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ユダヤ人と彼らの嘘 その1

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 4月 8日(水)13時02分51秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://rekishijyoho.seesaa.net/archives/200611-1.html

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その1
 これからご紹介する『ユダヤ人と彼らの嘘についてOn the Jews and Their Lies』は1543年にマルティン・ルターによって出版されたドイツ語原本の英語版を邦訳したものである。(訳者/島講一)

-----------------------

 この翻訳は、偉大な宗教改革者が人間関係における世界でもっとも深刻な問題の一つを取り扱った文書の最初にして唯一の英語版である。マルティン・ルター師がユダヤ問題を扱ったことは、実は一貫してアメリカ国民には隠されてきており、本論文の出版は、キリスト教国アメリカに深刻な衝撃を与え、変化をもたらすことになるだろう。

関連記事:宗教改革はなぜ起こったのか その1

http://manapedia.jp/text/61

●発行者序

 本論文を読むにあたっての心の準備として、あなたはこれまでに出版されたもののなかで最も物議をかもし、思想的に注意を引いたものに触れようとしているということをお伝えしておきたい。
 新教(プロテスタンティズム)の開拓者であるルター師によって書かれた本論文の発行者は、必ずしも自分たちが同じ立場にあるので出版するというわけではない。出版の主たる目的は、公けに論議するには最も微妙で危険な問題の一つであるユダヤ問題についてルターが述べた内容の正確な翻訳を読者に提供することである。つまりこの翻訳は、宗派的作業または党派的論文として行なわれたわけではない。
 原語の本論文を発見し、翻訳を始めようとしたとき、多方面からの広範な妨害に直面して驚かされることになった。二名の翻訳者が脅迫されたのである。文章は簡潔であるが、かなり劇的な体験を経て、われわれは翻訳を完成した。翻訳する過程で、われわれは、本論文を秘密にしておこうとする巧妙に仕組まれた計画が存在すると確信するに至った。
 ルターにとって、ユダヤ人との体験は失望させるにじゅうぶんなものであった。彼はユダヤ人を長年にわたって改宗させようと努力しつづけた。聖パウロのように福音を伝えようとしたのである。だが、読者もすぐにわかるように、後年にいたって彼はそうした努力はすべて無駄であったという結論を下さざるを得なかった。
 本論文は内容の正確さを何よりも尊重する立場から出版される。それゆえ、一六世紀のドイツに関して高度な専門知識を有する研究者が見て誤りが発見された場合には、次の版で改訂する用意がある。本論文についての需要は非常に大きいので、数かぎりなく版を重ねることをわれわれは期待している。
 マルティン・ルターほどの傑出した人物の著述が、巧みに故意に、ルターの崇拝者たちの目の届かぬところに隠されたままであったという事実に対して、誠実なキリスト教徒のあいだに深い怒りが起こっている。ルターのいくつかの言葉は読者に衝撃を与えずにはおかないであろう。われわれの仕事は、彼が書いた内容をそのまま読者に提供することであり、その内容にわれわれが同意するかどうかは関知するところではない。
 この翻訳の基本的な目的は、ユダヤ問題に直面した世代はわれわれが初めてではなかったことを知るためである。第二の目的は、ユダヤ問題に対する関心は、関心の対象となっている個々人が堕落していたり、非キリスト教徒であるからとは、必ずしもかぎらないということを知るためである。
                                   発行者
*原注一――読者は、ルターのユダヤ人に対する見解がプロテスタントとしての立場から必然的に生じたものであると結論づけないでほしい。多くのカトリックの教皇たちも、ルター師が使った言葉ほど強くはないとしても、大同小異の言葉を使っている。事実、教皇の回勅によってゲットー〔ユダヤ人居住区〕が創設され、ユダヤ人をキリスト教徒の社会から分離する政策は、ローマから発せられた回勅によって始められたのである。本注記の目的は、プロテスタントまたはカトリックないしは他の宗派に問題があるわけではないということに注意を喚起するためである。あらゆる信徒が、ルターに同意するか否かなのである。

*原注二――本論文がマルティン・ルターのものであるかどうか、疑いを抱く人もいるであろう。原本はワシントンDCの議会図書館に、または信頼しうるいくつかのルター派神学校に保存されているルター著作集に見いだすことができる。あらゆる宗派の無数の聖職者が本論文の存在に気づいているのである(訳注)。また確かめうるかぎりでは、本論文がアメリカで出版される最初の英訳版であるという事実にも彼らは気づいている。

*原注三――本論文はルターの全著作の最後の部分に含まれている。彼は六十三歳までしか生きなかったが、人生の最盛期に亡くなったのだということを想起しなければならない。

*訳注――H・H・ベンサソン著『ユダヤ民族史』(村岡崇光・訳、六興出版)の第四巻(一四八~一四九ページ)にこう書かれている。
〈一五三〇年代の後半から現われはじめたルーテルの態度の変化は、ユダヤに対する約九百年前のマホメットの態度の変化に類似した点がある(第三巻中世篇Ⅰ40‐41頁参照)。この二人の宗教革新者はいずれも、彼らの信仰の優越性とユダヤ人の聖書に対する信奉がユダヤ人を自分たちの信仰に改宗せしめるであろう、とはじめは期待したのだが、この期待が裏切られると、それぞれが置かれた社会の一般的傾向は彼らを反ユダヤ主義の方向へ押しやった。二人ともこの反ユダヤ感情を最大限に表現した。ユダヤ人はルーテルの信仰に帰依しなかったのみならず、キリスト教内に起こりつつあるこの変化が、ルーテルをも含めてすべてのキリスト教徒をユダヤ教に改宗せしめることを期待すらした。一五四三年にルーテルが『ユダヤ人と彼らの嘘について』(Von den Juden und ihren Luegen)と題する恐るべき中傷論文のなかで書いていることは嘘ではないであろう。
〈三人のユダヤ人の学者が、われわれが当地ヴィッテンベルクでヘブル語を読みはじめたというので新しいユダヤ人に会えるものと思って私のところに訪ねてきた。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書を読みはじめたからには、われわれが変わるのもそう遠い先のことではなかろう、とまで信じこんでいたようである。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るように彼らに仕向けると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならない、と言った。私は彼らを不憫に思って、イエスのために、道中無事に旅行できるように紹介状を認めてやった。しかし、彼らはイエスのことを『はりつけにあった者』と呼んだことが私に知れた……それゆえ、私はユダヤ人とはもうかかわりたくない〉(W. Linen, ed., Luther's Kampfschriftengegen das Judentum, Berlin, 1936, p.144)(続く)

2006年11月21日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その2
●序 文

 私はもうこれ以上、ユダヤ人のことも、ユダヤ人に反対することも書かない決心をしていた。しかし、この哀れで邪悪な連中がわれわれキリスト教徒に打ち勝とうとするのを止めないので、ユダヤ人のかかる有害な企てに抗議する人びとの隊列に加わるべく、私はこの小冊子の出版を認め、ユダヤ人に対する防備を固めるよう、キリスト教徒に警告した。
 私は、ユダヤ人がキリスト教徒を馬鹿にし、そのために彼らが追放される悲劇を見ることになろうとは考えてもみなかった。だが、悪魔がこの世では神なのである。そして、神のない場所においては、弱者だけでなく強者のあいだをも、悪魔はやすやすと航海するのである。
 神がわれわれに御加護を与えられんことを。アーメン。
                   マルティン・ルター
●主による恩寵と平和のあらんことを!

 親愛なる閣下ならびに友人諸氏へ。私は、キリスト教徒と論争を続ける一人のユダヤ人の論文を受け取った。その論文のなかでユダヤ人は、聖書(われわれはそれを主キリストとその御母マリアへの信仰のために用いるのであるが)の一節を曲解し歪曲する厚かましさを示している。彼はわれわれの信仰の土台を覆そうと企図しているのだ。
 これに関して私は、あなたがたおよび当のユダヤ人に次のように回答を与える。
 私の目的は、ユダヤ人と論争したり、聖書をどのように解釈し理解するかを彼らから学ぶことではない。私はすでにそれらをすべて知っているからである。ましてや、ユダヤ人を改宗させようなどと考えてもいない。そんなことは不可能なのだ。
 ユダヤ人に良いことは一つもなく、いたるところでおおむね悪い状態になっている。彼らは天罰についてまったく無関心なために一四〇〇年以上も追放され続けており、想定している終末と救済の日がいまだに不明であるという恐ろしいジレンマについて意識しようとはせずに、熱烈な絶え間ない神への叫び声で誤魔化しているのである。
 天罰が役に立たないとすれば、われわれの話や解釈などなおのこと役には立たないと私は思っている。

●ユダヤ人との論争の無益さ

 それゆえ、キリスト教徒は、現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしもあなたがたが彼らと話さざるを得なくなったり、話したくなったときには、次のこと以外に話してはならない。

〈ユダヤ人よ、あなたがたの会堂と司祭たちと共に、あなたがたの王国は一四六〇年間破壊されたままであることを知らないのか。われわれキリスト教徒は、キリスト生誕後一五四三年と記すように、その年は正確には一四六九年であり、ヴェスパシアヌス〔九~七九、ローマ皇帝(六九~七九)〕とティトゥス〔三九~八一、ローマ皇帝(七九~八一)。ヴェスパシアヌスの息子〕がエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を追い払ってから一五〇〇年が過ぎているのだ〉

 この小さいクルミをユダヤ人に与え、彼ら同士をかみ合わせ、好きなだけ議論させるとよい。
 こうした神の恐るべき怒りこそ、彼らが確実に誤っており、悪を行なっているという十分な証拠である。そんなことは、子どもでさえ理解できる。自分の民をそれほど無慈悲に処罰し、慰めの言葉もなく、またそうした悲惨さが続く期間や期限を示すこともなく沈黙を保っているような神など想像すらできないことだ。そのような神を信じ、希望を見いだして信頼したいと誰が思うであろうか。
 それゆえ、この怒りによってユダヤ人は神にはっきりと拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また神も彼らの神ではないという結論に達せざるを得ないのだ。

〈その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ〉(「ホセア書」第一章九節)

 そう、彼らは恐ろしいジレンマに陥っているのだ。彼らがこのことについてどう解釈しようとも、欺くことができない事態をわれわれは眼前にしている。(続く)

2006年11月22日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その3
●神の怒りの犠牲者

 そして感性と理性の閃(ひらめ)きのある者は、必ずや次のように考えるであろう。

〈ああ神よ。事態はわれわれにとって良くない。われわれの悲惨さは大きすぎる。追放は長すぎ、あまりにも過酷だ。神はわれわれを忘れてしまった〉

 もちろん私はユダヤ人ではない。そして、私はこの民族に対する神の恐るべき怒りについて深刻に受け止めたいとは思わない。身震いすることではあるが、そうした考えが私の身体といのちのなかにしみ込んでくるのである。すべての偽キリスト教徒および信仰なきものに対する地獄における神の永遠の怒りとは、いったいどのようなものなのであろうか?
 ユダヤ人が主イエス・キリストをどう見なそうと構わない。われわれは「ルカ伝」(第二十一章二十~二十三節)の成就を見るのである。

〈エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。……これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです〉

 要は先に記したように、われわれの信仰についてユダヤ人と論争すべきではない。彼らは、子どもの頃からわれらが主に対する有害な説と憎悪をもって育てられてきているので、自己の悲惨さを通して柔軟になり、救世主が到来し、それが主キリストであると告白せざるを得なくなるまで、希望はまったくないのだ。とすれば、彼らと議論を交わすことは一般に時期尚早であり、無駄なことだ……。
 われわれの信仰をさらに強固なものにするために、彼らの信仰と聖書解釈における愚劣さをいくつか考えてみよう。彼らがどのような汚い手口でわれわれの信仰を非難しているかを知るためにも。そうすることにより、あるいは一人のユダヤ人を改心させたとしよう。彼は恥じ入るだろうが、恥じ入れば恥じ入るほど良いのだ。
 ユダヤ人とその行為について話すこと以外、われわれは彼らと話すことはない。しかしわがドイツ民族は、そうしたことについてよく知っている。
 彼らは一つの原則を保持し、それに依存している。すなわち、自分たちは地上で最も高貴な民族として生まれたのであり、アブラハム、サラ、イサク、レベッカ、ヤコブ等の子孫であるということだ。
 したがって彼らの目から見ると、われわれ異教徒は人間ではなく、まったく虫けらにも値しない存在なのである。それはかの気高い貴族の血統ではないからだ。これが彼らの主張であり、私の意見では主要にして最も強固な部分である。
 それゆえ神は、彼らの宗派・祈り・歌・教義、そして彼らの全生涯を苦しめなければならないのである。
 そこで彼らは神の御前に立ち、神を苦しめる(私は神を人に準えて話している)。神が異教徒から彼らを分離したことで、また聖なる父たちの子孫であることを彼らに許したことで、そして神御自身の神聖な民として彼らを選んだこと等々で、彼らがいかにみずからを高みに置き、神を誉めそやしているか、その声を聞かねばならぬ。彼らは父祖たちの血統と子孫であることを際限もなく自慢するのである。

●自己を正当化する大言壮語

 彼らのうわ言のような気違いじみた無意味さを完璧なものとするために、彼らは神を讃美し、次のことに感謝を捧げる。
 つまり、第一に彼らが人間であって動物ではないことに、第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(異教徒)ではないことに、そして第三に彼らが女としてではなく男として創造されたことに感謝を捧げるのである。
 彼らはかかる馬鹿げた行為を、イスラエルからではなくゴイムから学んだのである。仮にこのような冒と神の行為が神への讃美であると言い得るならば、ギリシアのプラトンもまた毎日同様に神を讃美し感謝を捧げていたと歴史家は記しているからである。プラトンは次の三点において神を讃美していた。つまり、彼が人間であって動物でないこと、男であって女ではないこと、ギリシア人であって野蛮な非ギリシア人でないことにおいてである。
 こうしたことこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。それはちょうどマラキらが、自分たちだけが人間であり、世界の他のすべての者はアヒルやネズミにすぎないと夢想していたのと同じことである。
 誰も彼らがイスラエルの血統および種族であることについて大言壮語するのをやめさせることはできない。旧約聖書によれば、そのために彼らは多くの戦闘に敗れてきた(ユダヤ人はだれもこのことを理解できない)。それゆえにすべての預言は彼らを叱責している。
 そうしたことは、魂と信仰を抜きにした奢りであり、現世的な憶測にすぎないからである。(続く)

2006年11月23日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その4
●悪魔の子どもたち

 われらの主はまた、彼らを「蛇ども」と呼ばれた。

〈あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい〉(「ヨハネ伝」第八章三十九節)
〈あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって……〉(同第八章四十四節)

 彼らが悪魔の子どもたちであるということは、彼らが現在でもそのような呼ばれ方に耐えることができないように、彼らにはとても耐え難いことであった。それは、もしも彼らがこの拠りどころ(アブラハムの子孫であるという)を示さねばならないとすれば、彼らが築いたものはすべて崩壊し、違ったものになってしまうからである。
(このあとで彼らの自己讃美は根拠のない仮定としてルターによって論破されている。これらの論述は次の言葉で結ばれている)
 しかし、このように私があえて言うのは、われわれの信仰の強化のためである。というのは、先に述べたように、ユダヤ人にその高慢さや貴族と血統の栄光を捨てさせることはできないからだ。ユダヤ人は凝り固まっているのだ。
 けれども、われわれキリスト教徒はこれらの頑固で呪われた人間ども(彼らは神が嘘をついたと非難し、全世界を得意げに軽蔑する)に騙されぬよう警戒しなければならない。というのも、ユダヤ人たちは彼らの信仰をわれわれが受け入れるよう積極的に勧誘するだろうし、それが可能なところでは、どこであろうとそうするであろうから。
 神がユダヤ人に対して慈悲深くあってほしいと願うなら、ユダヤ人はまず彼らの宗派から、彼らの心から、すべての神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわなければならない。そうした祈りこそが、ユダヤ人に対する神の怒りをたえず増大させているのだから。
 しかし彼らは決してそうすることはなく、自分から控えめになることはないだろう。神が与え給うであろう彼らの恐るべき絶滅から特別にお救いになろうとするほんの数名を除いては。

●自分たちを高みに置く

 ユダヤ人が自分たちを高みに置いて他の民族を軽蔑するさいに、その根拠としているのは、アブラハム以降、割礼を行なっているということである。そのためにわれら異教徒は、宗派・祈り・讃美歌・教義において、どれほど災難を被らねばならなかったことであろう。われわれが割礼を行なわないために、なんとわれら軽蔑すべき民族は、彼らの面前では醜くも悪臭を発しているというのである。(ここから聖書からの多数の引用に基づく長い神学的論述が続く)
 そのなかで彼らユダヤ人はすべての異教徒の前で主人ぶった尊大な様子に描かれている。それは、彼らユダヤ人は、常に邪悪な偶像崇拝や誤った教義を実行する、モーセと同じくまさに割礼を受けていない心をもつ民族であるからだ。それゆえ、すべての預言者がそのことを嘆き悲しんだのである。しかし、彼らは同時に神を喜ばせようと努めた。そのために彼らは預言者たちを殺害したのである。
 聖書がいたるところで証明しているように、彼らは預言者の説教や教えや叱責によって自分たちの邪悪な心を善きものにしようなどとは一切考えない罪深い高慢な民族である。
 それでも彼らは、神の僕たらんとし、神の御前に立とうというのだ!
 今日にいたるまで、彼らはみずからの高貴さと血統を自画自賛する以外にできることはなにもなかった。彼らはみずからの宗派・祈祷・教義で自分たちだけを讃美し、全世界を罪深きものと宣告する。彼らは神に最も近い子どもとして神の御前に立っていると勝手に夢想しているにすぎないのである。(続く)

2006年11月24日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その5
●嘘つきで、執念深い「いぬ」

 彼らは根っからの嘘つきで、執念深い「いぬ」である。彼らは、聖書の全ページを最初から最後まで自己流にたえず曲解したのみならず、偽造した。ユダヤ人の野望と吐息のすべては、いつの日かわれわれ異教徒を、かつてエステルの時代にペルシアで扱ったと同様に扱いたいという一点に向けられているのである……。
 ああ、彼らはなんとエステル書を偏愛していることか。この書は、彼らの血に飢えた執念深く残忍な欲望と野望とを、実にみごとに肯定している。自分たちを神の民と妄想し、異教徒を殺害し押しつぶしてしまいたいと熱望し、またそうせねばならないと考えている彼らユダヤ人たち、血に飢えた執念深い者どもの上に、太陽は決して輝くことはなかった。彼らが期待する救世主の主たる約束は、彼らの刃によって神が全世界の民衆を殺害することなのである。彼らは、まずわれわれキリスト教徒に示したように、可能なときにはしばしば殺害しようと試みたが、繰り返し自分たちの鼻先をこっぴどく叩かれてきた。
(ここでルターは、繰り返されるユダヤ人迫害の最も核心的な理由、すなわち彼ら自身の欠陥と高慢な態度について明らかにしている。ルターは、割礼に加え、ユダヤ人たちが自慢する多くの文献を列挙している。寄木細工的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており、不信心で邪悪であることを嘆く聖書の中の多数の文章を引用し、そのうえで悪魔をユダヤ人と比較して語っている)

●異教徒より邪悪な者ども

 もしもユダヤ人が神の戒律をもたず、またそれを知らなかったならば、どんなにましであったことか。というのは、もし彼らがそれをもっていなければ、有罪を宣告されることはなかったからだ。神の戒律をもっていながら、それを守らぬばかりか、絶え間なくそれに反逆して行動するがゆえに、彼らは呪われているのである……。
 こんなことが成り立つならば、殺人者・売春婦・泥棒・ならず者・すべての悪人どもが神の言葉をもち、神を恐れ敬うことを知り、神を愛し、神に仕え、神の御名を称え、殺人や不倫を犯すべきでないことを知ってさえいれば、自分たちは神の神聖にして選ばれた民であると公言してもよいというのと同じことになってしまうではないか。
 しかし、彼らは現に罪を犯しており、呪われているのだから、たとえ最も神聖にして正しい神の言葉を所有しているとしても、これら悪党どもはそれに反して罪を犯していることに変わりはないのである。ユダヤ人と同様、神はその律法を通してこれら悪党どもを神聖化し、神の特別な民として選抜されたということを、全諸国民の前で彼らに自慢させてみようではないか。
 ユダヤ人たちが自分たちの宗派を自慢し、神がその律法を通して彼らを浄化し神の選民にしたという理由で、神を讃美し感謝を捧げる一方、自分たちはそれらの戒律をまったく守らず、高慢・妬み・高利貸し・貪欲・あらゆる卑しさに満ち満ちていることをよく承知している。
 また彼らユダヤ人は、なによりも祈祷では敬虔を装い神聖に振る舞いはするが、その栄光も前述の悪党どもの栄光と同じことになってしまうのだ。
 彼らは高利貸しを行なうのみならず(ここでは彼らの他の悪徳については黙っていることにする)、高利貸しは神がモーセを通して彼らに命じた権利であると教えるほど盲である。この点についても彼らは、他の場合と同様、実にひどいやり方で神についての嘘を伝えているが、いまその詳細を述べる余裕はない。(続く)
posted by 島講一 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年11月25日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その6
●彼らは十戒を愚弄し、神を馬鹿にする

 もしも十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を愚か者のように扱う詐欺かペテン以外のなにものでもない。それはあたかも、悪魔の統領が祭司か牧師の衣装をまとってわれわれのあいだを歩き回ったり、戒律や生き方をすべて遵守するかのように振る舞っているのと同じことである。けれどもそうした精神的な装いのもとに真の悪魔・狼・教会の敵・冒者が跋扈し、福音も十戒も踏みにじり、呪い、非難しているのだ。神の御前でそれはなんとも素晴らしい聖人であることよ。
 もしもこの世で一人の美しい女性が、慎み深い貞淑さ・気品にみちた作法・公正さをもって立ち居振る舞い、かつ処女であることを示す花飾りをつけてそぞろ歩きしていたとしても、裏では十戒に背く淫らで恥ずべき娼婦であったならば、表面的な純潔・公正・振る舞い・素晴らしい従順さなど、いったいなんの役に立とうか。彼女は、だらしない公娼らの七倍も軽蔑されることになろう。
 かくして神は、表面的には戒律と高潔さを示しながらあらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行ないを彼らがしているので、預言を通していつもイスラエル人を卑しい娼婦と叱ったのである。とくにホセア〔前八世紀のヘブライの預言者〕が嘆いたように。

〈わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから。彼らの母は姦淫をし、彼らをはらんで恥をさらし、そして言った。「私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油の飲み物を与えてくれる」と〉(「ホセア書」第二章四~五節)

 敬虔かつ清潔で見苦しくない装い、外見上、淑やかに振る舞う乙女や女性を見るのは実に素晴らしいことである。だが、彼女が娼婦であるなら、その衣装・装身具・花飾り・アクセサリーは肥溜の雌豚が身につけたほうがよりまともに見えるであろう。ソロモンが言ったように、「雌豚の鼻の上につけた黄金の飾りは、綺麗で馬鹿な女のようだ」ということになるだろう。
 ゆえに彼らは、神の十戒を本当に信じない表面だけの信奉を自慢するのはやめたほうがよい。そうなのだ。それは、異教徒と比べて神の民である彼らの価値を七倍も低下させることになるのである。
 彼らを彼らだけにしておこう。われわれは、哀願や五十一番目の讃美歌を唱える者、すなわち律法がなんであり、それを遵守することとしないことの意味がわかり、理解できる者たちと共に居させてほしいのだ。
 親愛なるキリスト教徒よ、かくして盲のユダヤ人どもがあなたがたを誤り導くのを黙認するときには、自分たちがどうされようとしているのか、よく気をつけるべきである。そのような場合には、一つの諺が確かに成り立つであろう。「盲が盲を導くなら、両方とも堀に落ちるであろう」という諺が。
 それ以上、彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らないのに異教徒に対して高慢で居丈高になる彼らより、神の御前では、異邦人のほうがまだましである。なぜなら、彼らは神聖なものにそうした傲慢さをもっておらず、奢り高ぶる聖人や罪深い神者、嘘つきどもよりはるかに律法に適ったことを行なうからである。

●彼らの宗派は悪魔の巣窟である

 それゆえにあなたがたは、ユダヤ人に対して警護を固め、次のことを知るべきである。すなわち彼らが集う場所は悪魔の巣窟以外のなにものでもなく、そこでは自画自賛・虚栄・嘘・冒・神と人間に恥辱をもたらすことが、悪魔の所業と同様に最も強烈で有害なやり方で実行されているのだということを。
 ユダヤ人が説教しているどの場所でも、ひとにらみで人びとを傷つけ殺した危険なバシリスク(中世の伝説)〔アフリカの砂漠に棲むという伝説上の爬虫動物〕が話すのを聞いているのと同じであるとあなたがたは考えなければならない。
 彼らは、神の怒りを通して、自分たちを自慢すること、見栄を張ること、神に偽りを言うこと、すべての異邦人を呪うこと等のすべてが正しく、そうしたことを行なうことが神への偉大な奉仕であり、高貴な父祖の血筋と割礼した聖人にふさわしいことだと信じるよう教えられてきた(たとえどんなにひどい悪徳のなかにあっても、どんなに自分たちが卑しいと思ったとしても)。彼らは、こうしたことを行なうことによって、神の加護が与えられてきたと考えているのである。彼らを監視せよ!
 彼らは、自分たちがカナンの地、エルサレムの町、神殿を所有していたことを自慢する。神がそのような高慢と虚栄をなんども覆滅なされたにもかかわらず。
 以前にアッシリア王がイスラエル人を遠くに連れ去り殺害した〔前七二一年北王国イスラエル、アッシリア王シャルマネセル五世に滅ぼされる〕のと同様に、とりわけバビロンの王(彼はユダヤ人を遠くに連れ去ったのだが)によってユダヤ人は殺害されることになった〔バビロニア捕囚時代=前五八六~前五三八〕。そして最後に彼らユダヤ人たちは、ローマ人によって根こそぎ移住を強制され、荒廃させられたのである。
 こうして千四百年前に彼らは、神が彼らの国家・町・神殿・聖職者・君主にいかに配慮をお示しにならなかったかを、またこれからも重んじようとされないかを、つまり彼らを神の選ばれた民であると見なしていないかを知ったはずである。
 ところが、イザヤ〔前八世紀のイスラエルの預言者。神ヤーウェの正義と救世主の出現とを説いて民を警醒・激励した〕がそう叫んだように、鉄の首は頭を下げることもなく、鉄の額は恥じて赤くなることもなかった。彼らはたえず強情で、頑固で、盲目で、ものに動じることがないまま今日にいたっている。そして、神が再び故郷に連れ戻し、彼らにすべてのものをお返しになることを待ち望んでいるのである。(続く)

2006年11月26日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その7
●悪魔にとり憑かれた者ども

 ユダヤ人たちは、自分たちが神の戒律を守るという目的のために神からすべてのものを与えられているのであって、それゆえにこそ自分たちが神の民、教会の民と呼ばれているのだということを理解しようとも、聞こうともしない。
 彼らの血筋と高貴さについても、神の戒律を守らせるためにこそ神は彼らを選んだというのに、彼らはそのことをわかろうとせず、考えようともしないで、ただひたすら自分を自慢するだけなのである。
 彼らは割礼を自慢する。だが、割礼を受ける目的(神の戒律を守ること)は彼らになんの意味もないのである。彼らは自分たちの法律・会堂・宗教儀式・町・田舎・国家を自慢する。しかし彼らは、戒律を守るという目的のためにこそ、自分たちがそれらを所有させてもらっているのだということをすっかり忘れているのだ。
 悪魔は、かかる民族にこそ、その全天使たちと共に取り憑きつづけているのである。彼らは、目に見えるもの・自分たちの才能・業績・行為などを常に自慢する。しかし、そうしたことは中身のない空虚な「空念仏」を神に捧げるのと同じことである。
 神は、そうしたものを捧げる民族である彼らを神の民とし、すべての異教徒に優先して彼らを称賛し、祝福する。ゆえに彼らは神の戒律を守らねばならないし、自分たちの神として神を守らねばならない。ところが、それを引き受けようとはしないのだ。
 モーセの次の言葉が当てはまる。

〈彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は、彼らを私の民とは見なさない〉

 これはホセア書(第一章九節)にも言われていることであるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、ユダヤ人は神の選ばれた民ではないと彼らを説得することなど、誰にもできなかったであろう。なぜなら、邪悪さ・不服従・強情さにもかかわらず、彼らはいまだに会堂・町・田舎を保持していたであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫び、たくさんのモーセが立って「汝らは不服従であり、反抗的であるがゆえに神の民ではない」と主張したとしても。
 離散させられ、千五百年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自分たちが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような高慢きわまりない考えを諦めきれないでいる!
 彼らは依然として自分たちの利益のために故郷の地に戻ることを望んでいる。しかし、彼らが自分たちの勝手な想像によって聖書のなかに塗りこめておいた言葉以外には、せめてもの慰めとして頼れる約束はまったくないのだ……。
 かくして、ユダヤ人はわがままを言いつづけ、また意図的に過ちを犯そうとしており、ラビたちを見限ろうとしない。それゆえにわれわれもまた、彼らが有害な冒を犯し、嘘をつくのであれば、彼らをそのまま捨ておき、無視しなければならない。

●聖書に関する偽り

 私はまた以下のような経験をもつ……。
 われわれがヴィッテンベルクでヘブライ語を読みはじめたことを知って、三人のユダヤ人の学者が新しいユダヤ人に会えるものと期待して私のところにやって来た。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書物を読みはじめたからには、事態はすぐに改善されるだろうと錯覚していたようだ。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るよう彼らに迫ると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならないと言った。私は彼らを不憫に思って、安心してたどって行くことができるキリストのための案内書を推薦した。しかし後で私は、彼らがキリストのことを「磔にあった犯罪者」と呼んでいると知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人ともいっさい関わりをもつ気にならなくなった。
 聖パウロは、彼らは天罰にさらされていると言っている。あなたがたが彼らを助けようとすればするほど、彼らはより邪悪になり、頑固になっていくのである。彼らを彼らだけにして放っておこう。
(このあと、聖書からの多くの立証が続く。それらは神学上の細かく厳正な、それゆえ一般には理解が困難な引用である。文章は力強く、ルターのドイツ魂をよく表わし、きわめて先駆的なかたちで核心を突いた発言をしているといえる。その分量の多さゆえに、ここには採録できない。珠玉のようで感動的な聖書の章句の引用のなかから、ここには以下の文のみを引用する)

〈まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる〉(「ハガイ書」第二章六~七節)

「すべての国々」は「異教徒」に等しい。古代の人びとは「すべての国々の宝物」を「救世主」と見なしたのである。
 ユダヤ人は、その神殿がまだ立っていた時代に救世主がやって来たことを否定し、神殿崩壊後千五百六十八年も待ちつづけているのに、救世主は依然としてこれからやって来るだろうと主張する。しかしもはやそれは、こんなに長い時間が経ってもいまだにその時期がわからない以上、「しばらくして」などとは呼べないだろう。

●彼らの救世主は金と銀

 彼らの救世主は決して来ることはないだろう。「しばらくして」来るはずであったのに大変に長い期間になってしまっているが、これは決してなにも起こらないということなのである。預言は「しばらくして」と言っており、「長い期間」とは言っていない!
 しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「しばらくして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、「救世主」ではなく異教徒のすべての金銀を示していると言うのだ。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。するとこの文章は、いまや次のように読むことができるのである。

〈しばらくして、すべての異教徒たちの欲望が姿をあらわすであろう〉

 いったいこれはなんだろう。異教徒たちはなにを望むのか、金、銀、そして宝石か。
 あなたがたは、ユダヤ人がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのか聞きたくなるかもしれない。次のように私は言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽のもとに存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人ほど貪欲な者はかつてなく、現在もなく、そしていつの世においても存在しない」からだと。彼らはまた次のようにして満足する。

〈救世主がやって来るとき、その方は世界中のすべての金と銀をお持ちになり、それをユダヤ人のあいだに分配するであろう〉

 あなたがたは、神と神の預言は、ユダヤ人のはかり知れぬ貪欲が異教徒の金銀によってどのように充たされるかということ以外になにもなかったと思うであろう。
 子どもの頃から、彼らは、両親とラビから、「ゴイム」(異教徒)に対するこのような有害な憎悪の言葉をむさぼるように吸収し、今も休みなく吸収し、「詩篇」(百九章)によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄のなかにまで浸透しつづけてきており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、肉体と血液、骨と骨髄を変えることがほとんどできないのと同様に、彼らはその高慢さと妬みとを変えることができないのである。神が特別の奇跡を起こさぬかぎり、彼らはそうした状態のまま破滅していくしかないのだ。

*訳注「詩篇」(第百九章十七~二十節)
彼はまたのろうことを愛したので、
それが自分に返って来ました。
祝福することを喜ばなかったので、
それは彼から遠く離れました。
彼はおのれの衣のように
のろいを身にまといました。
それは水のように彼の内蔵へ、
油のように、その骨々にしみ込みました。
それが彼の着る着物となり、
いつも、締めている帯となりますように。
このことが、私をなじる者や
私のたましいについて悪口を言う者への、
主からの刑罰でありますように。(続く)

2006年11月27日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その8
●強い敵意をもった有害な敵

 わが親愛なるキリスト教徒よ、それゆえに心よりユダヤ人たらんとするユダヤ人ほど、敵意を抱いた有害で強力な敵は、悪魔以外にはないということを知らなければならない。彼らのなかには牛やアヒルが信じることを信じる者もいるかもしれない。しかし彼ら全員が血と割礼の信仰に包まれているのだ。
 それゆえに歴史上、彼らはトレントやワイゼンシー等におけるように、しばしば井戸に毒を投げ込み、子どもたちを誘拐・殺害したかどで有罪を宣告されたのである。
 もちろん彼らはそれを否定する。だがそれが事実であるにせよないにせよ、秘密であるにせよないにせよ、そうしたことを行動に移すことが可能な場合には、それを実行するために十分かつ準備の整った意志が彼らに欠けているわけではない。
 こうしたことをしっかりと知ってほしい! そして、それに従って行動してほしいのだ!
 たまに彼らはよいことするかもしれない。しかし、それはあなたがたへの愛によるのでも、あなたがたの幸福のために行なわれるわけでもないということを、よくよく承知しておかねばならない。当然のことながら、彼らは、われわれの間に住む余地をつかむためになにかをしなければならない。だが、彼らの本心はすでに私が述べたとおりであり、今なお依然としてそうあり続けているのだ。
 あなたは私の言うことを信じられないだろうか。そのときは、リラ、ブルゲン、その他の高潔で信頼できる方々の書物を読んでみてほしい。万一それを彼らが書いていないと仮定しても、聖書は蛇と女性という二つの子孫が、他のだれよりもキリスト教徒と対立しており、神と悪魔のあいだにはいかなる妥協も存在しないことを明らかにしている。こうしたことは、彼らの著書や祈祷書にもまた粗野なかたちで描かれていることなのである。
 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他のだれよりもキリスト教徒に対してそんなにも敵意を抱くのか不思議に思うであろう。私たちとしては、彼らに善行のみを施すのだから、彼らがそうなる理由がわからないのだ。彼らは、われわれの祖国で、われわれの庇護のもとに住みついており、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。
 だが王侯や政府は、みすみす傍観し、鼾をかき、口を開けたままでおり、その財布や箪笥からユダヤ人が思いのままに取ったり盗んだり奪いとるのを許している。つまり王侯や政府は、自分と臣下がつけ込まれ、丸裸になるまで吸い取られ、自分自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。ユダヤ人は外国人なので、間違いなく何かを所有していたはずはなかった。したがって、彼らが現在所有しているものは、確実にわれわれの所有していたものに違いないのである。
 彼らは働かず、働いた報酬をわれらから得たわけでもない。また、われわれが彼らにそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼らはわれわれの金銭や財宝を所有し、亡命中のわが国で主人公となっているのだ。
 もし盗人が十グルテン盗むなら、この者は絞首刑にされねばならない。もしも彼が街道で掠奪すれば、首をはねられてしまう。ところがユダヤ人となると、高利貸しによって十トンの金を盗んだときでも、神御自身よりも大切に扱われるのだ。

●ユダヤ人はひそかにわれらキリスト教徒を呪う

 さらに彼らの顕著な特徴として、自分たちのあいだで次のように言い合うことで、彼らの信仰とわれわれへの激しい憎悪を強めていることが挙げられる。

〈いかに神がわれらと共にあるか、そして流浪の身であるわれわれを見捨てていないか、見守り続けよ。われわれは働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは、われわれのために働き続けなければならない。われわれは彼らの金銭を手に入れる。それゆえにわれらは彼らの主人であり、彼らはわれわれの召使いである。
 イスラエルの子どもたちよ、事態はさらに良くなっていくであろう。もしもわれわれがかくのごとく継続し、異教徒たちの「ヘムダート」(欲望、財産:ヘブライ語)を高利貸しによってわれわれのものにしてゆくならば、われわれの救世主がやって来られるであろう〉

(歴史的な聖書注釈の長い論述のあとに、すでにこの時代にルターが「タルムード」〔ユダヤの律法とその解釈〕と「シュルハン・アルク」を知っていたことがわかる大変興味深い一節が続いている。このことが、ルターのユダヤ問題における態度の変化を説明する)
 ユダヤ人の「タルムード」やラビたちは次のように述べなかっただろうか。
 もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺すことは罪ではない。しかし、彼がイスラエルの兄弟を殺すなら、それは罪である。もし彼が異教徒に対して誓約を守り続けなかったとしても罪ではない。それゆえに、異教徒から盗んだり掠奪することは(彼らが高利貸しで行なうのと同様に)神聖なる仕事なのである。なぜならば、彼らは高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であるが、一方のわれわれは呪われたゴイムなので、われわれキリスト教徒に罪深くありすぎることは決してあり得ないというふうに考えているからである。そして、彼らは世界の支配者であり、われわれは彼らの召使い、そう、彼らの家畜なのである。
 要するに、ラビが彼らに教えたように、そしてまた福音書の著者がわれわれに告げたように、ユダヤ人は父母を祝福する第五の戒律を廃止したのである(「『……父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」マタイ伝第十五章六節)。
 また、マタイ伝第二十三章十三節(「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです」)にあるように、彼らはより恥ずべき教義を実践したのである。マタイ伝第五章二十八節(「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」)も言うにおよばぬことである。
 彼らは十戒を、なんと狡猾に説教し、解釈したことであろうか!
 そして彼らは神殿のなかにお金の両替所や商人およびあらゆる種類の貪欲な商取引を持ちこんだ。それは主キリストが、彼らは神の家を盗賊の巣にしたと言ったことである。神御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ばねばならぬとは、なんと名誉なことであろうか。その住まいは、なんと栄光に輝くことであろうか。いまやみずから〔胸に手を当てて〕思い描いてみるとよいのだ。非常に多くの魂が、貪欲で偽りの教義すなわち二重の偽善によって失われているのだから。
 今日までユダヤ人はこのような教義にしがみつき、彼らの先祖たちと同様に振る舞っているのである。可能なところではどこでも、そして彼らの子どもたちに教えられるところではどこでも、神の言葉を曲解し、貪欲で、高利貸しを営み、盗み、そして殺人を犯しているのだ。

●異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード

 異教徒の哲学者や詩人は、神の統治や来世のみならず、現世の美徳についても、彼らよりはくかに立派に著述している。キケロや彼と同様な人びとによって示されたように、人間は生まれつき他人に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、とくに必要なときには、彼らに対して誠実で役に立たねばならないと彼らは記述している。
 そう、三つのイソップ物語のなかには、タルムード主義者やラビのどの著作よりも、これまでユダヤ人の心のなかに育まれてきたあらゆるものよりも、さらに多くの知恵が含まれていると主張したいと思う。
 少々私は言いすぎではないかと思う人がいるかもしれない。だが、言いすぎどころか、私はあまりにもわずかしか言っていない! というのは、彼らがいかにわれわれゴイムを著作のなかで呪い、自分らの学校や礼拝の場でわれわれに災いが振りかかることをどれほど望んでいるか、私はよく理解しているからである。
 彼らは、高利貸しによってわれらの金を掠め盗り、可能な場所ではどこでも、われわれをあらゆる種類の策略にかけるのである。なによりも悪いことに、彼らはこの点において、そうする権利をもっていると確信しており、うまくやってのけようとしているということである。つまり彼らは、自分たちがそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、またそうしたことがなされるべきだと教えているのである。
 悪魔自身と、そして悪魔が取り憑いている者(ちょうどユダヤ人のように)以外、いかなる異教徒もそんなことをしたことはなく、またこれからも誰も、そうすることはあり得ないであろう。
 滅多に起こらぬことなのだが、博識なラビで、神の恩寵によってキリスト教徒となったブルゲンシスは、自分たちの宗派でユダヤ人がキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)という事実に心を動かされ、このことから自分たちが神の子ではないという結論に達した。もしも彼らが神の子であれば、彼らは捕囚の身となったユダヤ人たちがバビロンで振る舞ったのと同様に振る舞うであろうからだ。すなわちエレミヤは彼らについて次のように記しているように。

〈あなたがたを捕らえている都市の王のために祈りなさい。彼らの平安はまたあなたがたの平安なのだから〉

 しかし、わが国の下劣で偽者のユダヤ人たちは、可能なところではどこでも、そして出来ることであればなんでも、なんの理由もなしにわれわれを呪い、憎み、危害を加えねばならないと考えている。従って、彼らが神の子でないことは確実なのである。この点については、あとでさらに述べることにしよう。(続く)

2006年11月28日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その9
●彼らはイエスの御名を冒涜する

(偽りの御名でイエスに対して憎しみを隠しもつユダヤ人たちの擦れっからしなやり方についての諸論述はたいへん興味深いものがあるが、ここでは次のように述べている)
 それゆえに彼らは、イエスの御名を次のように扱う。ヘブライ語でJhesusは「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人はHeiprichまたはHiprichという名称を用いた。それは、われわれが現在Helprichと呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしユダヤ人たちは、それを故意に捩じ曲げて、彼をJesuと呼ぶ。これはヘブライ語では名前でも言葉でもなく、単なる三つの文字か数字か暗号でしかない。それはあたかも私が、CLUという文字を数字と見なし、CLUを155とするようなものである(CLU=ローマ字ではC‐100、L‐50、V‐5‐155。VとUは語源的には同じである)。
 かくして彼らはイエスJesuを316と呼ぶのである。そのような数字は Nebel Borikを意味するもう一つの単語を連想させるといわれている。この点について、読者はアントン・マルガリタムの著作でより多くのことを学べるであろう。ユダヤ人はそれらの数字や単語を使ってなんという悪魔的な所業を行なっていることか。
 彼らはわれわれキリスト教徒を同様のやり方で扱う。われわれが彼らを訪問し、彼らに迎えられたとき、彼らは「神があなたを歓迎する」(ドイツ語では Gott wilkommen)という言葉を捩じ曲げて「Shed wil kom」すなわち「悪魔よやってこい」ないし「悪魔がやって来る」と言う。われわれがヘブライ語を理解できないのをいいことに、彼らはひそかにわれらを呪っているのである。つまり、ユダヤ人がわれわれを地獄とあらゆる災厄の炎で呪っているというのに、われわれは彼らが友好的だと思っているというわけである。

●彼らは聖母マリアを娼婦と呼ぶ

 かくして彼らは、彼(イエス)を娼婦の子と呼び、彼の母マリアを娼婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。実に不本意なことであるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。
 彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受容してしまわぬよう、われらの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。サバスティアヌス・ムンスターもまた自著『聖書Biblia』のなかで聖母を「マリア」と呼ばず「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると指摘している。そして、われわれが知らない、ユダヤ人たちが仲間内だけで行なっているもっと多くのことは誰も知ることはできない!
(ルターは、救世主やバーコハブについての入念で厳密な議論でユダヤ人的性格、その著書、願望に関する学識の完全さを示し、最後にキリスト教徒のなかにおけるいわゆる「捕囚」の問題にたどり着く)
 われわれが彼らを捕囚の身にしていると嘆くのは、なんともまったく途方もなくひどい嘘であることをよく知ってほしい。
 エルサレムは千四百年以上前に破壊された〔七〇年陥落、神殿炎上。叛乱軍の残党、死海西岸のマサダ砦に立て籠もって抵抗するも陥落、シカリ党全員自決(~七四)〕。それ以来、われわれキリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受けてきた。およそ千三百年近くにわたって(前述のように)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し、殺害してきたと訴えることは正当なことである。そのうえ今日まで、われわれはどんな悪魔が彼らをわが国へ連れてきたかわからないままになっている。彼らをエルサレムから連れてきたのはわれわれではない!
 かてて加えて、今日だれも彼らを拘束してはいない。彼らには、土地も公道も開放されており、その気になればいつでも自分たちの国に移動できる。彼らから自由になるために、われわれは彼らに提案をしたい。
 彼らはわが国のなかの疾病やペスト、災難以外のなにものでもない。われわれにとって重い荷物なのである。ある人間が自分の家のなかのある者に我慢ならぬとき、彼は捕らえられていると言うであろうか。
 なぜ彼らは、われわれキリスト教徒を、われわれの国のなかで捕囚の身にすることができるのだろうか。なぜ彼らは、われわれを額に汗して働かせ、自分たちは暖かいストーブの前に座って金や商品を所有しているのであろうか。彼らはなぜ怠け者の大食漢や大酒飲みで、われわれが働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、呪うべき高利貸しによって、われわれとその財産を掠奪するのであろうか。彼らはなぜ、われわれを嘲り、唾を吐きかけるのであろうか。
 われわれは自分を犠牲にして働かねばならず、彼らが貴族であることを認めなければならないからである。かくして彼らは、われわれの王であり支配者なのである。われわれはみずからの財産と汗と労働を捧げる彼らの召使いなのである! つまり、彼らはわれわれに感謝し、われわれに報いんがために、わが主を呪っているというわけである!(続く)

2006年11月30日
『ユダヤ人と彼らの嘘について』その10
●彼らはわれわれの富を使ってわれらを奴隷にする
 こうしたやり方で、われわれキリスト教徒のなかに天国をもつことができた暁には、悪魔は笑い踊るのではなかろうか。そこでは、悪魔の使徒であるユダヤ人を通じてわれわれの所有物を貪り喰らい、われわれに感謝して神と人間を冒して呪い、われわれの口と鼻を呪詛で満たすのである。ダビデ王〔前九九七ころ~前九六五ころ〕やソロモン王〔前九六七ころ~前九二八七〕統治下のエルサレムで彼らが所有していたものは、われわれのもとで日々盗み掠奪しているほどではなく、今ほどよき日々を享受することはできなかった。それでも彼らは、われわれが捕囚の身にしていると文句を言う!
 そうなのだ、われわれはユダヤ人を所有し、捕囚の身にしている。ちょうど私がリューマチや「ねぶと」、その他の病、不幸を一身に背負いつづけているように。お金と財産とすべての所有物を持参し、貧しい召使いとして傅きたいと願う者は誰か! 私は、そうした災いはユダヤ人と共に、さらに彼らと一緒にいたいと願う者も含めて、エルサレムに行ってくれればと心より願っている!
 彼らを捕囚の身にしていないのは明らかなのに、あれほど偉大で高貴な聖人たちが、なぜそれほどまでにしてわれわれに怒りを露にするのだろうか?
 彼らはイエスの母マリアを娼婦と呼ぶが、われわれは自分の妻を娼婦とは呼ばないし、彼らはわが主を私生児と呼ぶが、われわれは彼らを私生児とは呼ばない。われわれは、彼らを呪わず、あらゆる種類の肉体的および精神的な幸せが彼らの上にあるよう祈り、われわれと一緒に暮らすことを認めている。彼らの子どもを誘拐したり、切り刻んだりなどしない。彼らの水に毒を入れないし、彼らの血を渇望することもない。
 なにゆえに、われわれは、かかる神聖な神の子の恐ろしい怒り・妬み・憎しみに値するのだろうか? 神が正気とは思えぬほどの無分別と荒れ狂う心をもって彼らを処罰したのは、モーセから引用したとおりである。
 かくして、エルサレム崩壊後の千三百年間にユダヤ人のせいでわが主やキリスト教徒、そして(まだその目や肌に輝きのある)子どもたちが流した穢れなき血に対して報復しなかったことは、われわれの失敗であった。
 彼らを殺害せず、彼らの殺人・呪い・冒涜・恥辱を咎めもせずにわれわれの間に住むことを許し、彼らの学校・家・身体・財産を守り、そうすることによって彼らを怠惰にし、彼らを信頼してわれわれから金銭や財産を搾取することを保証し、助けた。ところが、彼らはわれわれを嘲り、唾を吐きかけ、最終的に彼らが勝利し、大罪を犯してわれわれ全員を殺害し、その財産のすべてを強奪することを願い、日々祈っているのだ。こうしたことがすべて、われわれキリスト教徒の失敗だったのである。
 教えてほしいものだ。彼らには、われわれ呪われたゴイムを憎み、呪い、われわれの最終的で完全な、そして永遠の没落を求める大きな動機はないのか?
 いまやわれわれキリスト教徒は、この捨てられ、呪われた民、ユダヤ人をどう扱ったらよいのであろうか? われわれの間に入りこんでいて、その虚偽と神と呪いの多くがわれわれに知られている彼らに、われわれは我慢がならないのである。われわれは、彼らの嘘や呪いや神の共犯者とならないよう、黙って悩んでいるべきではない。われわれは(預言が述べているように)消すことのできぬ神の怒りを鎮めることはできないし、彼らはまた改宗しようともしない。彼らの一部でも火と灰のなかから救い出そうと欲するならば、祈りと敬虔に加えて手荒な慈悲をも用いなければなるまい。復讐は許されていない。復讐心は、われわれが彼らに抱くよりも千倍も大きくなって自らの首に纏いつくだろう。
 私の本当の意見をあなたがたに述べることにしよう。
 第一に、彼らの会堂と学校を避け、それらに反対するよう、国民に警告せよ。これは神とキリスト教会の栄光のためになされるべきことである。また、われわれがキリスト教徒であり、神の御子とキリスト教徒に対するそうした虚偽と呪いと神を承知したうえで、それらに寛大ではないことを神にわかっていただくようにすべきである。なぜなら、われわれが無知で寛大でないかぎり(私自身もそのことを知らなかった)われわれをお許しになるであろうから。
 けれども、このことを知ったいま、われわれの目と鼻の先でユダヤ人がキリストとわれわれキリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐きかけ、恥辱を与えているにもかかわらず、そうしたことが行なわれているユダヤ人の建物にわれわれが寛大であるなら、ご承知のように、あたかもわれわれ自身が行なったか、あるいはもっと悪いことをしたのと同じことになり、大変になるだけなのである。モーセは「申命記」のなかで、偶像崇拝を行なっている都市は完全に火で燃やし、なにも残すべきではないと記している。もしモーセが今日存命なら、彼はユダヤ人の会堂や学校に火をつける最初の人間になるであろう(聖書の証言に従えば)。
 第二に、あなたがたは、彼らが自分の家をわれわれの間に建てることを拒否せよ。彼らは家庭でも会堂と同じことをしているからである。その代わりに、彼ら自身が主張しているようにわれわれの土地の主人ではなく、捕らわれた放浪の身であることを知らしめるために、ジプシーのように軒先か馬小屋に収容してもよいであろう。これこそが、休みなく血生臭い殺人を吠え立て、神の御前でわれわれキリスト教徒に不平をこぼす彼らにふさわしいことなのである。
 第三に、虚偽と呪いと神を説く彼らの祈祷書とタルムードの写本を全部没収せよ。
 第四に、彼らのラビが教えることを禁止せよ。彼らは貧しいユダヤ人たちをモーセの章句(申命記第七、十一、十二章)の虜にし、仕事をする権利を剥奪したからである。モーセの章句では、そうしなければ身体と魂を失うとして、彼らのラビに従うよう命じている。けれども、モーセは明確につけ加えている。「主の律法にもとづいて彼らが教えることに関しては……」と。このことを不心得者たちは見過ごしているのだ。そして、主の律法に逆らって、彼らの恣意に貧しい人びとが服従するのを利用して、そのような毒と神をふり注いでいるのである。
 第五に、街道におけるユダヤ人の保護を廃止せよ。彼らは貴族でも役人でもないし、もともとわが国にいる権利はないからである。彼らは家にとどまるべきなのだ。現在わが国では、ある金持ちのユダヤ人が12頭立ての馬車に乗っていると聞いている。そのユダヤ人はコホバになりたがっているのだ。彼は高利貸しを王侯や貴族、地域住民、民衆に対して営んでいるが、高官たちはそれを黙認している。
 もしもあなたがたと王侯および諸侯の方々が、こうした高利貸したちがこの土地に住み、街道を往来することを禁止しないなら、私はあなたがたに対抗するために騎兵を集めたいと思う。というのは、あなたがたはこの書物を通してユダヤ人とは何者であるか、また彼らがいかに扱われるべきか、そして彼らの行動が保護されるべきではないことがよくわかったであろうから。彼らの醜悪な行為の共同者になりたくなければ、あなたがたは彼らを保護すべきではないし、またそうすることもできないはずだ。たとえ彼らに配慮したとしても、結局はあなたがたが滅びるだけのことなのである。
 第六に、ユダヤ人にとって異国の地、つまり自国の主人ではない場所においてユダヤ人が高利貸しを営むことを禁止せよ。それはモーセによって禁じられたことであり、貨幣、金銀は一切とりあげて保管すべきである。そういうわけで、彼らには他に収入はないのだから、彼らが所有しているすべてのものは高利貸しによって(前述のごとく)われわれから盗み、掠奪したものなのである。
 そうした財宝は次のように使われるべきである。つまり、ユダヤ人が本当に改宗した場合に、その人柄に応じて自分の貧しい妻子や老人や弱者を養うために百~三百フロ(貨幣単位)与えることにする。不正に取得されたかかる財産は、神の祝福を受けられるような正当な使用方法を採用しないかぎり、呪われたものとなってしまうからである。(続く)

『ユダヤ人と彼らの嘘について』その11
●彼らはモーセを裏切りさえする

 ユダヤ人はいつも、モーセが異邦人に対して高利貸しを営むことを彼らに許可したのだと公言する(「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである」申命記第二十三章二十節)。これ以外に彼らに有利な章句はない。
 彼らには次のような回答が与えられている。すなわち、二種類のユダヤ人またはイスラエル人が存在する、と。
 一つは、神がモーセに命じたように、モーセに導かれてエジプトを出てカナンの地〔パレスティナ西部の地域〕に入った者たちである。モーセは彼らに対して神の戒律を与え、彼らは外国へ出ることなく、彼らの土地でひたすらメシアの到来まで彼らの戒律を守りつづけていた。
 もう一つは、モーセのユダヤ人ではなく(ローマ)皇帝のユダヤ人である。彼らは統治者ピラト〔ポンテ・~、キリストを処刑したユダヤ(パレスティナ南部の古代ローマ領)のローマ総督。処刑判決に際し、みずからに責任のないしるしとして手を洗った。マタイ伝第二十七章十九、二十四~二十五節〕の時代のユダの地に起源を有する。ピラトが法廷の場で「キリストと呼ばれるイエスについて余はどうすべきなのか」とユダヤ人に尋ねたとき、彼らは「十字架にかけよ! 彼を十字架にかけよ」と叫んだ。ピラトは言った。「お前たちの王を十字架にかけるのか」と。彼らは叫んだ。「皇帝以外にわれらは王を持たぬ」と。こうした皇帝への服従を神はユダヤ人に命じたことはなかったのだが、彼らは自発的にそのように言ったのである。
 しかし、皇帝が服従を命ずると、すぐに反抗し、皇帝に歯向かって臣下となることを望まなかった。そこで皇帝はユダヤ人をエルサレムから追放し、彼の領土に完全に分散させ、その地において彼らは服従せざるを得なかったのである。
 現在、穀潰しのユダヤ人がいるのはかかる事情によるものである。彼らのことは、モーセはなにも知らない。ユダヤ人もモーセについてなにも知らない。彼らはモーセの一節も暗唱していないのだから。そこで彼らはまずカナンの地に戻り、モーセのユダヤ人となってその戒律を守り、異教徒や異邦人を平定しなければならない。そして、彼らは異邦人が許容するかぎりにおいて高利貸しを営めばよいのだ。
 しかし、ローマ皇帝の領土である外国にいるにもかかわらずモーセの教えに従おうとしないのであれば、モーセの戒律に従って皇帝の法律を守るようになるまで、彼らは自分たちより身分が上の人びとに逆らって高利貸しを営むべきではない。それは、彼らが所有すべき土地またはイスラエルの国はカナンの反対側の岸だからである。モーセは彼らをエジプト人およびバビロニア人または他のどの国民のもとへ連れて来たわけではなく、申命記でモーセ自身が何度も述べているように、エジプトの地を出てカナンの地に連れて来ただけなのである。彼らは、ヨルダンの反対側に自分たちが所有することになる領土でそうした戒律を守るべきである。
 モーセによって創造された聖職者・儀式・公国君主権力にかんするかぎり、それらはすでに千四百年前に崩壊しており、その時代以前に存在したモーセの律法もまた同様に崩壊し終焉したのは確かなことである。それゆえに、皇帝治下のユダヤ人は皇帝の法によって処置されるべきで、千四百年間ひとりも存在していないモーセのユダヤ人のように処置されるべきではない。モーセによって高利貸しを許された自分の国土をもたず、ましてや海外領土ももたないのだから、そうするのが至当なのである。
 そして最終的には、若く頑強なユダヤ人に(麦打ち用の)から竿や斧、踏み梳き紡錘を与えて、アダムの子らに課せられていると同様、自分のパンを自分の顔に汗を流して稼がせるべきである。

〈あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない〉(「創世記」第四章十九節)

 彼ら神聖な民がストーブのまわりに陣どって怠けながらわれわれのパンを貪り喰らい、自分たちはキリスト教徒の主人であるなどと法螺を吹いて、われら呪われたゴイムを働かせ額に汗を流させるなどということを許してはならない。彼らの怠惰は自分たちの過去から生じたものなのである。
 だが、彼らをわれわれに奉仕させたり働かせたりするときは、われわれとその妻、子どもたち、召使、および家畜などを身体的に傷つける可能性がある。なぜなら、そうした労働になれていない世界の高貴な王侯ども、すなわち有毒な苦い蛆虫は、呪われたゴイムのもとでみずからを卑しめる行為をするのは極めて不熱心なはずだからである。
 フランスやスペイン、ボヘミアおよびその他の地域における諸国民のユダヤ人に対するごく当たり前の知恵を採用することにしよう。これらの諸国民は、ユダヤ人が高利貸しを営んで貪り取った額を計算させ、それを平等に分配した。そして、そのうえで彼らを国外へ追放したのである。
 すでに述べたように、彼らに対する神の怒りは非常に大きいので、穏健な慈悲ではかえって罪深くなるだけであり、彼らは、苛烈な処置によってのみ多少はましになるのである。
 それゆえに、彼らを追放しよう!
 われわれの富で慈善を行なう
 ユダヤ人は多額の金を政府に与え、そうすることで政府の役に立っていると言われている。そのとおり。しかし、彼らはそれをどこから得て与えているのだろうか。それは彼ら自身のものではなく、高利貸しによって統治者とその臣下の財産を奪い、それを与えているだけのことである。
 かくして、統治者はユダヤ人に奪われものを臣下から取ることになる。つまり、臣下はユダヤ人のために金を供出しなければならず、統治者から金を取られるという二重の災難を被らねばならないのである。こうしてユダヤ人どもはわが国で自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みながら居すわっていることができるという仕組みなのである。
 あらゆる種類の悪徳を行なうために彼らがこの国に滞在することを、みすみす許しておくべきではないのではなかろうか? 馬鹿にされ、お金を与えるために、われわれがあちこち鼻面をひきずり回される様子を見ながら、ユダヤ人どもがやんやと喝采していることを許すべきではないのではなかろうか? かてて加えて、われわれの汗と血によって彼らは金持ちになる一方で、われわれは貧しくなり、干からびるまで吸い取られつつあるのではないだろうか?
 もしこうしたことが正しいなら、召使いと客ないし捕虜は、主人に毎年十フロを与える代わりに千フロ盗んでいることになる。召使いと客はすぐに金持ちになり、雇い主と主人はたちまち乞食になるだろう。
 ユダヤ人どもが、万一そのような額の金を自分らの財布から政府に与えることができたとしても(不可能なことであるが)、そうすることで彼らは会堂でわが主キリストについて公然と嘘をつき、中傷し、唾を吐き、呪詛することを保護される権利を手に入れようとする。さらにまた、あらゆる種類の不幸がわれわれの上に、すなわち、われわれすべてが傷つけられ、わがハマン〔ユダヤ人を滅ぼそうとしたが、計画が露見し、自分が設けた高い絞首台で処刑されたペルシアの大臣。「エステル記」参照〕や皇帝、君主、諸侯、妻、そして子どもたちと共に滅びることを望み、主キリストと全キリスト教世界、わが統治者、そしてわれわれの妻と子どもたちが惨めなまでに安売りされるといった、あらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼らが欲することを保護される権利を手に入れようとするのである。
 裏切り者のユダヤ人は、われわれよりはるかに聖人に値するのかもしれない。ただし、彼らが年に十万フロ寄進することができればという条件付きであるが。そうだとしても、キリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐く権利を彼らに与えたり、高利貸しを営むことを許してはならない。そんなことをすれば、われわれは自分たちをあまりにも安く彼らに売り渡してしまうことになるからである。
 全キリスト教世界とわれわれ全員が、みずからの金によって買収され、富貴なお方や領主たちの頂点にいるユダヤ人によって悪態をつかれ、呪われ、嘲笑されるといったようなことを許すというのであれば、それはわれわれの許容の範囲をはるかに越えたことである!
悪魔とその使者にとって、それはなんと喜ばしいことであろうか。そうした事態は、あたかも子豚に歯を剥きだす雌豚のように、彼らがわれわれを馬鹿にして鼻先でせせら笑うといったようなことになるかもしれない。だがそれは、神の御前ではまさに天罰に値することなのである。(続く)
 
 
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