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貴公子堀川辰吉郎

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月24日(火)16時10分12秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=633

疑史(第53回)上原勇作(5)の章末はまた、堀川辰吉郎への言及だった。

「・・・上原の背後には杉山茂丸が、その杉山の陰には貴公子・堀川辰吉郎が居た。後年の上原が頭山満・中野正剛ら玄洋社勢力を秘かに、しかし有効に使役していたことがその何よりの証拠である。結局、堀川こそ日本近代史の最大の謎と言ってよく、堀川を無視しては何も見えてこないのである。」と。

ウィキペディアにも項目はあるが、それは略し、ここでは、中丸薫の著にみえる「堀川辰吉郎」を紹介していくことにする。

順不同になるが、手元のものから、始めていく。

 ***************

 ●『この国を支配・管理する者たち』(徳間書店 2006、2、28刊)

 ★日本の皇室

 曰本が敗戦したときに、マッカーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。
 そのとき、3つの方法があった。皇室を廃止するというのが第1チョイスです。第2チョイスとして、アメリカの間接統治。もう1つは、ほうっておけば自然になくなっていくという方法です。
 今、宮内庁はその方法をとっていて、皇族のために何かをするという気持ちはないのです。宮内庁は本当に表面的なことしか知らないで、顔はアメリカ政府に代表される闇の権力のほうに向いている。そういう意味で、あの中はこれからが本当に大変です。
 ホリエモンは闇の権力の使いっ走りだから、曰本の皇室は廃止したほうがいいんじゃないかとはっきりといい出しているようです。
 私からいわせると、曰本の皇室は、ヨーロッパの黒い貴族が勝手に自分たちは皇室だとつくったようなものとは違う。制度としては、天照大神の神託を仰ぎながらやってきている。よそとは比較できない。
 個人的には、ロスチャイルドもロックフェラーも、皇室に対するあこがれはものすごくあるのです。自分たちにはないものがあるから、すごくあこがれています。 p144 ーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。

 ★ ロスチャイルドヘ呼びかけ

 金融のことも含めて日本の隅々まで知り尽くし、日本を憂えるグループが、4年ぐらい前、私に長い手紙をよこしたことがあるのです。「あなたが本当の日本のプリンセスだから、日本を救うにはロスチャイルドにお願いしたらどうですか。日本は経済的にこんなことになっているんですよ」と、事細かく書いてきた。それも日本文と英訳と両方で来たものがあって、私もちょうどロンドンに行っていたから、ロスチャイルドは今何しているんだろう、あの人が変われば世界も変わるし、一緒に平和運動でもやったらどうだろうと思って、電話をかけたのです。ケンブリッジ・オックスフォード大学のクラブがあって、そこに泊まっていましたから、そこから電話したら、ロスチャイルドが出てきました。

 「あなたは最初に会ったときから、すごく神を信じていて、うらやましいと思いました」とかいろいろいっているから、「ロスチャイルドさん、あなたが変われば世界が変わる。私と一緒に世界平和をやっていこうよ」といったら、「私はもう84歳になっちゃって、腰が痛くてこれから病院に行こうと思っているんだ」と悲しい声でいうわけです。この人が世界を牛耳っているなんて本当かなという感じでした。
 「ところで、日本の憂国の士、日本の国情をよく知る人が、金融的な面で日本を助けてほしいというので、私に出してきた文献があるから、これからファクスしようと思うんだけど、できる?」というと、「ホテルだとダメだけど、オックスフォード・ケンブリッジ大学のそこからなら大丈夫だから、してください」というので、彼らが書いたものを出したのです。
 次の日に、秘書から、「あなたさまが下さったそれを読んで、ロスチャイルド氏は次の日にアメリカに飛び立ちました」と聞きました。グリーンスパンと話すためでしょう。

 その後、私が日本の皇室側の人から聞いたことは、ビクター・ロスチャイルドさんが、「日本にいる本当の意昧での霊脈、血脈を通してのプリンセスはプリンセス中丸しかいないということを聞いているけれども、本当ですか」と今の天皇に電話したそうです。そうしたら、今の天皇は、「そのとおりです」といったそうです。それをある方から私にいわれて、「皇室の皆様は貴女のことをすごく心にとめていますということです」と言われました。 p146

 ★皇統譜

 高松宮妃・喜久子様は、今生きていらっしゃれば94歳ですが、2005年の初めのころ、葬儀が出ました。あの方は徳川家からいらしていて、政(まつりごと)も含めて、そういう一切にはすごく詳しい。皇室の中には、宮内庁が持っている系統図のほかに、皇統譜というのがあるそうです。あることに関して、今の皇太子が喜久子様のところに行って、「中丸薫様とお会いすることについて」とお聞きしたときに、喜久子様のほうが皇太子に対して、「それはあなたが辞を低くして、正面から中丸薫様をお迎えする。そういう立場の方ですよ」といわれたそうです。

 それを皇太子がみずからだれかに伝えたという形で、私はお聞きしたのですが、その意味は、皇統譜にきちんと書いてある。例えば昭和天皇は、私たちは大正天皇の子供と思っていますが、そうではないのです。昭和天皇は明治天皇のお子なのです。
彼を育てた人が、やはり明治天皇のお嬢様の1人、しのぶという人で、「しのぶ、この子はやがて天皇になる人だから、おまえが育てなさい」といって育てさせたというのを、私は家族から聞いています。でも、それは宮内庁の系統図には載っていない。

 そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです。私は、5歳のときに中国から、山梨に帰ってきてから養父母の松村正之夫妻の籍に入っています。そこまでの籍は、私は皇統譜にあるそうです。それも最近聞いたことなのです。
 育ての父の何回忌かが甲府であって、親戚にみんな集まってもらったときに、私を預かるに当たって、7代前までの戸籍抄本を取り寄せてくれといわれた。日本人は普通2~3代前までがやっとで、7代前は大変です。私が大人になって、子供もいて、家族を持ってから、「そういうことがあったんですよ」といわれました。 p149

 ★皇室の政(まつりごと)

 雅子さんに対して、日本の天皇家に嫁入りするということがどういうことか、政の大切さ、その由来をきちっと教えてあげる人がいないというのが、ちょっと気の毒です。だから、雅子さんは、そういうことが余りよくわからなくて、皇室外交などといっている。

 天照大神からのメッセージを受けて、政をちゃんとやることが一番大切です。そこをきちっと雅子さんにも語ってあげる人がいないのが残念です。
 皇室典範というのがあって、天皇家は象徴となっている。皇室外交といって世界に出たら、政治にかかわることになってしまう。プライベートなら、向こうから呼ばれたときは、世界どこに行ってもいいという解釈になっているようです。そういう意味で、宮内庁ももっと気をきかせて、どこかの国からのご招待とか何かつくって、外に行ける機会をつくってあげればいいのです。雅子さんはそこまで知らなかったかもしれない。
 例えば入江侍従長は、私も皇室に行くたびにお会いしましたが、昭和天皇に最後までぴったりくっついていらっしゃった。あるときからそういうシステムがなくなってしまって、官僚とか警察庁出身の人が宮内庁長官になった。あの辺から、皇族の人たちのスケジュールを自分たちがつくって、自分たちが動かすんだみたいになってしまって、ちょっとお気の毒かなという感じがあります。
 あれだけ世界を自由に歩いていた人が、あの狭いところに十数年いることは苦痛です。考えられない。だれでも病気になってしまいます。 p151

 コラム⑥ もうだいぶ前になりますが、私は、東京で、キッシンジャーがエドモンド・ロスチャイルドに鼻であしらわれている姿を目撃しています。デビッドーロックフェラーから庇護を受け、当時大統領専用機で世界を閑歩していたキッシンジャーも、ロスチャイルドにとっては、単なる使用人に過ぎなかったのです。そこに、ロスチャイルドとロックフェラーの実力の差というか、地位関係が表れているのを見る思いがしました。

 コラム⑦ 初代ロスチャイルドのアムシェルは、紙とインクのコストしかかからない通貨を自ら発行し、政府に貸し付けるのが一番儲かると気付いた。人工的に金融恐慌、不景気、飢餓、戦争、革命を創造することこそが、ロスチャイルド家成功の秘密である。彼らが繁栄する一方で、国家と国民は、利子の支払いと重税のダブルパンチで、次第に疲弊していく。19世紀初頭のナポレオン敗北の裏で、情報操作によって、その富を数百倍に増大させたのを嘸矢として、彼らの資産は英国銀行の預金の大きな部分を占める。この銀行はロスチャイルドの銀行であり、世界の銀行の利子率を決定するばかりか、相場をも動かしているのです。

 **************

 ●『中丸薫という生き方』 (徳間5次元文庫 2008、1、31刊)
  *原著:『人間の使命とは何か』(三五館 1999、8月刊)

 ★実父が明治天皇の実子であると知ったとき・・・

 p86~
 時はさかのぼりますが、私が自分の出生を知ったのは高校生のときでした。まだ甲府にいた中学生の頃、いつものように電報を受け取りに玄関に出ると、電報配達員が怪訝討そうな顔で言ったのです。
 「お宅には、毎日のように電報が来ますね。どういうわけですか?」
 毎日というわけではありませんが、荒川堤下の私の家には、本当によく電報が配達されました。いまのように、日本中たいていの家に電話があって、ダイヤルを回せば話ができる時代ではありません。もっとも早い連絡方法といえば、電報でした。
 しかし、私の家に届けられる電報は、どう考えても、大至急の用件とは思えないのです。父に渡すと、一読して、それっきり忘れたような顔をしています。電文は、〈7ヒマデ トウ午ョウ「テイコクホテル」 ニタイザイスル〉とか、〈15ヒマデ キョウト「ミヤコホテル」ニイル〉とか、自分のいる場所を知らせてくるだけで、だからどうという用事があるわけではありません。それでいて、よく旅行をする人と見えて、移動するたびに克明に電報で通知してきます。それも国内ばかりか、ワシントンやパリからも電報は届きました。

 発信人は誰なのか、この電報の意図するところは何か、私にはわかりませんでした。両親にたずねると、「おじいちゃまからの連絡だよ・・・」というだけです。その名は堀川辰吉郎。
 彼は、私の両親に、常に自分の所在地を知らせ続けていたのです。
 やがて、その「堀川のおじいちゃま」に、私はときどき招かれて会うようになりました。いつもその人は、帝国ホテルや、京都の都ホテルというような、一流ホテルの最高の部屋に滞在していました。日本国じゅうを歩き、突然、アメリカやパリに飛ぶこともあったようです。よほど特別の場合をのぞいては、紋服と袴に白足袋でした。小柄でほっそりとした体格でしたが、澄んだ瞳には深い光があり、言葉では言い表せない威厳がありました。秀でた鼻梁と、その下のカイゼル髭が八の字にピンと跳ねているので、それが威圧感を与えていたのかもしれません。ところが話し出すと、じつにやさしくて、身のまわりの世話をする秘書や、ホテルのボーイたちにも、まったく差別のない丁寧な言葉づかいでした。食卓でのマナーも、会話も、身のこなし1つにしても優雅で、私は「おじいちゃま」に会った日には、なにか特別な気持ちになるのでした。

 1958年の末頃でした。帝国ホテルの一室を、母と一緒に訪れた私に辰吉郎は唐突に、私が彼の実子であることを静かに語り始めたのです。辰吉郎は、明治天皇の血を受けていて、生涯、国家的な仕事に明け暮れていたこと、そして、この父母の間にただ1人生まれた私に、大きな期待をかけていることなどを、心に染みわたるような声で話してくれました。

 後になって私は、周囲の人たちから、さらに数々の逸話、秘話を聞かされました。その話の内容は、いつも凛乎としていた父の風貌と重なって、私の内部に深く浸透しました。そして後の74年、私は勧められるままに、「文藝春秋」に父の思い出を書きました。その小文には「明治天皇の落とし胤」というタイトルがつけられました。
 その文中、事情の許すかぎり、私の知り得た父とその周辺について明らかにして、次のように書きました(以下原文表記、ルビは補足)。

 * * *

 現在の皇室には、大奥などという制度もないし、そのための施設も完全に消滅している。皇居にお仕えする女官たちは、ほとんど既婚女性で、自宅から通勤し、一般のオフィスレディと変わりがない。しかし戦前までは、皇居内の宮内庁と道灌堀をはさんだそのあたり、紅葉山のふもとに、「お局」と呼ばれる建物があった。敗戦直前の1945年5月25日の夜、空襲で皇居が炎上したとき、このお局も焼失したが、これは明治天皇が京から遷都されたとき、お供してきた多くの女官たちが、平安の昔そのままに、江戸城に移り住んだ明治宮廷大奥の跡である。

 かつて、高い板塀に囲まれたここには、建坪1200坪に及ぶ3棟の長屋が建ち並び、その一の側と二の側には奏任女官以上、三の側には女嬬以下の、いずれも両陛下のお身のまわりに奉仕する女官たちが、それぞれ針妙や下女を数人ずつ召し使って、女性だけの別世界を形づくって暮らしていた。明治の御代には、その総数2百数十人であったという。男子禁制、まったくの女護が島で、ここから百軒廊下という長い廊下が並び、両陛下の居間や寝室のある内儀、お常御殿につながっていた。

 宮廷のこうした後宮制度は、皇位継承のため、皇子を多くもうける目的によるものだったが、明治天皇も、皇后(昭憲皇太后)のほかに幾人もの側室がいた。その数はつまびらかでないが、葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子という5人の側室に15人の皇子、皇女をもうけられたことは、戸籍台帳にあたる。皇統譜にも明らかだ。

管理人注:これらの文章は中矢伸一著「日本を動かした大霊脈」に書かれており中矢氏が中丸薫氏の著作から大部分引用したものと思われる。

 昭憲皇太后にはお子さまがなかった。大正天皇をお生みになった柳原愛子二位局も、はじめは明治天皇の母君の女官だったが、皇太后をご訪問になった明治天皇のお目にとまって、典侍として宮中大奥に移り住んだといわれる。この柳原典侍が、後に大正天皇となられる皇子をご出産になったのは、1879年(明治12年)8月31日のことである。だが、その同じ日、大正天皇のご誕生より数分早く、やはり大奥で1人の女官が男の子を生んだ。
 それが、権掌侍・千種任子であった。千種任子は、正四位千種有任と大納言四辻公績(よつつじ・きんいき)の娘・正子との間に長女として誕生され、若くして禁中にあがった。皇統譜によれば、明治14年と16年に内親王をもうけている。いっぽうそれに先だって、柳原愛子典侍は、明治8年と10年に親王をお生みになっているが、それらのお子さんたちはすべて夭逝され、明治11年秋に、再び明治天皇のお胤を身ごもられた。

 ちょうどその時期に、千種任子権掌侍も懐妊,それでなくても宮中大奥では、柳原・千種の両局は、ことごとくに反目し、激しい暗闘があったようだ。その上両女性が同時期に妊娠したのだから、大奥は二派に分かれた。その結果、決定的な勝利を得たのが柳原典侍だった。

 柳原典侍のお子は、皇太子・明宮嘉仁親王となられたが、千種任子の子供は、大奥で生まれたあと、皇籍も与えられず、秘密裏に井上馨侯爵の手で民間に下り、井上候の兄嫁の縁戚にあたる九州出身のある女性が、生涯をかけて傅育することになった。その子供が私の父、堀川辰吉郎である。もしも、千種任子の生んだ子を、明治天皇が皇子としてお認めになれば、大奥内の暗闘が激化し、ついには宮中に混乱が生じかねない。そうお考えになってのご処置だったのだろう。

 明治天皇が崩御されて、大正天皇の代になると、こうした皇室の大奥制度は急速に改革され、さらに昭和天皇となると完全に排除された。

 堀川辰吉郎は、幼いときから大変な腕白で、★学齢期に達すると学習院に入学(☆院長は乃木希助)したが、あまりに自由奔放、型破りな言動で同級の華族の御曹司たちを閉口させるので、退学させられている。とにかく一般の子供たちとは違う天衣無縫な行動の連続で、まるで野に放たれた虎か竜の子でも見るようだった、と当時を知る人は語っている。

 ★ウィキペディアによると:生後まもなく☆福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育つ。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡じゅうの小学校をたらい回しにされ、やがて学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件や皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けた。・・・
当時の福岡県知事はおそらく、〔茂丸ライン〕の安場保和。(後藤新平の岳父)
安場保和 1886年2月25日 1886年7月19日 (県令)
安場保和 1886年7月19日 1892年7月20日 (県知事)

 福岡に帰ってからも、それは変わらず、学校から幾度となく放逐されそうになった。だが、そうしたとき、乗り出してきて事態を収めるのが、井上候の命を受けた県知事だった。また玄洋社の総裁・頭山満が出てくることもあった。ふつうでは考えられない巨大な実力者の庇護が、つねにこの少年の上にはあったのだ。

 辰吉郎は少年の頃、当時発行されたばかりの百円や十円、一円の日銀券を懐中につっこんで歩いていたという。そして友人の中で金に困っている者があれば、札束をつかみ出し、数えもせずに与えて恬淡としていたというのである。当時、百円といったら、ものすごい大金だ。腕のいい大工や左官の一日の手間賃が60銭、下男の年給がわずか3円50銭。この時代に、数百円もの現金を、10代の少年が懐中にしていたのだからこれは尋常なことではない。
「男子たるもの、・・・お金に執着するようではいけません。お金など母がいくらでも送ってあげます。思う存分、好きなように使ってごらんなさい」
 育ての母は、つねにそう言って教え、そのとおりに実行していたようだ。世間の常識の枠から踏み出して、あなたは胸を張り、独自の生き方をなさい。そうすべきなのです・・・と、傅育したその女性は言いたかったのかもしれない。

 後年、私の知る辰吉郎も、金銭にはまったく無欲で、その点だけとって見ても、神様のような人だった。又は財布を持っていなかった。私がコロンビア大学に留学していたころ、幾度かニューヨークに訪ねてきてくれたが、ある日、一人でふらりとバスに乗ってしまい、途中で車掌に切符を買うように言われて、はじめて無一文だったことに気づき、そこでバスを降りてホテルまで歩いて帰ってきたことがある。
 それでいて、国家的な仕事をするときには、どこからか湧いてくるように莫大なお金が集まる。しかもその仕事を成し遂げたとき、報酬は取らないから、無限の預金を多くの人の心の中に積んだも同然で、恬淡としながら、じつに豊かに生きていた。

 私は、この父からたった一度だけ、金銭について言われたことがある。
 「政治家が差し出す金は、たとえ一銭たりとも受け取ってはならない」
座談の中で、ふとそう言った。しかし、いま、国際政治について発言する立場にいる私にとって、この父の一言は千鈞の重みになっている。

 こうした父の金銭感覚は育ての母の苦労によって養われている。皇室から生計費は出ていたようだが、彼女の理想を育てるためには、とうてい十分ではなかった。その苦労が明るみに出たのは、彼女が病気で倒れたときである。その病床の下から百数十通の借用書の控えが出てきたのだ。それは時の総理大臣・伊藤博文を始め、井上候ほか、明治政界の重鎮からの借金を書き留めたもので、当時のお金で数十万に及んでいたという。

 こうした特異な環境の中で奔放に育てられた辰吉郎の資質を上げたのは、頭山満だった。辰吉郎は、少年の頃から頭山満に愛されて、10代の半ばを過ぎると、その主宰する玄洋社に入門し、ここで厳格に教育された。
 頭山満は、1944年(昭和19年)に89歳で没したが、若くして自由民権運動に挺身し、要望した国会が開設されると、やがて大アジア主義を唱え、玄洋社を組織。日本の大陸政策の発信源とも言われた。
 少年時代に辰吉郎はこの玄洋社に入門したが、頭山自身彼を側からけっして離さず、自ら厳しく教え導いた。すると辰吉郎は生まれ変わったように武術に励み、3年足らずのうちに、柔道、剣道ともに三段という腕前になった。同時に学問にも打ち込んだので、やがて頭山門下では頭角を現し始めた。

 日本はその頃、日清戦争に勝って日清講和条約を締結したが、ロシア、フランス、ドイツの三国から干渉を受け、条約で得た遼東半島の返還を余儀なくされていた。頭山は辰吉郎に日本と中国の長い歴史を説き、彼のアジアヘの夢を語った。アジア各国の独立が成し遂げられなければ、白人たちの植民地になってしまうという危機感を頭山は強く抱いていたのである。

 さらにその頃、中国では孫文が革命の戦旗を掲げていた。清朝の腐敗堕落と専制支配を打破し、漢民族を救おうと、1894年、興中会創立宣言をした孫文は、清軍に追われてロンドンに亡命、やがて帰国して兵を挙げ、祖国再建のために活動中であった。頭山満は、この孫文を支援して新中国を誕生させ、それによって大アジア主義の理想を達成しようとしていた。

 1899年、孫文は再度挙兵に敗れて日本に亡命し、横浜に本拠を置いた。日本の有志たちは裏から支援を送ったが、そのもっとも強力な保護者が頭山満だった。初対面のその日から頭山は孫文と深い絆を結んだようだ。そして2人が会談する席には、つねに辰吉郎もいた。そして翌年、機至ると広東へ帰る際、孫文は頭山満に、辰吉郎を同行させてもらえないかと願い出た。
 「どうぞ、お連れ下さい」
 頭山は即座に頷いたという。孫文の意図するところを、頭山は早くも見抜き、それはまた彼自身が考えていたことと一致したためでもある。辰吉郎を同行すれば、革命軍の中に【日本の皇族】が参加しているということになり、それは孫文の革命に対して、日本が援助しているという強い証拠になるであろう。そのとき辰吉郎は★20歳だった。
(★とすれば、辰吉朗の生年は1880年ということになるが、ウィキペディアによると・・・
 戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており・・・という。)

 そして辰吉郎は、孫文と共に中国大陸に潜入した。
孫文はかたときも辰吉郎を身辺から離さず、最高の礼で遇したという。また重要な会議や会談にはいつも辰吉を伴い、自分の上席に座らせた。革命内部には、
 「日本の皇子だそうだ。日本は孫文援助のために秘密裏に派遣されたらしい。この革命には日本がついている。絶対成功するぞ」
 そんなささやきが交わされはじめ、やがて外部へと広まっていった。辰吉郎は激烈な革命闘争の中で、孫文の片腕として命がけの活動を開始し、生死を共にしていく。

 私はそうした青年の頃の父の写真を1枚だけ持っている。黒紋付の襟にかぶるほどの蓬髪と鼻下から顎にたくわえた髭。それは、理想の達成にいのちを賭ける、そんな明治の若者の素朴さに溢れている。まっしぐらに行動に走ったその純粋さは、時代が下るにつれて、軍部の大陸侵攻に利用されていくことになる。

 1900年6月、義和団事件と同時に、華南広州にあった孫文は、いまこそ好機と挙兵するが、計画の不備と武器の不足が原因でたちまち背走した。そのとき辰吉郎はその首に孫文と同額の懸賞金を賭けられていた。敗北は死を意味する。孫文と辰吉郎は手を取り合って敵中を逃げた。
 12月上旬の暮れ、追ってくる清兵の一団から必死に走った2人は、農家の土塀を越え、道に沿って流れるクリークの岸辺に茂芦の中に躍り込み、身を伏せた。そしてそのまま滑るようにクリークの濁った水に沈んで、敵兵が目の前から消えるのを待った。華南とはいえ、12月の水は冷たい。息をひそめて水に沈んでいた数十分は、死との対峙でもあった。

 この年の5月10日、日本では皇太子・嘉仁親王(大正天皇)が、九条節子(さだこ)と結婚され、その奉祝で沸き立っていた。また、1912年7月30日には、明治天皇が61歳で崩御され、大正天皇がただちに即位されたことも、辰吉郎は中国の広野で聞いたのだった。

1925年、孫文が志なかばで病いに倒れ、北京で逝去した後も、辰吉郎は孫文の理想を受け継いで働いた。だが、日本の対中政策は彼の意志に反し、ますます露骨な侵略政策へと進んだ。

 1931年、満州事変が勃発したとき、辰吉郎は蒋介石や張景恵たち要人と会談し、戦火をおさめようと奔走するが、軍事力の介入と弾圧で、その意図はほとんど骨抜きになってしまった。満州問題が国際連盟で論議の対象になり、欧米諸国がこれを非難すると、日本の世論は沸騰し、列強の横槍だと怒ったが、横暴なのは日本の軍隊だと辰吉郎は言い、こうした施策が日中両国の関係を破滅させるだろうと憂いていた。
「いま、満州問題が国際連盟に提訴されるに至って、日本の上下をあげて、対中国政策の是非を論じ、大騒ぎしているが、なぜ日本人はこうなる前に、中国問題に対して真剣な目を注がなかったのか。現在の熱意の十分の一でもいい、日露戦争直後から、日本国民が中国の民衆の状態を考え、おたがいの親和を図ろうと努めていたら、このような事態を招くことはなかったのだ。今日となっては、遅まきながら国民一体となって、日中両国百年の親和のために、国家の大計を立てるほかはない。まず、日本が思い切った譲歩をすることだ」

 当時、辰吉郎はそう論じ、サンフランシスコの「日米特報」が報じている。

 満州建国後、辰吉郎が中国の民族主義団体「紅卍会」の会長に推されて就任したのも、軍閥の専制に対抗するためだった。1935年、彼は大木遠吉、鈴木三郎のあとを受けて国粋会の第三代総裁となったが、ここでも拡大し続ける日華事変の戦火をまず終息させよ、と軍部に激しい非難を加えた。国粋会は軍の忌諱にふれて解散を命じられ、さらに太平洋戦争中は、各界の平和主義者とともに反軍閥運動を続けたため、彼は東條政府下の憲兵に狙われ、ついに中国大陸に潜行して、身をくらますまでになっている。

 私の母、中島成子は、抗日救国運動の激化する中国にあって、難民救済事業に献身していた。北京の彼女の邸宅は、二千人の客が宿泊できて、浴室だけでも27室あった。これを開放し、彼女はトラックで運ばれてくる中国の難民たちを収容していた。

 私が中国で生まれて45日目、盧溝橋事件が起こった。すると中島成子は関東軍の要請で、即刻、旅立つことになった。その頃、大陸各地に割拠していた地方軍閥の将領たちに対し、彼女は隠然とした影響力があり、関東軍はそうした彼女の手腕を利用しようとしたのだ。
 中島成子は、生後45日の私を、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかに託し、産褥の疲れも癒えきらない身を馬上にして、硝煙の中を東奔西走した。 p98

 * * *

 敗戦後の父については、海外の新聞を読むことで、おおよそのことがわかりました。
 1945年、連合軍に占領された後、GHQが発した戦犯容疑者逮捕命令によって、国粋会総裁だった経歴を問われ、逮捕されています。そして、ほどなく釈放。その後は、人類すべて同胞、平和主義を訴えて、世界連邦運動の先頭に立っています。1951年初頭、アメリカで世界連邦政府大会に、日本民間代表として参加していますし、そのほか数十回にわたって世界各国を訪問し、各国の名士と交誼を結んでいます。

 私が母に連れられて、一緒に食事をしたり、旅行するようになったのは、それからのことです。ところが、「おじいちゃま」と呼んでいたその人が、いったい何を考え、どんな仕事をしているのか、中学生になったばかりの私には、想像もつきませんでした。

 1951年の2月15日付の「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」に掲載された記事を読むと、父は、「毛沢東、蒋介石の両中国首脳と、米ソの首脳が一堂に会して、いまこそ相互の利益のために協議することが必要だ」と語り、「毛沢東は、単にモスクワの操り人形たるには、あまりにも賢明である」と評しています。このとき父は、アメリカに向かう途中、台湾によって蒋介石と会談しています。

 1951年といえば、朝鮮戦争が始まっており、この年の元日、北朝鮮軍と中国軍(共産軍)が38度線を越えて南下し、国連軍は、撤退を余儀なくされたソウルを奪回するため、血戦を繰り広げていたときでした。2月1日、国連総会では、中国政府を侵略者とする非難決議案を採択しています。こうした折に、アメリカで毛沢東の偉大さを口にし、両中国と米ソの4首脳会談の必要性を説くことは、かなり高い視点から、世界の動向を見通していなければできないことです。

 私は、父からこんな話を聞いていました。それは、孫文が北京で病没した1925年3月頃、中国共産党の幹部だった毛沢東が、蒋介石の国民政府軍に捕らえられ、危うく殺されそうになったことがあったというのです。その場に父がいました。父は当時32歳の毛沢東を見て、
「これは将来、中国のために偉大なことを成し遂げる男だ。助けてやれ」
 そう言って、縄を解き、自由にしたというのです。もしそれが本当なら、毛沢東は堀川辰吉郎をいまも忘れていないかもしれません。できることなら、毛沢東自身に、その事実を確かめてみたいと思いました。

 そして1968年、私は「文藝春秋」誌の企画で、『中国の赤い星』の著者、エドガ―・スノー氏と対談をしましたが、そのときこの話をして、父の写真をスノー氏に託し、もし毛主席に会う機会があったら、確かめていただけないだろうか、と頼みました。

 アメリカ人でありながら、もっとも中国を愛し、理解し、毛主席の信頼を受けていたジャーナリストのスノー氏は、その申し出を快く承諾してくださいました。その直後、中国入りした氏は、私にそれを電話で報告してくださったのです。
 「毛主席は、お父様を覚えているそうです。あの話は本当だと。私は堀川氏のことを忘れない、とおっしゃっていましたよ」

 そのときすでに父は没していましたが、私はあらためて父の白髭の顔を思い浮かべ、その伝説的ともいうべき生涯を偲びました。

 また、父は、「不殺生・非暴力・非武装」の平和祈願で有名な、日本山妙法寺の山主・藤井日達上人の依頼で、毛主席宛に添書を書いたこともありました。
 世界各地に仏舎利を建て、平和を祈り、原水爆禁止運動や基地反対運動にも積極的に参加している藤井日達上人は、中国へ行きたいと言って、私の養母、松村ちかを通して父にその方法を相談されました。父は無造作に筆を執り、「藤井日達上人をご紹介する。御引見を賜るよう」という意味の手紙を書き、「毛沢東殿」と宛名しました。それを懐中に、日達上人はモスクワから北京へ入ったそうです。言うまでもなく、日中間に国交はなく、日本人が中国に入国することなど、考えられなかった時代です。それが、父の添書一本で許されたのです。まったく父は、不思議な力を持っていました。

 私はコロンビア大学に在学中、ニューヨークに父が来ると、数日間一緒に過ごしました、が、そんなときウォルドルフ・アストリア・ホテルの廊下を父と歩いていると、すれ違う外国女性が、壁際に身を寄せて会釈し、私にそっとささやきかけたものです。
 「あの方は日本のプリンスですか?」
 鼻下の白髭と、紋付袴に威儀を正した姿が、事情を知らない外国人にまで、なにかを感じさせたのでしょう。
 また、その後、私が日本から海外へ出かけるようなときには、たとえ夜中でも時間があれば父は必ず羽田空港まで見送りに来てくれました。それもロビーや送迎デッキではなく、飛行機のタラップの下まで来てしまうのです。
 「もしもし、どこへ行くんですか?」
 出国管理の係官などが、出発ゲートを悠然と通り抜ける父を呼び止めたりすると、父は何やらパスポート大の紙片をちらりと見せます。すると、係官は頭を下げ、
 「失礼いたしました。どうぞ。お通りください・・・」

 ある日、私はその紙片を見せてもらったことかあります。それは、警視総監の自筆の証明とでもいうべき書類で、「堀川辰吉郎先生をよろしくお願い申し上げます」といったことが毛筆で記されていました。警視総監の更迭があるたびに、新任の総監が必ずそれを書いて届けにくるらしいのです。

 こうした特別の待遇を受け、国の内外に人知れぬ影響力を待っていた父が、戦後、その力を最大限に発揮した仕事といえば、1951年9月8日、ようやく調印にこぎつけたサンフランシスコ講和条約会議の舞台裏工作でした。8月31日、吉田茂全権をはじめ、講和会議に出席する日本全権団が、羽田空港を出発しています。その1ヵ月前、父はアメリカに飛んで、全権団とは無関係のような行動をとりながら、吉田茂全権を補佐するため、全力を傾注して舞台裏の工作を続けていたといいます。

 国際会議というものは、表面よりも裏側の根回しが大切であり、そこにもっとも腐心が必要となります。ことに対日講和条約の調印国は、日本の他に48カ国。ソ連、チェコ、ポーランドは、これは新しい戦争のための条約だと言って調印を拒否していました。わが全権団は被告の立場でありながら、新しい日本の運命を決めるこの会議に、各国の提出する賠償などの過酷な条件をそのまま呑むわけにはいきません。卑屈にならず、とはいえ虚勢を張らず、日本の立場を正しく理解してもらうよう説得する必要がありました。父は各国全権団の中の旧知をたどり、陰ながらの努力を重ねていたのです。p104

そして9月8日、対日講和条約が無事調印されました。敗戦の焦土から這い上がって日本はようやく独立国となりました。
 外国からの特需もあって産業は活気づき、自立への足がためは急速に進んでいました。

 そのとき私は14歳、任務を果たしてサンフランシスコから帰国した父に久しぶりに招待されて、甲府の家から上京し、ホテルのグリルでテーブルを囲みながら、その人をまだ父とは知らず、ただ楽しく談笑していたのでした。父はどんなときも、自慢めいた話は決してしませんでした。p105

http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=634

●『中丸薫という生き方』(徳間5次元文庫 2008、1、31刊)<続>。

 ★生みの親、中島成子との再会を果たす

 ある日、松村の父が私に、中島成子という女性の見舞いに病院に行くようにと言いました。その人は、かつて中国から東京まで飛行機で連れてきてくれた人であり、私の名前を付けてくれた人でもあると、聞かされていました。
 それまで、対日戦意を阻害した戦争犯罪人として北京で投獄されていましたが、それが中国側の人たちの訴えでようやく無実が認められ、釈放されて帰国したというのです。

 「戦争中、中国には匪賊、馬賊が横行していたが、中島さんが呼びかけると、いっぺんに3500人ぐらい、合計7500人が銃を棄てて帰順してきたものだ。中島さんはいつも、匪賊や馬賊は戦争孤児だと言って、彼らを収容し、自立できるように教え導いて、難民救済のために献身していたのだよ」
 そう説明されて、私が中島の「おばさま」のお見舞いに出かけたのは、1957年2月の寒い日でした。12年間にわたる北京での獄中生活での疲れがいっぺんに出たのでしょう。日赤中央病院に入院していました、私は花束を持って病院の門をくぐりました。松村の両親からは「名付け親」だと聞かされていましたから、そのときはまだ、その人が生母だなどとは夢にも思わなかったのです。

 父から聞いた番号の病室を探して、ドアをノックすると、「どうぞ」と力のない声が返ってきました。さして広くない個室で、窓際のベッドに青白くむくんだ顔の女性が上半身を起こし、枕に身を持たせかけるようにして、こちらを見ていました。その枕元に男性が―人いましたが、これは外務省の役人でした。中島成子の帰還を連絡された岸信介首相が、政府を通じて彼女を迎え、入院させたので、役目として付き添っていたのだと後で聞きました。
 「董です・・・」
 名乗ると、病床の女性は大きく目を見張り、私を見つめました。まだ50歳になるかならずのはずですが、すっかり老け込んだその顔が、見る間に歪んでいきました。私は吸い寄せられるようにベッドに近づいていきました。

 幼いとき、この人に抱かれたり、飛行機で日本海の上を飛んだりした記憶がはっきりと甦って、私はその手を握りました。途端に、彼女の瞼から堰を切ったように涙が溢れ落ちました。すると、私もたちまち視界がぼやけて滲み、熱いものが頬を伝わりはじめました。私たちは、一言も語りませんでした。ただ、黙って泣きました。外務省の人が、驚いて私たちを見比べ、すぐに廊下へ出ていきました。
「ずいぶん、大きくなったのねえ・・・」
 その人は、むせび泣きながら、ようやくそれだけ言いました。そして、私の握った手の上に手を重ね、堅く締め付けて、いつまでも身を震わせていました。

私は家へ帰ると、その夜、松村の父母にこの話をしました。中島の「おばさま」は、ただ泣くばかりで、私たちは会話らしいものも交わさず、手を握り合っただけだったことを。私もお見舞いの言葉すら忘れて泣いてしまったと話し、そして首をかしげながらつぶやいたのです。
「私、不思議でしょうがないの。自然に涙が溢れてきて、泣きながら、どうして私は泣くのかしら? と思ったくらいなの。ねえ、おかしいでしょう」
「そう、そうかい・・・」
 松村の父はくぐもった声でそう言っただけでしたが、その目は潤んで、『涙の露が小さく光っていました。母はうつむき、急いで目頭をおさえたのです。私の胸に、これまで考えてもみなかった思いが湧いて、それが急速に膨れあがったのは、このときでした。
「私、あしたもお見舞いに行く・・・」
「うん、そうしてあげなさい」

 翌日、私は日赤へ急ぎました。病室には、中島成子と同年輩の女性がいて、彼女は成子の故郷、栃木県の同村の生まれで、古い友人だと言いました。そして廊下の流しで茶碗を洗いはじめたのですが、私はその側を離れず、中島成子のことを矢つぎ早にたずねていました。

「ねえ、中島さんは小さい頃、勉強はできたんですか?J
「ええ、それはもう、ずっと級長さんでしたよ」
 根堀り葉堀りたずねるうち、私のもしかしたら? という感じは、いっそう強くなり、揺るぎのないもののように思われてきました。その質問で疑問を拭えたわけではありません。ただ、茶碗を洗っているその女性が私を見る目つき、口ごもる話し方、それらのすべてが、なにかを私に伝えてくるのです。それにも増してベッドの上の中島成子と向かい合うと、私たちの間に奔流のように激しく通い合うものが感じられるのでした。

 結局、私は真実を知りました。3日目、やはり病院に行かずにはいられなくて、病室をノックすると、最初の日にいた外務省の人が出てきました。彼は私の顔を見ると、目礼して席を外したのですが、その表情の中には、中島成子から私と彼女の関係を知ったに違いない雰囲気がありました。

 私は見舞いを終えた後、廊下でこの人に直接聞きました。やはり、中島成子が私の生みの母でした。私は一瞬茫然となりましたが、同時に松村の父母がこれまで私に尽くしてくれた数々の厚情を考え、涙ぐまずにはいられませんでした。

それにしても、私にとって、突然知らされたこの現実は重いものでした。そしてやがて日が経つにつれて、自分には両親が2組あったことを幸せだと思うようになりました。その4人が、それぞれ非凡なものを持つ、私が心から敬愛できる人たちであったことを、心から神に感謝せずにはいられませんでした。

 この幸運を与えられて誕生し、ここまで育てられた私が、いい加減に生きていいはずはありません。これからどんな苦しみが降りかかってくるかわかりませんが、私はそれを跳ね返し、必ずこの人生を意義あるものにしよう。自分自身にそう誓い、コロンビア大学に留学することにしたのです。

 ●『中丸薫という生き方』  <了>

 *************

 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』(徳間書店 2004、2、29刊)

 ★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199~

 輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。
 私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。

 私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。

 孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。

 一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙吉徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回ってレたからです。

 私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達する豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。
 ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がべツドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。

 ★育った環境からごく自然に国際政治評論の道へ

 父と母の日中友好への努力もむなしく、日本は太平洋戦争へと突入し、私は6歳のとき、松村の父母とともにあわただしく日本へ引き揚げてきました。そして、松村の父母の故郷である山梨県甲府市に落ち着いたのです。
 北京のお屋敷暮らしとはうって変わって、そこでの生活は素朴でつつましく、大自然の中でのびのびと過ごすことができた私は、病弱だった北京での日々がウソのように、すっかり日に焼けた健康児になりました。戦争で食料は欠乏していましたが、松村の父は畑を借り、自分でそれを耕してジャガイモを育てていたので、家族が空腹を感じることはありませんでした。

 あるとき、甲府の町が絨毯爆撃の標的となり、市街の大半が一夜にして廃墟と化すというできごとがありました。私の家は幸い被災を免れましたが、焼夷弾がパラパラと降ってくる恐怖は、今もはっきり覚えています。そして8月15日、避難していた薄暗い土蔵の中で玉音放送を聞いたときの、身の引き締まる思いは今も忘れられません。小学校2年のことでした。

 終戦の直前、母・中島成子は、延安に野営する毛沢東のもとへ馬を走らせていました。そして、延安に到着するとまもなく、日本の無条件降伏という悲しい知らせを受け、そのまま戦犯容疑で獄中に入れられました。日中両国の平和のために東奔西走していた母にとって、容疑の晴れるのをじっと待つ日々は、どれほど辛かったことでしょう。・・・以下略・・・p202
 ●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』  <了>

 次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。

中矢伸一「大霊脈を読んで」のある読者の観想~内容の追求が乏しい?

http://ameblo.jp/maeni76pop/entry-11420624671.html

明治天皇と田布施システムの妄想

http://ameblo.jp/ici05876/entry-11781774952.html


 
 
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