、閑院宮皇統を京都に残すための施設「堀川御所」である。その後、社会の根本的改革のためには政体の抜本的改変が必要と判断された天皇が、幕藩体制の破棄を決断されたのは安政五年(一八五八)前後のことで、同期して皇妹和宮の降嫁および幕末通貨問題が生じた。「堀川政略」の骨子は南北皇統の入れ替えで、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が堀川御所に隠棲し、皇太子と入れ替えた長州藩奇兵隊士大室寅之祐を東京に遷し、次代天皇(明治天皇)として即位させるものであった。

 当初降嫁予定の皇女富貴宮が夭折したため、皇妹和宮が新たに降嫁候補に挙げられたが、有栖川宮との先約のために縁談は難航する。そこで和宮の代わりに候補となったのは生まれたばかりの壽萬宮で、岩倉具視の実妹堀河紀子を母とする正に「堀川政略」の申し子であったが、余りにも若過ぎるため幕府の強い希望で和宮に決定した。その萬壽宮を、翌文久元年(一八六一)に夭折したと装い、秘かに堀川御所で育てたのも、「堀川政略」の一環である。天皇義弟となった将軍家茂は、「堀川政略」を理解してあらゆる努力をした。天皇の偽装崩御に合わせて、自らも大坂城で脚気急死を装ったのである。

 幕末の通貨問題は、既に述べたから簡単にする。金本位国の日本では、銀地金の不足に対処するため、金貨単位の一分(四分の一両)を表示した名目通貨の一分銀を大量に発行した。「金一分」と表示するものの、その三分の一の含有銀量しかない一分銀は、実質は銀製の紙幣というべきものである。日米修好通商条約の通貨条項は、アメリカの要求で同種通貨を同量通用としたから、一$銀貨が一分銀三枚と交換できた。一$銀貨を一分銀に両替し、天保小判に再両替すると四分の三枚となり、それを上海で金地金として売ると、三$になって元金は三倍になる。実際には、天保小判が品不足のため、両替相場には小判にプレミアムが付き、三倍とまではいかなかったが、総領事ハリスを筆頭に居留外人たちはこの取引に狂奔した。

 万延元年(一八六〇)一月、条約調印と通貨交渉のために、新見豊前守を正使とする幕府使節が出発したが、その四日後、天保小判一両を三・三七五両に通用させる増歩令が出され、四月には万延小判(雛小判)が新規発行される。小栗忠順は遣米使節に目付として同行するが、これに先立ち、元中間の三野村利左衛門に命じて、秘かに天保小判を買占めさせた。三月三日に井伊大老を暗殺した水戸浪士が、井伊の罪状の第二条として小判買占めの私曲を掲げたが、取り調べの結果、「上のために行った」と判り、井伊に咎めはなかった。

 大老の命令で買占めを実行した小栗は、利益金を隠匿したために、慶応四年(一八六八)官軍の命を受けた高崎藩・吉井藩らの藩兵のために斬首された。小栗は利益金を赤城山に埋蔵したと偽装して、秘かに京に送り、本願寺に保管して「堀川政略」の基金としたのである。これだけの大事を悠々実行した小栗忠順が、雑兵の手に徒死する筈もなく、姓名を変えて再び渡米し、明治史に残る一大事を成すのであるが、其れは後日に述べる。

 つらつら思うに、治承寿永の乱と言い、幕末維新の変乱と言い、実態は想像を超えた大計画の下に諸事が運ばれた一大リストラ戦争であった。計画した中心人物は、自らの死を以て世間を欺隔する必要があったが、実際に死ぬ必要はないから生き延びた。平家の公達は固より、孝明天皇・睦仁親王・壽萬宮・徳川家茂・小栗忠順らは皆それである。
 
 
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