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entee Memo作者のプロフィール

 投稿者:Legacy of Ashes no  投稿日:2015年 6月13日(土)17時56分38秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://blog.archivelago.com/admin/profill.php

関連記事:日本はなぜ戦わねばならなかったのか

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/325.html

課題が見いだされる庭園~http://www.archivelago.com/Garden/annaiban.html

自己紹介

詳しくは「課題が見出される庭園」にて http://www.archivelago.com/Garden/ メールはフォームメール経由で http://www.archivelago.com/Garden/Formmail/ ■ Archivelago 宣言(Archivelagoとは、何か?)   http://www.archivelago.com ジョン・ダンはこう言った。

「人類は孤島ではない。全体の一部である。すべての人間は、大陸を成す一片、すなわち主要なあるものの一部なのだ*」と。 この言葉をジョン・ダンはヨーロッパと(現在なら当然のように「世界」の一部であることが)了解されているが、おそらく当時「人類」そのものと信じられたある特定の民族集団に言及するための便宜として持ち出した隠喩なのだと読むこともでき、それに引き続く部分を「都合よく省いている」のだが、それは敢えてこだわらない。むしろ、「人は孤島ではない」というワンフレーズにArchivelagoを含め多くの人が共感しているのである。むろん、自覚的にである。 * 誤解を避けるために文章全体をここに転載する。

No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less as well as if a promontory were, as well as if a manor of your friends or of your own were; any man's death diminishes me, because I am involved in mankind; and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for you.

「何人も孤島ではない。何人も独りで完全ではない。人はみな大いなる陸のかけら──そのかけらが波によって奪われ欧州の土が無くなるのは、さながら岬が失せるようだ。あなたの友人やあなた自身が喪しなわれてしまうようだ。誰が逝くも、これに似て自らが死に往くに等しい。何故かならば、我もまた人類の一部であるが故に。だから訊かないで呉れ給えよ、誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、と。それはあなたの為に鳴らされるのだから。」 それにしても「人類は孤島ではない」という言葉ほど、われわれ人類の「一蓮托生」性を表し、共感を誘う言葉はない。そのフレーズは様々なところで引用され、場合によってはジョン・ダンの意図から離れた意味で使われていることもあったに違いない。そしてこの宣言文自体がその範疇から免れぬ可能性がある。 Archivelago主催はこう言う。「人類は絶海の孤島ではない。全体の一部である。すべての人間は、列島を成す島の一つ。すなわち海面下に存在する主要な山脈の一部なのだ」と。 「大いなる陸のかけら」と人類を視た我がジョン・ダンは、流れ行く時間軸というもう一つの捉えられざる次元を勘案することこそはなかったが、現在の、あるいは当時の、ある特定の歴史的瞬間の断面に現れた人類という大陸と、大洋に浮かぶ孤島の群れとしての個人や民族を、そしてそれ自体を成す大陸や岬を、視たのだった。そして、それが一つの大いなる塊(かたまり)であり、魂(たましい)であることをおそらく語ったのである。

だが、Archivelagoはこの類い希なる名言を吐いたジョン・ダンに大いに崇敬の意を払いつつ、このように続ける。 人類とその歴史を、すなわち高さや奥行きをもった瞬間的存在である平面を、平面の垂直方向、すなわち時間軸上に連続的に無限に配置したものであり、三次元的な厚みをもったモデルであると視る。(ジョン・ダンが視たものは、すなわちこのモデルの切断面である。) そして、その時間軸上に伸びて長さをもった人類史の実体は、大陸のような実体としての核があり、その表面の大部分を満々たる水が覆っている。つまり、実体の大部分は海底に横たわるものとして存在する。標高高く大洋の表面から陸地が飛び出せば、われわれの意識の網膜に刻まれ認知できる現象として記録・記憶される。多くの場合は、その行為の意味を問わない職人たちの絶え間ない努力によって、そして時として宗教的な霊感や霊視として通念上受け入れられてきた千里眼的な能力、さらに、近代以降は「天才」と現代人がしばしば呼んでいる人物らの新たな表現手段の発見や工夫などからも多いに触発を受けながら、帰属する民族、社会の通念、信仰の相違を容易に突破する超人的な洞察の内容を伝えてきた。

そして、その記憶がわれわれの歴史(history of art)として認識されているものである。そして、おそらく海面上に現れないものは、かつて人類が「無意識」と名付けた大いなるものである。つまり、そこにありながらわれわれには意識されないために、不当にもそのように名付けられた実存体がその長さをもった本体として通底するのである。 すなわちArchivelagoは、いくつかの島々が孤立して、ひとつひとつ時間的な隔たりを経て、海面上に現れた飛び石のように一見ランダムに配置されているのを視る。

だが、海面上に突き出ているそれら絶海の孤島のように見えるひとつひとつの島々は、その海面下では一つの厚みのある長い山脈として繋がっているのである。そして、その島々は時間軸上に辿って行くと、視覚的には距離のあるものとして、時間的には隔てられたものであるように見えながら、無関係ではあり得ない。 誤解を恐れずに換言すれば、この山脈の名前こそが、伝統的な動作、言葉、文字、色、形などの「表現」や「創作物」を介して過去から現在まで、絶えることなく脈々と伝えられてきた大いなる徴のことである。 この僅かに芸術の名で呼ばれるにふさわしいもの(ふさわしいと信じられているもの)は、実は大いなる芸術的本体(the body of Art)の、「五感に触れる部分」に他ならないことを肝に銘じつつ、それを自覚的に未来に伝えて行くという役割を担う運動として、ここにArchivelagoの礎が置かれるのである。

すなわちArchivelagoは、過去より伝えられてきた特定の意味を持った「目に見え耳に聞こえる表象」が「目に見えず耳に聞こえぬ水面下」において根源的につながっていることを表す造語である。Archiveは、あらゆる保管・記録された「作品群・書庫・文書」を表し、Archipelagoは「諸島・列島・群島・多島海」を表す。Archivelagoとは、表現創作物群(archives)をつなぐ、1万年を超える時間軸上に連なる「群島」の別の謂いであり、前掲の理念自体を象徴している。「保管庫列島」「コトノハ群島群書島」。 そして、Archivelagoは、表現ジャンルを問わず、その具現化の下では繋がって共通の聖なるものの顕現(ヒエロファニー)として機能する作品群の総称である。 ■ 古典音楽・即興音楽(ピアノ、オーボエ、声、他)、物書き、仮想庭園園丁、錬金術

すべての論理(論理性/論法)への前書き

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2001-2003/preface.html

われわれは、この拙論においても、すべての例に漏れず、可能な限りその論理性の面で「厳密」たろうと努めた。その厳密たろうとするいわば儚い夢のごとき努力が、この拙論の表面的な見栄えを不必要なまでに複雑なものにしているのだ、といういうことも心得ているつもりである。が、いかに“厳密な言語”(もちろん、そういうものがあると仮定しての話だが)を以てしても、それはある条件付きの世界、において有効であるに他ならず、その前提的な条件の外部においては、単にそれがまったく意味をなさないばかりでなく、誤りの論理でしかないという事実に、つねに真摯に対峙しなくてはならなかった。さらに付け加えれば、あらゆる「完璧性」を具えたかに見える論法も、<世界のあるがままの姿>を、多く見積もって半分しか(「しか」ではなく、「も」であるという言い方もできるのだが)映し出さないものであり、世界の半分の世界において、<限定的に正しい>ということが言えるだけなのであった。しかし、なぜ<半分>なのか? それこそ、論理的に証すことがむずかしい事柄だ。だがそれをあえて試みてみるのもいいかもしれない。

たとえば、ここで金言(格言・ことわざ・言業)なるものを取り上げてみるとする。とりわけ上手に言い表された金言のごときは、その表面的な正しさの印象によって、いかにも疑いなさそうに響いても、大概の場合、まったくそれに対立する別の金言の存在がある。「芸は身を滅ぼす」と言える一方で、「芸は身を助く」という金言が存在している様にである。実生活の中では、こうした相反する言葉をその場の都合で、知ってか知らずか、上手に使い分けている。勿論このようなことを思い出すまでもなく、実は、あらゆる論理や思想は、その対象となるもの性格や実態の、多く見積もって半分のことしか問題にできないのである。われわれがこうしたことから知ることができるのは、二つのまったく対立しあう世界観(あるいは思想)の一方を、便宜的に選び出し、それを<当面の前提>すなわち「便宜」として、ある種のことを綿密に論ずることができるに過ぎないということなのだ。

だが、さらに言えば、ここに挙げた二つの金言の双方を語りつくすことによってすらも、「芸」全般を語り尽くしたことには、まったくならない。この相矛盾するふたつの金言は、「芸」というものの「身(人間の身体)」との関係、という限定された局面のなかで、我々には「二つの可能な結論」が与えられている、ということが分かるのみなのである。

この拙論の設定している課題に目を移す。簡単にまとめれば、この論*は「音楽の意義」を語りましょう、というような極めて漠としたくくりの話のひとつである。もっと詳細に説明すると、音楽を演奏あるいは創作する側の<個人的意図>と個人的意図をまったく度外視した集合的な<歴史的意義(意図)>というふたつの視座を想定することができる、ということが言いたいのである。そして、たとえば、「音楽の意義」を語る場合、上記の<個人的意図>を度外視して、<歴史的意義(意図)>のみを語って好し、としてしまうのは、上記の二つの可能な前提のうち、あきらかに広範な「音楽世界」の半分しか語っていないに等しいということである。当たり前のことであるが、ある意味でどんな論理(理論)や思想も、狭い前提の中で正しいかも知れないと言えるだけであり、すべからく「片手落ちである」ということなのである。

* 西洋史と西洋音楽史の呼応性(あるいは、伝統と個人主義の拮抗について)

しかし一方で、我々は、とりわけ<現代>という時代に於いて、創作家が問題にする<個人(一創作家)の意図>が、ことのほか強調され重要視されるべきだ、という今日の時代的傾向を視野に入れたとしても、その個人的意図を考察するだけで事足りると考えることは、まったくできない。要すれば、拙論は音楽という漠として広大な地平を持つ世界の中を、<個人>と<歴史的社会>という対立する観念によって便宜的にくくり、しかもその一方に光を当てているにすぎないのである。

繰り返すように、語られる世界を如何に厳密に設定しても、全体のごく一面的な切り口の中の、さらに多く見積もって、その「採りうる可能性の半分」について語ったに過ぎないのである。

ここで、しかし、謎めいた言い方になるのを承知で言えば、相反するふたつの世界の一方を精緻に描く、という努力が、その論理的思惟の最終局面において、残りの一方の世界をまるで反転した陰画(ネガ)のように浮かび上がらせるかもしれない、ということがある。それはあたかも小宇宙を描き出すと、それを内包する大宇宙がどのような様子をしているのか、また逆に大宇宙を描き出すと、それに内包される不可視の小宇宙がどのような様子をしているのか、を「想像させる」フラクタルの宇宙像にも似ている。(ただ、こうした純粋に思弁的な憶測をめぐらすことは、自然科学で証明しうる範囲を超えて、「汎神論」の哲学に陥る可能性があることをわきまえてやればいいのである。)

さらには、次に述べることは、与えられたある課題に対する個人にとっての態度表明になるかもしれない。すなわち、われわれは、つねに、どのような課題においても、設定し得るふたつの仮定のうち、一方の世界へと、特定的な態度を決めるよう、あるいは特定の立場を採るように、迫られている。しかしこの前書きで述べるように考えることで、<便宜性>を超えた「普遍的・定常的」な態度をとらねばならない、という現実生活における困難さに立ち向かうためのヒントが得られるのではないか、と加えて希望しておきたいのである。

ニュートンは、『プリンキピア』(『自然哲学の数学的諸原理』)のなかで、「それまで例のなかったような数学的厳密さを用いて、運動する物体についての知識をすべて新しく定式化し直し、空間における諸惑星の運動の問題について解説し、太陽の地球に働きかける力が実は磁気ではなく、引力に他ならないことを教示し、宇宙に於いて作用しているこの引力を、地球が月に対して、また地球の表面上に位置するありとあらゆる物体に対して及ぼしている引力と同一のものである」とした。そして彼は、「天空の現象(惑星の運動)と地上の現象(物体の落下)という二つの現象を万有引力という同一の法則のもとにおくことによって」物理学を統合・普遍化した。しかし、ニュートンの理論の正しさ(論理性)は、アインシュタインの相対性理論が世間に受け入れられるまでの約300年間だけであった(もちろん、限定的な条件の範囲内では現在も正しいが)。アインシュタインは、あらゆる現象の場を四次元という(我々にとり不可知の)場の上にのっかっている宇宙のモデルを、彼の理論の中で想定し、万有引力の「原因」を説明したが、その時からニュートンの理論の持った正しさが、我々が知る日常の地上世界の中での話であり、たとえば非日常の微細なレベル、たとえば素粒子レベルでは、万有引力の影響がない、あるいは、万有引力による論理があてはまらない、ということが解ってきたりしているわけである。

つまり、ニュートンの万有引力理論のような正しささえも、ある制限的な条件の範囲内でのみ「正しかった」に過ぎないのであり、非ニュートン的物理学というものが、別の誰かによって把握されれば、またそうした別の「くくり」の中でその世界を語り尽くすことができようになるわけである。しかし、さらに言えば、そうしたアインシュタインの理論さえも超-相対性理論と言い得るような宇宙論が登場すれば、「部分的*にはもはや無効」というようなことが、ことによるとあるのかも知れない。それは筆者の想像を超えた世界である。

* 部分的、と言ったのは、依然として、そしてこれからも我々の日常生活の局面では、ニュートンの物理学理論が有効なものとして機能するわけで、この理論やニュートンの使った論法自体が無意味になったわけではない。

拙論は、たとえば「音楽」という広大な世界を、ある可能なくくり方、すなわち<個人>と<歴史的社会>という相対立する観念により限定し、その一方に光を当てているにすぎない。結果として、演奏や作曲する側である<個人的意図>と個人的意図をまったく度外視した集合的な<歴史的意義(意図)>というふたつの視点の存在が想定されることになったが、この論の場合、上記の個人的意図を便宜的に度外視し、歴史的意義(意図)のみを語るものである。別の言い方をすれば、歴史的意義(意図)を便宜的に度外視し、個人的意図という観点からのみ語る、ということを、まったく別の機会に譲ることもできるのである。そして、上記の万有引力の法則の理論のように、上に挙げた限定的なコンテクストの中での正しさ以上のものを主張する気は、さらさらないのである。

衒学者の回廊

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2001-2003/index.html

過去における他者の死が未来におけるあなたの贖罪になる理由から一部転載 ENTEE MEMOより

『イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えているというキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか? そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか?

こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。(管理人注:多くの聖職者はキリスト教は許しの宗教であると言う。それは過去から現世までを俯瞰して視る能力がない表れでもある)。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう』。

上記関連記事~Ω祖型よりバチカンまで

http://megalodon.jp/2009-0311-0916-06/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/337.html

過去における他者の《死》が未来におけるあなたの贖罪になる理由(あるいは詭弁)

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=194241&catid=7379#trackback

記事は一部ダブります

拙論は、
イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えている*
というキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか?** そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか?

* 「新約聖書とイエスの歴史的受容」Wikipediaのという項目からの引用。

** こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう。

例えば、かのアメリカ合州国大統領が原理主義的なまでの「キリスト者」たることを標榜しつつ、他民族や他国(隣人)に対しては到底信仰心を持っている人間とは思えないような大量破壊と殺人とを、自国の利益のためと称して実行指導しているような事実は、彼の様な「キリスト者」の行いも過去の贖罪によって、おめでたくも「あらかじめ許されているから」と考えているからなのではないか、と揶揄したくもなる口実を少なくともわれわれに与えている。

いずれにしても、キリスト教注釈者らの伝統的解釈にみられる(恐れずに言うなら)「詭弁の神学」から一旦離れて、虚心坦懐に初めて聞くようにこのキリストの磔刑の贖罪説??イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれた??に接すれば、事によると、「後に自分でやった行いに対して(これから)きちんと報いを受けるのだから今は何をやっても良い*」と考えているようにすら聞こえてくるではないか。だがそうだとすれば、必ずやその報いはやって来よう。いや報いは来なければならない。

* まるで親鸞の「善人なおもて成仏す いわんや悪人や」を彷彿とさせるものだが、この世であれほどの悪をなし得る自称キリスト教徒がいることを思うにつけ、彼らが信じている贖罪説とは、要するに「悪人正機説」のことなのではないかとさえ思えてしまうのである。

だが、ここには解き明かしうる秘密があることにあらためて注意を留めようではないか。(なぜなら、キリスト教の《本質》を理解した上で信仰を選ぶキリスト者にとっても、それを理解した上で批判的な立場を取る人間にとっても、キリスト教が今日そうであるような世界宗教となるべき必然、あるいは「秘密」が、まさにこの贖罪論にこそあることは自明なのであるから。)

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれにとっての「贖罪」となるという考えには、端的に言って、まず時間の観念についての特有の混乱がある。通常、罪は犯した者が罰せられる(裁かれる)ことで初めて購う(あがなう)ことができる。これに反論はなかろう。すなわちことの起こる順序は、まず罪科ありきで、その次に懲罰ありきである。つまり購いは、まず罪科があってそれが裁かれることで達成できる。これが通常の因果であり時間の概念である。

あえて繰り返せば、聖書を字義通りに解釈する限りにおいて、磔刑は??約二千年前の??過去に起こった出来事であり、それはそのまたさらに過去に溯って刑罰を受ける対象(キリスト)の行なったさらに旧い行為の結果として、時代的な文脈の中でもたらされたものである。キリストの磔刑とは、少なくとも聖書においてはキリストの刑死という結末に至るまでの物語の中に、ことの起こりとともにきちんと因果関係の中に論理的に記されているのである。キリストの死が贖罪でありうるとすれば、キリスト以前の人類の行ないについて購われたと言うなら話は分かる。だが、キリストの死後に犯された罪まで購うとするには、人為的な論理の操作なしにはなし得ないのである。「キリストの磔刑は(未来の人類を含む、全人類の)贖罪を意味する」としたのは、後世のキリスト者によるご都合的な考えであり、あるいは神学者の詭弁的解釈なのである。

だが不思議なことは、これほど不自然で非合理的な考え方が、広く疑いなく信じられていることである。ここにキリスト教にまつわる全課題が横たわっているのかもしれないという推理は、おそらく当たらずとも言え遠からずである。

だがここで、キリストの磔刑が単なる過去の出来事ではなく、現在も進行中のある出来事についての象徴的な物語であるとすれば、すべての謎は氷解し、疑問を感じていた者は腑に落ちるであろう。

いやむしろそうした象徴的な物語であると解釈しない限りはその本質に到達することはできないのである。そしてそう解されたとき、新約聖書におけるイエス受難の物語が、人類の歴史的《帰結》についての予定(預言)を含むものとなる。《キリスト》は語り伝えられた如く、またしても磔刑に遭うことになるし、その受難をまたしてもわれわれは目撃し(体験され)なければならない。そして未来におけるキリストの死(あるいは殺害)は、まさに《われわれ》の行なってきた(行ないつつある)罪を背負って死ぬという因果を、時間の経過通りに表現しているとも言いうるのである。

こうして2000年前に起きた《過去》の記録としての新約福音書は、過去にそのような聖者が現れたという「旧いニュース」であると同時に、その名の通り、未来の予定を含む読み物??福音??としての二重の役割を果たすことになる。

そのとき、われわれがまさに福音書で「預言」されたようなキリストの「数々の奇跡の行い」が今まさにわれわれの眼前に展開している事実を直ちに了解しようし、やがて《キリスト》というコードで知られる全体系に降り掛かる受難が、われわれの生存を可能ならしめているこの体系の通過(イニシエート)する、最大の受難となることを大悟するであろう。

そして、われわれの犯した罪の積み重ねの応報として、われわれは自分たちの「主人」を野蛮な仕方で(またしても)失うのであり、こうした「主人」の喪失という出来事が最大級の「試み」として容赦なく降り掛かるだろうし、むしろわれわれ自身の犯した罪の真の《贖罪》となるのである。つまり罪を犯したわれわれ自身が、ついにわれわれ自身の肉体を通じて報いを受けることで、われわれの罪は清算されるのである。ここには、最初に述べたような何らの「便利さ」も存在しない。だが、この最も真剣な解釈によって、初めて福音書がわれわれの今と未来とに関係あるものとして、そして贖罪を受けるべきわれわれの《そもそもの罪》が、太古より伝えられし抽象的でもはや現実味のない「原罪」よりは、われわれ自身の個別な罪の集積の果てに、われわれを最期的に突き落とすというニュースを伝えるものであることも了解されるであろう。

つまりわれわれが、こともあろうにすでに贖罪された(清算された)とする、勝手気侭な聖書の伝統的誤解釈が、われわれの多くを今この時点でこれほどの規模で誤らせているのである。そしてキリスト教の教義にはこうした誤解釈があらかじめ内包されている(かにみえる)からこそ、われわれは判で押したように(数千年前の)かつての人間のように再び過つのであり、そのためにわれわれは結局、意外な仕方で《主人》(= 安全な文明体系)を失うという形で《贖罪》と《洗礼》を経験することになるのである。

これを一旦知る瞬間とは、キリスト教が悪魔的な宗教であるという局外者による浅薄な理解も、自らがキリスト者であると信仰告白する者たちの理解も、そのどちらもが「ひとたまりもなく」自分の与している体系が、全体の出来事においてどのような位置を占めるものなのかを諒解する瞬間となるだろうことは間違いない。

3の時代

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=149075

『父なる神と同様にキリスト(子)と聖霊が同じ「神性」を持つという「三位一体」の教説は、現代の知性にとっては単なる詭弁以外の何ものでもないものとして捉えられるであろう。実際問題キリストの「人性」を否定して(例えば人の子イエスを)神と同列視する(ないしは、それに準じたものとして看做す)カトリックの教説は、神秘主義の世界観においては一定の真理を伝えるものであるとは言えようが、イエスが人間であったからこそ彼に降り掛かった受難に意味があるという本質を損なうものだとも言える。また三位一体の教説こそ、人間が文明を構成する以上、文明を象徴する<徴>に惹き起こる受難、言い換えれば文明そのものに降り掛かる受難がそのまま人類の受難を意味することを想起すればこそ、現世を肉体を持って生きる人々にとって重大な<普遍的人間>の指し示す象徴の本質的意味を骨抜きにするものとなる。すなわち、このカトリックが最終的に採用した教説は、そうした欺瞞的な「神秘主義」の意図の潜むものである。だがそのためにこそこの教説は、複層的かつ韜晦な神学論のヴェールによって神秘化: mystifyされなければならなかった。こうした神秘化は「霊的真理」というものに対する批判精神を欠いたご都合的な世界観を許容し、さらには結局その信仰が人類を救わないという事実からわれわれの注意を引き離し、それへの無反省な「信仰」と「救済の欺瞞」は、今後われわれに降り掛かってくる事態についての責任という認識を容易に忘却させるのである。
仮にわれわれの人生というものが、全く逆説的な意味で、そうした「神秘的な真理」の<実現到来>によって最終的に「救済」されるにしても、現世を生きる人間の実質的苦悩を相殺することはないばかりか、その真実認識はさらに深い懊悩をもたらすのである。そしてその冷厳な事実こそ宗教のメッセージが重大でありうる唯一の理由であったにも関わらず、「イエスの聖化:脱俗化」の実行によって、現世を生きるわれわれの罪過まで免罪されるという欺瞞を惹起させた。そしてその生き方を変更することの無き「免罪された人類」こそが、次なる歴史時代の終焉を決定付けるのである』以上”3”の時代・ENTEE MEMOより引用

このような考えは以下のHPの序文でも述べられている~この世界の仮説

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/0000.htm

この世界には、なぜ、《自己》と《外界》について認識する能力を持った個体が存在できるのだろうか。この問題に理論的に答えようとする哲学の徒は、必然的に方法論的な障害に突き当たることになる。すなわち、問題を定式化することそれ自体が、きわめて困難だという事実である。

 理論的な定式化の際に範型として用いられる自然科学の手法においては、一般に、必ずしも明示されない「暗黙の前提」がいくつも導入されている。認識能力を取り上げようとするとき障碍になるのは、おそらく「学問的な記述の対象は、表現空間内部に並存し得る要素の集合として表記できる」という前提だろう。これは、客観性を保証するための自明の前提として、通常は無批判に受け入れられる。最も典型的なケースは、古典的な物理学に見られるように、3次元の座標空間内部にさまざまな物体が存在するという表記法である。よりソフィスティケートされた諸学においては、集団遺伝学のように、座標空間内部の不要な要素を捨象して遺伝子のみを学問的対象として抽出したり、マクロ経済学のように、企業や消費者などの経済単位が活動する領域として抽象空間を措定するなど、多様なヴァリエーションが見られる。
 その内部に複数の対象が並存するような特定の「表現空間」を前提とする記述は、科学的方法論に基づいて学問を構築する上で、きわめて有効に機能する。だが、《自己》と《外界》について論じようとするとき、この記述法を用いること自体、問題のポイントを見失わせる結果をもたらす。その理由は、《自己》と《外界》では、それを記述するのに必要な表現空間の構造が根本的に異なっている点にある。《外界》に関しては、個物が並存する一様な空間を基本フレームとして記述することが可能である。しかし、《自己》を記述しようとすると、その世界におけるさまざまな事象――記憶表象や知覚、観念連合など――を、「私の」という相の下に、非一様な“遠近感”をもって描出するしかない。これは、《外界》の表現空間が有する一様な構造と著しい対照をなす。こうした構造上の差異は、《自己》と《外界》を関連づけようとするとき、いっそう際だってくる。すなわち、実感として《自己》が閉じた自立的な世界を形作っているにもかかわらず、《外界》の記述においてこれに相当するのは、数多く存在する知的生命体の中の1個体の“内面”という1部分でしかない。表現空間の構造的差異を無視して、《自己》と《外界》を統一的に記述しようとする――例えば、「中枢神経系がこれこれの状態になったときに、しかじかの意識が派生する」というように――と、一般に、《自己》の有する本質的な特性が黙殺される結果となる。
 少なからぬ哲学者が、こうした問題は、近代的な科学的方法論の限界を示すものと解釈している。現に、フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、主観的な経験に“理念の衣”を被せる「物理学的客観主義」が、感性的・身体的世な生活界の豊穣さを忘失させる危険を持つことを指摘し、「現象学的還元」のような客観主義とは異質の方法論が必要であることを説いている。
 しかし、こんにちに到るまでの科学の驚異的な成功を考えると、《自己》と《外界》の関係を解明しようとする試みに対して、科学が全く無力であるとは、にわかには信じがたい。少なくとも、「表現空間」の構造上の差異に起因する問題に限っては、科学的方法論の手法に基づいて、矛盾を解消することが可能だと思われる。
 この論文では、こうした観点から、《自己》と《外界》をどのような空間で表現するかという問題に絞り込んで、両者を調和的に記述することを可能にする枠組みを提示するものである。この議論において鍵となるのが、空間の次元数である。通常の表現空間は、比較的小さい次元(座標空間の場合は3次元)を有すると考えられている。この場合、空間内部に存在するいくつかの個体は、同一の次元内部に並置させられるため、《自己》のような閉じた構造を持つ「部分」を構成することは困難だった。だが、きわめて高い次元数を持つ空間においては、その内部に、閉じた「部分空間」を想定することが可能になる。《自己》と《外界》とは、きわめて高い空間次元を持つ単一の世界を、異なるアスペクトにおいて記述したものと解釈することができる。
 断っておくが、この論文は、これまで誰も提唱しなかった「新説」を提唱するものではないし、従来の科学ないし哲学の学説に本質的な修正を加えることすら意図していない。援用される科学理論も、大半が定説として科学者に受容されているものばかりである。 筆者の目的は、あくまで、ある解釈の下に世界の姿を描き出そうとすることにある。

 現代においても、人が世界の何たるかを知ろうとする努力は、いまだに「群盲象を撫でる」の域を脱していない。確かに、人類は、自然現象を記述する有効な科学理論を数多く獲得してはいる。だが、その内容は、必ずしも日常的な直観や宗教的な信念と相容れるようには見えない。このためか、科学に対する不信感や嫌悪感を耳にする機会も多く、科学が解明し得ない超常現象への関心も、TVや週刊誌などの大衆的マスメディアにおいて根強い。科学が提供する世界像は、一般の人にとっては、何か「しっくりしない」ところがあるようだ。譬えて言えば、科学の描く世界〈象〉が「壁のようなもの」であるのに対して、日常的直観は、それが「柱のようなもの」だと訴えているのである。
 これから私がしようとしているのは、この矛盾の劇的な解消ではなく、「柱のような」足の上に「壁のような」胴体が乗った〈象〉の似姿をデッサンすることである。このような折衷案とでも言うべき描像は、科学的知見や日常的直観をほとんどそのままの形で採用し、ある解釈を媒介として両者を強引につないでしまうことによって得られる。ただし、この仮説は、単純で合理的だが、それなしには胴と足がバラバラになってしまう重要な役割を果たしている。
 もしかしたら、私が描き出す〈象〉は、足が3本しかなく、胴体から直に鼻が突き出ている異形の怪物かもしれない。だが、それはそれでかまわないと思う。「足は4本あるはずだ」とか、「鼻と胴体の間に頭があった方が良い」との批判をもとに、描像を修正することは常に可能だからだ。悲しむべきは、「人間は盲だから〈象〉そのものについて語ることはできない」と賢しらに決め込む態度である。世界は峻厳にして近寄りがたいが、あらゆる解釈を受け付けぬほど茫洋としてはいない。世界について合理的に語ることを可能にする解釈を思いつく限りは、その妥当性を検証してみることが、「知を愛する者」の勤めなのである。

おまけ

KSMチャンネルより

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