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石清水八幡宮

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2015年 6月12日(金)22時17分58秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kyotofuno-chimei-iwashimizu.htm

関連記事:八咫烏は誰?~どうもこの辺にヒントがありそうだ。拙稿で13人ドルイド評議会という世界最高の評議会でそこの6人までが女性のWitch(魔女)でありまず世間では名前が知られていない人たちばかりだ。これと同様に八咫烏も多分そうだろう。恐らくレビ族の末裔だと考える

八咫烏は誰?

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3287

八幡宮の画像と解説

http://www.iwashimizu.or.jp/about/

現在の宮司は?~ハレとケのけじめを守りたい

http://souda-kyoto.jp/knowledge/kyoto_person/vol34.html

貞観元年(859)、行教和尚が宇佐八幡宮の八幡様を勧請して創建したのが、「やわたのはちまんさん」こと石清水八幡宮です。京の都の裏鬼門を護る国家鎮護の社として広く信仰されてきました。はちまんさんのある男山は木津川、宇治川、桂川の三川が合流し淀川となる水運の要衝で、数々の戦火をくぐってきました。美しい八幡造りの本殿は、今も変わらぬ姿を見せています。そんな石清水八幡宮の宮司・田中恆清さんにその歴史や魅力をお聞きしました。

『日本人は「ハレ」と「ケ」の区別、「けじめ」をつけてきました。例えばお正月の初詣はハレ。年中行事に加えて、人生における多くの通過儀礼を「ハレ」として大切に伝え守ってきました。神社の役割の一つはこれらの「ハレ」の舞台である、ということです。「けじめ」を大切に、人々が集まる場所としての神社を次世代に継承してゆきたいと思います』と。ここの宮司が八咫烏である可能性は否定できない

管理人注:ハレとケの概念

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2917

漢波羅とはカバラのこと

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2377

『サンカの社会は、彼等独自のもので、アヤタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、(あるいは頭領の補佐としてミスカシ(透破)ツキサシ(突破)の三羽カラスとして) 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。

山の民サンカとは、やはり八咫烏だったのですね』~従って石清水八幡宮の宮司がアヤタチと呼ばれる大親分かもしれません。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

〔現〕八幡市八幡高坊
 京都盆地の西部、山城と河内の接する辺りの淀川左岸男山に鎮座する。男山は淀川を隔てて天王(てんのう)山をひかえた山崎(現乙訓郡大山崎町)の地に対し、山上からは山城・河内・大和の国々が眺望される。男山東麓の御幸(みゆき)道から一の鳥居を入ると、右手に下院(げいん)とよばれる頓宮(とんぐう)殿・極楽寺跡・高良(こうら)神社があり、二の鳥居の手前で、東側から登る裏参道と南麓を迂回する表参道とが分れる。二の鳥居から三の鳥居に至る右手には護国寺跡や豊蔵坊、泉坊・滝本坊(一帯は松花堂跡地として国指定史跡)など多数の坊跡がある。三の鳥居内には鳩嶺(きゅうれい)書院があり、本殿(上院)に至るまで両側には六五○余基の石灯籠が立ち並ぶ。

 「延喜式」神名帳にはみえない。「宮寺縁事抄」(石清水文書。以下同文書および「石清水八幡宮史」所引文書については個別文書名のみを記す)は、当宮・平野社(現京都市北区)・祇園杜(現京都市東山区)など、魚味を供さない社は神名帳には載せない旨を述べている。祭神は誉田別命(本地仏は阿弥陀あるいは釈迦)・息長帯比売命(同観音あるいは文殊)・比▲大神(同勢至あるいは普賢)。旧官幣大社。▲口へんに「羊」


〔草創〕
 行教筆と伝える護国寺略記によれば、大安寺(現奈良市)の僧行教が貞観元年(859)四月宇佐宮(現大分県宇佐市)に参詣したところ、八幡大菩薩が行教の修善に感応し、近都に移座し国家を鎮護しようと託宣した。そこで京に上ろうとしてまず現在の山崎離宮八幡(現大山崎町)の地に至り、ここで再び八幡神が示現して男山に移座することを宣した。そこで宇佐宮勧請を朝廷に奏請し、清和天皇は木工権允橘良基に命じ宇佐に準じて六宇の宝殿を造営させた。翌二年、三所の御体を遷座し祭祀したという。

 しかし実際のところはこの遷座後宇佐宮大宮司大神田麿に従五位が授けられたように、宇佐宮すなわち大神氏からの働きかけが大きかったと思われる。奈良時代、東大寺大仏鋳造に際しその守護神として中央に登場した宇佐神が、和気清麻呂以来関係深い和気氏、また和気氏とつながりのあった行教らと結んで新都へ進出を図ったと思われる。

 ちなみに和気氏の氏寺神護寺(現京都市右京区)は宇佐八幡の神託によって建立されたと伝える。また一説に天安二年(858)清和天皇の即位に際し、宇佐使として和気氏が派遣されたが、従僧として行教が随伴したという。行教は紀氏の出で、当時そのいとこの神護寺別当真済、兄の紀夏井のほか、紀今守・紀静子(文徳天皇妃)などの紀氏によって中央とのパイプがつながっていた。

 一方、男山の地は平安京にとって西南裏鬼門にあたるため鬼気を祭祀すべき地であった。承和九年(842)の変では、宇治橋・山崎橋・淀渡などが警固されたように(「続日本後記」同年七月一七日条)、京都防備のための関門にもあたる。また桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、難波津(現大阪市)から瀬戸内海へ開ける古代水運上の要衝の地で、大和と丹波を結ぶ山陰道も八幡を通っているなど、水陸交通上の利点があり、対岸の山崎郷が大安寺領であったことなどから、行教に注目されたものだろう。

 ところで男山には、八幡宮遷座前に石清水寺と称する寺があった。行教はこの寺を敬い、一説に石清水の社名はこの寺名によるという。遷座後の貞観五年に秦請してこれを護国寺と改称したという。いわゆる神宮寺だが、当宮の場合神杜に附属して建てられたというより、当初より一体のものと考えられており、まず寺がありのちに僧侶によって神が勧請されたわけで、寺および寺僧が主導権を握っていた。遷座後一八年目にしてようやく宇佐宮に準じて神主が置かれるなどはその表れであり、当社が宮寺(みやでら)と称されるのは当をえている。

 八幡神は能動的で時流に敏感な神であった。奈良期以降一般に波及した神仏習合思潮は、八幡神に最も顕著にみられる。奈良時代、八幡神は大神・比売神の二柱の人格神とされ、次いで平安初期にかけては大自在王菩薩・護国霊験威力神通大自在王菩薩と称されて鎮護国家の神とされた。石清水遷座頃には大菩薩・大帯姫・比▲大神の三柱となり、それぞれ応神天皇・神功皇后・応神妃に比定されるに至り、皇室の祖神を祭祀する祖廟とされた(「三代実録」貞観十一年一二月二九日条)。

 当宮はその成立事情から当初より賀茂社・松尾社などと並び七社奉幣等がなされていたが、延喜一六年(916)には賀茂社を抜いて奉幣第一社になり(「日本紀略」同年六月一二日条)、天慶二年(939)五月一五日には伊勢に次いで奉幣され、この頃伊勢に次ぐ第二の宗廟たる位置を獲得したようである。


〔宮寺の確立〕
 貞観五年行教の甥安宗が初代別当に補され、同一八年山城国正税から年料四二石があてられた。また初めて紀御豊(行教甥)が神主に補されている。貞観年中には放生会も始められた。元慶二年(878)安宗が宿院極楽寺を創建、寛平八年(896)行教の弟益信が東寺一の長者にして当宮の初代検校に補される。益信は宇多天皇の帰依厚く天皇の出家に際し灌頂の師となった高僧。この後順次権別当・三綱・俗別当・修理別当・山上御殿司・山上入寺などが補され、長和三年(1014)宇佐八幡神宮寺の弥勒寺講師元命が石清水の別当になるに及び、当宮は弥勒時を管掌下に置くようになった。さらに永承六年(1051)には、元命の跡を継いで別当になった清成が筥崎官(現福岡市)の大検校職に補されるなど、当宮は九州にまでその勢威を及ぼすことになった。

 当宮は前述のように神宮寺である護国寺が一山を管掌し、政令はことごとくここから出る。重職は僧侶が占め、神主・俗官はその下に従った。その結果、神前に魚味を供さず、内陣のことも僧侶が管し、神前読経はもちろん、内陣の装束・器具も仏式が用いられた。

 検校は別当以下を統括する職で常置ではなかったが、のちには別当職を子弟に譲り検校に転じる風を生じ、勢力をもつ。鎌倉以降常置となり、検校を社務と称して一山を支配した。別当は第一代安宗からしばらくは宮寺祠官の長官として社寺務を管掌したが、のちには検校の下に属した。別当の下に権別当・修理別当・小別当などが並置され、さらに俗別当も置かれている。検校・別当と称しても、形の上だけの僧形で、妻帯しその職を世襲するなど一般寺院とはまったく異なった。

 一方、承平四年(934)別当総祐が妙楽寺を創建、応和元年(961)別当観康が東三味堂を建立、天喜三年(1055)には宝殿大回廊・馬場殿造営がなされるなど山内境域も整備されていく。さらに天慶三年、天慶の乱平定を祈り朱雀天皇より封戸二五烟が寄せられ、乱平定後の同五年には臨時祭が始められた。天元二年(979)三月二七日には、円融天皇が初めて行幸し、寛仁元年(1017)には後一条天皇が行幸し封戸一○○烟を施入した。

 天慶八年志多良神とも八面神・小藺笠神ともいう新たな神々が東西諸国から入京してきた。この神々の正体は不明だが、鼓を鳴らし童謡をうたい乱舞して神輿を担っ た、数千数万という大衆をつき動かして動座してきたものであった。これは平安初期以来京内の人々の間から発生した御霊信仰が展開し、その結果彼らが不安な世相から逃れて生活が安定することを願い、新しい京外の強カな神を請じ入れようとしたものであろう。さらにこの頃始まった称名念仏からの影響もあったと思われる。ともかくこの志多良神が実は八幡神の眷族であるとされ、石清水八幡に遷座し包含された。さらに当時疫神の侵入を防ぐため、平安京の四隅および畿内の十堺で、塞神を祀る道饗祭が行われていたが、石清水の地も山城・河内境として祭祀された所で(「類聚符宣抄」所引天徳二年五月一七日付官宣旨)、境内に疫神堂が設置されていた。このようにして石清水八幡宮は広く衆庶の信仰をも集めるることになった。

 天元二年の円融天皇の行幸以降天皇・上皇の参詣は度々で、一代一度の参詣が恒例とされた。藤原氏も応和三年左大臣藤原実頼の初参以来、天禄二年(971)・同三年摂政伊尹が参詣、天延元年(973)右大臣頼忠が参詣している。また藤原道長と延暦寺権僧正慈忍が道長父兼家の夢告により、兼家女詮子の産んだ一条天皇の皇胤繁栄を願って建立した妙香院(康治元年八月二二日付「官宣旨案」塚本吉彦氏所蔵文書)は、当宮内にあったと考えられる。

 「男山考古録」によると「日本書紀通証」は、貞観一二年宗像大神告文に神功皇后新羅出兵の折、相ともに力を加えてわが朝を救ったとあるのを引いて「宇佐男山等の宮三女神合祭神功・応神、乃称弓箭神者」と記し、つとに弓矢の神・戦勝の神として知られるところであった。このため武家の崇敬するところとなり、とくに源頼信が永承元年誉田(こんだ)八幡(現大阪府羽曳野市)に祭文を棒げて家門の繁栄を祈って以来、八幡神は武神にして源氏の氏神でもあると考えられるようにもなった。その子頼義の信仰も強く、前九年の役(永承六-康平五年)では戦勝を八幡宮に起請し、戦後報謝して康平六年(1063)石清水を勧請して相模国由比郷に一社を創建したという(「吾妻鏡」治承四年一○月一二日条)。のち鶴岡八幡宮として移祀された。

 所領は朝廷などの寄せる封戸三○○余烟のほか、荘園も漸次開発寄進され、延久四年(1072)後三条天皇によって当宮領荘園が整理された時には、荘園三四ヵ所(山城国六、河内国一六、和泉国三、紀伊国七、美濃・丹波各一)を数えたが、このうち一三所が券契不分明として停止され、二一所が領掌されている。これは当宮にとって非常に厳しい処置ではあったが、これに先立つ延久二年、整理令断行の懐柔の意味もあってか、天皇は石清水放生会を貿茂祭に準拠して諸儀行幸に準じることとした。なお同三年検校戒信が初めて宮寺の年中行事を定めており、この頃までを当宮の体制確立期とみることができるだろう。


〔別当家と所領の拡大〕
 後三条天皇の次の白河天皇は仏教に熱心であったが、当宮寺にも承暦元年(1077)行幸し封声五○姻を寄せたのをはじめ、毎年三月には恒例のように行幸した。寛冶六年(1092)当宮宝前で金泥大般若経一部供養と転読を行い、また仁王講・御八講などの仏事が白河天皇の沙汰で度々行われている。境内に天永三年(1112)大塔を、大治三年(1128)経蔵を建立。この天皇の姿勢を反映して、摂政藤原忠実は天永元年宮寺に封戸一○烟を、宝塔三味院に封戸一○○姻を施入し、院近臣の駿河守平宗実は、天治三年(1126)多宝塔(駿河三味堂)を建立している。

 このような白河治政下で、春日神木初入洛・日吉神輿初動座がなされ、強権となった興福寺・延暦寺衆徒による横暴が起こるが、当宮でも八幡神人の横暴が現れる。長元八年(1035)には但馬守源則理と争論し、国守の部下と闘争に及び死傷者を出して国守を訴えたのに対し、国守以下七人が流罪に処された。寛治三年の松尾社との相論の際には松尾社神殿を打ち開き、天永二年放生会御秣使等が賀茂庄(現京都市北区)で濫行の結果、賀茂神人を殺害、永久二年(1114)祇園神人と闘争に及んで双方負傷するなどの事件を起こしている。彼らの有様は天永四年四月一五日の神人衆徒の濫行停止を起請した鳥羽天皇宣命の文中に、「刀兵を横にし、甲冑をかぶり、弓箭を携え、矢石を朝夕の翫として、結党し群をなし公私の田地を横領、上下の財物を掠奪する」とみえている。

 検校光清は娘(美濃局)が鳥羽天皇後宮に入り六宮(道恵法親王)・七宮(寛快法親王)・姫宮(双林寺宮)を産んで外戚となり、天承元年(1131)権大僧都に補されるなど別当家の地位を向上させた。光清は当宮別当にして宇佐の弥勒寺(および喜多院)、竈門(かまど)神社(現福岡県筑紫郡太宰府町)、大隅(おおすみ)正八幡宮(現鹿児島県姶良都隼人町の鹿児島神宮)を兼帯し、さらに孫の慶清の時には、一時当宮の管掌下から離れていた筥崎宮も領掌するなど、石清水八幡は全国八幡の総帥のごとき観を呈した。

 宮寺領も延久以後再び増加し、保元三年(1158)一二月三日付の、宮寺ならびに極楽寺領の領家・預所などの押領を停止した官宣旨では、宮寺領は三三国にわたり一○○所を数え、極楽寺領も一五国三七所を数える。これら社領は、承安三年(1173)朝廷より、当宮の鎮護国家宗廟たるをもって伊勢大神宮役夫工雑事米の負課が停止されて以降それが恒例とされ、鎌倉幕府もまた宮領の地頭職を停止し武士の対捍を制止した。室町幕府も同様伊勢・賀茂・石清水の三社領は役夫工米停止とし、また段銭以下諸公事・守護役等免除の特権が与えられた。

 しかしこのような当宮の拡張により、別当家では光清の二子勝清(田中家祖)と成清(善法寺家祖)が二流に分れ、鎌倉時代以降はさらに庶流に分れた。また光清頃から代々の別当・院主が、私の処分により門徒妻子眷族らに宮寺領を譲与するようになり、各祠官家相伝の家領とされるに及んで坊領を形成するに至った。

 田中坊は、観音堂領(光清から美濃局に譲られる)・筥崎宮領(天承元年島羽上皇御幸の勧賞として任清が筥崎宮検校に任じられて以来田中家相伝)・宇美(うみ)宮(現福岡県粕屋郡宇美町)領(治承二年後白河法皇より慶清門流相伝を認められる)・宝塔院領(田中行清の子東竹良清が院主職となって以来竹坊領となる)などをおもな坊領とし、その荘名の判明するものは二八国八一所を数える。

 善法寺坊は、弥靭寺(および喜多院)・正八幡宮領(嘉応三年成清が弥勒寺講師職ならびに喜多院院主職となり、建久元年成清から子佑清に伝えられて以来当流の坊領となった。その所領は豊前・豊後などに一一四所)・香椎(かしい)宮(現福岡市)領(建久四年八月一五日当宮一日修理の功として香椎宮領二六所を成清に与えられて以来伝領)ほか坊領も含め、四八国三一七所に達した。旧来の宮寺領のうち坊領とされるものも多く、宮寺領(極楽寺領一○所)はわずかに三六所が維持されているにすぎなかつた。

 また保延六年(1140)二月二三日創建以来の社殿が焼失したが、さっそく二七日には再造の役国が、美作国(宝殿六宇、南楼一宇)・播磨国(廻廊三五間半東、南楼一宇、馬場屋一宇)・越前国(廻廊三五間西、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門)と決定され、宮寺は諸神一六宇の造営にあたり、同年四月二日には宝殿が成って遷宮している。


〔武家政権と八幡〕
 建久三年(1192)源頼朝は「吾妻鏡」治承四年(1180)七月五日条に「恭八幡大菩薩氏人、法華八軸持者也、稟八幡太郎遺蹟、如旧相従東八ヶ国勇士」とみえるように前代の源家のあとをうけ、八幡を氏神とした。同年、先の由比郷の八幡宮を鎌倉鶴岡に移して鶴岡八幡宮とし、源家の守護神とした。

 石清水に対しては寿永四年(1185)御家人らが宮寺領の年貢を抑留して兵糧米を課すのを停止したのをはじめ、同年、阿波三野田保(現徳島県三好郡三野町)を寄進し、建久元年鶴岡八幡宮焼亡後の新社殿再造の際には、新たに石清水より分霊を奉じて神殿を建造。さらに同年の初参詣以来、翌年一回、再入京する同六年には三月の臨時祭に参じ、四月には政子・大姫を伴ってと、頼家を伴っての二度参詣している。

 こうして当宮は、鎌倉時代にも時の権力者と密接な関係を保ち、そのうえ武士層に八幡信仰が浸透し各地に八幡神が勧請されるに及び、所領の寄進等も相次ぐなど、 その威光はいっそう増した。

 このため前代に引き続き神人の専横も現れ、弘安二年(1179)延暦寺との争論では当宮神輿が初めて入洛したが、この後も重大な争論には神輿を奉じて強訴の挙に出た。幕府は嘉禎元年(1235)五月当宮に男山守護を置き、甲乙人の狼藉を取り締ることにしたが(「吾妻鏡」同年同月一六日条)、前述の動向に歯止めをかけるに至らなかった。寛元三年(1245)には「近日宮寺、以武勇為先、以博奕為業」という有様だったので、同年九月一八日後嵯峨天皇から停止の綸旨が出され、さらに同様の趣旨の亀山院院宣が弘安元年一二月二七日に、永仁三年(1295)四月一三日にも伏見天皇綸旨が出されている。

 神人はのちいっそう武装集団化した。南北朝期には、西国から京に入る関門である当地は動乱の舞台となり元弘二年(1332)六波羅探題の下知により本宮祠官らは淀橋などを警固した。建武三年(1336)大山崎(現乙訓郡大山崎町)上下神人中宛に出された南朝方阿蘇宮令旨(西明寺文書)に「為朝敵追罰被召群勢処馳参条、神妙之由」と参陣を嘉しているように武士団に混じり戦闘に荷担しており、応永三一年(1424)には幕府の軍勢に抗して闘争するほどであった(「看聞御記」同年六月一九日条ほか)。

 八幡神人中最も威を振るったのは山崎離宮八幡宮に拠った大山崎神人で、平安末頃から灯油の商活動を始めたが、本宮内殿の灯油を献上し日頭役を勤仕して、鎌倉時代諸国関所の関銭免除の特権を得、さらに関料・津料免除に加えて荏胡麻油の専売権を得(弘長元年八月一一日付「後嵯峨上皇院宣」山城疋田家文書)、非常な富と力をもつに至った。別当家に対し、別当の交代を求めて強訴するなどの挙に出ることも多かった(「看聞御記」応永二九年七月一日条。)しかし応仁の乱以後しだいに衰微し、江戸時代には油市場から撤退していった。

 足利氏は、尊氏が元弘三年篠村(しのむら)八幡(現亀岡市)に奉じた願文(八幡宮文書)に「右八幡大菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也(中略)所謂大菩薩之社壇也、義兵成就之先兆、武将頓速之霊瑞也」と述べたごとく、八幡神を氏神・武運の神として崇拝した。当宮にも検校善法寺通清に付して度々戦勝祈願をしており、暦応元年(1338)兵火で社殿が炎上した際には、すぐさま再営に着手し年内に造営を完了させている。 この精神は足利氏代々に受け継がれ、幕府が京都におかれたこととも相まって武家政権のなかでは最も当宮と親近の関係を保った。幕府は一般社寺に対しては社寺奉行を置いたが、とくに当宮には男山奉行を置いた。

 義満の時、社務は将軍代始に改補と決まった。この時社務は田中家であったが、義満は生母が善法寺通清女であった縁からも当宮善法寺家に親近であった。永和元年(1375)初参以来、社参は一五度を数え、康暦二年(1380)近江国福能部(ふくのべ)庄を寄進したのをはじめ(同年六月一日付足利義満寄進状)、所領寄進も怠りなかった。また明徳四年(1393)の放生会には、義満自らが上卿を勤めたりしている。

 次いで義持は応永五年の初参以来三七度も社参。別当家では田中融清が応永七年検校に補されて以来応永-永享年中力を振るい、その坊舎として棟一○○坪の檜皮屋の日本一の家を作ったという(石清水祠官系図)。応永三五年義持没後、後継者を決めるに際し、石清水八幡の宝前でくじを引き、義教に決定したが(「満済准后日記」同年一月一七日・一八日条)、融清も三宝院満済とともにこれにかかわっていたと思われる。永享六年(1434)義教・御台を饗応したが、多分の引出物を献じ、一献料一万五千疋を用意したものだったという。義教は永享五年、八幡宮縁起二巻を当宮に奉納した(昭和二二年の火災で焼失)。

 室町時代の所領寄進も歴代将軍や守護大名たちからかなりにのぼった。貞和元年(1345)八幡神領は役夫工米免除の幕府御教書が出され、応永一九年には、段銭以下諸公事并守護役・人夫・伝馬なども免除する旨の御教書が出されていたが、幕府体制の弱体化とともに、これら荘園も有名無実化して当宮経済も逼塞してゆく。

 そのため当宮臨時祭は応仁元年(1467)を最後に、放生会も文明一五年(1483)を最後としていったん途絶えた。さらに永正五年(1508)社殿が焼失したが、再建ははかどらず、大永六年(1526)にようやく遷宮している。護国寺は明応三年(1494)炎上したが、長く再建されず、延宝六年(1678)になって仮殿および護国寺薬師堂が建造された。

 ところで天皇行幸・臨時祭・放生会などの勅使の行路は、一一世紀中頃前には山崎路が用いられたが、以降は山崎橋の廃止とともに、京都から島羽の作り道を経て鳥羽離宮(跡地は現京都市伏見区)から水路淀(現京都市伏見区)へのコースが整備され利用されるようになっている(中右記、兵範記)。「長秋記」保延元年八月一四日条によると、鳥羽殿より桂戸居男が船(八幡迎船)を用意し、これに乗船して淀に着いている。後年足利義持は桂川を利用し嵯峨(現京都市右京区)から直接乗船して八幡に参詣したりしている(「看聞御記」応永二六年八月一一日条)。


〔近世以降〕
 織田信長は天正七年(1579)山崎で当宮縁起を見、社殿修理の令を発したが、このとき木樋を唐金で鋳たものに変えたのは有名である。豊臣秀吉は同一二年河内国星田庄(現大阪府交野市)内一二○石の御供米料を寄進、同一六年母の病平癒を祈願して一万石を寄進、同一七年灯明料二二石、社務領六○石、田中家領一○○石、善法寺家領一四○石、善法律寺領一○○石などを寄進した。同年病母の起請のため、社殿四方の回廊も再興。豊臣秀頼は慶長四年(1599)若宮殿再興、同六年狩尾(とがのお)殿、高良社造営、さらに同一一年修造費として一千石を下行し、旧社殿をことごとく取り除き新造している。

 徳川家康は江戸開府前の慶長三年当宮に参詣しているが、以後幕府が江戸に置かれたこともあり、将軍の社参はなかった。祠官家田中流の東竹甲清の孫娘は家康側室となり尾張徳川家祖義直を産み、のち落飾して相応院と称した。ゆかりの正法寺は菩提所となり、徳川家の手厚い保護を受けて領内寺院中最も栄えた。

 家康は、前代より当宮祠官家間で社務職を競望して度々相論があったことから、慶長五年五月社務職を廻職と定め、田中・善法寺・新善法寺・壇の四家が順位を守り廻職することにした。さらに八幡宮領内八郷を神領として守護不入の地とし、他の村落のように領主・地頭・代官等の制御に属さず祭政ともに社務の掌握するところとした。また年々江戸幕府に天下泰平の祈祷札を献上するのを例とし、江戸城白書院で将軍に謁見することとした。

 また同年朱印地を次のごとく安堵している。田中一○○石、壇六○石、善法寺一四○石、新善法寺一○○石、そのほか山上衆合一千二六石余、神人衆合五八三石、八幡宮領内律宗寺院合三七○石、同禅宗寺院合二三○石、同浄土宗寺院合五五五石余で都合三千一七○石余であった。のちには総高六千四九八石余の朱印地を下している。

 こののち元禄期(1688-1704)頃における朱印地は、七千三○○石余になっている。神領は検地免除の特典にあずかったから、実際はこれよりかなり多かったと思われる。ほかに当宮崇敬の大名からの寄進地も若干あり、社務・社僧等の買得私有地などもあり、さらに各坊ごとに大名の祈祷所として祈祷科を寄進されるなど、従前に比すべくもないが一応安定した経済運営がなされたと思われる。とくに豊蔵(ほうぞう)坊は幕府の祈祷所であったから、きわめて富裕で、朱印地三○○石、実際はその数倍の収入であったと思われる。

 幕府の後援により元和四年(1618)社殿以下の修理がなされ、寛永八年(1631)からは大がかりな大修造が加えられ、同一一年遷宮式が行われた。さらに室町末以来廃絶していた放生会・臨時祭なども復活する。

 また男山詣の船運も含め、淀川を利用する船は水運の神としての八幡に結びつく要素があり、享保一○年(1725)一月の淀二十石船由緒書に「神功皇后異国御退治之御船子ノ子孫ニ而、即八幡宮神人として只今ニ御神役相勤、八幡宮ニ付候船ニ而御座侯故、古ハ八幡社務之支配ニ而御座候由申伝候」とみえている。

 文久三年(1863)四月、孝明天皇の攘夷祈願が通夜豊蔵坊でなされ、天皇の当宮社参は、勤皇派に大きなはずみを与え倒幕へと進んだ。

 慶応四年(1868)三月の神仏分離令は、神仏習合の代表的存在であった当宮に大変動をもたらした。神号は八幡大菩薩を禁止し、八幡大神と改称され、神前に魚味を供すべき旨が命じられ、社僧は還俗妻帯し、諸坊は往時四八坊、当時一○坊ばかりあったが廃止され、山上の寺坊等も境内地から追放された。神仏分離がさらに廃仏毀釈に進み、当宮の多くの仏像・仏具・什器類も除去・売却・破棄された。

 明治四年(1871)官幣大社に列せられ男山八幡宮と改称。大正七年(1918)もとに復して石清水八幡宮と称した。社領八千六○○石余も明冶四年残らず上地され、現在境内地のみとなり二万三千余坪。

 現存する摂社には本宮遷座以前から座していた地主神という狩尾社のほか、水若宮(みずわかみや)社・若宮殿(わかみやでん)社・若宮社・高良神社・住吉社・石清水社・武内(たけうち)社がある。末社には、気比(けひ)社・貴船竜田(きぶねたつた)社・一童(いそら)社・広田・生田・長田社・水分(みくまり)社・三女(さんじょ)社・大扉(おおとびら)稲荷社がある。


〔文化財〕
 現社殿のうち、寛永二年造営の本殿・外殿・幣殿・舞殿・楼門・東門・西門・回廊は重要文化財。永仁三年三月日の刻名のある石灯籠と鎌倉後期の五輪塔は重要文化財。当宮社家田中・菊大路(善法寺家が維新後改名)両家をはじめ諸家に伝わった石清水八幡宮文書(三五○巻)は重要文化財で、平安時代から江戸時代末期にわたる信仰・経済・法制・人事などを知りうる貴重な史料(現在東京大学史料編纂所寄託)。ほかに嘉禄三年(1227)五月一九日書写奥書のある「類衆国史」巻第一・第五(重要文化財)がある。


〔行事〕
 一月一-七日修正会・同一八日大師供(行教忌)・同一九日心経会・同二三日比▲大神国忌、二月六日仲哀天皇忌・同上卯日御神楽・同一五日応神天皇国忌・同晦日修二月会、三月午日(三午には中の午日、二午には下の午日)臨時祭・同晦日卒都婆会、四月八日灌仏会・同一七日神功皇后国忌、六月二八日蓮華会・同晦日御祓御節、七月七日弥勒講・同一五日盂蘭盆講・同二六日大堂供、八月一五日放生会、九月晦日卒都婆会、一一月一三日慈恩大師講・同上卯日御神楽・同二四日天台大師供、一二月八日仏名会など(石清水八幡宮史)。以上仏事につながるものが多かった。

 心経会は「満済准后日記」応永三三年一月二○日条に「彼法印〔融清〕申云、(中略)、此神事ハ自禁裏様并武家様御幣ヲ被進、洛中災難等ヲ払ルゝ表事ニテ、自宿院北門入、南門に出テ、於厄墓(ヤクツカ)此等御幣等ヲモ焼事也」とみえ、道饗祭として行われていたものが、いつの頃からか疫神から厄神にすり替えられ、当時は厄神会が行われていた。幕府より神馬を奉ったりしたことも散見する。

 これが江戸時代頃には、厄除神となり厄年にあたる男女が厄難を逃れるため参詣する風を生じ、しかもそれが主として八幡神の職能のように考えられ、石清水八幡宮はその中心的地位を占めて大変な賑いをみせる。現在は青山祭と称して一月一八日に頓宮前庭に斎場を設けて神事が行われており、多数の参詣者で賑う。

 臨時祭は寛平四年に始まるという賀茂社の臨時祭に準拠し、天慶五年、承平・天慶の乱平定の報賽に宣命・神宝および歌舞を調進し勅使を遣して行った。その後天禄二年から毎年恒例とされ、天元元年からは三月中午日が祭日とされた。南北朝時代には諸国動乱のため式日が延引・中止となることが多かった。康暦元年、応永二三年、永享三年など天皇御代始の臨時祭が行われた。応仁元年を最後に長く廃絶したが、文化一○年(1813)再興され、明治三年廃絶した。

 放生会は宇佐宮より伝わったもので、養老四年(720)豊前守宇奴首男人が、宇佐大神を奉じて隼人征伐を行い多数を殺戮したので、毎年放生会を修するよう大神が託宣したことにより始められたという。当宮での放生会について「今昔物語集」巻一二(於石清水行放生会語)には、前世にこの国の帝王であった八幡大菩薩が、その殺生を償うため行うと記される。純粋な仏教儀礼であり、神前で最勝王経を講じ法会を行い行道をなし、諸鳥諸魚を放つなどの所作が行われた。貞観五年また一説に一八年から始まる。

 当初の放生会がどの程度のものかわからないが、天慶二年山科藤尾(ふじお)寺(跡地は現滋賀県大津市)に新造の八幡宮は「凡厥霊験触事多瑞、仍遠近僧尼、貴賤男女、帰依如林、輻輳成市」という有様であったが、放生会も始められ「昼則迎伶人、尽音楽之妙曲、夜則請名僧、伝菩薩之戒、飲食禄物尽善尽美、布施供養如山如岳」(「本朝世紀」伺年八月一二日条)と盛況だったから、本宮の放生会がすこぶる寂寥になったという。他の神事仏事と異なり早くから衆庶に開かれた行事で信仰を集めていたと思われる。

 その後天暦二年(948)宣命使が遣わされ勅祭とされ、天延二年からは朝廷の諸節会に準じ、雅楽寮によって舞楽が行われ、延久二年から賀茂祭に準拠して神幸を行幸の儀に準じ盛大に行われるようになった。文明一五年八月一五日を最後に中絶し、延宝七年再興された。明治元年中秋祭と改称、同一七年旧儀を復して男山祭と称し九月一五日に改め、大正七年以来石清水祭とし、現在に至る。

 神楽のうち二月・一一月の上卯日に行われる恒例の初卯の神楽は、寛平年間敦実親王の始行という。応仁以前に絶えたが、延宝四年に復興、明治年間に中絶したが、大正六年再興し、現在に至る。三月の臨時祭の神楽は「権記」長保二年(1000)三月二九日条にみえ、「兵範記」保元三年三月二二日条に神楽次第が詳しく載る。このほか一二月の安居神楽・高良神楽などがあった。

武内社(たけうちしゃ)

 摂社の一つで、本宮瑞垣内に鎮座し、「山城名勝志」に「在本宮内殿西北隅」とみえる。同書は「社記云」として「本社内右傍坐、是行教安宗先祖也、貞観二年六月十五日行教造神殿」と記す。同じく「石清水八幡宮末社記」に「号後見殿」、「帝王編年記」に「七十八年庚寅、大臣武内宿禰薨、(中略)今八幡武内明神是大臣也」などとみえる。すなわち行教・安宗ら紀氏の祖武内宿禰を祭祀する。八幡神の後見殿として本宮内殿に祀られた。

 武内社の経所について、「男山考古録」は「空円修補末社堂塔記曰」として「武内経所、不断寿命経転読也、阿波院〔土御門天皇〕御時、社務祐清承元十〔二カ〕年八〔六カ〕月廿二〔三カ〕日被始之」と記す。現在の社は寛永二年(1634)将軍徳川家光造営のもの。



若宮(わかみや)

 摂社の一つで、本宮の北に鎮座し、「山城名勝志」に「在本殿艮隅」とみえる。祭神仁徳天皇。「宮寺縁事抄」に「御垂跡御遷宮之最初奉祝歟」とみえて、貞観二年(860)本宮鎮座の時、行教が祭祀したという。

 「石清水八幡宮末社記」に「竜宮御腹御誕生御童形也、一宇神殿二所御坐云々、天慶六癸卯三月十一日己卯両所大神奉授従五位下、仁徳与若宮御母各別勿論也、委見阿蘇本地記歟」とみえ、また「廿二社本縁」の「石清水事」には「若宮事、応神八幡御姫三人、男子一人坐寸、其中爾若宮登申寸和、男子仁天坐寸也、若宮四所登云和、姫宮三人共仁申寸登云恵利、若宮和仁徳天皇也、即平野大明神也」と記す。すなわち八幡神が応神天皇とされることにより、その若宮も応神の子仁徳天皇とその姉妹に比定されたものであろう。

 本地仏は十一面観音とされる(宮寺縁事抄)。また同書に「今案云」として、「正像早過、末法爰来、五濁乱漫三毒熾盛也、(中略)故垂跡重顕垂跡、利生弥添利生、顕若宮権現、施難思化儀」とあって、八幡若宮は末法の世になって強力な援護者として再び垂跡して利生をもたらすものと考えられている。

 「今物語」には、「八幡の袈裟御子」が若宮の祟りで一人娘の目がつぶれ、神前で「おく山にしをるしをりは誰がため身をかきわけてうめる子のため」という歌を何度も歌ったところ、その場で目があいたという話を載せる。また元久二年(1205)閏七月二一日付官宣旨に若宮巫女らが若宮に虹の立ったことを注進し、「公家御慎及恠所驚恐口舌病」のことを祈請することがみえる。

 若宮は保延六年(1140)に本宮と同じく焼亡、さらに暦応元年(1338)にも兵火にかかり焼亡、永正五年(1508)にも焼亡した。この後天正七年(1579)一二月一六日若宮造営事始があって再造された。その後慶長年間(1596-1615)豊臣秀頼により修造された。寛永八年(1631)破損目録の再興を請う分の中には「若宮之楽屋并経女屋」がみえる。

 当宮西方に経所があり「末社堂塔記」(「男山考古録」所引)に「若宮経所、法華不断経供僧十二口、近衛院御宇社務勝清、久寿元年十二月十六日被始之」とみえる。また建久四年(1193)一二月一一日に「拝殿並楽屋始造之」ともみえ、拝殿・楽屋・経所などが附属していたが、江戸時代にはなくなっていたようである。



若宮殿(わかみやでん)

 摂社の一つで、若宮の東隣に鎮座し、「山城名勝志」に「在若宮右側」とある。別名若姫(わかひめ)宮と称し、「竜宮の御腹所生」の姫宮にあてて、若宮を仁徳天皇、若宮殿を応神天皇皇女とする。あるいは若宮を和魂、若宮殿を荒魂と称すものもある。「宮寺縁事抄」には「御本地、普賢」とみえる。また若宮同様、貞観二年(860)八幡の石清水遷座の最初より奉祀されたという。現今の社殿は寛永年間(1624-44)徳川家光造替えのもの。



鳩嶺書院(きゅうれいしょいん)

 石清水八幡宮三の鳥居西側にある。八幡居住者子弟のための学問所で、文庫と講席集会所があった。文化一一年(1814)三月二日付の鳩嶺書院設立願書覚(河原崎家蔵)によると、社士の森元四蔵ら八名が八幡宮社務当職に対して、文庫ならびに講席集会所の設立を願い出、学問の志ある者で書籍が購入できない者には、その貸出しなどに応じたいことを述べている。翌年、社務当職から設置が許可され、梁間二間、桁行六間、本瓦茸・庇扉付きの文庫を造立すべく社士仲間に寄付をつのる廻文が出されている(「廻文案」河原崎家蔵)。文政二年(1819)五月完成した(鳩嶺書院記)。現在は書庫として使用している。



護国寺(ごこくじ)跡

 本宮の北東一町半ばかりに南面していた。嘉暦元年(1326)九月一七日の当寺炎上の子細を注進した同月二三日付の石清水八幡宮護国寺言上状に



当寺者、男山根本之精舎、星霜年久、宗廟往古之伽藍、霊験日新、吾神貞観遷座之初、行教和尚暦〔歴カ〕覧之時、於当山、有堂有塔有社、所謂今護国寺宝塔院狩尾等是也、不知草創、不弁本願、天作歟、神之功歟云々、和尚感歎之余、申下宣旨、題護国寺、又護国霊験威力神通大自在王菩薩者、尊神霊託之御名也、(中略)凡以当山称宮寺・相対之号在当寺、然者、検校者彼検校、別当者此寺別当也、権別当修理別当及勅補三綱、皆是当寺之司也、且依為一山之本堂、自年始元日朝拝、至月並長時勤行恒例、昼夜仏事繁多也

とみえ、遷座前よりの古寺を、行教が公に奏申して護国寺と改称したこと、当寺と石清水社は一体の関係にあって当山の司はまた護国寺の司であったことが知れる。当山の年中行事のうち護国寺で勤修されるものも多く、例えば一月の修正会・大師供、二月修二月会、四月灌仏会、六月蓮花会、七月盂蘭盆講などがあった。

本尊は薬師如来で、その西に大菩薩を安置、四天王・十二神将などを併置していた。本尊は保延六年(1140)本宮炎上の際取り集めた銅で造立と伝え、十二神将は大江匡房の造立であったという(石清水八幡宮御修理造営之記)。

 最初の火災は先述の嘉暦元年だが、同年一一月には斧始が行われ造国司は源行直であった(同年同月一七日付官宣旨)。建武元年(1334)東寺長者道意を導師とし後醍醐天皇臨席のもとに供養が行われた。その後明応三年(1494)にも炎上したが、この時以降長く再建されず延宝七年(1679)ようやく再建の運びになった。この時仮殿と薬師堂のみが造られ、のちにはこの薬師堂をさして護国寺と称するようになる。

 当初一山の本堂とされた地位は、室町時代以降しだいに変化して有名無実化したと思われる。おそらく下院極楽寺が当寺に代わって存在したし、各々の別当が建立し た私の寺々が繁栄したためであろう。この護国寺薬師堂は、明治の神仏分離の時七二○両で落札され売却された。



高良神社(こうらじんじゃ)

 摂社の一で、男山東北麓、一の鳥居内頓宮の西南にある。「山城名勝志」は高良大明神について「諸神記云」として「本宮下十町計野〔座〕下院南側」と記す。「公衡公記」弘安一一年(1288)一月二六日条に後深草上皇の石清水御幸の記事がみえ、「於橋西爪下馬、殿上人前、行在極楽寺東南辺、(中略)、北門外、於比所奉舁居御輿、坤向、有高良御遙礼」とみえて、下院極楽寺の南側にあった。

 社名は、貞観三年(861)の行教夢記に「川原神」とみえ(宮寺縁事抄)、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記しまた「カハラ神社」と称したとする。同書は放生会の放魚式が行われた放生川のそばの山据の小高い所に座したので、河原社と称したといい、のち当地に極楽寺・頓宮などが建てられ河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので同社をここに移したと考えられて、高良の字が当てられたと途べる。

 造立は社記(「男山考古録」所引)に「貞観二年行教造神殿」とみえる。また「石清水八幡宮末社記」に「為武神糺善悪依当宮山下垂跡可令鎮狼藉之由、奉大菩薩ノ神命給云々」とみえ、異説として「高良大明神一宇ノ社二所御座、東高良木像西住吉大明神之神璽有之」とある。さらに「男山考古録」は「師時記云江帥云高良大明神者武内大臣也、高良藤大臣連保之御事也、神号曰高良玉垂命、以干満ノ二珠ヲ令奉行之故ニ奉号玉垂、住吉明神之化身也」と記す。

 「宮寺縁事抄」には高良の本地仏は勢至菩薩か竜樹菩薩とされている。また同書は、高良の神体は木造の「俗形二体」の男女の像と記す。その裏打裏書に、文明一三年(1481)八月、極楽寺に移されていた神体の帰座にあたり小神殿に安置したが、「横竪半間計ト見給也、宝形作ニハアラズ、小棟アリ、此旧記ニ不違也」という。

 「平家物語」巻一「鹿谷」には次のようにみえる。



八幡に百人の僧をこめて、信読の大般若を七日よませられける最中に、甲良(かはら)の大明神の御まへなる橘の木に、男山の方より山鳩三飛来て、くひあひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺(みやでら)にかゝるふしぎなしとて、時の検校、匡清法印奏聞す。神祇官にして御占あり。

 「男山考古録」に天明三、四年(1783、4)頃、人々が私に河原大明神を郷民の氏神と崇め、毎年六月一八日を祭日と定めて、家ごとに釣提灯を照らし、社頭所々に提灯を立て連ね、前日の一七日を夜宮と称して参詣することが年を追って盛大になったこと、神輿太鼓一基を町々順番に定めて華美を競い、ついにこの当番のほかに町々にも太鼓を構え、あるいは壇尻などの風流を尽したことがみえる。これは現在も毎年七月一七日、一八日に八幡の氏神祭として盛大に行われている高良祭で、屋形太鼓を出し八幡市中をかつぎまわるなど市内の人々の手で受け継がれている。



極楽寺(ごくらくじ)跡

 男山東北麓、一の鳥居内頓宮の北にある。 仁和三年(887)七月二日付の大安寺安宗置文(「石清水八幡宮并極楽寺縁起」所引)に



大安寺伝灯大法師位安宗謹言、伽藍壱院号曰極楽寺、在山城国久世郡科手上里、右件寺、奉為石清水八幡大菩薩三所君達、梵天帝釈天神地祇、兼師僧父母六眷族、三有法界有識無識、皆悉為令往生極楽浄土、以去元慶七年始所建立也、(中略)、所々田畠劫〔却カ〕売衣鉢価直得買、以先年施入已了、

とみえ、元慶七年(883)本宮初代別当安宗が、寺田等を施入して建立した別当寺である。 また石清水詞官系図安宗の項には「元慶二年下院極楽寺草創始、自同五年正月二日、至于四月八日、造仏始、自同八年三月廿七日、至仁和元年造堂、仁和三年九月十九日入滅」とみえ、「宮寺秘記」(「男山考古録」所引)に「極楽寺御本尊、御長三尺三寸座像、金泥仏、深秘之秘仏也、作者当宮最初別当安宗伝灯大法師、元慶五年正月二日作之、至仁和元年五月廿七日刻仏像畢云々」とみえる。

 当寺は安宗のあと本宮四代別当会俗(安宗甥)に伝えられ、以降その門胤の人をもって門徒長者とし寺務を領掌させることにした(「宮寺縁事抄」所引延喜一八年三月二日極楽寺別当会俗寺家相承議定文)。「宮寺縁事抄」によると、その後は八代別当清鑒、一二代別当光誉、一八代別当定清、定清の養子兼清、二三代別当頼清、二五代別当光清、二六代別当任清、二八代別当勝清に相承される。

 この間定清院主の時、幼少だったので聖清が後見したが、聖清は極楽寺を私領として押領しようとし、極楽寺は「如旧可宮寺所領之由」を言上し(同書所引長保二年七月三日付裏書)、宣旨を得た。すなわち宮寺所領であって私領(坊領)に加えられないものとされた。さらに治安三年(1023)一○月五日の極楽寺陳状によると、門徒でない宮寺司の妨を停止し、安宗門徒のうち定清の門胤をもって極楽寺ならびに荘園田地等を相伝進退させることを本宮に請い、認めの判を得ている。この時の極楽寺領には荘園八所(河内国養父庄・摂津国可賀島庄・丹波国質美庄・播磨国松原庄・同伯可庄・同多豆島庄・備前国片岡庄・紀伊国伊都野庄)とほかに山城国久世郡・綴喜郡、摂津国島上郡などに散在田畠があった。

 これら所領は、保元三年(1158)勝清院主の折には、山城国七所(島田園・仲興寺・居屋狭山・切山園・南山・橘御供田・山城散在田畠など)、大和国(広野別宮)、河内国一○所(長曾禰庄・大西庄・柘榴園・内山庄・高井田小庄・新御座園・林灯油園・養父庄・桜井園・近末名田)、和泉国三所(拾参町・信太寺・相伝田)、摂津国三所(天下高羽園・富垣庄・可賀島庄)、駿河国(青山別宮)、下総国(葛飾別宮)、丹波国(質美庄)、丹後国(平庄)、伯耆国二所(種別宮・奈良原)、播磨国三所(蟾原庄・松原庄・赤穂庄)、美作国(伊志庄)、備前国(片岡別宮)、土佐国(有井柑子園)、紀伊国(伊都野庄)などの三七所に増加している(同年一二月三日付官宣旨)。しかしこれら荘園・別宮は、極楽寺院主職が多くの場合官寺別当・検校の兼務であったから、しだいに宮寺の経済と基を一つにし、宮寺領に包括されていった。元暦二年(1185)の頃には、かなりの領が宮寺領に編入されてしまっている(石清水八幡宮史)。

 極楽寺は、石清水文書には「下院極楽寺」として散見する。これは山上の本宮や護国寺に対して、山下に営まれた寺院であったので下院と称するようになったもので、同文書に「宿院極楽寺」とも散見するのは、のちになると放生会の際、極楽寺に隣接して、あるいは境内に三所大御神が神幸する頓宮御所が設けられて、宿院と称され るようになったためだろう。「百錬抄」建久四年(1193)八月一五日条に「放生会也、神輿令下於極楽寺」などとみえる。また極楽寺には礼堂が付属し、放生会の時、上卿以下の着座行事の陣となっていた。

 のちには山下の建物をおしなべて下院と称したが、当寺は下院中最も主要なものの一つであった。「徒然草」第五二段に、仁和寺(現京都市右京区)の僧が「年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて」ひとりで参詣したが、山上に本宮のあることを知らず、「極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て」帰ったという話がある。おそらく下院の賑いを見て本宮と思い込んだのであろう。

 当寺は観応三年(1352)四月二五日の合戦の際焼亡したが(男山考古録)、貞治五年(1366)には再建されたようで、「宮寺縁事抄」に「貞治五年卯月十九日、極楽寺本尊御下也、為奉居之、絵所中御門越前守藤原御光〔ママ〕、仏師大弐法印院広、件御本尊者、将軍家〔足利義詮〕御等身也、皆金色来迎座像也云々」と、この時本尊も新造されている。応永二八年(1421)後小松院の本宮御幸の際には、足利義持が先に極楽寺に参着して院を待ち、院は当寺に入ってのち参宮している。

 寛永八年(1631)一一月、本宮神社仏閣破損の目録が幕府に提出されたが、そのなかに造替分として極楽寺鐘堂、修理分は下院・極楽寺とあり、これらは同九年末にはそれぞれ造替・修理を完了している。貞享三年(1686)一月一三日の社務田中要清権僧正拝任慶賀次第書によれば、本宮・武内社・八子・若宮・若宮殿・護国寺など山上諸設を拝したのち、下院に至りまず極楽寺を拝し、次いで谷不動・高良大明神等の順に巡拝している。寛保二年(1742)四月二七日にも下院回廊から火が出て当寺に及び、本尊ともども焼亡した。翌三年徳川吉宗の命により再造されて幕未に及んだが(男山考古録)、鳥羽・伏見の戦の折、兵火にかかり堂宇を失った。この時、宝冠阿弥陀如来像のみ火災を免れ、善法律寺に移され今に伝わる。


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