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北朝って何~に?

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 3月29日(日)13時27分36秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。

南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。

概要

鎌倉幕府滅亡後に京都に成立した後醍醐天皇の建武政権から離反した足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、建武3年(1336年)6月に京都を確保すると光厳上皇を奉じて入京する。尊氏は武家政権の構築に着手するが、後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗しており、8月の豊仁親王(光明天皇)践祚は三種の神器を欠いたままで行われた。同年11月には講和が成立し、後醍醐天皇は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇が即位。同年末、北朝は『建武式目』を発布して武家政権の成立を宣言するが、後醍醐上皇は京都を脱出して吉野に逃れ、北朝方に渡した神器は贋物であると宣言し、吉野朝廷(南朝)を成立させて対抗する。北朝では光厳上皇が治天として院政を行い、足利尊氏とともに光明・崇光両天皇を支えた。

足利政権内部の紛争から観応の擾乱が起こると、観応2年(1351年)に足利尊氏は南朝との和睦を行い、正平一統が成立し、年号は統一され神器も南朝方に返されて北朝はいったん解体される。翌正平7年(北朝としては「観応3年」、1352年)、南朝は京都と鎌倉への侵攻と光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王の拉致を行い、一統は破棄される。京都を奪還した足利義詮は北朝再建を試みるものの上皇の不在により治天を定めることができず、三種の神器も南朝方に渡っていた。足利政権では古代の継体天皇の先例を持ち出し、光厳生母の広義門院(女院)を治天とし、8月に三種の神器のないまま光厳皇子の弥仁親王の践祚を行って後光厳天皇として即位させ、翌月には元号を文和と定める。伊藤敬は、これを(一旦断絶した)北朝にとっての画期であるとして後光厳以後の3代を「新北朝」と呼称している[1]。ところが、これを知った南朝側は翌文和2年(1353年)に再度の京都進撃を行い、6月13日には南朝軍に追われた後光厳天皇が京都を脱出、西園寺実俊・万里小路仲房・日野時光ら少数の近臣とともに美濃国大野郡小島(現在の岐阜県揖斐川町)に落ち延びて土岐氏の庇護下に入り、9月21日に足利尊氏とともに京都に帰京するまで亡命生活を送る。更にその翌年の文和3年(1354年)12月24日には南朝方についた足利直冬・桃井直常の京都進撃によって後光厳天皇は今度は近江国蒲生郡武佐寺(現在の滋賀県近江八幡市の長光寺または広済寺とされる)に落ち延びて近江国内を転々とし、翌文和4年(1355年)3月28日に足利義詮とともに京都に帰京した。以後、南朝の京都回復は実現せず、捕えられていた三上皇のうち、文和4年8月8日に政治的実権の無かった光明法皇が、2年後の延文2年(1357年)2月18日には光厳法皇・崇光上皇及び廃太子直仁親王が北朝へ返還された。更に康安元年(1361年)12月8日にも南朝側に寝返った細川清氏らの京都進撃によって後光厳天皇は再び近江武佐寺に落ち延びて、翌貞治元年(1362年)4月21日に帰京している。正平一統以来前後合わせて4回にわたる南朝軍の京都占領及び足利軍による回復によって室町幕府の軍事力なくして北朝そのものの維持が不可能であることが明確となった。更に神器も存在せず、本来の治天の君である光厳の承認なくして即位した後光厳天皇の求心力保持は室町幕府の正統性にも影響を及ぼす問題であることからその権威の維持・上昇に幕府が積極的に関与せざるを得なくなっていった。こうした動きは後の室町幕府による朝廷への口入(武家執奏)を正当化する理由となった。

室町幕府にとって北朝は幕府の権威を保障するとともに、南朝との戦いを推進する上での財源ともなり得る存在であった。北朝は寺社本所領の兵粮料所化を受け入れる代わりに公家たちの所領を安堵させ、幕府は見返りとして即位式など天皇の権威づけに必要な儀式の財源を拠出した。本来、戦乱が収まれば、こうした土地は元の領主の知行に復帰する存在であったが、武士の押領が続いた上、観応の擾乱と正平一統、それに伴う京都争奪戦の激化によってその基本方針が破綻して、幕府はより強力な半済令の導入に至った。その後、室町幕府も応安大法などによって原状復帰への努力が図られたが、武士の荘園への進出は完全には収まらず、幕府は朝廷財源を段銭によって賦課する形で補うことになった[2]。

また、正平一統とその後に成立した後光厳皇統の不安定さは公家社会にも複雑な影響を及ぼした。南朝は後光厳天皇を「偽主」として非難し、偽主に従う者は解官・所領没収などの措置を取るとした。一方、北朝も公事に参仕しない者に対して解官・所領没収の措置を取るとし、室町幕府も同様の姿勢を示した。だが、実際には京都の支配権が南北両朝の間を移り行き、神器も治天からの正式な支持もない後光厳天皇に従うことに不安を感じる公家が続出し、正平一統前は公事への公卿の参仕が少ない時でも官位への補任などを材料に他の公家を出仕させることで運営に必要な人員カバー出来たものが、後光厳天皇の下では同天皇の擁立に関わった公家などしか集まらず、公事も停滞した。更にこの時期には寺社勢力の動きも活発化して春日神木の入京によって公事が妨げられることもあった。そのために後光厳天皇は公家たちの「忠節」によって人事や家門の継承、家領の安堵などを定め、室町幕府がその実施を保障する(ただし、当事者の公家と幕府との関係によって武家執奏を行って加減を図ることがある)ことで求心力の維持を図ろうとした。この路線は貞治年間に幕府軍が優位に立つことで効力を生じることになり、以後も基本的に継続されていくことになる。だが、その過程で去就の判断を誤って没落した家や反対に家格以上の待遇を得られる家も登場し、更に幕府との関係による家の浮沈も絡んで、公家社会の地図は大きく変化することになる。特に他の村上源氏諸家の没落に伴う久我家の源氏長者独占の確立や勧修寺流・日野流の名家の台頭という室町期公家社会特有の現象も、元をたどれば、後光厳天皇擁立やその後の京都脱出(地方下向)に際して当時の当主が北朝方に奉仕し、天皇や室町幕府から「忠節」を評価されて信任を得ていたという歴史的背景と深く関わっていた[3]。

将軍義満、管領細川頼之時代には武家執奏による朝廷への口入がみられ、応安3年(1370年)に後光厳天皇が自らの皇子である緒仁親王への譲位意思を表すると、崇光上皇は正嫡である実子栄仁親王の即位が妥当であると主張し、皇位継承問題が起こる。朝廷は室町幕府の判断をもとめ、緒仁親王(後円融天皇)の即位が実現した。だが、既に貞治2年(1363年)の段階で光厳法皇は崇光上皇の子孫への皇位継承を意図して自身が領していた持明院統伝来の所領の大半(長講院領・法金剛院領・熱田社領ほか)を崇光上皇に譲渡しており、崇光上皇と栄仁親王(伏見宮家)の存在が正統性においても経済的基盤においても弱い後光厳天皇流を圧迫した。これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。応永3年(1396年)の崇光上皇の晩年に、室町幕府が伏見宮領を悉く奪って後小松天皇に献上しようとした背景には、こうした持明院統内の皇位を巡る確執があり、両派の対立は称光天皇の早世による後光厳流皇統の断絶まで続くことになる。

明徳3年(1392年)、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され明徳の和約によって南北朝合一が実現。

1911年(明治44年)、いわゆる南北朝正閏論を収拾するため、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされた。これにより、北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5代5人は、125代の歴代天皇に含まれないこととなったが、その称号と祭祀はこれまで通りとされた。もっとも、戦後においては歴代天皇の数え方は南朝に依拠するものの、南北双方の朝廷を認めるのが通説とされている。
北朝の歴代天皇

    光厳天皇:1331年10月22日(元弘元年9月20日) - 1333年7月7日(正慶2年<元弘3年>5月25日)
    光明天皇:1336年9月20日(建武3年<延元元年>8月15日)- 1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日)
    崇光天皇:1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日) - 1351年11月26日(観応2年<正平6年>11月7日)
    後光厳天皇:1352年9月25日(文和元年<正平8年>8月17日) - 1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日)
    後円融天皇:1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日) - 1382年5月24日(永徳2年<弘和2年>4月11日)
    後小松天皇:1382年5月24日(永徳2年<弘和2年>4月11日) - 1412年10月5日(応永19年8月29日)

    日付は在位期間。<>内は南朝の元号。

脚注

    ^ 伊藤敬『新北朝の人と文学』(三弥井書店、1979年)
    ^ 松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』 吉川弘文館、2013年 ISBN 978-4-642-02911-7 第一部第二章参照
    ^ 松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』 吉川弘文館、2013年 ISBN 978-4-642-02911-7 第一部第三章および付論、第二部第二章、第三部参照

関連項目

南北朝時代 (日本)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

大覚寺統 - 持明院統

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E7%B5%B1

吉野朝廷(南朝 (日本))

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%9D_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

称光天皇

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87

後南朝

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D

両統迭立

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%B5%B1%E8%BF%AD%E7%AB%8B

南北朝正閏論

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96

南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争。閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味。

概要

近世以来、「南北朝のいずれが正統か?」を巡って、南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は、大きく分けると以下の4つになる。

    南朝正統論
    北朝正統論
    両統対立論
    両統並立論

北朝方公家における南朝観

1392年(明徳3年/元中9年)閏10月2日に南朝の後亀山天皇が吉野から京都の大覚寺に入り、3日後に三種の神器が後小松天皇に引き渡された。ところが、後小松天皇は自己の皇統こそ正統なものであると主張しており、後村上天皇以後の南朝の天皇は上皇である後醍醐院が勝手に立てた「南方偽主」であり、天皇でもない後亀山が行幸の体裁で入京したことに反発を示した。加えてこの時交されたとされる 明徳の和約は義満ら室町幕府と南朝方の間のみで行われたものであり、後小松天皇ら北朝方はその内容は知らされていなかったもしくは合意をしていなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や大覚寺統と持明院統による両統迭立など、和談の合意内容が明らかとなるとこれに強く反発した。後小松天皇は後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷したのである(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[1]。また、元号も北朝の「明徳」が依然として用いられ続け、2年後の明徳5年(1394年)2月23日に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では後小松天皇や公家たちの多くがこれに反発し、16日間にわたって議論を続けた末、足利義満の強い申し入れによって「不登極帝」の扱いとして尊号のことが定まった次第であった(『荒暦』)。

後小松天皇及び北朝の公家の反発の原因としては、彼らが後村上天皇以後の南朝歴代を「偽主」としてみなし、三種の神器も平安時代末期に平家が安徳天皇とともに西国に連れ出した時と同様に不当に持ち出されたもので、自己の皇統の正統性に強い確信を有していたからと考えられている。特に持明院統の中でも後光厳流皇統に属する後小松天皇は皇位継承の正統性を巡って、崇光流皇統とも呼ぶべき伏見宮と対立関係にあり、それよりも遠い関係にある大覚寺統の皇統は否定されて然るべき存在であった。また、公家達の多くも家督を巡って南北に分裂しており、南朝方についた同族の復帰につながりかねない南朝の正統性を認めることには否定的であった。そして、何よりも正平一統前後に南朝方が京都を占領したことが計4回あったものの、いずれも短期間に終わり北朝は南北朝期の大部分において京都に存在し、朝廷機構を把握していた。それが、北朝方の自負の裏付けとなった。その結果、後村上・長慶の両天皇はその在位は否認され、後亀山天皇の在位は認めなかったものの、後高倉院(守貞親王)などの例に準じる形での太上天皇の待遇のみは認められたのである。

このことは、室町時代に作成された複数の文献にて知る事が可能である。後小松天皇は退位後、大覚寺統の皇族ではなく実子の称光天皇に皇位を譲ったが、称光天皇は子供のないまま重病となりこのまま崩御すれば、後光厳流皇統の断絶は確実となった。そのため、 応永33年(1426年)、後小松上皇は内大臣洞院満季に命じて『本朝皇胤紹運録』を編纂させた。現存する写本の中でも古い形態に属する写本において南朝については、

    義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々……
    寛成親王 法名覺理、於南方自立號長慶院
    熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院

とされ、後醍醐天皇以後は光厳天皇以後の歴代北朝の天皇が正統な天皇として扱われたのである。また、これは伏見宮に対しても同様であり、後小松上皇の猶子となり称光天皇の後を継いで即位した後花園天皇を伏見宮貞成親王の子ではなく、後小松上皇の子として掲載して伏見宮と切り離している。これは、南朝・伏見宮とともに正統な皇位継承者ではないとする後小松上皇の強い信念の現れであり、崩御の時の遺詔においても貞成親王を太上天皇にすることの無いように念を押したのであった。だが、後小松上皇崩御後の文安4年(1447年)に貞成親王に「後崇光院」の尊号が贈られた。この時のことを万里小路時房は日記『建内記』文安4年11月27日に「凡非帝位人尊號、後高倉院(但後堀河院嚴父之謂也)、後龜山院(三種神器被渡當朝之謂也)両度也、今度之儀、淺自後高倉院、深自後龜山院者歟」と書いている。ここで注目されるのは、時房は後小松上皇の遺詔を理由として貞成親王への尊号に最後まで反対していた廷臣であったことである。時房の記述は、当時の北朝では南朝の後亀山院(天皇)が後高倉院・後崇光院と同様の「尊称天皇」とみなされていたことを示すとともに、後小松上皇の遺詔に反した後崇光院への尊号よりも更に低い価値しか認めていなかったことを示している。その後、後花園天皇の子・後土御門天皇の時代になって壬生晴富(小槻晴富)が北畠親房の『神皇正統記』に反駁する形で『続神皇正統記』を著した。「後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々、これは南方偽主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず……後嵯峨院御正嫡の御流として誠に神皇正統の正理に歸し、此記(『神皇正統記』)の名目自然の道にかなひ侍る御事よとふしきにも奇特にも侍るかな」と述べて光厳院を九十六代、後醍醐天皇の重祚を九十七代、光明院を九十八代として、以後後花園院まで続けている。この書は『神皇正統記』の著者である北畠親房の意図を歪めるものとして古くから非難された書物であるが、その一方で後嵯峨天皇以前を兄を嫡流とする「正統」理念で描きながら、それ以後は弟の亀山天皇の系統を嫡流とするために「正理」理念を持ちだして弟を嫡流とする親房に対する鋭い批判も含まれており、また北朝系公家の典型的な歴史認識を示したものであった。

『本朝皇胤紹運録』は勅撰の皇室系譜として幕末に至るまで宮中で重んじられ、そこに描かれた北朝正統論は絶対的に扱われた。後述のように『大日本史』の朝廷献上が大幅に遅れたのもその影響であり、幕末の光格天皇が自身を(神功皇后を含めて)「神武百二十世」と記していることからも伺え、また同時代の公家で歴史家でもある柳原紀光も『続史愚抄』の中で北朝正統論を唱えている(ただし、紀光は後村上天皇に関しては正平一統の期間に限定して正統な天皇であったとしており、朝廷の公式見解とは異なった態度を取っている)。
近代以前の南北朝正閏論

南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房が著した『神皇正統記』であった。親房は三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた。親房は南朝の正統性を示すために、「正統」概念の中には儒教や神道の教説を取り入れる形で有徳の者が皇位継承者に選ばれるという正理正義の理念を含めた。だが、一方で当時の家督継承の基本的な考え方で儒教や神道の考え方にも適っていた正嫡正流の概念も捨て去ることは出来ず、結果的には両説を組み合わせたものとなってしまった。更に神器の問題にしても上記の安徳天皇が神器をもって西国に下った時の後鳥羽天皇即位の事情など理念と史実の乖離を完全に説明することは出来なかった。その後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成ら南朝方の人々を「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くにわたって「後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府に対する南朝復興運動が続いていたことから、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。

この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。これをもって直ちに南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝を論じることがタブーではなくなったという点では画期と言える。また、楠木氏と同様に南朝方であった新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったことも状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。もっとも、息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。

その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される[2])。

徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。闇斎も南朝正統論に基づく史書編纂を計画していたが、執筆前に没した。彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ、闇斎の系統を引く学者(跡部光海・味池修居ら)の間で行われた。江戸時代後期の頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論を鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際に書いた絶筆ともされる「南北朝正閏論」は道義に基づいて南朝を正統とし、北朝の後小松天皇は南朝の禅譲によって即位したと主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、まさに命がけの一文は後世に少なからぬ影響を与えた。

他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇室正統記』に対抗して、南朝を正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。

更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
南北朝正閏問題
喜田貞吉 / 国史教科書で両朝を並立して記述したとして1911年に編修官を休職。
皇居外苑にある楠木正成像

明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。

管理人注:纂輯御系図

http://www.geocities.jp/okugesan_com/tenno2b.html

本朝皇胤紹運録

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E7%9A%87%E8%83%A4%E7%B4%B9%E9%81%8B%E9%8C%B2

『大政紀要』

http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/51308515.html

一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水での発言がこれに拍車をかけた。

そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説に「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。

この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ[3]、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。

以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院で菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、批判の投書が宮内省に殺到したため、中島は辞任のやむなきに至った(詳細は中島久万吉参照)。この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。
第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論

第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった(平泉澄は戦後も「吉野時代」の表現を用いているが、ごく一部の見解にとどまる)。ただし、宮内庁[4]を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。

網野善彦は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。また、太平洋戦争の敗戦直後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した(南朝の子孫という主張が正しいかどうかについては異論も多く一般には信じられていない)。ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現在の皇室の血筋が最も尊いとされている[要出典]。
 
 
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