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甦れファシズム

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月27日(金)11時55分36秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-607.html

参考リンク

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-607.html?q=%E8%B2%A7%E5%9B%B0

蘇れファシズム 『月刊日本』10月号

 第1回 ファシズムの悪魔祓い

 新自由王義の進行とともに日本が格差社会・貧困社会化し、共同体意識が崩壊していく中、福田総理が政権を投げ出した。20世紀初頭の世界を髣髴とさせる混迷である。かつては、社会不安への反動から、強力なファショ(結束)思想が生まれてきたことを想起すれば、日本に、そして世界に今後、ファショ的思想が現れる可能性は否定できない。
 そこで、ファシズムの産みの親・ムッソリーニ研究の泰斗である★ロマノ・ヴルピッタ氏と起訴休職外務事務官・作家の佐藤優氏にファシズムの可能性と限界について語っていただいた。

管理人注:佐藤優氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA_%28%E4%BD%9C%E5%AE%B6%29

ラスプーチン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3

 ★京都産業大、ロマノ・ヴルピッタ教授のHP
  http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/%7Ervulp/ の「自己紹介」によれば、・・

1939年にイタリアのローマで生まれました。
中学生ころから日本のことに興味を覚え、趣味で日本語をかじり、日本の学生と文通したりもしました。
(そのうちの何人かとは今でも交流があります)
この後ローマ大学で法律を学びながらも日本の文学に熱中し、卒業後日本への留学を実現させ、東大の文学部で古典文学を勉強しまました。
帰国の後、イタリア外務省に入省し、韓国と日本で勤務しました。
また、1972年から3年間、ナポリ東洋学院大学で現代日本文学を教えました。
1975年からEC(ヨーロッパ共同体・現EU/ヨーロッパ連合)の駐日次席代表として日本に戻り、 3年間の任期を終えて、1978年に京都産業大学で教えるようになりました。
今関心があるのは、戦前の文学界を一新した日本浪曼派のリーダー保田與重郎についてです。月一回、(サボる時もありますが)生前保田先生が創立した風日の歌の会に出席しますが、歌をほとんど出さず、聞くだけです。あと一つの関心は、地酒と郷土料理です。また、イタリア料理を作るのも楽しみです。かじき鮪のビッツァ風ソースのフェットゥチーネは得意ですよ。

日本語での著書は
1. 不敗の条件 - 保田與重郎と世界の思潮
中央公論社 、1995年
2. ムッソリーニ - 一イタリア人の物語
中央公論新社、2000年
  ・・・ということだが、5歳の時=1944年に晩年のムッソリーニに会っているそうで、そのときの写真を部屋に飾っているらしい。

 ★今こそファシズムが必要である

編集部: ヴルピッタさんは著書『ムッソリー二―イタリア人の物語』において、日本人はヒトラーについては随分詳しいが、それに比べてムッソリーニについては、せいぜいチャップリンの映画『独裁者』に出てくる、太っちょで陽気な独裁者ナパロニのイメージほどしか持っていないと指摘されています。
 ところが、実はムッソリーニはマルクスやニーチェに造詣が深く、英独仏語を操る教養人であり、乗馬とヴァイオリンを嗜む文化人でもあり、ナパロニというよりもプラトンが『国家』で理想とした哲人皇帝の面持ちであったと書かれています。
 今日はムッソリーニが生み出した知的政治運動としてのイタリア・ファシズムという視点から、現下の日本国家は危機的状況であるという認識を持たれる佐藤さんとお話しをしていただきたいと思います。

佐藤: まず私の情勢認識を述べておきますと、今の日本においては、ファシズムは可能であるかというレベルは既に超えていて、どのようなファシズムを選択すべきかという段階に来ていると見ています。
 この事は後でヴルピッタさんと議論するとして、まず、ファシズムという言葉の悪魔祓いをしておく必要があります。日本ではファシズムという言葉自体が、マイナスの評価を帯びてしまっている。ファシズムという言葉を出した時点で、議論の対象にもならないという風潮がある。しかし、きちんとファシズムというものを思想的レベルで捕えて(ママ)おかないと、かえってまずいことが起きる可能性があるのです。
 それは、ファシズムが、形を変えて忍び込んでくることです。例えば、今は血液型占いが非常に盛んです。これは、A型の人間はこのような行動をとる、B型はいい加減で信頼ならない、というように、血が人間の性質・行動を支配するという思想です。ここから、ナチズムの血統思想まではあと一歩なのです。このような無自覚な血統思想の方が、街宣車に乗って民族の団結を叫んでいる人たちよりも遥かに危険なのです。
 純粋な資本主義(新自由主義)が暴走し、共産主義が破産した現状において、歴史は必ず繰り返します。20世紀においては資本主義も共産主義も乗り越えるべき思想として、ファシズムが登場しました。おそらく姿を変えて、再びファシズムが現れることになるでしょう。その時に、20世紀ファシズムが犯した過ちを繰り返さないためにも、ファシズムについて正面から取り組み、整理しておくことは大切です。
 「ファシズム」という言葉にアレルギーを持って、回避しているだけでは、却って事態は悪化します。

ヴルピッタ: 仰るとおりです。ファショとはイタリア語で「一つに束ねること」です。戦前の日本では「結束主義」と訳されたこともあったようです。しかし、現代においては、「ファシズム」というものが示すものは論者によって多様ですし、さらに、「絶対悪」のようなイメージが定着している。
 ですから、この対談ではまずファシズムとは何か、というところをまず明らかにする必要があります。
 ファシズムは、極めて狭い意味で言えば、ムッソリーニのイタリアで発生した歴史的現象です。語源的に言えば「束ねること」ですから、国民の団結を促す政治体制はファシズムと言えます。日常用語では「検察ファショ」「嫌煙ファショ」というように、「弾圧・強権主義」の意味で用いられますが、ここでは日常の用語法の意味は捨てる必要があります。政治運動としてのファシズムの本質が見えなくなってしまうからです。
 ムッソリーニは「ファシズムは私がイタリア人の心の底から引き出してきたものに過ぎない」と断言したことがある。また、ファシズム運動を始めた当初、1920年代には「ファシズムは輸出品たり得ない」と、ファシズムという運動が20世紀前半というイタリアの歴史に固有の現象とみなし、この運動を他国に持ち出すことはできないとしていました。
 ところが10年後の30年代にはこの言葉を否定して、ヨーロッパにファシズムが拡大するだろう、と述べています。しかし、この二つの言葉は一見矛盾しているようで矛盾していないと考えます。
 イタリア型ファシズムはイタリア人の深層心理から出てきたものですから、ドイツやフランスには馴染まない。しかし、ドイツやフランスにおいては、ドイツ人、フランス人の深層心理から引き出されたドイツ型、フランス型のファシズムがありうるということです。

佐藤: 事実、ノルウェイではキスリング・ファシズム政権が、ポーランドにはピウスツキ・ファシズム政権があり、ルーマニアには鉄衛団によるファシズム運動がありました。

ヴルピッタ: ですから、まずはファシズムを「結束主義」と理解して、イタリア・ファシズムをベースに話を進めていくのはどうでしょうか。

 ★我を考えることは、我々を考えることである!

佐藤: 賛成です。丸山真男などは、「ファシズムの定義は難しい」と言いながら、あれはファシズムだ、こいつはファシストだ、とありとあらゆる悪いものにはファシズムというレッテル貼りをしており、それが日本人のファシズム理解に悪影響を与えています。
 確かにファシズムの周りには、ファシズムと混同して語られるいくつかの概念があります。民族主義、純血主義、ナショナリズム、全体主義、ナチズム、独裁などがそうでしょう。ですから、ここら辺を整理しておきましょう。
 まず、ファシズムにとって欠くべからざるものとして民族という概念がありますが、このためにナショナリズムと混同されやすい。ファシズムにおいては、そもそも民族とは何なのでしょうか。

ヴルピッタ: イタリア・ファシズムの理論家ジェンティーレの議論を援用すると、「イタリア人という意識を持つのがイタリア人」となります。
 ここで、共同体という言葉と社会という言葉を区別しておく必要があります。社会というものが偶然に集まった人間たちが構築していくものであるのに対し、共同体とは、連帯性・諸属性の意識を有する人々の集団です。学校に入れば偶然によってクラスメートができますが、それは社会です。社会から共同体が生まれる可能性はありますが、本質的には個の集積ですから、核家族がさらに進んだ、「核」としての個人しか存在しないようなものです。

佐藤: アトム化したものが社会であり、それに対して、例えば 『太平記』を読むという目的で集まった意識的集団は、共同体ということですね。これは大きな発見です。
 すると私の理解では、社会というものがアトム的世界であり、共同体というものはライプニッツのモナド(単子)的世界ということになります。アトムとモナドは似たようなイメージで捉えられますが、アトム同士は相互に結びつくことはないのに対し、モナドは例えば神という超越的存在を介して交流可能です。
 アトム的世界がビリヤードの玉が散らばっている状態であるとすれば、モナド的世界は、糸に結ばれた沢山の風船が「超越的存在」という手に握られて、束ねられている状態ということです。
 その意味では、今の日本は「社会化」していると言えるのでしょう。

ヴルピッタ: そうです。ジェンティーレに戻りますと、意識的集団である共同体が国家を志向したとき、それは民族となるのです。「イタリア人である」という意識を持った人々が国家を志向した時、イタリア民族が生まれたと言えます。そこが、例えばアメリカとの違いです。移民の国であるアメリカは、「アメリカ人であるという意識を持つのがアメリカ人」と言えますが、アメリカという国家を志向した共同体の集まりではない。だからアメリカ民族というものは存在しないのです。
 共同体が国家を志向するのではなく、国家が先行して存在し、その国家が民族を形成しようとした時、それは「ナショナリズム」と呼ばれるのです。共同体の意識は国家の前提ではなく、権力によって人工的に形成されたものとなる。
 ジェンティーレはバドリオ・クーデター(編集部注‥元帥バドリオによる1943年のムッソリーニ失脚事件。これによってイタリアの無条件降伏がもたらされた)後に、自分が夢見たイタリアが崩壊しつつある時点に、ファシズムの思想を書き残しています。そこには「我を考えることは我々を考えることだ」とあります。「我」の中には「我々」という共同体、あるいは全体というものが内包されているのです。これが国家が先行するナショナリズムとの違いです。

佐藤: 全体主義という言葉も誤解を生みやすいものです。これはもともとは哲学用語で、様々な差異を含む「全体」をあるがままに引き受けるという思想です。
 私はよく動物を例に出すのですが、「動物」という「全体」はあるが、「動物」という実在は存在しません。象やトラや犬や猫や猿といった、個別の種の集合が「動物」という全体を形成します。次に、「描」という「全体」はあるが、「猫」という実在はありません。三毛猫やロシアンブルーやスコテイッシュフォールド、果てには「雑種」という全体から成っており、「三毛猫」という「全体」は加藤さんの家のタマやら安田さんの家のブウチャンという個別の三毛猫から成っています。
 このように、様々な差異を包括していくのが全体主義の語義であり、複数主義、多元主義と言っても良いものです。これに対して、差異を圧殺していくのは普遍主義や単一主義と呼ぶのです。
 「我」の中に「我々」がある、これこそ全体主義であり、フッサールの「間主観性」(編集部注:世界認識は個人の主観によってではなく、他者との共同体の構成において、複数の主観の共同化において為されるとした)が近いと言えるでしょう。
 事実、ファシズムのイデオローグにヴィルフレート・パレートという厚生経済学者がいます。厚生経済学は社会の富の偏在を是正し、福利の適疋配分を目指す学問です。まさに「我が同胞を見捨ててはならない」という意識が全体主義の思想なのです。

 ★民族は不断に生成するものである

編集部: 共同体が国家を志向する時に民族となるのであれば、民族たるような共同体には何が不可欠なのでしょうか。

ヴルピッタ: まず真っ先に挙げなければならないのが、神話です。国民意識の観念的な基盤となる、共通の神話です。
 イタリアの場合、ローマの神話。ファシズムもまた政治的神話で、その特徽のひとつは、英雄性、高い道徳に基づく英雄的犠牲と言っても良い。ファシズムは、死の文化とも言えます。黒シャツと呼ばれるイタリア・ファシスト党の軍団は行進のときに、戦死者の数を掲げていました。共有する思想、あるいは共同体のために命を捧げた人々のことを忘れずに歴史的連続意識を持つこと、ここから高い倫理性が生まれてくるのです。
 事実、ムッソリーニは民衆の心の底に社会正義への渇望があることを見抜いたからこそ、ファシズムを生み出すことができたのです。

佐藤: 死者との連帯ですね。我々日本人には靖国神社がありますが、英霊との歴史的連続性を意識することは、同時に畏怖の感覚、超越的なものへの畏れを意識することでもあります。
 そしてこの畏怖の感覚が我々に、アトム的な個として無制限な自由を満喫するのではなく、共同体の一員としての倫理を意識させることになります。

ヴルピッタ: ファシズムに限らず、国家というのは高い倫理性を持っていなければなりません。極限状態においては、国家は国民に死すら命じなければなりません。その時に国家が高い道徳性がないのであれば、国民はついてこないのです。「身捨つるほどの祖国はありや」になってしまいます。
 愛国心は愛されるに値する国において生まれるのです。戦争という極限状態までいかずとも国家に金をとられてたまるか、と脱税が横行するのは個人よりも先に国家が道徳を失っているのです。
 神話や民族という共同体意識は決して抽象的なものではありません。それは歴史的連続性への意識によって形成されるものであり、死者との連帯という意識において維持されるものです。

佐藤: イタリア民族というものは、いわゆる血統の意味では存在しませんね。

ヴルピッタ: そうです。イタリアは西ローマ帝国が滅亡した西暦476年から1861年まで分裂していたのです。しかし、ローマ神話というもの自体は一貫して流れていた。だからムッソリーニはイタリア民族という意識の統一のために、アウグストゥス帝によるローマ帝国成立にまで遡り、イタリア人の深層心理からローマ帝国の継承者としてのイタリアという意識を汲み出したのです。
 イタリア人は雑種ではありますが、文化的、歴史的生成物としてイタリア人というものは存在すると言えます。ただし、それは放っておいても存在するような、静的な存在ではなく、常に歴史・文化的意識を更新することによって日々、時々刻々生み出され、生成する動的存在です。

佐藤: そこに、ドイツ・ナチズムとの大きな違いがあります。ナチズムは神話と歴史というよりも、血と大地という、より生物学的、本能的要素に訴えるタイプです。しかも、その人種主義は民族という枠組みを越える可能性を持っている。
 ナチスはノルウェイ人もアーリア人種として分類していました。これは、ドイツ民族を超えて、アーリア人種として統一していく意図ですから、ナチズムは「超える」という意味で超民族主義と言えるでしょう。
 パレートはこのように述べています。「民族主義とファシズムの相違は、また民族の概念において現れている。民族主義者は、民族を一つの精神の力として理解しないで、自然所与、自然事実として成立したものとして理解する。しかるに、ファシズムは、民族を精神の力と解するがゆえに、それは常に発展するものであり、常に生成するものである。その意味において、自然事実でも、自然所与でもない。そこに民族主義者とファシストとの見解の相違がある」と。
 つまり、不断の意志の力がないと民族は保てないということです。共同体意識を持つ集団が民族となるのですから、そこには反ユダヤ主義に陥る回路はないのです。そこがナチスムとの大きな違いでしょう。

 ★ファシズムとは生の哲学である

編集部: ファシズムが神話と文化を共有する共同体としての民族を、様々な差異を内包しつつも一つにまとめていく、という思想であるとまとめるとしまして、政治運動としてのファシズムについて話を伺いたいのですが。

ヴルピッタ: ファシズムは死者との連帯や英雄性、英雄的犠牲、歴史意識をその基礎に有するがために、超越的感覚が強調されすぎる可能性があります。そしてその超越的感覚は容易に熱狂に絡め取られがちです。
 20世紀前半のこの反省から、20世紀後半には、国家は逆に超越性を放棄し、一種の社会・経済の管理機構のようになりました。その結果、愛国心や民族的高揚感はスポーツの世界でだけ発揮されるようになった。

佐藤: しかし、今回の北京オリンピックは一つの転機となったかもしれませんよ。今回は、各競技と同じくらいウイグル、チベットに注目が集まったし、北京では「平和の祭典」をやっているのに、グルジアでは「血のオリンピック」が開かれてしまった。スポーツと政治がリンクしたのであり、スポーツに押し込められていた愛国心や排外主義という意味でのナショナリズムが政治へ波及する回路が開かれたと言えます。
 日本では、小泉首相時代がファシズムであるという捕らえ方がされていますが、あれはファシズムではありません。なぜなら、小泉政権が行ったのは弱者切り捨てであり、富の再分配はなかったからです。ファシズムで最も大事な「我が同胞」「我が共同体」という意識が欠如しているのです。

ヴルピッタ: ムッソリー二時代にあったコンセンサスの形成は、洗脳として批判されているが、実際、洗脳とは、本質的にファシズムではないのです。ファシズムは受動的な運動ではありません。それは能動的なものであり、国民に政治参加を求めるものです。
 政治参加とは、ただ投票に行くことではありません。やがて死すべき有限の存在である一人の個人が、その生の意味づけを探る営為の中から、真の政治参加は生まれるのです。

編集部: ムッソリーニは『全体の力』の中で、「ファシズムは、時間および空間の制限から自由に開放された生活を望む。すなわち、個人が己を克服し、我欲を放棄し、時には死そのものさえ辞せざることによって、人として存在するところの純粋に精神的存在を成し遂げんとする思想である」と述べています。
 さらに『ファシズモの原理』においては、「生か死かいずれかという極限状態においてのみ人間は自己自身に直面する」と述べています。

ヴルピッタ: そして、「かくしてファシスタは生命を是認し、これを愛し、自殺を無視し、これを卑しいと思う。生活を義務、向上、征服として理解する。その生命たるや高く、充実したものでなくてはならない。自己のために、だが特に、近いあるいは遠い、現在そして未来の他人のために生きなければならない」という生の哲学に繋がっていくのです。

佐藤: ムッソリーニは「国家は現在であるばかりでなく、過去でもあり、また未来でもある」とも言っていますが、これは、我が国で言えば「永遠の今」や「中今の思想」に近いものです。
 過去や未来というものは、目の前にある花や果物のように、手で触れたり匂いを嗅ぐことはできないものです。それらは、我々の意識が生み出す概念です。我々は過去や未来というものを意識しますが、我々には、ただ「現在」しかありません。今ここに在る我々が過去や未来を認識するということは、その認識によって過去も未来も変化しうるということです。まさに、「現在」の中に過去も未来も詰まっているのです。それは過去と未来に対して、現在ある我々が責任を待つということでもあります。
 ただ、ファシズムにおける政治参加というのは、政治システムとして未解決な部分です。
 私は今、あるところで武市健人という哲学者が昭和18年、戦時中に出版した『歴史存在論の研究』という哲学書の読み合わせを行っています。これは、時局の厳しい中、ぎりぎりの思想的戦いをした書物なのです。この本の隠れたメッセージは、やがて戦地へ赴き、おそらく死ぬであろう学生たちに対して「自分が見出した生の意味に従って死ぬのならいいが、国家が用意したお仕着せの物語で死ぬんじゃない」というものなのです。
 死という極限状態において、確かに人は自己と直面します。自分という存在が何者であるのか、自己意識を悟らされる試練が死です。これを哲学では「存在の開示」と呼びますが、それが個々人の共同体意識から発生した自己理解であればいいのですが、そこに「上からの国家」が土足で介入するということがおきやすいのです。

ヴルピッタ: 確かに、20世紀ファシズムは政治参加のあり方を未解決なまま残してしまいました。しかし、それは民主主義が不完全であるのと同じ位相の問題です。民主主義は最終的には多数決の原理によって決しますが、しかし、それでは少数意見が反映されないということになります。それでは民意を汲み上げたことにはなりません。
 民意の反映という技術的な面に関して言えば、少数意見にも配慮して数の力で押し切るようなことをしない、かつての日本政治のあり方は、言葉の正しい意味において全体主義であり、一つの解決策だったのかもしれません。
 ファシズム的政治の決定とは、抑圧でも数の暴力でもなく、参加者のコンセンサス作りなのです。

佐藤: 私の見方では、戦前よりも70年金共闘のころが、日本が一番ファシズムに近づいたのです。全共闘では、決議をするときには拍手と喝采で「異議なし!」とやって、それが決定となっていく。それは多数決の拒否であり、コンセンサスによる決定です。
 ただし、全共闘には熱狂と暴力性という、ファシズムの暗い一面も顔を覗かせている。そういう意味で、コンセンサス作りという点においては、ハーバーマスの「対話的理性」「公共圈の創出」が実はファシズムと親和性が高いのかもしれません。

 ★ファシズムが見た夢

編集部: 具体的に、イタリア・ファシズムはどのような政治を目指したのでしょうか。

ヴルピッタ: 簡潔に言うと、経済に対する政治の優越です。当時のイタリアでは戦後の経済危機と資本主義の先鋭化によって、著しい富の不均衡が生じていました。特に、農村部と都市部との、いわゆる地方格差が大きくなっていた。経済を優先させ、資本主義を放置すると当然そうなるのです。そこで、ファシズムにおいては国家が経済に介入するのです。
 ムッソリーニは1929年の大恐慌を、従来の資本主義経済の破綻として見ました。彼は新しい社会体制に相応しい解決法を追求しなければならないとの考えから、ファシズムを資本主義と社会主義を一挙に否定する「第三の道」として主張したのです。そして、1933年には産業復興公社を設立するのですが、これは市場経済体制に国家が本格的に介入した世界初の実験で、第二次大戦後、多くの国のモデルとなりました。
 戦後、西ヨーロッパの特徴となった混合経済体制を始めて導入したのは、当時のイタリアだったのです。実際、1930年代後半は、イタリアはソ連の次に最も大きな国営部門を有する国でした。このように、社会的公正さを優先させたのです。

佐藤: 先ほども名前が出たパレートですが、経済学では「パレート最適」という理論で有名です。簡単に言うと「有限である資源=財の効用を最大化」することです。これは、資本主義が暴走したり、いわゆる「市場の失敗」状態になり、格差社会が進行した場合、国家が介入すべきであるという発想につながるのです。
 これは今の日本とも重ね合わせて考えるべきことです。地方格差の是正には、管理経済が必ず必要になってくるのですから。私が最初に「日本は既に、どのようなファシズムを選択するのかという段階に来ている」と言ったのはそういうことです。
 共産主義も無効である以上、管理経済はファシズムにおいてのみ可能であるからです。資本主義が利潤の追求の原理であるのに対し、ファシズムは生産と分配の原理であると言えるでしょう。そして、現下の日本に欠けているのは、まさにこの生産と分配という思想なのです。

 第1回 ファシズムの悪魔祓い  <了>

 ★第2回以後の対談は『月刊日本』でどうぞ。

  発行:K&Kプレス TEL:03・5211・0096。

  ●『国家論』(NHKブックス 2007年12月)のなかで、 佐藤優はこう述べています。因みにここ第3章では、佐藤が柄谷の『世界共和国へ』を「読み解い」ています。

 第3章 国家
 5 ファシズムとボナパルティズム

 ★小泉現象をボナパルティズムで読み解く

 一方に、現実の経済的階級の多様な分節化があり、他方に、代表する者たちの言説の多様な分節化がある。それらはどう関係しているのでしょうか。マルクスの考えでは、代表する者(言説)と代表される者(経済的諸階級)との間には、必然的なつながりがありえない。そこにこそ、近代国家を特徴づける、普通選挙による代表制(議会)の特質があるのです。だからこそ、諸階級が自分たちの本来の代表に背を向け、ボナパルトに彼らの代表を見いだすということがありえた。(『世界共和国へ』 柄谷行人 岩波新書、126~127頁)

 ここは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター』に関連する箇所です。フランスの第二共和制という、当時においては最も民主的な社会で、社会的に弱い立場にいる分割地農民に選挙権を与えたところ、その結果、政治的な実績は何もない、自称ナポレオンの甥という男が圧倒的な支持を得てフランスの大統領になりました。男はその後、憲法を改正して議会を解散して皇帝ナポレオン三世になってしまう。なぜ、このようなことが起こったのか。なぜ、民主主義は自らの首を絞めるような制度になってしまったのか。

 これに対してマルクスは、代表されるものと代表するものの間の合理的な連関は、実はいつでも簡単に崩せると論じています。人間は表象能力をもつ。そのため、自分の真の利害を代表する人がいない場合、適当な人に過剰な意味を読み込んでしまい、あたかも自分の代表であるかのように表象してしまう。ここに、代議制のトリックがあると見るわけです。
 それと同時に、人間というのは嫌な状況にいつまでも耐えることができません。いつまでも恐怖が続くよりは、どんなに悲惨な結果を迎えてもいいから、すぐに終わってほしいと願う。こういう趣旨のことが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター』に書いてあります。自らの代表も存在しないような曖昧かつ混乱した状況は、いい加減にしてほしいと思っているところに、代表を装った人物が、「力によって皆の希望を実現します」と主張する。そういうものが求心力をもってしまうわけです。

 2001年の小泉純一郎・田中眞紀子現象は、そのままボナパルティズムの図式で読み解けます。自民党も民主党も、全体の代表を標榜しているものの、失速しているように見える。共産党や公明党は全体ならぬ「部分の代表」で、抵抗感がある。圧倒的大多数のサラリーパーソンや家庭の主婦には、投票する先がない。そのときに小泉元総理なり田中元外相なりが、「改革をします、今の自民党をぶっ壊します、国民の目線に立ちます」と言うと、何かやってくれるのではないかと期待してしまう。実績や政治基盤、それから公約-そもそも公約と呼べるような公約があったのかは疑問ですが-を見ると、われわれの希望を実現してくれるような気がしてくる。

 本来、公共圈ではそういうことを十分に吟味して、そのうえで選挙に行かなければいけません。ところがそういうことを一切捨象して、イメージによって選んでしまったわけです。その結果が、現在のこの閉塞状況であり、格差社会なのです。ところが人間というのは、何か失敗をすると、そ
れを認識したくないという機制が働く。そうすると、見たくないものは見ないという1種のアパシーが起きてくる。これは、ボナパルティズムがもたらした典型的な状況です。

★ボナパルティズムとファシズムの違い

 では、なぜ私はファシズムと言わないで、ボナパルティズムと言うのでしょうか。ファシズムにはもうひとつ、別の要素が加わるからです。ファシズムはファッショというかたちで、国民を束ねないといけない。他方、その場限りの選挙で支持を得ればいいという発想が、ボナパルティズムです。ボナパルティズムはあくまでも選出されるところまでの技法です。
 ちなみにボナパルティズムになると、必ず官僚の力が強まります。というのは、そこで選ばれた指導者は当然、全知全能ではないからです。実際の政策執行は、圧倒的支持を得て選ばれた指導者が官僚や専門家に委ねるわけです。たとえば日本の場合は、霞ケ関官僚か、小泉元総理が恣意的に選んだ竹中平蔵という大学教授でした。彼は最初、選挙の洗礼を受けていませんでした。後に受けたといっても参議院の比例代表区ですから、国民の直接選挙の洗礼を受けていると言えるかどうか、きわめて微妙です。あるいは通産官僚出身の川口順子元外相です。このように、外交や経済政策の重要なポストを官僚に委ねたのが小泉政治の特徴と言えるでしょう。

 しかし「特徴」とはいえ、これはボナパルティズムの教科書どおりのことをやっているだけです。これに対してファシズムの場合、官僚制度が整うと、社会的に恵まれない層、社会的に弱い層を自分たちの共同体に属しているという理由で、一応は救済する。そのときに、内と外を分ける。民族排外主義を用いるのです。小泉政権は格差社会を作るだけで、結局は「社会的弱者に対する優しさ」をもっていなかった。それゆえに逆説的なのですが、われわれはファシズムに陥るところから逃れられたということです。別の言い方をすれば、ファシズムにいたるレベルですらなかったということです。

★ファシズムの知力

 ファシズムを考察するうえでもうひとつ重要な要素は、知力です。新自由主義はまったく知的能力がなくても推進可能です。どうしてかというと、前述したとおり、資本の自由な動きの障害となるものを、除去していけばいいだけの話だからです。規制を緩和するだけですから、そこに積極的な政策と言えるものは何もありません。ファシズムの場合はイメージ操作を通して、排外主義を行わなければならないので、ある程度の知力が必要です。

 広義のファシズムにナチズムを入れるとして、ナチズムの場合には、アルフレット・ローゼンベルクの『二十世紀の神話』やR・W・ダレエの『血と土』のような、排外主義的言説を作った。イタリアン・ファシズムの場合、ムッソリーニ自身がジョルジュ・ソレルなどのサンディカリスムの影響を受けているほか、ローザンヌ学派のパレート厚生経済学の考え方なども組み込まれている。知的な操作ということを考えた場合、小泉改革などよりずっと知的です。

 『世界共和国へ』では、〈ボナパルトはあらゆる階級に対して家父長的な役を演じたいと思う。しかし、彼は、他の階級から取ってこないことには、どの階級にも何もやれない〉という、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18曰のクーデター』の1節が引用されています(128頁)。これは当然のことです。ボナパルトあるいは官僚は自身では何も生産しないので、誰かに何かを贈与するときには、どこかからとってこないといけない。社会民主主義の場合は簡単なことです。戦後曰本の政治システムでも、高度の累進課税制で金持ちから取り立てたものを、社会的に恵まれない人のところに再分配して、1部を政治家が抜くわけです。それに対してボナパルティズムでは、どこから奪いどこへ与えるかがよく分からない。そのときの状況によって、「ここに今度は与えてやろう」「こいつらがちょっとうるさくなってきた。今度は収奪してやろう」。あるときは与え、あるときは奪う。それを繰り返すだけです。
 
 
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