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八咫烏は誰?

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2015年 6月12日(金)21時33分50秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://8550.teacup.com/shig/bbs/590

ある霊能力者からヤタガラスはニギハヤヒ&物部氏&蘇我氏を裏切って神武の側についた紀氏だという話を聞きました。民族的には同じ部族に属するとのこと。あと、蘇我馬子は物部守屋の子供だったので、守屋はわざと討たれたとの話も…。本当かどうかはわかりません。

その霊能力者は大阪府八尾市にある物部守屋のお墓を管理しているという物部氏の末裔からその話を聞いたと言っていましたよ。

管理人注:物部守屋はイルミナティだった

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1592

日本建国イザナギとイザナミ

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1798.html

『何が、言いたいかといえば、日本人はロシアから北海道を渡ってきた人々、中国・モンゴルから朝鮮半島から渡ってきた人々、南の島々から渡ってきた人々、中国江南地方から渡ってきた人々で、縄文人は構成されていましたが、

漁労と稲作をなりわいとする、日本という国家を形成した弥生の人々は、中国江南地方からやってきた長江文明の人々で、彼らが、南九州にたどり着き(天孫降臨)、さらに瀬戸内海を通り、東に進み(神武東征)、淡路島・阿波を支配し、最後に天然の要塞(西側には、大和川を通じて、穏やかな瀬戸内海に出れて、東側は山に囲まれている。)である大和地方に政権を築いたものと思われます。

現代でも、中国と朝鮮半島は似たところがありますし、日本と台湾は合うところがあります。 これは、黄河文明(漢民族:肉食と小麦、砂漠=家の中土足)、長江文明(漁労と稲作、高温高湿=高床式住居、水稲・湿地=靴を脱ぎ、足を洗って家に入る)差があるのかもしれません。

すなわわち、日本は長江文明の末裔という事が出来ると思います』

紀氏で検索すると

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7YWPWvt0npVKy4AmR2JBtF7?p=%E7%B4%80%E6%B0%8F&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

『紀氏(きうじ)は、「紀」を氏の名とする氏族。

大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。

概要

記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。具体的には、雄略天皇朝の小弓、顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したと伝わる。葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。

天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚として更に繁栄し、桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるも家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。

紀氏の流れを汲む末裔として、田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏(近世大名家の堀田氏につなげるのは仮冒か)・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。また、紀伊国造家は天元年間に男子が途絶えたため、長谷雄の曾孫行義を嗣として以降朝臣姓を称した。なお、中世以降の紀氏には、橘朝臣姓を仮冒した者が多いと言われる』~Wikiより

管理人注:

天智天皇が百済を助けようとしたのはなぜですか。特別な血縁関係があっ ...

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1388167173

天智天皇」は、九州倭国が白村江で唐ー新羅の連合軍により大打撃を受け、筑紫で 戦後処理をしている真っ最中に、百済からの亡命王族や遺民を結集して近江に政権を 樹立します、でも...

質問日:2012年5月29日

百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武 ... - Yahoo!知恵袋

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13127630518

百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武天皇系)これ事実かな - 国が支援 されたものにさらにちょうど似ていると言うことができますが、それはそんな単純なもの で...

石清水八幡宮の解説

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3288

石清水八幡宮別当家で検索すると.....

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7YWPW_F1HpVCgwALOCJBtF7?p=%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E5%88%A5%E5%BD%93%E5%AE%B6&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

石清水八幡宮・石清水祭・石清水文書 - So-net

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-iwashimizu.htm - キャッシュ

のち別当家は田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路〈きくおおじ〉と名乗る)両家に分立 した。 機構としては政所(まんどころ)、公文所( ... 京都府八幡(やわた)市の石清水 八幡宮で毎年九月十五日に行われる例大祭。賀茂祭(葵祭)、春日祭とともに三大勅祭 の ...

鎌倉末・南北朝期に於ける石清水別当家領庄園の 支配構造と領主制的 ...(Adobe PDF)

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id...1015

鎌倉末・南北朝期に於ける石清水別当家領庄園の. 支配構造と領主制的特質. 山 内 政 治. 一、 はじめに. 平安時代末期、 伊勢神宮と並ぶ 「国家の宗廟」 として鳥羽天皇御願 文に記された山城石清水八幡宮は真諦元年 (八. 五九) の創建以来、 平安京の裏鬼門  ...

石清水八幡宮文書(いわしみずはちまんぐうもんじょ)とは - コトバンク

http://kotobank.jp/word/石清水八幡宮文書-1506249 - キャッシュ

https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE-32658

日本大百科全書(ニッポニカ) - 石清水八幡宮文書の用語解説 - 石清水八幡宮旧別当家 であった田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路(きくおおじ))両家および旧神官諸家に 伝わる文書の総称。古代以降の同宮領、同宮内の支配組織、同宮と公武権力との関係  ...

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)とは - コトバンク

http//kotobank.jp/word/石清水八幡宮-32658 - キャッシュ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 石清水八幡宮の用語解説 - 京都府八幡市に 鎮座。 ... 源氏の祖神として崇敬し、鎌倉鶴岡(つるがおか)八幡宮などを各地に勧請、 1185年(文治1)頼朝(よりとも)は神領を寄進し、1191年(建久2)には別当領を保護した 。

辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-大辞林 第三版-デジタル大辞泉

田中宗清(たなか そうせい)とは - コトバンク

http://kotobank.jp/word/田中宗清-1090009 - キャッシュ

https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%97%E6%B8%85-1090009

1190-1237 鎌倉時代の社僧。
建久元年8月10日生まれ。田中道清(どうせい)の子。建久9年に出家。文暦(ぶんりゃく)2年山城(京都府)の石清水八幡宮寺(いわしみずはちまんぐうじ)別当,のち検校(けんぎょう)となる。父が整理した家伝の文書や記録を「宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう)」にまとめ,その増補につとめた。嘉禎(かてい)3年6月9日死去。48歳。

宮寺縁事抄(ぐうじえんじしょう)」とは?

〈みやでらえんじしょう〉ともいう。鎌倉初期,別当家の田中道清が石清水八幡宮に伝来する文書・記録等を整理・書写して項目に従って分類・類聚したものに,子孫が代々書きついでいったもの。道清の子宗清の手になるものが主要な部分を占める。原本は数十巻にものぼっていたが,散逸したものが少なくない。《大日本古文書》はそのうち42巻を所収。未収部分が多い。田中家旧蔵,写本は尊経閣文庫蔵。【伊藤 清郎】

デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 田中宗清の用語解説 - 1190-1237 鎌倉時代の 社僧。建久元年8月10日生まれ。田中道清(どうせい)の子。建久9年に出家。文暦(ぶん りゃく)2年山城(京都府)の石清水八幡宮寺(いわしみずはちまんぐうじ)別当,のち検校( ...

辞書別に見る:世界大百科事典 第2版

四六章 弟・権別当成清の失脚(一) - nifty

http://homepage2.nifty.com/H-Suga/tkk47.html - キャッシュ

この年の暮、宇佐弥勒寺講師・喜多院院司を兼務していた小侍従の弟・石清水権別 当成清は、十二月に急遽宇佐に下る事になった。この間の成清 ... 成清は保元元年(一 一五六)閏九月二十四日、鳥羽法皇の御遺志により石清水八幡宮寺の修理別当となっ た。

石清水八幡宮文書を調べたい。 | レファレンス協同データベース

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000050320

大日本古文書 家わけ第4ノ1 / 東京帝國大學編纂 東京帝国大学文科大学史料編纂所 , 1909 石清水文書之1 大日本古文書 家 ... 石清水八幡宮旧別当家であった田中・善 法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路(きくおおじ))両家および旧神官諸家に伝わる文書の総称。

関連記事:物部守屋

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6547

ツイッターに少し書いたのですが、下記記事を読んで山形大学の発表の仕方と新聞記者の能力に疑問を感じたので、こちらにまとめておきます。
先ずは毎日新聞(地方版)。

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物部守屋:顕彰碑拓本、山形大図書館で発見 飛鳥時代の仏教反対派・有力豪族 明治の廃仏運動背景に /山形

 山形大は18日、飛鳥時代の有力豪族、物部守屋を顕彰する明治時代の石碑拓本が同大小白川図書館で見つかったと発表した。山形在住の有志が仏教反対派だった守屋をたたえる内容で、明治期の廃仏運動の高まりとの関連がうかがわれる。発見した同大人文学部の三上喜孝准教授(日本古代史)によると、同時期に守屋を顕彰する資料は他に例がなく珍しい。
 三上准教授によると、拓本は縦3メートル、横2メートルで、昨年7月、図書館内の資料を整理した際に見つかった。石碑本体は1896(明治29)年12月に建立され、山形市の千歳山公園に現存するが、昨年まで草木に覆われ忘れられた存在だった。題字は皇族で軍人の有栖川宮熾仁(たるひと)親王が、碑文は公家出身の政治家、東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ)が書いたと石碑に刻まれている。
 守屋は敏達天皇らに仕えた有力豪族で、仏教を受け入れることに強く反対。仏教受容派の蘇我馬子と聖徳太子らと対立した結果、攻め込まれて死亡した。碑文では「公の忠憤義慨世に明らかになりもて」とあり、守屋の忠言をたたえている。石碑が建立された背景には、神道と仏教を分離したために寺院などを破壊する廃仏運動が広がったことがあるとみられるが、詳しい事情は分かっていない。
 また、京都大付属図書館に同時期に同様の方法で作製された拓本が収蔵されていることも判明した。有栖川宮、東久世の両氏は尊皇攘夷運動で長州藩とのゆかりが深いが、山形とのつながりは不明。三上准教授は「なぜ山形で守屋を顕彰したのかが最大の謎。山形の近代史を考える上で貴重な資料だ」と話している。
http://mainichi.jp/feature/news/20120919ddlk06040003000c.html

ついで朝日新聞。(無料分のみ)

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物部守屋大連の碑、山形大に拓本 尊皇攘夷運動と関連か

山形大は18日、明治時代に山形市の千歳山に建てられた石碑「物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)の碑」の拓本が見つかったと発表した。物部守屋は仏教受け入れに反対した古代の豪族。拓本は石碑と同時期のもので、幕末・維新の尊皇攘夷(じょうい)運動や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と関連している可能…
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201209180485.html?id1=2

石清水八幡宮・石清水祭・石清水文書

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-iwashimizu.htm

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

 京都府八幡(やわた)市の男山(おとこやま)に鎮座。祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、比※大神(ひめおおかみ)。旧官幣大社。
※口へんに羊

 八五九年(貞観元)大和国大安寺僧行教(ぎょうきょう)が大菩薩の示現(じげん)により宇佐宮(うさぐう)から山城国男山の地に八幡神を勧請(かんじょう)したのが始まりという。八六一年に京畿名神(けいきみょうじん)七社の一とされ、八七六年には山城国年米(ねんまい)四二石を充てられるなど朝廷の崇敬はあつく、かつ九四五年(天慶八)に上洛してきた志多良神(しだらじん)を同宮へ吸収してその摂社にするなど、鎮護国家神としての位置づけがなされている。神社と神宮寺(じんぐうじ)たる護国寺が一体になった宮寺(みやでら)形式の体制をとっているのが特徴である。

 中世には宮寺内の組織は祠官(しかん)(検校〈けんぎょう〉、別当〈べっとう〉、権別当〈ごんのべっとう〉、修理別当〈しゅりべっとう〉、少別当)、神官(神主〈かんぬし〉、権神主〈ごんのかんぬし〉、俗別当〈ぞくべっとう〉、権俗別当〈ごんのぞくべっとう〉、禰宜〈ねぎ〉)、三綱(さんごう)から成り、行教が紀(き)氏出身であったため別当には代々紀氏出身僧が多く任じられ、なかでも御豊(みとよ)系紀氏一族が検校・別当を独占した(両職とも太政官符をもって補任〈ぶにん〉される)。のち別当家は田中・善法寺(ぜんぽうじ)(のち菊大路〈きくおおじ〉と名乗る)両家に分立した。

 機構としては政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、達所(たっしどころ)、供所(そなえどころ)、馬所(うまどころ)、諸奉行(検断奉行・神人〈じにん〉奉行など)が存在した。神人は本所神人と諸国に存在する荘園・別宮(べつぐう)などにいる散在神人に分がれるが、前者は芸能者・手工業者・商人・諸郷民から成り、ことに大山崎油神人(おおやまざきあぶらじにん)は荏胡麻(えごま)の購入独占権を得て荏胡麻を山崎に集荷し、製油して販売し、朝廷や幕府から関津自由通行権を付与され、営業範囲は畿内一円から九州方面にまで及んだ(大山崎油座)。

 社領は護国寺領、宿院(しゅくいん)極楽寺領、別当家領、社務領、供僧所司(くそうしょし)領から成り、一二世紀末には西は九州、東は関東にまで広がっている。このうち紀氏一族が有する別当家領が膨大で、これを基盤にしながら組織・機構の中枢を掌握してみずからに権力を集中した紀氏門閥体制を形成した。

 祭礼は旧暦三月の石清水臨時祭(りんじさい)と旧暦八月の石清水放生会(ほうじょうえ)(石清水祭)が宮内の二大勅会(ちょくえ)であり、後者は「殺生禁断(せっしょうきんだん)」の思想を国家的に行ったものとして注目される。

 二十二社のうら、上七社に属し、伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟(そうびょう)とされ、天皇のたびたびの行幸(ぎょうこう)があった。室町時代には足利将軍がしばしば参宮し、織田信長・徳川家康も参詣した。また源頼信が一○四六年(永承元)に願文(がんもん)を納めてその加護を立願(りゅうがん)して以来、八幡神が源氏の氏神となり、頼義・義家父子をはじめとする源氏一族の活躍とともに各地に勧請されていった。鶴岡八幡宮はその好例である。

 またこの男山の辺は要害の地で、古代よりしばしば京都をめぐる攻防戦が演じられている。現社殿は寛永年間(一六二四-四四)徳川家光の造営によるもので国宝。ほかにも五輪塔、石造灯籠など、重要文化財に指定されているものが多く、古文書として「石清水文書」を伝存する。一八六九年(明治二)男山八幡宮と改称するが、一九一八年(大正七)石清水八幡宮に復した。

【参考文献】
石清水八幡宮編・刊『石清水八幡宮史』全九巻、1932~39年。豊田武『座の研究』豊田武著作集1、吉川弘文館、1982年。伊藤清郎「石清水放生会の国家的位置についての一考察」(『日本史研究』188、1978年)。鍛代敏雄「石清水社に於ける『穢』の問題」(『国学院大学大学院紀要文学研究科』21)

(『日本史大事典』伊藤清郎氏)

石清水祭(いわしみずさい)


 京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮で毎年九月十五日に行われる例大祭。賀茂祭(葵祭)、春日祭とともに三大勅祭の一つ。古くは旧暦八月十五日に行われ、明治まで石清水放生会(ほうじょうえ)と称した。放生会の起源は、「政事要略(せいじようりゃく)」によると、七二〇年(養老四)隼人(はやと)征討のとき隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようにとの宇佐八幡神の託宣により始められたと伝えられる。

 石清水における放生会は、八六三年(貞観五)僧安宗(あんそう)により初めて行われ、九四八年(天暦二)勅祭に準じた祭儀となる。九七四年(天延二)朝廷の節会に準じて楽を奏するようになり、一〇七〇年(延久二)には神幸(しんこう)を行幸(ぎょうこう)の儀に準じて行うようになり、上卿(しょうけい)以下の参向を得て盛大となった。

 石清水放生会は八月の月初めから捕らえておいた生魚・生鳥を山や川に放ち、天皇・将軍はじめ万民の泰平を祈願する祭りで、人々の厚い崇敬を受けた。しかし、応仁の乱以降しばしば延引、中絶した。一六七九年(延宝七)再興されたが、明治維新後、再び中絶、一八八四年(明治一七)勅祭として仏教色を排して再興された。

 現行の祭儀では、九月一五日午前二時に八幡三座の神霊を鳳輦(ほうれん)三基に移して山を下り、二ノ鳥居に設けられた絹屋殿(きぬやでん)に着く。ここで里神楽(さとかぐら)と秦楽があり、勅使以下の奉迎(ほうげい)を受ける。これより行幸に準じた行列を組んで山麓の頓宮(とんぐう)に着く。頓宮では神職が神饌(しんせん)・花を供え、次に宮司が祝詞(のりと)を読む。次いで勅使が幣物(へいもつ)を供え祭文(さいもん)を読み、宮司が返祝詞(かえしのりと)をいう。このあと神前に神馬(しんめ)を引きまわし、雅楽奉奏があって、幣物・神饌・供花(くげ)を撤し、一同退下(たいげ)する。その後放生池(ほうじょういけ)において魚鳥を放つ行事が行われる。鳳輦三基は夕刻まで頓宮にとどまったのち、遷幸(せんこう)の儀があり、山上の本社に遷御(せんぎょ)し、宮司が祝詞を読み扉を閉じて、祭儀を終了する。

 また、同宮の大祭の一つである石清水臨時祭(りんじさい)は、九四二年(天慶五)に平将門・藤原純友の乱平定の報賽(ほうさい)のため臨時に行われたのが始まり。九七一年(天禄二)からは名称は臨時祭のままで恒例となり、毎年旧三月第二の午日(うまのひ)に行われた。古くは賀茂臨時祭を北祭(きたまつり)というのに対して南祭(みなみまつり)ともいわれ、京の二大祭の一つ。臨時祭は戦乱のため、一四六七年(応仁元)に中絶、のち一八一三年(文化十)再興されたが、七十年(明治三)に廃止された。

【参考文献】
石清水八幡宮編・刊『石清水八幡宮史』全九巻、1932-39年。

(『日本史大事典』岡田荘司氏)

石清水文書(いわしみずもんじょ)


 京都府八幡(やわた)市八幡に鎮座する石清水八幡宮に伝存する、田中家・菊大路(善法寺)家両所伝文書を中心とする、平安時代から江戸時代末期に及ぶ膨大な古文書・古記録。所蔵文書を大別すると、石清水文書(田中・菊大路両家文書)と当宮古文書(古記録・東竹〈ひがしたけ〉文書)に分類される。後者は刊行に及んでいないが、前者は「大日本古文書」家わけ第四「石清水文書」六冊のほか、石清水八幡宮の編集・刊行になる「石清水八幡宮史」九冊(1932-39)、「石清水八幡宮史料叢書」五冊(1960-76)、「続石清水八幡宮史料叢書」三冊(1985-)として刊行されている。本文書は、同宮の由緒来歴・祭神・祠官(しかん)の継承などだけでなく、日本史全般の政治・経済・文化などに関する文書も多数含む。なかでも、同宮に関する文書・記録等を項目ごとに分類・類聚した「宮寺縁寺抄(ぐうじえんじしょう)」や、仏教制度上貴重な、全文版刻された康治二年(1143)四月付の沙弥慶清度縁(しゃみけいせいどえん)は、その代表的なものである。

(『日本史大事典』 伊藤清郎氏)

 
 
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