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蛇の誘惑

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2015年 6月14日(日)16時50分17秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.logos-ministries.org/old_b/gen1-4.html#3-4

管理人注:大切なことなので何回も書きます。死んでからでは遅いのですよ

厳密に言えば,アダムは何か新しいことを覚えるのではなく,自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識するのだ。同様に歳をとってゆく人間は知らないことを何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもと悲しい真理を発見するのだ。

(ウラジミール・ジャン・ケレビッチ「死」)より

『ヤーウエと蛇の遭遇の後に起こるアダムとイブの追放は,人間の堕落にほかならず,新約聖書におけるキリストの受難は人間の救済にほかならない。どの場合も物語りは完全な陰の状態からはじまる。ファウストは知識において完全であり,ヨブは善行と幸運において完全であり,アダムとイブは罪のなさと安楽さにおいて完全である。しかし,陰から陽に移行させる場合,もう一人の役者が必要になる。苦悩や不安や恐怖や反感を注入する敵を登場させなければならない。』これが対立物の統一という弁証法...............これが分かれば自殺なんてしなくてもいいのですよ。

関連記事:聖書ものがたり・創世記

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/125.html

1D 蛇の誘惑

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

人が神の命令に背くように誘惑したのが、この蛇です。「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」と書かれていますが、現在の蛇を見ると、一番かしこい動物だとは言えません。2章14節で蛇がのろわれているので、私たちの見る蛇は、のろわれた結果の姿であることがわかります。ですから、当初、蛇は違う姿をしていました。事実、原語のヘブル語では、この「蛇」という言葉が「輝くもの」という意味を持っています。見た目に、非常に魅力的な動物だったのでしよう。

 そして黙示録12章9節を見ますと、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」と書かれています。悪魔がこの蛇の姿をとって、女に現われていたのです。使徒パウロは、「サタンでさえ光の御使いに変装するのです。」と言っていますから、悪魔は、私たちが想像する、真っ黒でやりを持っているような存在ではないのです。悪魔は、とても魅力的なものに働いて私たちを惑わします。この場合は、「輝くもの」という意味のあった、野の獣のうちでもっとも賢い蛇の姿をとって現われました。そして、彼は、「神は、ほんとうに言われたのですか」と女に言いました。つまり、神のことばに疑いをかけています。これが、悪魔が用いる最初の手口です。人間が神のことばに背くように、そのことばに挑みかかります。

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 女は、ここで、2つの失敗をしています。1つめは、悪魔と話を交わしていることです。悪魔は惑わす者であるから、話を交わしてはいけません。ヤコブの手紙には、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7)」とあります。けれども、女は彼と話をしはじめました。2つめの失敗は、神のことばを少し変えていることです。「それに触れてもいけない。」と神が仰せられた、と言っていますが、2章17節を読むと、そんなことは書いてありません。

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」

 蛇は、大嘘をつきました。神は、「必す死ぬ。」と言われました。イエスは悪魔のことを、「彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)」と呼ばれています。

 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

 悪魔はここで、神の性質を損なわせています。神は人間をこの上なく愛する方であるのに、人に意地悪をしているかのように話しています。神は、あなたがご自分のようになるのが恐くて、あなたにそれを食べさせないようにしている、とほのめかしているのです。

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

 ヨハネは、第一の手紙において、世にある欲が3つあることを教えています。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16)」と言いました。「まことに食べるのに良く」とありますが、これは肉の欲です。肉体の欲望の一つである、食欲に訴えています。そして、「目に慕わしく」は目の欲です。魅力的に見えるものに、悪魔がよく働きます。そして、「賢くする」は、暮らし向きの自慢です。人々に自慢できるものとして、頭の良いことがありますね。女は、こうした欲に引き寄せられましたが、それでも木の実を食べないことを選ぶことはできました。

 けれども、それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 とあります。男も、妻の言うことを聞いて、神の命令に背きました。このように、神に背を向けることを、聖書では「罪を犯す」と呼んでいます。

2D 人の堕落

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 神は先に、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。彼らは、肉体的には死んでいません。けれとも、この時点で霊的に死にました。神は人に鼻から息を吹き込まれて、人は生きる霊となりましたが、この霊が死んでしまったのです。そして、その結果、彼らの中に恥が入り込みました。それを隠すために、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせていますが、これが宗教の始まりです。人間の罪から来る恥を、自分の行ないによっておおい隠そうととする試みです。お経を何方回も唱えたり、家々を巡って壷を売リ歩き回ったり、浄霊をすすめるなど、自分たちの行ないによって、自分の恥をおおいかくそうとしています。

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 彼らの努力によって、恥を取り除<ことはできなかったようです。このように、宗教は人を満足させることはありません。そして、彼らは主を避けて歩くようになりました。これが罪の結果であり、罪は人を神から引き離します。

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 これは、父なる神の悲痛な叫びです。神は人を造って、「見よ、これは非常によかった。」と言われて、こよなく人を愛されていました。それなのに、人は神から遠ざかるようになったからです。

 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 男は、禁じられた実を食べた責任を、神と女のせいにしています。「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。いいえ、人は女の誘いを断る選択もあったのです。聖書には、人間が罪を告白すると、その罪は赦されて、すべての不義から私たちをきよめてくださる(1ヨハネ1:9)と書かれています。罪を告白することは、責任を他人や状況のせいにするのではなく、まさに自分に責任があることを認めることです。けれども、女も責任転嫁をしています。「蛇が私を惑わしたのです。」と言っています。

3D 神の宣言

 神である主は蛇に仰せられた。

神は、罪によってもたらされる、のろいについて話されます。神が人をのろわれるのでなく、罪による当然の成り行きを告げられるのです。神が恐しいのではなく、罪が恐ろしいのです。

1E 蛇

 おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

14節の部分は、蛇そのものに対するのろいであり、15節の部分は、蛇の中で働いていた悪魔に対するのろいです。ここに書いている「女の子孫」とは、メシヤあるいはキリストのことです。聖書の系図は、例外を除いて、男しか載っていません。しかし、ここで「女の子孫」となっているのは、キリストが処女からお生まれになることを示しています。事実、イエスは処女マリヤから、ご聖霊によってお生まれになり、この預言が成就されたのです。このキリストは、悪魔の子孫の頭を踏み砕きます。悪魔の子孫とは、終わりの時に登場する反キリストのことです。この人物をキリストが滅ぼされることによって、この地に神の国が立てられます。

神の国は、先ほどと話しましたように、エデンの園のような、人間が住むのに最適な場所です。したがって、神は、人が罪を犯したその直後に、ご自分のもとに人間を引き戻す計画を立てられました。それを聖書では、「贖い」と呼んでいます。それは、のるいの中にいる人間を救い出して、再び祝福する神の働きです。

2E 女

 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

女にもたらされるのろいです。神は、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われて、人を祝福されましたが、その子孫を産み出す器は女性ですね。その祝福されるべき出産において、苦しみを経験します。そして、女は、男のわきか造られました。ですから、女は結婚関係に自分の存在意義を見出します。しかし、女が罪を犯したために、対等であるはすの関係が、男が女を支配する関係になってしまいました。

3E 人

また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

アダムは、動物などの被造物を支配する、あるいは管理する仕事をするために造られていました。そして、神の土地を耕す仕事を任されていました。ですから、男は仕事に自分の存在意義を見出します。しかし、アダムも罪を犯したために、喜ばしいはすの仕事が苦しみの種になりました。

土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

いばらが、土地がのろわれたことを表しています。先ほどの、水の潤いのあるエデンの園とは対照的です。先ほど神が仰せられた「女の子孫」つまりキリストは、人間の罪ののろいをご自分の身に引き受けて死なれることが、他の聖書個所で預言されています。事実、イエスは、十字架の死刑台につけられるときに、いばらの冠をかぶられていたのです。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

これは、人間の肉体の死を示しています。私たちのたましいが肉体を離れるそのときに、肉体は分解しはじめて、ちりに戻ります。人間はもともと死ぬようには、定められていなかったのですが、すべての人が死ぬのはアダムが罪を犯した結果なのです。しかし、この罪と死の原則を打ち破られ方がおられました。それは、神の御子イエス・キリストです。十字架につけられて墓に葬られましたが、3日目によみがえりました。イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」したがって、イエス・キリストを信じる者は、アダムによってもたらされたのろいから解放されて、永遠に神の国に生きる祝福が約束されています。

4D 神の贖い

 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

さあ、出てきました。神ご自身が、アダムとエバの罪をおおわれています。先ほどは、アダムとエバが自分で罪を覆おうとしましたが、彼らはそれでも恥ずかしくて神から遠ざかりました。それが宗教の正体です。しかし、神の側から救いの手を差し伸ベられて、彼らの罪をかくされています。そして、ふたりが植物を用いたのに対して、神が皮の衣を用いられていることに気づいてください。神は植物を種のあるものとして造られましたが、植物は自然にとんどん生えてきます。それを使っているなら、何の犠牲も伴っていません。しかし、皮の衣は動物のいのちという犠牲がともないました。動物が造られた目的の一つに、人間の代わりに殺されることがあったのです。こうして、罪ある人間が聖なる神に近づくときに、必ず犠牲をともなわなければなりませんでした。

 それでは、私たちは今でも、動物の犠牲をささげる必要があるのでしょう方。答えは、「ありません」です。それは、神はご自分①ひとり子であるキリストを、私たちの罪のいけにえとしてお与えになったからです。動物の血は、私たちの罪をおおうことはしましたが、取り除きませんでした。しかし、キリストが十字架の上で流された血は、私たちの心にある罪を完全に取り除いて下さいます。ですから、動物のいけにえをささげる必要はもうなくなり、キリストはすべての人のために、ただ一度、ご自身をおささげになったのです。

 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

これは、アダムが罪をもった状態で永遠に生きることがないように、と言うことです。

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

この追放は、アダムとエバに対する神のあわれみの現われです。なぜなら、もし罪をもったままの状態でいのちの木の実を食べて永遠に生きるようになったら、いつまでも彼らが苦しむことになります。その肉体はむしろ滅んだほうがよいのです。神は、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた、とありますが、ケルビムは神の御座にいる天使です。この天使を詳しく見たけれぽ、後でエゼキエル書1章をご覧ください。

2C 人間 4

 こうして、人が犯した罪のために、人間と土地がのうわれたものとなりました。次の4章では、人間にもたらされたのろいに、焦点が当てられています。

1D カインの殺人

 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

主は悪魔に対し、「わたしは、おまえと女の子孫の間に、敵意を置く。」と言われましたが、エバは、自分から産まれる子カインから救いがもたらされると感じました。けれとも、残念なことに、そうではありませんでした。

 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

この記事を読んで、ほとんどすべての人が、「主はなぜ、カインではなく、アベルのささげ物に目を留められたのだろうか。」という質問を抱きます。まず、カインとアベルの職業に注目してください。カインは、土地を耕すことを職業にしていました。おそらく、父のアダムから引き継いだのでしよう。そして、アベルは羊という動物を飼うことを職業としていました。そして、カインは土地から出た作物を主にささげました。アベルは、子羊をほふって、それを神にささげました。カインは、そこら辺にある野菜や果物なとを適当に人に頼んで、主にささげたのでしょうが、アベルは最良のものを、しかも自分自身でささげました。

このことをまとめると、カインは人間的な方法で神に近づこうとしているのに対し、アベルは神の方法で神に近づこうとしたのです。アダムの罪によって土地はのろわれたものとなったのに、そこから出た作物が、主に受け入れられるはすがありません。けれとも、神が動物のいのちを取って、皮の衣をアダムとエバに与えられたように、アペルは子羊のいのちを取って、それを神にささげたのです。アダムとエバが、そこら辺ある、いちじくの木の葉で腰をおおいましたが、カインもそこら辺にある野菜や果物を主にささげました。そこには、犠牲がありません。しかし、アベルのささげた子羊は最良のものであり、それは尊い犠牲です。カインは、主との個人的な関係を持つことを望みませんでしたが、アベルは自分自身でささげることにより、主との個人的な関係を持つことを望みました。こうした違いがあって、神は、アベルに心を留められ、カインは留められなかったのです。

 アベルの、神の方法によって主に近づくことを、ヘブル書には「信仰」と定義しています。ヘブル書11章4節ですが、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とあります。カインのささげ物は、宗教でした。人間が考えつく方法で神に近づこうとする試みです。アベルのささげ物は、信仰でした。神が示してくださった方法で、神に近づいたのです。神は、この子羊のいけにけに表されている、キリストの尊い犠牲を通して、わたしに近づきなさい、と言われています。

 そこで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

カインは、自分のささげ方が間違っていたことに気づいていました。それでも、その過ちを認めることをしなかったのです。そのため、罪を犯しそうになっています。主は、それに支配されないで、むしろ罪を犯さないように制するべきである、と言われています。

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

彼は、アベルをねたんで殺人を犯しました。ユダヤ人の宗教指導者が、イエス・キリストを十字架につけたのも、ねたみが原因でした。

2D カインヘの、のろい

 次に、カインの犯した罪にともなう、のろいが書かれています。

 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

カイン自身が、自分の耕す地によって、のろわれたものとなりました。

カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

主は、カインにあわれみを示し、彼の申し出を受け入れて下さいました。

 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

主はカインに、「あなたは、さすらい人となるのだ。」と言われたのに、彼は住みつきました。しかも、エデンの園の東の、ノデの地に住んだのです。神がエデンの東にケルビムを置かれたのは、このためかもしれません。カインは、自分の罪を梅い改めることなく、生き続けました。その結果が次の節から書かれています。

3D カインの子孫

 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 カインは、町を建て始めました。さすらい人となると言った、彼の言葉はどうなっているのでしょうか。また、町を建てることは文明の始まりでした。これをカインの子孫の中に見ることができます。

エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

つまり、畜産業が発達しました。

 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。

音楽家が現れました。

 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

精錬と製鉄の技術が発達しました。これは、驚くべきことです。なぜなら、歴史をひもとくと、紀元前2千年のアプラハムの時代がおよそ青銅器時代であり、紀元前1000年頃のダビデの時代に鉄器時代が始まっているからです。ここは、ノアの洪水の前のことですから、はるか何千年も昔に起こったことなのです。私たちは進化論の悪影響を受けているので、昔はさぞかし原始的な暮らしをしているだろうと思いますが、いや、逆に、昔ほど進歩的な生活をしていたのです。

 ところが、これは、神なき文明であると言わなければいけません.2~3節を見ましよう。さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

カインの子孫のレメクの息子から文明が発達しました。しかし、レメクは先祖のカインよりもさらに、邪悪になっています。殺人を犯すだけでなく、殺人したことを誇っていたのです。私たちが歴史を見るとき、その多くの文明は、神を無視したものでした。そのため人間は堕落し、必然的に頽廃していったのです。日本の経済成長の産物は、無差別テロ、人を殺すことをゲームのように考えている中学生、組織ぐるみで不正取引をする会社などです。その文明の特徴は、レメクのような自己中心、高慢、無慈悲であります。これが、神に罪を告白しないことの結末です。

4D セツの誕生

 けれども、神はそれでも人間を祝福されようとしています。なんと神は、あわれみ深いのでしょうか。アダムとエバに、主に従うような子孫を与えられます。

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

カインの子孫とはうって変わって、セツの子孫は主に対して祈りはじめました。神である主との関わりを大切にするようになりました。神は、決して人間を見捨てず、ご自分の祝福を絶やすことはなさらなかったのです。

 こうして、天地創造における神の祝福と、人間の反抗によるのろいを見てきました。私たちは、ここに示されている神の恵みによりたのみ、へりくだって、主とともに歩んでいきたいものです。神は祝福の神です。とうぞ、この方に喜んで従い、多くの祝福を受けられますように。

おまけ~橋の上のホラティウス

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1353



チャーチルのMY EARLY LIFE(我が半生)

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3282



ニュートンの理神論

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=_L7fsyjDJksJ&p=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%90%86%E7%A5%9E%E8%AB%96&u=tillich.web.fc2.com%2Fsub4h.pdf#search='%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%90%86%E7%A5%9E%E8%AB%96'

PDF

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7YWOSkgXH1VoT4AYu.JBtF7?p=http%3A%2F%2Ftillich.web.fc2.com%2Fsub4h.pdf&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=



2015年9月23日の関連記事~ヨベルの歳・大贖罪日にむけて

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/844.html

ニュートンは、『プリンキピア』(『自然哲学の数学的諸原理』)のなかで、「それまで例のなかったような数学的厳密さを用いて、運動する物体についての知識をすべて新しく定式化し直し、空間における諸惑星の運動の問題について解説し、太陽の地球に働きかける力が実は磁気ではなく、引力に他ならないことを教示し、宇宙に於いて作用しているこの引力を、地球が月に対して、また地球の表面上に位置するありとあらゆる物体に対して及ぼしている引力と同一のものである」とした。そして彼は、「天空の現象(惑星の運動)と地上の現象(物体の落下)という二つの現象を万有引力という同一の法則のもとにおくことによって」物理学を統合・普遍化した。しかし、ニュートンの理論の正しさ(論理性)は、アインシュタインの相対性理論が世間に受け入れられるまでの約300年間だけであった(もちろん、限定的な条件の範囲内では現在も正しいが)。アインシュタインは、あらゆる現象の場を四次元という(我々にとり不可知の)場の上にのっかっている宇宙のモデルを、彼の理論の中で想定し、万有引力の「原因」を説明したが、その時からニュートンの理論の持った正しさが、我々が知る日常の地上世界の中での話であり、たとえば非日常の微細なレベル、たとえば素粒子レベルでは、万有引力の影響がない、あるいは、万有引力による論理があてはまらない、ということが解ってきたりしているわけである。

つまり、ニュートンの万有引力理論のような正しささえも、ある制限的な条件の範囲内でのみ「正しかった」に過ぎないのであり、非ニュートン的物理学というものが、別の誰かによって把握されれば、またそうした別の「くくり」の中でその世界を語り尽くすことができようになるわけである。しかし、さらに言えば、そうしたアインシュタインの理論さえも超-相対性理論と言い得るような宇宙論が登場すれば、「部分的*にはもはや無効」というようなことが、ことによるとあるのかも知れない。それは筆者の想像を超えた世界である。

* 部分的、と言ったのは、依然として、そしてこれからも我々の日常生活の局面では、ニュートンの物理学理論が有効なものとして機能するわけで、この理論やニュートンの使った論法自体が無意味になったわけではない。

拙論は、たとえば「音楽」という広大な世界を、ある可能なくくり方、すなわち<個人>と<歴史的社会>という相対立する観念により限定し、その一方に光を当てているにすぎない。結果として、演奏や作曲する側である<個人的意図>と個人的意図をまったく度外視した集合的な<歴史的意義(意図)>というふたつの視点の存在が想定されることになったが、この論の場合、上記の個人的意図を便宜的に度外視し、歴史的意義(意図)のみを語るものである。別の言い方をすれば、歴史的意義(意図)を便宜的に度外視し、個人的意図という観点からのみ語る、ということを、まったく別の機会に譲ることもできるのである。そして、上記の万有引力の法則の理論のように、上に挙げた限定的なコンテクストの中での正しさ以上のものを主張する気は、さらさらないのである。(既述のEntee Memoより)

 
 
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