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明治維新は無血革命だったか

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月27日(金)11時34分32秒
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  http://blog.goo.ne.jp/worldhiker/e/16fac8037b36908fa2fac115c012b46b

明治維新が「無血革命」と言われているのはなぜ?と家族から聞かれた。海外の友人を交えて日本の歴史について話していたときである。どうやら学校で無血革命と習って、明治維新は平和革命と思っていたらしい。日本では、受験教育にターゲットを絞って学校教育が行なわれていることが多いから明治維新以降の近・現代史は「受験に出ない」と言ってスキップされることが多い。因みに受験のために必須科目の世界史がスキップされていたというニュースがあったのはごく最近のことだ。

 江戸開城が「無血開城」であったのは事実である。勝海舟の働きによって、徳川が「江戸城死守」という作戦を取らなかったからだ。明治維新の期間をペリー来航(1853年)から西南戦争(1877年)までというスパンで考えると分かるが、無血どころではない謀略あり、陰謀あり、暗躍あり、弾圧あり、暗殺あり、虐殺あり、復讐あり、テロあり、裏切りあり、故なき自決あり、地方の反乱あり、農民一揆ありの血を血で洗う内乱の惨状が数え切れないほどあったのである。極めつけの悲劇的惨状が会津戦争(1868年)であった。今でいえば子ども達の犠牲である。だから、会津の人々は今でも薩長政府を許していないというエピソードが沢山ある。

 半藤一利が『「皇国史観」は「薩長史観」』と述べた意味について考えてみる。
 明治維新は外様であった薩摩長州を中心とする西に位置する諸藩が、徳川の味方であった譜代が多かった東に位置する諸藩との権力闘争であったものが、西側が勝ち組となった。その間、薩長政権という旗印ではなくて「天皇親政」や「尊王」を掲げて勝ちを収めた。薩長が掲げた、岩倉具視のアイディアで偽造を疑われている「錦の御旗」(朝敵を討つ際の官軍である証明、誰もが反対できぬという証明の旗)という旗印で別(水戸)の「尊王派」であった徳川慶喜とその家臣が自分達は朝敵か!?という驚きで、腰砕けになった鳥羽伏見の戦いはその典型である。

 先述したような血を血で洗うような状況の中で、何が善悪で何が正不正か分からぬ動乱期、実際に「天皇」を掌握するということもあったのではないか。実際に「掌握」するとは、単に幼少の天皇を後見して教育し、新政府のいうとおりに動く天皇を育成する道もあろうが、最初からいうことを聞く天皇を天皇の地位につけるという道もあったということである。『「玉」を握っている』という会話が勤皇派志士の間で交わされていたそうである。孝明天皇の実子であるかどうかの明治天皇のアイデンティティが問われる取り換えばや物語があるのだ。マイナーな一部の陰謀論的歴史記述であるかもしれない。半藤一利は、そこまで言及してはいない。しかし、孝明天皇暗殺説を採るならば、その後の天皇は果たして?という究明に及ばざるを得ないのではないか。

 南北朝時代というのを国民は習っているはずだ。天皇の血統をめぐって「南朝」と「北朝」があると。孝明天皇は北朝系の天皇であった。しかし明治天皇は南朝系の天皇なのではないかという疑惑である。もし取り換えばや物語が本当にあったとするなら、その後の歴史が氷解すると思ったことが3点ある。
 一つは、明治天皇自らが伊藤博文首相暗殺の直後「南朝が正系である」という言明を行なったということ→明治天皇が北朝系ならなぜそんなことを言うか不明である。
 二つは、小学校の国史(日本歴史。昔はこういった。)の教科書記述をめぐって国会で「南北朝正閏論」(正統のものと正統のものでないものをはっきりさせる論議)の激論が起こったこと→教科書では北朝の万世一系説を採っていた。天皇が北朝なら、なぜそんな議論が起こったか不明である。
 三つは、近代化を図ろうとしながら、「天皇」だけは「現人神」としてアンタッチャブルな聖域としたか→やましいことがないならアンタッチャブルにする必要がない。「大日本帝国の最高権力者」であるとするだけで済む。

 もしこういうことが本当であったとすれば、明治維新は、天皇の歴史における「南朝革命」(天皇の地位を北朝から南朝が奪取する革命)でもあったということである。しかし、現在、このことはオフィシャルには認められていない。明治天皇の、それを公表したいという悲願はうやむやにされたまま、天皇は「北朝系」のままにされている。戦前の「万世一系(天皇家はただ一つの血統である)」という宣言が崩れるからに違いない。

 この場合、薩長の「尊王」は「自分が担いだ天皇を尊重する」という意味になる。明治天皇を「神」扱いで作った「皇国史観」は、薩長の自分の「天皇」を担いだ際の隠密行動を隠蔽するに格好の史観であったという意味で「薩長史観」なのである。勤皇の志士達は、師に当たる萩の吉田松陰の教えに従ったと言われている。教えの一つが、秘密裏にするとは言っていないかも知れないが「南朝革命」であった。長州は、長い間、南朝系の末裔を匿(かくま)っていたそうだ。孝明天皇の子どもと同じ年恰好の末裔がいたそうだ。そういう意味を込めてこそ、半藤一利の「皇国史観」は「薩長史観」との規定が意味を持つ。なお、半藤一利は、維新前後の天皇のことを勤皇の志士らは「玉(ぎょく)を掌握している」と言っていたと述べている。心底天皇を尊敬し、真に力を持たせた天皇に従って政道を行なう場合の天皇の言い方は「王(おう)」と言うという説がある。

 明治維新のこういう明暗の中で取り入れた西欧化がどういう意味を持つのか、今後、時間をかけて探っていく。異文化研究は、しかく自分の国の歴史を細かく知ることに繋がるとは自分でも驚きであった。

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