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国家狂乱の末に 

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 4月17日(金)23時21分18秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=194

『持丸長者』国家狂乱篇 広瀬隆 ダイヤモンド社 2007.7.26刊

 ●第二章 北海道開拓史

 <石炭・鉄道・鉄鋼の三角同盟>p123~引用開始。

 さて最大の払下げは、何といっても、炭鉄と鉄道であった。
 維新後は、まず明治七年に夕張で石炭が発見されたが、開発はおこなわれず、夕張の北西に隣接する三笠市の幌内炭山に採掘が始まって、ここに本格的な北海道の炭鉱産業が勃興したのである。明治十九年に北海道庁が設置されると、幌内炭山が北海道庁の所管となったのだが、これを担当したのは炭礦鉄道事務所で、その所長に薩摩出身の村田堤が就任した。言うまでもなく、黒田清隆腹心の部下である。二年後には、この官吏・村田が北有社を設立して、幌内鉄道の運営を請け負うことを願い出て、北海道庁がこれを認可した。これが北海道炭礦鉄道の前身となるのである。

そしてその三ケ月後、明治二十一年六月十五日には、岩村通俊が退任して、二代目の北海道長官に永山武四郎が就任したのだが、これがまた薩摩出身であった。先ほど、北海道製麻社長として永山盛繁という人物が登場し、永山武四郎長官の本名・諱が永山盛行なので、おそらく二人は近親者と推測されるが、現在まで確認できない。薩摩イモが、北海道にしっかり根を根っていたことは間違いない。そのうえこの年、北海道庁の技師・坂市太郎が夕張を再調査した結果、夕張で石炭鉱脈の大露頭を発見し、試掘してみると広大な石炭が存在していることが分った。人植者の募集と試掘が始まり、夕張は一挙に活気づいた。
 その年の秋には、余市、古平などの金銀銅鉛鉱山を採掘する北海道鉱山会社が小樽港町に設立され、信州から出た屈指の持丸長者「天下の糸平」こと田中平八らが参加したが、ここに先ほど登場した北有社の村田堤が発起人として名を列し、もう一人の大物となる掘基(ほりもとい)の名があった。これまた薩摩である。

 翌明治二十二年には、村田堤が関与する幌内炭山の産炭量が八万七〇〇〇トンに伸び、九州で三井財閥が経営する三池炭鉱と、三菱財閥が経営する高島炭鉱(長崎)に次ぐ第三位の大炭鉱となった。この石炭は主に小樽に入港する汽船用に供給されたが、のちには独占海運会社の日本郵船を得意先として、中国の上海と香港にまで石炭を出荷して隆盛した。かくてこの年、明治二十二年十一月十八日に設立されたのが、北海道炭鉱鉄道会社であった。設立者は渋沢栄一やハマの豪商・高島嘉右衛門の中央財界有力者が表に出ていたが、社長に就任して実際に経営したのは、先ほど登場した薩摩の堀基であった。そして開拓使時代に堀社長の部下だったのが、北海道長官・永山武四郎という怪しげな関係にあった。
 したがってこの長官、北海道庁の持ち物である千両箱の幌内炭山と幌内鉄道を、同日に新会社の北海道炭鉱鉄道(北炭)にあっさり払い下げてしまった。この払下げの首謀者の一人は村田堤である。手順としては、炭鉱と鉄道を村田の北有社(イモ閥)に払い下げ、北有社が北海道炭鉱鉄道と社名を変更して、国有財産すべてを受け継いだのである。永山長官は、堀社長殿のもとへ払下げ許可書を持参して、鄭重にお願いをしたというから、払下げではなく、払上げと言ったほうがよい。それほど勢力のある堀基は、もともと開拓使時代に札幌本庁で主任官をつとめ、三県一局時代には札幌県令をつとめた人物である。鹿児島県人には聞きたくない話だが、もうひとつ、堀は西南の役で北海道から屯田兵を率いて出征し、郷里に乗りこんで薩摩と薩摩が戦って西郷隆盛軍を打ち破る軍功を立てた、という履歴もある。その屯田事務局長だったのが永山である。
 七年後の明治二十九年には、華族資産を母体に設立されたわが国最大の民間鉄道・日本鉄道会社に次いで、北海道炭鉱鉄道が鉄道会社の総資産ランキングで第二位となった。広大な北海道の鉄道は、それほど大規模なものであった。しかし村田、永山、堀という薩摩人の名前は、長者番付に登場しないのである。黒田清隆一族も一人として長者番付にない。なぜであろうか。

 それから三年後の明治三十二年にこの鉄道株をひそかに買い占めている人間がいた。株式仲買人の丸上商店という聞き慣れない名前のブローカーだった。相場師たちは狐につままれたように見ていたが、一ケ月後に買いが終った。それからほどなく、丸上商店の株が別の名義に書き換えられ、相場師たちが「やはり……」と膝を打った。三井銀行社長・三井高保の名義であった。中上川彦次郎が雇った影武者は三井のブローカーだったのである。こうして巨大鉄道会社は三井の手に落ち、やがて経営権もすっかり支配されると、それから九年後の明治四十一年(一九〇八年)長者番付で、三井高保は岩崎(弥之助・久弥)・住友・三井(八郎右衛門)・鴻池・渋沢・大倉に続いて全国第八位にランクされた。明治四十年に設立された大夕張炭鉱も五年後には三菱鉱業に買収され、三井・三菱の資本下に組み込まれていったのである。
 だが、世の中は甘くない。ほとんどの大手民間鉄道会社の前には、やがて鉄道国有法によって、鉄道線路が国に買い上げられる運命が待ち構えていた。北海道炭鉱鉄道では、会社設立から十七年後の明治三十九年に鉄道が国有化され、北海道に敷きつめた幹線鉄道を国に奪われた。そこから同社は、再出発を余儀なくされ、生き延びる道を切り拓かなければならなかったので、石炭の海運業を活かして、北海道炭鉱汽船に社名を変更して生まれ変ったのである。そして翌年には、イギリスのアームストロング社と共同出資で室蘭市に日本製鋼所を設立し、北海道に鉄鋼産業を生み出す道へと踏み出した。栗林五朔たちによって石炭積出港として栄えてきた室蘭が、鉄の街・室蘭として再出発したのだ。

 のちに日本製鋼の取締役会長に就任したのは、日本の欧米通として知られた★樺山愛輔であった。彼は、函館船渠の取締役をつとめて北海道を知り、フランクリン・ルーズヴェルト大統領と親交し、ロックフェラー財団にも関与して日米親善をめざしたとされるが、その女婿は、終戦直後に吉田茂の右腕となって通産省を設立したとされる白洲次郎である。終戦後に、憲法草案で最も重要な前文の「国民の主権と平等」を国務大臣・松本蒸治が明記もせず、GHQから激怒を買った時、松本と一緒になってアメリカに反撃を誓うほど知性の低い人間が白洲次郎であった。白洲の義弟・松方三雄が総理大臣・松方正義の孫なので、110頁の系図1には、室蘭の日本製鋼会長・樺山愛輔も隠れている。
 ★樺山家も薩摩の出であり、樺山資紀(すけのり)は、日清戦争の勝利で植民地として獲得した台湾の初代総督に任命され、大軍団を率いて台湾に上陸すると、植民地化に抵抗する台湾住民一万四〇〇〇人を虐殺した。その息子として生まれた愛輔は、妻・常子が、明治十四年の政変で大隈重信を閣僚から道放したことで名高い参議の一人、薩摩の海軍大将・川村純義(すみよし)の娘であった。川村は明治四十一年(一九〇八年)東京第二〇位の長者となったが、常子の兄・川村鉄太郎の女婿は、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』に登場したアメリカ通の軍人、オリンピック馬術金メダリストとして欧米でバロン(男爵)西と呼ばれた人気者の西竹一であった。硫黄島で死を遂げた戦車隊長の彼も、松方正義内閣の外務大臣をつとめた薩摩藩士・西徳二郎の息子であり、北海道十勝の陸軍軍馬部隊に在籍したことがある。
 実際の硫黄島の戦闘は、NHKスペシャルが二〇〇六年に放映した「硫黄島玉砕戦~生存者61年目の証言」の通りであり、このハリウッド映画が描いたようなきれいごとではない。現実にあった地獄図と、映画に登場した栗林忠道中将や西竹一に対する英雄礼讃主義は、あまりにかけ離れている(硫黄島は、昔から島民が「いおうとう」と呼んでいたが、戦時中からアメリカが「いおうじま」と呼んでいたこともあって、戦後に「じま」と修正されたが、二〇〇七年六月から「とう」に戻された)。 (続)
 *******************

 ★落合論文の中で、キー・パーソンとして扱われている人物の記述の

 周辺を、少しずつ読んでいきます。

 ●北海道内の石炭産出量は、北海道炭鉱鉄道の会社設立から十八年間に七倍以上に急増して、それを受け継いだ北海道炭鉱汽船がその八割を採掘する支配企業となった。そして日本製鋼設立の二年後には、室蘭市に輪西(わにし)製鉄所を建設して溶鉱炉を創業したが、明治四十五年四月二十九日に夕張炭鉱でガス爆発が起こり、入坑者二百七十六人が死亡する大惨事となって北炭重役全員が辞任し、翌年、三井鉱山の★団琢磨が会長に就任して、大株主の三井に経営が移り、石炭を掘り続けた。序章に紹介した日本産業界の水先案内人、日本工業倶楽部の初代理事長・団琢磨である。
 彼と北海道の関係は、それだけではない。北海道内を巡視して、薩摩閥によるバラバラの行政がよくないことを見抜き、北海道行政を一括しておこなうべきだと建議したのは大政官大書記官の金子堅太郎で、それによって北海道庁が誕生したのだが、★金子堅太郎の妹と結婚したのが団琢磨であった。金子はハーヴァード大学に留学して先見的な目を持っていた人物だが、囚人を酷使して道路建設をおこなわせ、死に追いやれば監獄経費を節約できるという残忍な考えの持主でもあり、そこから生まれたのが網走刑務所であった。彼らの系譜は、のちに第四章二二四頁の系図4「新潟県石油業者と大地主」に描くが、これが、日本を最後の軍国ファシズムに招く導火線となることを記憶されたい。

 大正時代に北海道炭俵汽船社長をつとめた磯村豊太郎も、団琢磨と組んだ日本工業倶楽部創立委員の一人だが、彼の肩書を見れば、北海道に何が起こったか、およそ想像がつく。彼は、福沢諭吉と同じ大分県中津の出身で、夕張炭鉱大惨事のあと、三井物産から抜擢されて北海道炭鉱汽船に入った。そして、夕張鉄道社長・日本製鋼所会長・輪西鉱山社長か輪西製鉄・北海道製鉄・北海道人造石油・洞爺水電組合・天塩鉄道・北海道開発・・・の経営に参画したとある。これは、北海道における事業だけの肩書である。
  それにつけ、黒田清隆を先頭にした薩摩の鹿児島県大集団は言うまでもなく、福沢諭吉と磯村豊太郎が大分県、大隈重信が佐賀県、日露ポーツマス条約を締結して樺太分割をおこなった外務大臣・小村寿太郎が宮崎県、団琢磨と金子堅太郎が福岡県……★実に多くの人間が九州から出て、北海道を動かしたものである。
 この北海道開拓物語では、膨大な数の名もなき民衆・農民・漁民は登場していない。その人たちこそ、まことの北海道開拓者であった。ほとんど痕跡もないほど消されたアイヌ集落と、極寒の地で鉄の足かせをはめられ、死ぬために働かされた囚人たちの最期を知って、胸が痛まない人間はいまい。北海道をただ荒し回って逃げ去った人間たちと違って、この開拓史を胸の奥深くに理解し、住み着いて原野を開拓した小作人たちこそ、花咲き乱れる夢の地を育てた、現在の北海道民の姿である。
 北海道の実業の柱となった「石炭」を運ぶ鉄道と、その「鉄道」の線路を生み出す「鉄鋼」と、その溶鉱炉を動かす石炭は、互いに相手の富を産み、相手に助けられる三角同盟の性格を持っていた。これが、モルガン財閥、ロスチャイルド財閥、クルップ財閥を筆頭に、すべての大国において巨大財閥の中核を成してきた。
 新橋―横浜間の鉄道開通は誰にも知られているが、しかし一体、誰の手で、日本の鉄道は走り始めたのであろうか。

 第三章 鉄路は伸びる

日本最大の産業にのし上がった鉄道
 ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った初代ウェリントン公爵は、「鉄の公爵」と呼ばれた。これを英語のまま読んだアイアン・デューク号と命名された蒸気機関車が、長崎の大浦海岸に走ったのは、明治に入る三年前、慶応元年(一八六五年)のことであった。走らせたのは、ご存知プッチーニのオペラ『燦々夫人』の舞台のモデルとして名高い、グラバー邸で知られるイギリス人貿易商★トーマス・グラバー(グラヴァー)であった。
 一ケ月にわたっておこなわれた機関車のデモンストレーション運転に、噂を聞きつけた日本人がどっと押し寄せ、狐を馬に乗せたような風聞が嘘ではないと知って驚き、半ばおそれおののいて眺めていたが、しかしやはり機関車が蒸気を噴いて列車を引きながら動き出すと感激し、「おおーっ」と歓声をあげた。日本人が日本で目にした最初の本格的な鉄道がこれであった。
 正確には、★土佐の漂流民ジョン万次郎が、日本人として初めてアメリカで鉄道列車に乗ったのが、その二十年前の一八四五年であった。のちに運命の偶然から、ジョン万次郎一族のある人物が、日本の蒸気機関車を製造して、鉄道界を主導するのである。そのように不思議なことが、どうして起こったのであろうか。ことの順序を追ってみよう。
  帰国した万次郎がアメリカの文明事情を土佐藩主に伝えた一八五三年には、ペリーが浦賀に来航した。それに遅れること一ケ月半後、ロシア艦隊プチャーチンが長崎に来航し、蒸気機関車の模型を船の中で走らせ、この乗り物を日本人に紹介して、いぶかしげに眺める彼らの顔を楽しんだ。ところが翌年に再び来航したペリー艦隊は、プチャーチンに負けじと持参した模型の蒸気機関車の試運転を横浜村でおこない、その鉄道模型を江戸幕府に贈って驚かせた。この模型は遊園地の列車ほどの大きさがあり、実際に蒸気機関車で引いて日本の役人を乗せ、時速三二キロ余りのスピードで走ったのだから、小型ではあっても最初の実物鉄道であった。

 そこで衝撃を受けた肥前佐賀藩の★佐野常民たちが心血を注いで、歯車や内部の配管まできわめて精巧に再現し、蒸気車の模型を製作したのが翌一八五五年、日本人製作による機関車模型の嚆矢となった。
 しかしそれから十年後、グラバーが長崎で走らせたものは、線路の幅がIメートル近く、長さが三〇〇メートルもあり、中国に輸出するため上海博覧会に出品された蒸気機関車を日本に運び、客車三両を引いて走ったのだから、これが正真正銘、西洋文明が日本人を驚嘆させた本物の鉄道であった。かくて蒸気機関車は、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれるようになった。それでもまだ江戸時代のことである。
 それからわずか三十年後に、鉄道が日本最大の産業になると、誰が予測したであろう。
 明治二十九年(一八九六年)の最初の企業ランクを見ると、鉄道産業が、確かに第一位である。この年はちょうど、大阪と北海道を結んで、輸送の生命線であった北前船が海から姿を消した時期にあたる。★その理由は二つあった。
第一は、西洋式の帆船と蒸気船が広まり、財閥系の日本郵船によって、北前船が輸送力を奪われたからである。第二は、明治五年の新橋~横浜間の開通に始まった鉄道が、のち東京から関東・甲信地方一円に広がり始めた(東京といっても、当時の駅は新橋と上野が起点だったので、大正三年に東京中央停車場が開業するまで東京駅はない。続く明治七年、北前船の起点・大阪~神戸間に始まった鉄道が、京都・大津まで広がった。
 明治二十二年には東海道本線の新橋~神戸間の全線が開通、明治二十四年には上野~青森間の東北全線が開通、さらに明治三十四年には山陽鉄道の神戸~下関間の全線が開通して、本州が北から南まで鉄道で結ばれた。鉄道は人力や馬よりはるかに輸送力が大きく、大型船が入れない内陸まで人間と商品を運び、船より輸送スピードが速い。そのため、各地での商品価格の差がなくなり、北前船の利益が出なくなったのである。こうして明治三十年代をもって、豪商を生み続けた北前船が、その長く尊い役割を終えていった。
 内陸では鉄道が船にとって代り、大量輸送の主導権を握ったのである。序章の二九頁にその明治二十九年の数字を示したが、製造業ではない「運輸・電気・ガス」上位五〇社の公益事業分野を見ると、第一位が鉄道会社で、総資産が九九一九万円に対して、第二位の海運業は二五三九万円であった。鉄道が海運の四倍にまで力を伸ばしたのだ。全製造業の七割を占めて最盛期にあった紡績業(繊維業)五七社は、そのとき総資産四〇一一万円だったので、鉄道会社はその二倍を超える巨大なものでもあった。
 しかしさらに驚くことがある。次の企業ランク統計は、十五年後の明治四十四年(一九一一年)になるが、鉄道が三億五一一九万円に対して、紡績業が一億八二四一万円なので、やはり二倍の比率は変らない。ところがその鉄道会社のうち、たった一社で二億六一四〇万円の資産に達し、鉄道全体の四分の三を占める会社があった。★南満州鉄道株式会社、すなわち「満鉄」であった。ほかに21Iある鉄道会社の総資産を合計しても、満鉄の三分の一、膝の上ぐらいにしか届かない。

 その答は、前の章に述べた。明治三十九年三月三十一日に鉄道国有法が公布されて、全国的な鉄道網が国家に統治され、大手の私鉄路線が国有化されたからである。しかも満鉄が設立されたのは、奇遇にもそれからわずか八ケ月後の十一月二十六日なのである。そのため、民間に残った、か細い鉄道会社に比べて、超巨大なマンモス民間会社となった。それにしても、紡績業全社が束になってかかっても及ばないのだから、満鉄の大きさはとてつもない。 果たして、終戦まで日本企業第一位の座を保った満鉄とは、どのような怪物だったのか。★果たして、国有化と満鉄設立が同時期なのは、奇遇なのだろうか。誰かが、巨大な利益を手にしたのではないのか。
 この三つの疑問を抱いて、鉄道史を追跡しよう。

<あとがき>

 国家狂乱の日本史を見てきた。
 日本人は、東京大空襲と全土の都市空襲を語り、沖縄戦で殺され、集団自決した人びとの最期に胸を痛め、最後には広島・長崎に原爆が投下された凄惨な結果を語り継いできた。満州からのシベリア抑留で、どれほど苦難の体験を強いられたか。涙を催さずには聞けない体験談であり、語り継いでゆかなければならない。しかし、すぐれた書籍を除けば、広く一般に語られる話が、ほとんど日本人の被害であることは、奇妙な印象を与えずにはおかない。
 戦争を起こしたのは、日本人である。加害者としての日本人はどうなのか。
 現在の議論を聞いていると、そこから先は、いきなりA級戦犯合祀問題と憲法論議に飛んでしまう。おかしな話ではないか。靖国問題も、戦後の新憲法のいわれも、日本人の加害事実を報道メディアが充分に語ってから、おこなうべきではないか。被害者意識は、日本に存在する国内問題を、外国を憎む方向にすり替える思考法である。その原因となった、もっとはるかに大きな、加害者としての日本人のアジア侵略と太平洋戦争の流れを知る機会を、大半の日本人はほとんど持たなかった。敗戦に至る最後の数年間には、軍人と政治家と官僚ばかりが登場して、町の商人たちの姿が見えない。その歴史にこそ、都市空襲、沖縄戦、原爆被害を把いた、真の問題がひそんでいるはずだ。なぜわれわれは、何も知らないのだろうか。
私自身は、本書のために改めて、縄文時代から日本の成り立ちに足を踏みいれ、『古事記』の神話時代から、すべての時代を飛ばさずに、二十一世紀の現在まで連綿と続く人々を追って、その事蹟を一つずつ書物にあたって、歴史を白紙から知ろうとつとめた。その結果、これまでのいかなる書物でもめぐり合わなかった深い戦争史の淵をのぞき、生きた歴史の尻尾をつかんだ気がする。本書に記したのは、そのうちのエキスだが、叙情に溺れて中心を外れることがないように心がけた。それでも自分はまったく無知浅学な一人にすぎない,毎日新しい史実にめぐり合うのだから、これほど確かなことはない。それは私ひとりなのだろうか
 1975年2月9日の毎日新聞が、大平洋戦争を知らない若者の実態を紹介し、その会話を報道した。こうである。毎日新聞の記者が、一九五二年生まれで、地方の県立高校を卒業した東京の女子短大生と世間話をするうち、日露機争の乃木大将や、総理大臣・東條英機、連合艦隊司令長官・山本五十六に及んだが、その名前をまったく知らないという。そしてついに、彼女がこう尋ねた。
    「太平洋戦争って何?」
    「日本は戦争したんだよ」
    「どこと?」
    「アメリカと」
    「どっちが勝ったの?」
 この記者が受けた衝撃は大きかったが、愕然とするのは、記者だけではないだろう。一九七二年に占領軍アメリカから沖縄が日本に返還されて三年後、これが敗戦三十年後の現実であった。しかも彼女によれば、「聞いてみたら、友達のほとんどは知らなかった」という。では、それからさらに三十年以上を経た現在は、どうなのであろうか。無知の状況は、一層悪化しているのだ。いま最も強く実感するのは、第二次世界大戦後のドイツ人が、ナチスの時代について徹底的に学んできたのに対して、この国家狂乱の一時代を招き、自らつらい思いを昧わった日本人自身が、戦争犯罪への流れを、戦後に一度も深く学ばなかった、という自省である。それは、日本人が戦争をなぜ起こしたかという原因を、日本人がいまだに理解していないことを意味する。

「そのような日本人」の大半の人が寄ってたかって、これから論議できるものだろうか。
戦後一貫して、戦争に至ったくわしい経過を学校で教えさせないよう、教科書検定制度を悪用してきた文部省の知性が第一に疑われる。一方、まだ未熟な子供や学生に対する教えより、社会を動かしている大人に対する教えのほうが,はるかに重要であろう。NHKを含めて、すべての
報道マスメディア、テレビ・新聞が国民をこれはどの無知に導いてきた全体的な責任は、結果としてきわめて大きいと考えざるを得ない。ここ十数年の民放テレビ局が日々の娯楽番組に走って満足する状況は、目を覆うばかりだが、それでもすぐれた番組がないわけではない。こうした中で、2005年8月から2006年8月まで、読売新聞によって一年間特集された「戦争責任」 シリーズの、伝えている。 記者たちによる解析は、見事な戦時追及であった。筆者の地元では東京新聞がよく大いなる敬意を払うべきである。
 そこにつけ加えたい大きな史実がある。軍人と政治家だけが大半の戦争責任者だという視点でよいのか、という疑問である。また時期的には、1928年の張作霖爆殺事件と1931年の満州事変からあとが、主な侵略責任の主題となってきた。これが、日本人側にとって最後に悲劇を招く大きな転機となったことは、記者たちの指摘の通りである。東京裁判も、戦争犯罪の訴追の対象時期を「1928年以後」と定めておこなわれた。
 しかし、戦争は、突然に口火を切るものではない。

特に、本書第五章でくわしく述べたように、日本は明治維新直後から商人と長者たちを巻き込みながら、朝鮮半島への侵略に手を染めていった。また第一話の[幕末・維新篇】で述べたように、台湾への侵略を大々的におこなった。これらの行動は、当初から、軍人による武力侵略だけでなく、商人が乗りこんでゆく経済的な侵略と並行しておこなわれたのである。その金銭欲が動機となって、あたかも樽の中で酵母がぐつぐつと発酵するように、日清・日露戦争へと発展してゆき、ついには、財閥一族を中心とした満鉄というマンモス会社を隠れみのにして、満州への明確な侵略の第一歩が踏み出されたのだ。
 その結果、本書前半に述べたように、幕末維新時代を通じて、職人技術者と商人たちによってすぐれた努力が払われ、新しい産業を次々と興しながら、それを無にするに等しい蛮行が、同じ日本人によっておこなわれた。敗戦前の最後の数年間には、企業が国家の命令のままに動き、企業としての体を成していない。日本史の舞台から商人がいなくなってしまったかのようである。
 出てきたのは愚かな軍人と政治家・官僚ばかりなのだ。その原因は、どこにあったか。言うまでもなく明治維新の本質と、明治政府要人の傲慢さと、大日本帝国憲法と、帝国議会の独裁制にあった。これに対する批判を始めることから、日本人の歴史意識を変えなければならないことは、明らかである。

明治維新によって軍国主義が隆盛した富国強兵の歴史は、言い換えれば、軍人が最高権威者だったことになる。それは、「士」農工商と同じ階級制度である。維新の志士たちが江戸幕府を批判した言葉は大嘘だったのだ。
このような三百代言どもを偉人に仕立ててきた物言きとジャーナリストが一番の悪なのである。

 加えて日本の軍人は、明治維新以来、一度も日本の国民を守ったことがない、世界でも稀有の珍奇な軍隊組織だ。日本では、兵士をして、「戦って血を流し、捨てられる」存在と見ている。その死を武士道に帰着し、美化して終る。だからこそ、国民を守らずに満足し、特攻で散ることを讃える軍隊になったのである。捨てられる兵士の大半は、貧しい階層から出ているのだ。
 そればかりではない。2001年3月に、アフガニスタン支配勢カ・タリバンが、二世紀に造営されたバーミヤンの巨大石仏を爆破破壊したとき、世界中と共にタリバンを非難した現代日本人が、名古屋城などわが国の貴重な城郭や建築物を自ら破壊に導いた歴史について、マスメディアを含めて、戦時中のわが身の出来事を批判する言葉を吐いたことは、まずほとんどない。城郭は、コンクリートで外見を再現すればよいというものではない。世界遺産を口にするなら、なぜマスメディアは、過去を正視して、その時代の人間を厳しく批判しないのか。日本文化の何も守らなかった人間たちが、「日本を守ろうとしてやむなく防衛戦争をしたのだ」などと、ねぼけた戯れ言を口にするものではない。偉人を持ち上げ、讃える話もよいが、善人の知恵深さは、悪を懲らしめるからこそ、讃えられるのだ。その悪事を語らないのでは、その時に歴史の動きようがない。
 第二次世界大戦中の歴史書や伝記類を読むと、★誰も分らないうちに、いつしか大戦争になっていた、と弁解する言葉によく出くわす。一人前の大人であるなら、このように無責任な言葉を吐いてはいけない。
 これほど明白な歴史の順序があって、なお、日本人がこの歴史をやむを得なかったと弁じ、いま世界で最も兇悪な米軍と手を握りたいなら、日本人には、論理的な思考ができないのだから、これからも、同じことをおこなうに違いない。目の前の現実は、それに近づいてきた。だが、「残念ながら、それはどの民族だった」と悟り、悟りを唯一の款いの違として歴史の扉をとじるのでは、われわれは鎖がからまって身動きできない大と同じ哀れな動物になる。とりわけテレビ局と新間社につとめる人間は、漫然と大衆心理に迎合してよい時代ではない。その大衆を生んだのが、自らの不作為にあったことを自覚しなければならないはずだ。本来すぐれた日本のマスメディアは、今こそ社会の木鐸として知恵をしぼり、戦時中に果たせなかった自らの役割を果たすべき時を迎えたと言ってよいだろう。
 ★この歴史と、目の前の現実を見るとき、まったく同じ心境に達していた人物が、戦時中の日本にいたからである。★桐生悠々である。
 1933年(昭和8年)3月27七日、日本が国際連盟脱退を正式に決定すると、全世界を相手にした本土決戦に備えて、8月9日に第一回関東地方防空大演習が実施され、桐生がそれをあざ笑ったことを、第七章に述べた。
 信濃毎日新聞を退社したあとの彼は、名古屋郊外守山町に移り、読書会を組織して個人雑誌『他山の石』を刊行し、世界の思想を紹介して発禁と戦いながら時局批判を続けた。
 そこで桐生悠々はこう書いた。言いたい事と、言わねばならない事を区別しなければならない。私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを、国民として、同時に人類として言っているのだ。言いたいことを言っていれば愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて苦痛である、と。
 ついに病状が悪化した桐生は、1941年9月に『他山の石』廃刊の辞を読者に送った。
 「……ゝ」の世を去らねばならぬ危機に到達致居候。小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
 ほどなく9月10日、戦時下最大の反骨ジャーナリスト、石川県金沢に貧しい藩士の息子として生まれた本名・桐生政次は、喉頭癌のため六十八歳で死去した。その三ケ月後、日本は12月8日に真珠湾攻撃に突入していったのである。

 桐生悠々の言葉は、愛する日本人に向けた的確無比の警告であった。東京大空襲の12年前に、木造家屋の多い東京が焼土と化し、死者の規模が関東大震災と同じになる凄惨な悲劇を見抜いた。それから12年間という長い歳月、超畜生道に堕落しつつある日本人は何をしていたのか。戦後に一大軍粛がなされる日の到来まで予言したこの人物が、図抜けた天才であったとは思えない。
論理的に思考すれば、これだけのことは、誰にも予測できたはずである。桐生悠々が傑出してすぐれていたのは、道を外れないことに徹し、並々ならぬ勇気をもって意志を貫いたところにある。桐生悠々は死ぬまで、日本民族を見捨てず、再生できるぞと叱咤した。「為せば或る 為さねばならぬ何事も ならぬは人の為さぬなりけり」と、江戸時代に米沢藩・上杉ようざんが語った熱情が思い起こされる。誰にもでき、なすべきことをしない、それが超畜生道だと、桐生悠々は語り遺したのだ。

 道とは何か。武道とは何であろうか。柔道の講道館を創設した嘉絹絵五郎の名を知らぬ日本人はいないであろう。治五郎は、古来柔術と称せられた古来の武道を改良して柔道とした人である。選手二人を率いてスウェーデンのストックホルムに赴き、日本初めてのオリンピック出場を実らせた絵五郎の国際的精神は、どこにあったのか。嘉絹絵五郎は本来、柔道家ではない。兵庫県灘酒造「菊正」醸造元の大長者である本嘉納家・嘉納治郎右衛門一族の嘉納治郎作の三男として生まれ、酒を道る商道が何であるかを知り、東京大学文学部の政治学と理財学、哲学科に学んだ教育者であった。治五郎が参加したオリンピック閉幕三日後の1901年七月三十日に明治天皇が死ぬと、天皇大葬の九月十三日夜、日露戦争の旅順攻撃で虐殺の指揮を執った乃木希典大将が割腹して殉死した。そのとき、「階習打破論 乃木将軍の殉死」と題する社説で、この武士道の悪習を批判したのが、またしても桐生悠々であった。
 軍人は、戦うことが能ではない。幕末には、日本の国防を考えて、幕府が長崎海軍伝習所を設置し、兵術ばかりでなく、若者に広く先進知識を学ばせた。その伝習生となってオランダ人から深く学んだ一人、柳楢悦は、若くして和算に長じ、維背後は海軍に出仕して海軍少将にまでなったが、彼はただの軍人で人生を終えなかった。のちに、明治政府の地租改正を主導した屈指の西洋経済学者・神田孝平と共に、東京数学会社を創立した。ここで、和算の問題を西洋数学で解き、ここから、日本の数学物理学会が誕生することになったのだ。
 女性でも、桐生悠々と同じ鉄のごとき勇気を示した人物がいた。1914年(大正3年)に『カルメン』のハバネラを日本で初演し、日本最高のアルト独唱歌手と讃えられた「声楽の神様」中島兼子は、戦時中の日本軍部の朝鮮侵略行動に強く反発し、軍歌を歌うことをかたくなに
拒み続け、そのため日本では、舞台から完全に追放された。だが兼子は、まったく意に介さなかった。
 軍人の中にも、不屈の抵抗を示した人物がいた。1930年のロンドン海軍条約を批准させた海軍軍令部長の谷口尚真である。連合艦隊司令長官をつとめ、海軍大将にのぼりつめた谷口は、海軍内部の猛反対に遭いながら、軍縮の方向に日本の舵取りをおこなった。続いて翌年、満州事変が勃発すると、陸軍から海軍に支援の要請があっても、「山海関に艦隊を派遣すれば、アメリカとイギリスの介入を招く」と言って反対し、関東軍への支援を拒否し続けた。そのため彼は、海軍大臣の大角岑生(みねお)によって粛清されてしまったのである。
 この人たちは、どこから出たのであろうか。柔道の父・嘉納治五郎の姉・嘉納勝子を妻としたのが、西洋数学の開拓者・柳楢悦であった。その息子・柳宗悦は、朝鮮人による反日暴動となった三・一独立運動を支援し、日本人の非道を強く批判した。反軍アルト歌手・中島兼子とは、その柳宗悦の妻・柳兼子のことであった。柳猶悦の娘・柳直枝子(すえこ)を妻としたのが、連合艦隊司令長官・谷口尚真であった。これを閨閥とは呼ばない。家族である。この強靭な人たち全員に通じるのは、「世界の誰もが認める人間」であろうとした精神の広さである。それが、彼らの日本人としての誇りを、胸中で静かに守り抜いた。
 本来、日本史は、このような人間にこそ、大きな関心を注ぎたい。それが、桐生悠々の果たせなかった、最期の無念の心境であった。
 ほかにも、議会で粛軍演説をした衆議院議員・★斎藤隆夫がいた。東京日日新聞一面に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」と書いて陸軍を批判し、東條英機を激怒させた新名丈夫(しんみょうたけお)がいた。軍人批判日記を書き続けた反骨のジャーナリスト、清沢冽(きよし)がいた。すぐれた精神を貫いた数々の人間がいた。その人びとが、これから第三話の[戦後復興篇】に登場して、立ち上がってくれることに期待しよう。1945年8月15日の戦争終結を告げる天皇玉音盤レコードを守り抜き、NHKラジオで放送した報道部副部長の柳澤恭雄は、NHKに残って抵抗を開始したが、GHQ指令のレッドパージで首切られたあと日本電波ニュース社を創業し、そこに若き獅子たちを育て上げた。今その人たちがわれわれの師となって、すぐれたドキュメントを伝えてくれている。
 戦後は、東京オリンピックと高度経済成長から始まるのではない。明治維新以来77年の栄華も槿花一朝の夢と消え、無残な焼け跡から、日本の商人は再び人生にとりかかったのである,戦後の闇市とは、どのようなものであったのか。しかし彼らの前に立ちふさがっていたのは、アメリカ占領軍であった。

それでも、自由が到来したのである。農地改革がおこなわれ、女性が解放され、財閥解体が断行された。映画館にアメリカとヨーロッパの映画が再び登場し、街じゅうにジャズが流れると、夢のような世界が現われたのだ。
               2007年6月8日  広瀬 隆

貝島・麻生家が長州・三井閥と結びつく

 はて、苦労にも色々ある。貝島財閥の創始者である貝島太助は、もとは貧農から身を起こした一介の石炭運搬人であった。ところがこの労働者が、石炭採掘に乗り出し、何年も失敗の苦労続きのとき、金となれば目がない三井の番頭・井上馨に知られたことから、貝島は財閥と政府の権威を活かせるようになり、さらに日清戦争で石炭価格が暴騰すると、巨利を博して一気に炭鉱王まで階段をのぼりつめた。この集団が、戦争が起これば莫大な利益が転がりこむことに味をしめたのは自然な成り行きである。
 貝島太助に知恵をつけてもらったのが、飯塚市の大庄屋をつとめる麻生太吉であった。麻生も、自分の小作農地から石炭が出ることを知って、父と共に初めは手掘りで石炭採掘を始めたが、やがて本格的な採炭のために井上馨に接して採掘権に利便をはかってもらい、結局彼らが掘り出した石炭の販売先は三井物産となった。貝島太助も麻生太古も、三井銀行・三井物産を操る井上の後押しを得て、巨大な資産を築いたのだから、その見返りが、強欲な井上に戻ってこないはずがない。

 どこへ行っても顔役を演じて懐に金をかき集め、全国第八位の持丸長者となった大蔵大臣・井上馨である。この大臣の姪が腹を痛めて生んだ子が鮎川義介と妹・鮎川フシ(フジ)であった。福岡の炭鉱王・貝島家は、ここから関西財界の大物・藤田伝三郎一族の鮎川義介に近づくことになる。山口県出身の鮎川は東大に機械を学んだ優秀な技術者だったが、芝浦製作所に入社してあえて職工からたたきあげ、渡米して工場労務者として働き、帰国後は井上馨の支援を受けて福岡県の戸畑に戸畑鋳物を創業していた。長州~福岡は江戸持代から関門海峡を挟んで海の仲間である。そこで貝島太助の息子・太市が鮎川フシを妻に迎えて、政界の長州閥にも橋頭堡を築き、ますます強大な勢力を広げていった。

 これに対して★麻生家は、石炭掘りを始めた麻生大吉の孫・麻生大賀吉が吉田茂首相の娘・和子と結婚して、戦後に吉田内閥の側近として政財界に君臨し、飛ぶ鳥を落とす勢いとなったことは有名だが、それは原因ではなく、あとの結果である。吉田茂の実父・竹内綱は、三菱総帥・岩崎弥之助の岳父・後藤象二郎から長崎県貝島炭鉱の経営を任されて石炭業界を勤かす主役の一人だった。そして、吉田茂のひと回り年上の姉・竹内菊子が、当持土木工学の技術で日本を主導した工学持士の白石直治と持婚し、白石が若松築港を創設して会長に就社したため、そこから石炭を出荷する★麻生家と吉田茂が結ばれるのだ。竹内・吉田・後藤・白石はいずれも土佐閥であり、この仲を取り持ったのが黒ダイヤ・石炭であった。

 これで物語は終わらない。貝島太市は貝島炭鉱を創立し、その兄・貝島栄四郎は貝島鉱業社長として1933年の長者番付で福岡県第一位となり、その頃には日産コンツェルンの総帥となった鮎川義介が、この身内の石炭資産をとりこんで、三井、三菱に次ぐ第三位の新興財閥にのし上がっていった。やがて廬溝橋事件から日中戦争が勃発すると、待ってましたとばかり近衛文麿内閣を動かして、国策会社・満州重工業開発総裁となった鮎川が満州に乗りこみ、鉄道を除いて、満鉄の事業をそっくり引き受ける日が近づいていた。

 残る一人の★筑豊石炭王・伊藤伝右衛門は、日本一の女優・原節子主演の映画『麗人』で悪役にされ、まったくの誤解を受けてきた伝説の人物である。貧しい魚問屋の行商人の息子に生まれ、極貧の中から炭鉱経営を志して着々と道を拓き、一代で産を成して巨財を築いた男である。この出世物語は貝島・安川・麻生とさして変らないが、この石炭王・伝右衛門だけは、成金と馬鹿にされてきた。なぜ悪役にされたかと言えば、妻が、映画で描かれたようなヒロインとあべこべに、まったくできの悪い女だったからである。偏見に満ちた映画である。

 伝右衛門の妻は、原節子が扮した柳原輝子で、公家一族から出て、大正天皇の従姉だった。魚問屋と天皇家が結婚すると何か起こるか。この女が、伝右衛門よりふた回り年下で、歌人として柳原白蓮と名乗った。伝右衛門が白蓮と結婚し、飯塚市幸袋に、若妻のために屋根を赤銅葺きにした豪奢な銅御殿(あかがねごてん)を建てて住み、妻妾同居で生活したのだから、夫にいくら金があっても女としての白蓮はたまらない。”貧乏人の成り上がり者と軽蔑して、白蓮が★宮崎滔天の息子・宮崎竜介と駆け落ちし、しかも夫に三行半を突きつけた旨を新聞に公開したのだから、伝右衛門は世間から一万的な指弾を浴びた。宮崎滔天は孫文の辛亥革命を支援した偉大なる男で、格別この夫婦物語と直接の関係はない。本当に悪いのは、伝右衛門たち民衆に飢えを強いて華族としてのさばり、金が欲しくなると彼らに無心した皇族公家たちの横暴さであった。

 この石炭が、哀しい歴史を秘めていないであろうか。

 島原鉄道の重役だった宮崎康平が作詞・作曲した★「島原の子守唄」を、一度聴いてみればよい。
    おどみゃ島原の おどみゃ島原の
    ナシの木育ちよ
    何のナシやら 何のナシやら
    色気なしばよ しょうかいな
    早よ寝ろ泣かんで おろろんばい
    鬼の池ん久助どんの道れんこらるばい

 この歌詞にある「久助どん」とは、人買いである。三井三池炭鉱で掘り出された石炭を海外に輸出するため、明治11年に長崎県島原に口之津港が開かれ、人買いによって石炭と一緒に船底に押しこめられた若き娘たちがいた。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちは、島原や天草から出て中国や東南アジアに渡り、娼婦として働き、名も知られず、ほとんどは二十歳前後の若さで異国にその骨を埋められた。ほんの子供が「お前じゃ働き手にならん。食い扶持が多すぎる」と言われ、娼婦になるほかなかった人生を、当時の政治家が知らなかったはずはない。いや、明治政府・大正政府・昭和政府は知ろうともしなかった。

  ★★柳原義光が、妹の白蓮を伝右衛門に嫁がせたのは、貴族院議員に出馬するため金が欲しかったからである。二人の父である元老院議長・柳原前光(さきみつ)が妾腹に生ませた子が白蓮であることを批判せずに、魚問屋から身を起こした。成金の伝右衛門の妻妾同居だけを批判するほどの不条理はない。もしモラルを説きたいなら、★★明治天皇が妻妾同居で床を共にした女は、一条美子はるこ(昭憲皇太后)、葉室光子、橋本夏子、千種任子ことこ、柳原愛子なるこ(白蓮の叔母で、大正天皇の生母)、園祥子……と、一体何人の女がいたかと、等しく並べて語るがよい。★★柳原前光は、明治維新の戊辰戦争で新政府軍の東海道先鋒副総督をつとめて江戸城に意気揚々と入城し、房総半島に出兵して千葉県佐倉藩を帰順させた時、佐倉に★名医・佐藤泰然一族が開設した藩営病院の★佐倉養生所を閉鎖に追いこみ、住民を苦しめた罪深い男である。その後、まったく何のいわれもなく、朝鮮を武力で征服するべしと、強硬な征韓論を唱えた愚か者の代表者である。そもそも白蓮は、女性解放の先駆者でも何でもない。実に高慢な、華族意識にかたまった自我の強い人間であった。

 世間の悪罵にひと言も言い返さなかった伝右衛門は、三井と組まず、大正鉱業を設立して社長となった。確かに成金には違いないが、★★麻生太吉と共に嘉穂銀行(現・福岡銀行)育ての親となり、地元の若者を教育するため現在の時価で数値円という大金を寄付し、遠賀川の改修に力をつくし、私財を投げ打って女学校を創設し、大いに地域に貢献してきた。伝右衛門の孫は貝島家から嫁をとった。まこと、郷土の長者にふさわしい。・・・引用了。

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 別に皮肉ではないが、明治大帝、流石の「絶倫」振りである。

 あの桓武天皇の正当な子孫というべきだろう。

 桓武については以前にも紹介していました。

 http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/19275080.html

★5月7日に現天皇の発言を以下のように紹介した。

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると

『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)

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平安京の建設者・桓武天皇とは如何なる人物か。
その一端を示すエピソードをひとつ。

★保立道久著・『平安王朝』(1996.11.20 岩波新書)には、こうある。以下引用。

1.桓武天皇のイメージ

* 謎につつまれた前半生

このような桓武の子だくさんと精力については、宇多天皇の「寛平遺戒」(かんぴょうゆいかい)の証言があり、それによると、桓武は平生の昼はたくさんの子どもたちの遊び相手をしながら、身辺を掃除する采女(うねめ)たちにはとくに「表袴」(うえのはかま)という簡便な袴を着させていた。それは気持ちが動いたときに、「御するに便ならむと欲」したためであったという。桓武が前半生においても何人かの妻子をもっていたことは確実である。

ちなみに采女とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%87%E5%A5%B3

桓武天皇は以下も参照

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/518.html

日本の正体

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1689

泉湧寺の謎

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1696

桓武天皇の母親は

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1762





ヤクザの6割が同和 3割が在日韓国人 1割が日本人



在日 同和の違いは...........

http://okwave.jp/qa/q7395625.html
 
 
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