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属国離脱への道

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 4月 2日(木)22時36分4秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://forkn.jp/book/3006/page/1

第1章 操られていた幕末武士たち( 1 / 1 )
操られていた幕末志士たち
偽ヒーロー龍馬は操られていた

 坂本龍馬をはじめとする幕末の武士たちが、メディアが描くごとく本当に新時代を切りひらくべく維新を成し遂げたヒーローだったらどんなに良かったことか。残念ながら事実は異なる。司馬遼太郎が歴史を曲げた。そもそも小説に過ぎない。
 日本人として本来ならNHK大河ドラマ的な姿を望みたいが、日本はもうすでにこの時代には欧米諸国による謀略の波にさらされていた。
 250年間にわたる鎖国時代を過ごした田舎侍が突如として自らの意志で覚醒し、次々に革命を実行した。そんなことは無理だった。もちろん黒幕の存在があった。
 ほとんどが下級武士だった幕末の志士たちは攘夷から倒幕への時代の流れの中にあってそれぞれの藩のスパイ・謀略部隊のような役回りを演じた。直接手を汚す危険な役は下級武士の仕事だったからだが、下級武士の側にも、あわよくば一気に成り上がらんとする功名心があったのは想像に難くない。そんな彼らだからこそ、邪悪な意志を覆い隠して近づいてきた国際金融資本の手先に簡単に手なづけられることになったのではないか。
 だから、意識的か無意識的かを問わず、いわゆる「幕末の志士」たちの中にも売国奴は少なからず含まれていた、正確に言えば、操られていたと言うべきだろう。
 一介の下級武士だった坂本龍馬が、なぜ、亀山社中のような組織をつくって船舶まで買って武器貿易ができたのか。

 もちろん、長崎のグラバー商会のトーマス・ブレーク・グラバーの存在があったからだ。グラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店。ジャーディン・マセソン商会は、現在も香港を拠点に展開する国際コングロマリットであり、当時は茶やアヘンを取引していた。言わずとしれたロスチャイルド系企業である。
 グラバーは日本では最初は生糸や茶を取引していたが、亀山社中とは武器や弾薬を取引した。グラバーが、表立って各藩に武器を納品するのは露骨すぎる。あくまで維新は日本人が独自に成し遂げたように見せかけなければならない。間に入る存在は必要だった。龍馬はそのためのコマだった。
 龍馬や亀山社中の連中はたびたびグラバー邸を訪れていた。亀山社中を設立するようグラバーから誘導されたとしても不思議はない。
 薩長同盟成立の前、竜馬は長州へ武器輸出をした。このとき、龍馬はグラバー商会から武器を買い入れて、まず薩摩に売った。薩摩を仲立ちにする形で長州へ横流ししているのである。これが薩長同盟のきっかけとなっていくわけだ。
 武器証人のグラバーからすれば、幕府の次に新政権が樹立されるにあたって日本国中が内戦状態になればなるほど懐が潤う。国際金融資本と戦争のつながりは長い。彼らは定期的に戦争を必要とする。薩長同盟VS幕府という構図を演出して戦いを煽る。もちろん、最終的な目標はその先の新政権を意のままに操ることだ。中国を毒牙にかけたロスチャイルド一派にしてみれば、次なる獲物が日本だったというわけだ。
 グラバー=フリーメーソン説があり、龍馬もフリーメーソンに操られていたという説がある。グラバーがフリーメーソンだろうがそうでなかろうが、そんなことは関係ないのである。フリーメーソンによる隠謀論というのは掃いて捨てるほどあるわけだが、かえって本質を見えづらくするだけだ。
 グラバーが秘密結社員であろうがなかろうが、彼がロスチャイルド系商社の一員であり、中国に次いで日本を支配化に置いて金蔓にしようとした事実は変わらない。実際、ロスチャイルド一族はすでに19世紀初めには有名なワーテルローの戦いにおける謀略で大もうけしていた。
 当時、ナポレオンと戦争状態にあったイギリス。ワーテルローでナポレオンが負けそうなことを知ったロスチャイルドは、ロンドンの取引所で大量の有価証券を売りまくった。それを見た他の代理店は、「イギリスがワーテルローの戦いに負けたことをロスチャイルドが知っているのか」と有価証券を投げつけるように売り払う。
 ところが、ロスチャイルドは密かに誰も知らない秘密の代理店を使って全ての有価証券を買っていたのだ。たった1日で100万ポンドを儲けた。戦争を商売の道具に使うことにかけて、ロスチャイルドはプロ中のプロと言えるだろう。グラバーが龍馬を操ることなど容易いことだったのだ。
 グラバーが所属するジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系商社であり、ロスチャイルドの商売とはこういうものだった。国際金融資本家がカネを出さなければ、国家は戦争ができない仕組みが、すでにこのころ出来上がっていた。この仕組みの末端に龍馬をはじめとする幕末の志士たちは組み込まれていった。龍馬はユダヤ系国際金融資本の手のひらで踊らされていたというわけだ。結局、武器商人の手先となって維新の黒幕錯覚に陥った。結果的にこれが彼の命を縮めた。

長州、薩摩、幕府、そしてもちろん新政府も

 龍馬以外の武士はどうだったのか。
 例えば、長州五傑(井上馨・遠藤勤助・山尾庸三・伊藤博文・井上勝)。『長州ファイブ』として映画化もなされたから、知っている人も多いだろう。
 あれだけ尊皇攘夷の空気が強かった長州の志士が、なぜ欧州留学を果たしたのか。もちろん、攘夷だけでは太刀打ちできない。進んだ文明を知らない限り新しい日本は築けない。まだ若かった彼らが、こう改心したと見ることもできる。しかし、彼らに巨額な留学費用を用意し留学の手配をした側が、もちろん善意だけでないことは言うまでもない。
 長州ファイブの面々の留学費用を工面し、留学を手配したのはやはりグラバー。もちろん、ジャーディン・マセソン商会がスポンサーだ。つまり、長州ファイブの連中は、ロスチャイルドの手引きでイギリスに密留学したのである。
 長州とイギリスら連合国との間で下関戦争が勃発したのは5月10日で、長州ファイブの面々が乗り込んだジャーディン・マセソン商会の船が横浜港から出港したのは2日後の5月12日。このあまりに都合の良い日程には実に香しい茶番の匂いが漂っているではないか。
 渡航後、下関での砲撃に対する連合国側の幕府への抗議に返答がないことから連合国が長州に対して攻撃を始めるという報道を目にした長州五傑。5人のうち井上馨と伊藤博文は急遽帰国し英国公使と面会して攻撃を踏みとどまらせる一方、藩には海外事情を説明し攘夷を諦めるよう説得する。
 結局、ロスチャイルド一派に洗脳された長州五傑らが藩論をひっくり返し攘夷から開国派に変えさせた。1865年、長州藩は徳川幕府とは関係なくイギリスと関係を結ぶ申し出を行うこととなった。グラバーの目論見はまんまと成功したと言えるだろう。
 敵を幕府に定めさせなければ武器も売れないし、開国派に転じさせなければ操ることもできない。
 当時、長州五傑が高潔な志を抱いていたかどうかは分からない。だが、結果としてイギリスの手先となった。
 次に薩摩藩を見てみよう。1863年の薩英戦争で外国軍には到底叶わぬことに気づいた薩摩藩は、やはり幕府の鎖国令を破って、1865年には19人(留学生15人・使節団4人)をイギリスに派遣している。
 グラバー商会と薩摩藩の取引は大きく、薩摩側の担当だった五代友厚とグラバーは親しかった。留学はそんな2人の関係から練り上げられたものだろう。
 この密留学を手配したのも、もちろんグラバー。一行はグラバー商会の蒸気船オースタライエン号で、4月17日朝、串木野から旅立った。
 一行は現地英国で天皇のもとに統一国家をつくりたいという倒幕の志を表明する。これを受けて、英国の薩長倒幕派支援が強まるわけだ。
 彼らのうちの多くは、英国からフランスやアメリカに渡って留学生活を続け、維新後はみな政財界の要職に就いた。
 そのうちの1人、初代文部大臣となった森有礼は、日本語廃止・英語公用語論をぶち上げた真正国賊となったことは周知の通りだ。
 グラバーは反幕府派の若者たちを次々に洗脳して海外へ送り出し手先に変える。この方法は、現在でも若手官僚やマスコミ人のワシントン勤務などでも用いられている古典的な属国支配の在り方である。
 新時代の幕開けには西洋の学問・技術が必要であり、そのためには有能な人材の留学も当然計画されたが、魂まで売り渡して手先になる人物も多かっただろうことは容易に想像できるのである。
 一方、幕府を支援したのがフランスであった。フランスの公使レオン・ロッシュは、大東社(仏系フリーメーソン)のメンバー。
 英仏が日本の支配権をめぐって激しく争ったのが、幕末の騒乱背景である。これを倒幕派、佐幕派それぞれの武士たちが皇室を巻き込んで相争った。
 そして、これら英仏を上から支配したのが金融を牛耳るロスチャイルド家。つまり現場の公使レベルでは主導権争いが行われようとも、裏の支配層はどっちに転んでも構わないよう両建てで準備を進めていたのだ。
 一見、敵対する両者をつくり出し、双方を上から支配するやり方は、冷戦構造などを含め、その後もしばしば使われる金融ユダヤ人の戦略である。共産主義をつくったのは、実質的にロスチャイルド家である。レーニンもマルクスもトロツキーもスターリンもみんなユダヤ人。ロシア革命にはロスチャイルドの資金が投入され、スターリンに至ってはロスチャイルド家の隠し子説が有力である。
 ところで、1968年に暗殺された坂本龍馬の犯人は依然として推測の域を出ないが、グラバーにとって、幕府と薩長の内戦回避へ向けて動く龍馬が用済みになったということであろう。
 武器商人の儲けに反する企みを抱く龍馬はグラバーの支持を失ったはずだ。それどころか、邪魔な存在とされたのではないか。
 「傀儡は傀儡らしく動け」。その邪悪な意図に反した以上、龍馬の命運は決した。ただし、最後の最後で龍馬が金融ユダヤ人の企みに反したのは、せめてもの救いではある。
 維新後、欧米資本家の手先となることで下級武士からの出世を果たし要職について国家運営に当たる、かつての幕末の志士たちの姿に違和感を感じたもう一人の傑物が西郷隆盛だった。政府を離れた西郷の末路こそが、彼が最終的に愛国派の姿を取り戻したことを物語っている。そして、いまだに人々に愛されるのはそのためだ。
 幕末の重要人物が一堂に会した集合写真に有名なフルベッキ写真がある。オランダ系ユダヤ人で済美館(旧・長崎英語伝習所)の教師をしていたフルベッキを囲んで総勢46人が映る。著名な写真家・上野彦馬が撮影したものだ。この写真に映っているのは、フルベッキを中心に勝海舟、後藤象二郎、江藤新平、伊藤博文、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、黒田清隆、五代友厚、森有礼、陸奥宗光、中岡慎太郎、大隈重信、高杉晋作、大村益次郎、桂小五郎、岩倉具視、坂本龍馬ら蒼々たるメンバーだとする説がある。倒幕側だけではなく勝海舟など幕府側の人間も映っているのがミソである。さらにここには、明治天皇すり替え説のまさに本人とされる大室寅之祐も比定されている。フルベッキ写真が幕末明治維新の大謀略を解く鍵だとされる所以だ。
 フルベッキは、謀略の中心となりうるような力を持つ人物だったのか。彼の教え子たち、そしてここに映る人物の多くは明治維新政府で要職に就き、フルベッキ自身も東京に呼ばれ、教育や外交面などで助言を求められる機会も多かったようだ。1871年から1873年にかけての岩倉使節団はフルベッキの提案によるものだ。
 岩倉使節団には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らをはじめとする総勢107人が参加した。不平等条約を打破すべく富国強兵策を西欧に学ぼうとした日本にとって、ある意味、避けては通れない道だったと解釈することもできるだろう。
 だが、意地悪い言い方をすれば、一種の“洗脳研修旅行”みたいなものだったのではないだろうか。彼らが欧米でフリーメーソンのロッジを訪れた記録も残る。
 現代で考えれば、民主党の凌雲会がアメリカのネオコンに毒されて売国政治に邁進しているのと同じようなものかもしれない。
 岩倉使節団から帰国した政府の要人たちは、愛国派の西郷が邪魔になる。これが西南戦争につながる。これも現代流に考えれば、対米従属の政治家・官僚・マスコミたちがこぞって小沢一郎を葬り去ろうという状況に酷似していた。

 維新の志士たちに対する真相が徐々に明らかとなりつつあるのは、1世紀以上も経てからだったが、現代にはネットがあることがせめての救いである。

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第2章 孝明天皇は殺された( 1 / 1 )
孝明天皇は殺された

孝明天皇暗殺は公然の秘密だった

 彼らは、また天皇(訳注 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも恐らく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳注 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった。天皇が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないだろう。

(『一外交官の見た明治維新 上』アーネスト・サトウ 坂田精一訳 234頁)

 これは、イギリスの外交官で駐日英国公使や通訳を務めたアーネスト・サトウの証言である。十四代将軍・徳川家茂、孝明天皇両者の暗殺は、イギリス人外交官の間でも知られていたことが分かる。

 孝明天皇、そして将軍家茂を謀殺したのは、誰なのか。

 家茂が死亡したのは、上洛中の1966年7月20日。その4、5日前から風邪気味で臥せっていた。すると、宮中から回されたという医者がやってくる。どうやらこの人物の名前ははっきりとはしていないようだ。孝明天皇の妹・和宮が家茂に降嫁して以来、2人の仲は良好。疑いもせず、家茂は医者の診療を受ける。医者が処方した薬を飲んでから、3、4日後に家茂は死亡した。家茂は、胸のあたりに紫色の斑点ができ、激しく苦しみながら息を引き取った。

 一方、孝明天皇は、一般には1866年12月25日に天然痘で亡くなったこととされている。12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だった。

 孝明天皇は強硬な攘夷派として知られるが、和宮降嫁をきっかけに公武合体派でもあった。攘夷を実行するのは幕府という考え方に至っていたのだ。

 いわば、孝明天皇ー将軍家茂というラインが出来上がっていた。こうなってくると、困るのは薩長である。天皇が幕府と手を結んでしまえば、倒幕の大義は失われてしまう。薩長にとって、公武合体派の孝明天皇と家茂は邪魔者というしかない。両者が邪魔なのは、薩長に武器を売り支援するイギリスにとっても同じことだ。戦いが起きなければ、戦争経済を発動することはできない。日本に内戦をしかけ、騒乱を通じて利益を貪り、さらに勝ち馬を支援して、その後の日本を操っていく。これがイギリスの思惑だ。

 歴史家の鹿島曻氏は、孝明天皇、家茂の暗殺犯を岩倉具視と西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文ら薩長グループによる武略であり、その背後にイギリスの影ありとしている。

 鹿島氏によると、孝明天皇の暗殺には刺殺説もあるという。直接の犯人は伊藤博文と岩倉具視という当時を知る人物の遺言を発掘することにも成功している。

 長州ファイブの1人として英国留学に旅立っていた伊藤博文は、完全にグラバー、そして背後のユダヤ金融資本に洗脳されてしまっていたのだろうか。

 司馬遼太郎史観に基づく人たちから総スカンを食らいそうだが、筆者はいわゆる幕末の志士たちは、各藩の諜報者(スパイ)であり、国士と呼べるような輩ではおよそありえなかったと考えている。彼らは、総じてみな下級武士である。諜報活動のような危険の伴う仕事は下級武士の仕事だったのだろう。下級武士からしてみれば、一攫千金、成りがあるチャンスである。そのためには天皇殺しすら厭わない。残念ながら、これが現実であろう。伊藤博文にしても、1862(文久2)年には公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を画策し、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺している。志士というよりは、さながらヒットマンというしかない。もともと農家に生まれ父が足軽の養子となったことで、かろうじて足軽武士の地位を手に入れた伊藤にとって、これしか成り上がっていく道はなかったのだろう。

 鹿島氏は、さしたる功績もない伊藤が、維新後先輩諸氏を押しのけて君臨できたのは、天皇暗殺の首謀者であったからだと推測している。実際に武士の中でも最底辺に位置する足軽の伊藤は、明治維新と同時に参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿などの要職を歴任した。伊藤は幕末史において暗殺以外に重要な案件には参加していないだけに、天皇暗殺の論功行賞だったとしても納得できるのである。

 また、後年、伊藤博文を暗殺した韓国人の安重根は、動機として15の理由を挙げた。そのうちの一つに注目すべき一説があった。

「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。」

 明治天皇の父、つまり孝明天皇を伊藤博文が暗殺し、韓国の国民の間では周知の事実だというのである。伊藤博文が孝明天皇暗殺の真犯人であるということは、この時代、日本海を越えて韓国までも流布していた一つの証拠と言えるだろう。

 もちろん、伊藤本人の自白があるわけでもなく、伊藤の犯行を裏付ける決定的な証拠や目撃があるわけではない。が、前述したように伊藤は暗殺の前科持ちだ。長州藩の鉄砲玉として、藩の謀略活動の最前線にいた。天皇暗殺に長州藩が絡んでいるとすれば、真っ先に名前が挙がってくるのが伊藤というわけだ。こうした状況証拠から伊藤暗殺犯説を主張する研究者は鹿島の他にも少なくはない。その1人、太田龍氏は、孝明天皇を祭神とする玉鉾神社を伊藤博文が弾圧していた事実を指摘する。なぜ、現天皇の父上を顕彰する神社を伊藤が弾圧しなければならないのか。これも伊藤が暗殺犯なら納得できる。

睦仁親王も暗殺、明治天皇はすり替えられていた?

 そして、伊藤をはじめとする薩長の連中や岩倉具視らが犯したと思われる大罪は、孝明天皇殺しだけにとどまらない。家茂を暗殺したのも連中の仕業ではないかと推測するのはもちろんであるが、もっと酷い話がある。

 孝明天皇の子どもだった睦仁親王を殺害したのも彼らの手によるものではないかと考えられるのだ。もちろん、正史上では睦仁親王はそのまま明治天皇となっている。

 ネット上では、明治天皇すり替え説として広く知られている。山口県田布施町にある大室家とは南朝の末裔とされ長州藩が代々、保護してきた。その大室家のある人物・大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇となってしまったというわけである。

 孝明天皇を暗殺した側からすれば、犯行を隠し通すには周囲を買収したとしても息子の存在は大きな障害となるだろう。攘夷志向の強い天皇の息子だけに、都合良く操れるとは限らない。何よりも天皇殺しについて沈黙はしなかっただろう。

 それでは本当にすり替えられてしまっているのか。睦仁親王と明治天皇は、使用前使用後のごとく立ち居振る舞い、見た目がことなっているという証言がある。

 睦仁親王は天然痘にかかったことがあったが、明治天皇にはその痕跡はない。

 睦仁親王は女官に囲まれて大切に育てられたためか弱々しい性格だったようだ。13歳だった1864年7月の「禁門の変」のときは、砲声と女官たちの悲鳴に驚いて失神してしまった。ところが、明治天皇は馬を乗りこなし馬上から近衛兵を閲兵し、大声で号令をかけるなど、堂々としたものだった。もちろん睦仁親王が乗馬をした記録は残っていない。

 また、睦仁親王は性格だけでなく肉体的にも虚弱体質であり、毎年のように風邪をこじらせていた。十代半ばの思春期となっても女官たちと一緒に遊技に興じていたという。一方、明治天皇は体重24貫の巨軀。側近と相撲をすれば、投げ飛ばすほどの馬力を誇った。

 睦仁親王は16歳となっても書は下手だったが、明治天皇は達筆。

 このように、16歳の睦仁親王と明治天皇の間には、明らかに断絶があるようだ。父の孝明天皇同様に暗殺されてしまったと考えるのが自然だろう。

 もちろん、明らかなすり替えがあるわけではなく、暗殺の確かな証拠が残っているわけではない。

 だが、孝明天皇暗殺よりも濃厚な疑惑が漂うのである。

 その一つが、明治天皇の正妻「昭憲皇太后」だ。この表現を見て、「あれ?」と思わないか。通常、天皇の后妃であれば、本来は「昭憲皇后」となるべきところだ。皇太后は天皇の母や先帝の后妃に付けられる。しかも、明治天皇と昭憲皇太后の間には1人も子どもが生まれていない。それだけではない。会った形跡すら残されていないのだ。

 しかし、これも睦仁親王と明治天皇が別人なら納得できる。すり替えが事実なら、睦仁親王は先帝となり、昭憲皇太后は睦仁親王の后妃だ。だから、明治天皇にとっては皇太后となる。暗殺犯=維新の重鎮は、昭憲皇太后にはよくよく言いくるめ、沈黙の人生を送らせた。

 そして、もう一つ。明治天皇は本来、北朝の天皇のはずである。ところが、明治期、南朝の見直しが進み、南朝正統説が政府の見解とされた。足利尊氏は後醍醐天皇を裏切った逆賊となった。北朝であるはずの明治天皇の統治下において、著しく不可解な出来事である。大正15年に発令された皇統譜令では、正式に南朝の正統を政府が認め、南北朝時代の光厳天皇から後円融天皇までを皇統系譜から外してしまったほどだ。

 南朝天皇家として大室家のほかにも熊沢天皇、三浦天皇が知られる。その一家の当主、三浦芳堅が昭和初期、田中光顕・元宮内大臣を訪れたときの田中の言葉が、三浦の著作『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に載っている。この中の一説が、『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』中の鹿島氏の文章(「天皇は二人いた!!」)だ。

 実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。(中略)実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御子孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、此の御王孫を御守護申し上げてきた。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御一新を志した謹皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、此の謹皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。此の桂小五郎と西郷南州とを引き合わせて遂に薩長を連合せしめたのは、我が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

(『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』26頁)

 田中は、「我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ」という桂小五郎の言葉に南朝の忠臣菊池氏の子孫だった西郷が深く感銘して薩長連合が成功したと続ける。坂本龍馬の門下生だった田中の言葉だけに信憑性がある。

 明治維新は王朝交代でもあったのだ。天皇殺し、皇子殺し、将軍殺しという連続殺人と天皇すり替えという大掛かりな謀略が大政奉還直前に進行していたのだった。

 坂本龍馬の暗殺もこの流れの中で考えられるだろう。グラバーに育てられた龍馬は当初は、深い真相も知らされないままユダヤ金融資本の意向通りに倒幕へと動いていたが、結局、直接対決を避け公武合体の道を探り出した。日本人同士相争わず内戦を避けようと奔走した。龍馬は邪魔になった。

 果たして、これらの大仕掛けを足軽上がりの下級武士たちだけで考えられたであろうか。失礼ながら、彼らは鉄砲玉の実行部隊だった。

 龍馬を操り、薩長の下級武士を欧州留学に送ったのがグラバー(ロスチャイルド家の下僕)だったことを思い起こすべきである。シナリオライターはグラバーらを中心とするユダヤ国際金融資本だったと考えれば、維新後の遣欧使節団などを考えても、すべての筋道が通る。

 そして、表向き民間人だったグラバーに加え、英国公使も謀略側の一味だったことはいうまでもないだろう。そうなってくると、アーネスト・サトウの日記もあたかも自分は暗殺に無関係だというアリバイの主張のようにも思えてくる。

 大室寅之祐天皇については、ネットでは様々な分析がなされている。そのうちの一つには、寅之祐は大室家の養子であり南朝の末裔などではないという説もある。

 それによると大室家が南朝後裔を自称するようになったのは文政時代のことであるが、幕末に断絶している。大室寅之祐は大室家に嫁いだスヘの連れ子であり、南朝の血筋などつながっていないというのだ。

 これが事実とすると、明治維新の邪悪な目論見が透けて見えるようだ。悲しいまでの茶番である。日本を換骨奪胎させて統治する。この邪悪さこそ、ユダヤ国際金融資本の持つ専売特許なのである。長州とユダヤの歪んだ関係がその後の日本の針路を決めた。それは、現在に至るまで続いていると言えるのかもしれない。

 「明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、わがままをして“元勲”の言うことをきかないと、西郷隆盛は、『そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ』といって叱りつけた」

(『実録天皇記』大宅壮一)

 読むと日本人として悲しくなってくる話だが、どこの馬の骨とも分からぬ輩を現人神に祭りあげて国民を騙してきたのが、残念ながら明治維新の真実だったのか。幕末の騒乱に策を弄してユダヤ国際金融資本の下男と成り果てることで権力の座に成り上がった元勲たちが、すり替えた明治天皇を自由に操って国を統治した。そのインチキぶりに欺瞞を感じた西郷は政府から離脱して、やがて叛乱軍の烙印を押されて滅んだ。一方、明治天皇は大酒飲みで、結果的には糖尿病と尿毒症というから今風に言えば糖尿病性腎症から腎不全を発症して61歳で亡くなった。国民全体を欺いていたという事実が、酒を浴びるように飲まずにはいられないほどのストレスとなっていたのではないか。

 後の章で検討するが、日本は第2次世界大戦前は英国、戦後は米国の属国であった。とくに1985年のプラザ合意以降はバブル演出&崩壊、対日年次改革要望書の丸呑み、そして今度のTPP参加強要による永久属国化と、米国の意図するがままに従ってきた。その姿はまるで同前だが、こうした体たらくの根本的な原因は明治天皇のすり替え隠蔽にあるのではないかと考えている。これは謀略中毒症の米国にとってみれば、絶好の脅しネタである。ジャーナリストの鬼塚英昭氏は『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』において、大室寅之介の出身地である田布施周辺出身の有力者やその秘密を握り守っていく集団による統治体制を“田布施システム”と呼び、解明している。いま日本政府に求められるのは、明治天皇すり替えの事実を天下に公表してしまうことだろう。そこに突破口がある。
 
 
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