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落合莞爾疑史 76回

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月21日(土)22時15分9秒
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  76回(続)~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-913.html

76回~http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-912.html

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3)

井伊大老暗殺の後、幕政を執った老中・安藤対馬守信正が、阿部正弘の故智に学び、さらに進んだ公武合体策を実現したのが皇妹和宮の降嫁である。降嫁が孝明帝の勅許を得たのは万延元年十一月のことで、関白九条尚忠、侍従岩倉具視がこれに奔走した。この策は、天下の諸武士・浪人の過激な尊皇攘夷論を緩和し、且つ諸藩の倒幕主義者の論拠を破砕する目的を以て行われたのだが、実際には却って反対の結果を招いた。降嫁の報が伝わると、尊皇賤覇を唱える諸国の志士は憤激に耐えず、御輿を奪い奉らんと言う輩も出て、物情騒然とする有様であった。

 日米修好条約中の通貨条項の改訂のために、使節小栗忠順が出発するのは安政七年一月一八日で、通貨改訂を反映した貨幣の改鋳、すなわち万延雛小判の新鋳は同年の三月十八日に実行される。その間に年号は安政から万延と改まるが、この間の大事件は井伊大老の暗殺であった。改鋳のインサイダー情報を利用して天保小判を買占め、その利益で幕府の裏金を作ったのは、井伊直弼の命を受けた小栗忠順で、実行者は小栗家の中間上がりの三野村利左衛門である。

 万延は二年(期間は一年一か月)で終わり、次の文久元年からは本格的な幕末になる。帰国後の小栗は加増されて外国奉行になり、翌二年には勘定奉行となる。その年二月十一日に将軍・家茂と和宮の婚儀が挙行された。例の裏金は、和宮降嫁に際して孝明帝に献金されたと前に述べたが、幕末の工程表を見るに、井伊大老は献金とは関係がなく、献金は家茂上洛に伴う公武合体強化策の一環と見るべきであろう。幕府は天保小判を万延小判の3.375両として増歩通用させたが、幕府関係者自らその制度を要したとは思えない。

 薩摩に並ぶ一方の雄藩たる長州藩は、阿部正弘と島津斉彬による公武合体的経綸を徒らに眺めていたが、井伊直弼に替った安藤信正が公武合体政策を継承し、和宮降嫁のことで天下の志士浪人の激昂を買うに及ぶと、幕府の困惑に乗ずべく、藩老長井雅楽をして時局を説かせた。本来開国論者の長井は文久元年、公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白して藩論とされたが、さらに幕府に説くべく、藩主敬親と共に江戸に入り、老中安藤信正・久世大和守と会見して正式に同策を建白する。幕府は長州藩に公武間の周旋を依頼したので、政体の経綸は枢軸を薩摩藩から長州藩に移して公武合体的政策を推進することになり、久世の内示を受けた長井は京に引き返して朝廷に開国論を献じ、九条・中山・正親町・三条の諸卿を動かして、朝議を一変させようとした。

 しかしながら、長井のこの挙に際して各藩の尊王攘夷論者が挙って反対し、長州藩でも下級武士階級を代表する久坂玄瑞は、書を土佐藩の武市半平太に送り、「今や天下の諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士糾合、義挙の外は迚も策これ無く」と、クーデタしかないと激語した。諸国の下級武士はこれ以前から一斉に倒幕派に傾いており、その理由に万延小判の新鋳が銀の対金比価を大幅に引き下げ、収入を銀貨で受け取っていた下級武士の家計窮迫を招いた、との説がある。公家の攘夷列参も武土の尊王倒幕も、遠因が政治思想よりも下級階層からの経済的・処遇的不満にある点で、正に軌を一にするものである。長州藩に失望した天下の攘夷倒幕論者の輿望は、期せずして薩摩藩主・島津久光に向かう。文久二年、久光は幕府の命令を受けずに大兵を率いて京に上り、孝明帝に策を献じて禁裏警護を命ぜられる。長州が幕府側で公武合体策を画策したのに対し、薩摩は朝廷側から公武合体的新体制を献策したのである。

 紙面残り僅かゆえ先を急ぐと、この後慶応四年までの僅か数年間に、幕末事象は頗る多岐にわたり変遷するが、その中で開国後の政体を見通された孝明帝は「堀川戦略」を立てられた。その時期はおそらく、帝の義弟・徳川家茂が上洛した文久三年ではないかと推測する。因みに、この年に長崎のグラバー邸が完成している。「堀川戦略」の骨子は想像するしかないが、おおよそ次のようなものではなかったか。

?六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
? 孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
? 皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
?孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
?公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
?この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。

 新天皇は長州藩の「奇兵隊天皇」大室寅之祐で、父は南朝の血を引く地家作蔵、母は浄土真宗興正寺派の娘と巷間報じられるが、尊皇倒幕派の政治理念として南朝皇統復活の声が高まっていた時宜に最も適う選択であった。そもそも「万世一系の皇室」とは、南北両統の連合体を謂うのだから、違和感はない。教科書歴史は、東京遷都は此の頃は未だ決まらずとするが、新帝の御所が京都御所ならば堀川では近すぎる。

 思うに、「堀川戦略」の基底には既に東京遷都があったのではないか。ともかく、閑院宮皇統の中心家系は、堀川御所を拠点に今までになかった国体的活動を始める。それは開国により、この国が初めて直面する新事態に対応するもので、皇室外交と国際金融の二点であった。

 公武合体の政治理念の下に幕藩体制を改編して近代国家日本を建設せんとする政治思想は、夙に新井白石が唱えていたが、光格天皇の御代に胎動を始め、現実昧を帯びるのは嘉永年間(一八四八~五四)であった。時の老中首座・阿部伊勢守正弘は、政体を従来の譜代大名中心から親藩・外様の雄藩との連携方式に変え、水戸斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させたが、他の有力諸侯には尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永、肥前の鍋島閑叟、筑前の黒田長溥、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、長州の毛利慶親、宇和島の伊達宗城らがいた。『文芸春秋』昭和16年11月号所収の「明治維新の三段展開」で白柳秀湖はいう。「彼らが完全に一致協力して公武合体主義を支持し、互いに己を空しゅうして国家のために経綸を画策するところがあったならば、公武合体は決して机上の空論ではなく、新体制樹立の仕事も維新史に見たごとき波乱曲折を経ることなく、順調に円滑に埓が開いていた」と。

 ところが、旧体制が行き詰り新体制の樹立に向かって一歩踏み出した場合の常として、現状維持派が指導権を握る時局は一致協力を欠くのが歴史の通例で、阿部正弘が画策した公武合体的政策が惨澹たる失敗に終わったのも、全くそのためである。阿部の政策を推進したのは薩摩藩主・島津斉彬で、人物の真摯重厚において、公家及び将軍家に対する親密さにおいて、孝明天皇は素より公武双方からの信頼が諸侯の中で最も厚かった。

しかしながら、外交上の難問題の処理について、阿部正弘と水戸斉昭との間には著しい相違があり、意見の一致を見なかった上に、長州藩は薩摩藩のライヴァルとして、島津斉彬の独走に対し心中平らかならざるものがあった。折しも嘉永七年、ペリー提督の威圧に屈した幕府は、朝廷の勅許を得ることなく日米和親条約を結び、二年後の安政三年(一八五六)には米国総領事ハリスから条約の修正及び開港地の増加と貿易開始の要求を受けた。

 同じ年、島津斉彬は一門の島津安芸の女・篤姫を将軍家定の御台所に入れるために近衛家の養女としたが、その際斉彬の密使として京に入り、交渉をまとめたのは西郷吉之助であった。その頃の西郷には主君斉彬の公武合体思想に何の異存もなかったのである。ところが「この工作のために京に滞在した西郷は、尊皇倒幕を叫ぶ幾多の志士浪人と接触し、斉彬に代表される既成勢力すなわち現状維持の公武合体派の他に、別個の暗流が滔々とわき流れ出ているのを目の当たりに見た」と白柳は言う。この間、公武合体の本尊・阿部正弘が安政四年に他界し、間もなく斉彬も急死したので、西郷はその公武合体主義者の殻を遠慮なく脱ぎ、諸藩士階級連盟の尊皇倒幕主義陣営に馳せ参ずることができた。

 安政四年、米国総領事・ハリスを将軍・家定に謁見せしめた幕府は、その要求を入れて老中・堀田正睦が日米修好条約を締結し、同時に条約の内容を各藩に示して利害得失の意見を徴した。当時随一の外国通を以て知られていた堀田正睦は、予て抱懐する漸進的開国主義の経綸を実行に移すため攘夷論の先鋒たる水戸斉昭を引退させていたが、ここにきて開国論者の越前侯・松平慶永の稟議を容れ、遅ればせながら朝廷の勅許を得ることにした。まず林大学頭を先発させて新条約締結の経緯を上奏するが、時の朝廷はもはや昔日の朝廷ではなく、事後に勅許を奏請することの不埓を難詰される。安政五年には堀田自身が上京し、調印前後の苦しい事情を具に奏上し、改めて勅許を望んだが、侍従・岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八名が結束のうえ列参した讒言上奏に阻まれた。これにより、関白九条尚忠を初め近衛・鷹司の諸公及び伝奏・議奏の諸卿に対して施した大々的な買収戦術が水泡に帰したのである。

 教科書史観では孝明帝は強烈な攘夷論者とされているが、事実は程遠く天皇は内心堀田の意図したごとき漸進的開国を望んでおられた。この真実を世にまげて伝えたのは、列参事件を美化せんとする攘夷派公家の子孫らが図ったものであろう。実は、この列参事件の本質は下級公家の待遇改善運動が形を変えたものらしい。蓋し江戸期の公家社会は、上層公家が美味の大方を嘗める典型的な格差社会で、かかる事件が何時か生じる素地があり、偶々条約勅許問題が遭遇したものとの見方もある。また幕府の中では、「朝廷は【国体を損わぬように】との御配慮から反対をなされたもの」との認識が台頭しつつあった。

 ともかく孝明帝の勅許を得られぬまま、安政五年六月十九日に日米修好条約が調印される。折から将軍・家定が病に倒れ、後継を巡って紀州慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が対立する「安政の将軍継嗣問題」が起きた。老中松平忠固と紀州藩老の新宮領主水野忠央の工作により、正睦の上洛中に南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、正睦は条約締結の違勅を問われて老中職を罷免され、ここに安政の大獄が起きる。その大旋風の吹き荒れる中で、いつの間にか幕府の御尋ね者になっていたのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。西郷の旧主斉彬が急死したのち藩政を掌握した異母弟・島津久光は、井伊の反動政治に迎合する姿勢を示すために佐幕派の藩老島津将曹を復活させ、改革派の西郷を大島に流謫した。万延三年三月、井伊直弼が暗殺されるや久光は方針を転換し、小松帯刀を家老に登用して、下士から大久保市蔵らを登用した。また西郷の罪を許し、京大阪の間に放って文久二年の上洛の先導とする。

 
 
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