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べアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2015年 7月19日(日)13時00分30秒
  通報 返信・引用 編集済
 

以下はナターシャさんの歌

https://www.youtube.com/watch?v=xQJog0rs7Eg

http://www.shinyawatanabe.net/atomicsunshine/BeateSirotaGordon/interview

その1

「あの日」を回想して思うこと。

GENERATION TIMES編集長
伊藤剛

 実に6年ぶりに「あの日」のインタビュー原稿を読み直しました。読み終わって心の中に浮かんだのは、「感謝」と「後悔」という二つの言葉。感謝というのは、言うまでもなく、見ず知らずの自分に対して、とても素直に、時に笑いも交えながら、最後は思いの丈をぶつけるかのような熱を持ってベアテさんが話してくれたこと。後悔というのは、もう二度と彼女に質問をすることができないという圧倒的な事実に対して。今なら、今だからこそ、唯一の生き証人であったベアテさんに聞いておくべきだったことがまだまだある気がしてなりません。あの日の自分の未熟さへの強い後悔です。

 ベアテさんにお会いしてから、今もなお余韻のように僕の心象風景として残っていることは、彼女の「ふつうさ」です。それは、僕自身が勝手に抱いていた「GHQ」とか「憲法」というものへの強い偏見ゆえに感じたギャップかもしれません。日本人にとって、どこか政治は遠いもので、まして憲法を作った人などというのは、歴史の教科書に載るような特別な人だと思っていました。極端に言えば、フィクションの世界。でも、読んでいただければ分かりますが、彼女はいたって普通の人です。政治家でも法律の専門家でもなく、日本文化を愛し、ただただ日本の女性の未来を願った人でした。

 日本では今、改めて「憲法改正」の議論が沸き起こっています。政治家が主張する「押しつけ憲法」の主張は、あれから6年経ってもまったく変わっていません。今から150年ほど前。近代化を果たした日本は、急速に西洋の文化を日本の暮らしに取り入れてきました。季節ごとの「洋服」の着こなしを楽しみ、街中に溢れる「珈琲ショップ」をこよなく愛する僕は、それらを「押しつけられた文化」と感じることはありません。であれば、物質的な「文化」だけでなく、優れた「知恵」に対しても同じように感じる普通の感性を持っていたい。それが、僕がもっともベアテさんから学んだことのような気がしています。

GHQで憲法草案の中心的な人物だったチャールズ・ケーディス大佐で検索すると....

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dP52c14LJVUW0AA9qJBtF7?p=GHQ%E3%81%A7%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%BF%83%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E5%A4%A7%E4%BD%90&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

以下はWikiより「ケーディス大佐」

『ケーディスと憲法

日本国憲法草案を作るためのGHQ民政局・25名による委員会の長として、ケーディスは各所で主導権を発揮した。
1.委員会が起草するにあたって、マッカーサーが渡したメモには、「自国の安全を確保するためであっても戦争を放棄する」とあったが、それを、「国の自衛権までも奪うのは、現実離れしている。個人に人権があるように、どんな国でも自国を守る権利があるべき」と考え、それを削除した。さらに憲法原案手交後に、芦田均(衆議院憲法改正特別委員長)が、第9条第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の一文を、第2項に「前項の目的を達するため」を加えることで、自衛権の保持を確保しようとしたときに、ケーディスは芦田の意図を察した上で、その提案に自分の責任でOKを出している。

2.当初案には、土地や天然資源の最終的権原は「国民代表としての国に属する」といった急進的・社会主義的な条項があったが、ケーディスはその国の権原が「土地及び資源に対する私的所有」の否定につながる、という理由で反対した。

3.他のメンバーが、占領解除後に日本政府が憲法に定める基本的人権の条項を後退させてしまうことを恐れ、「権利章典(人権条項)」の改正ができないようにしようという案を出すと、ケーディスは、その考えは「暗黙のうちに、この憲法の無謬性を前提している。1つの世代が、他の世代に対して、自らの問題を決する権利の否定を強要することになる。権利章典の変更は、革命によってしか成就されないことになる」として、反対した。

4.当初案では「日本国民には、まだ民主主義の運用ができない」だろうから10年間は改正を許さず、それ以後の改正は国会の3分の2、国民の4分の3の承認を必要とするように条文が書かれていた。ケーディスは「それでは後世の国民の自由意志を奪う」「憲法を保護するためにこのような制限をすることはよくない」とこれに強く反対し、激論の末に撤回させている。

5.前文か最高法規の条項に、この憲法は主権の基礎を「国民の意思」だけではなく、「普遍的な道徳」の諸原理に置いていることを強調し、「物理的な力」だけでなく「道徳的高潔さが権威の源泉である」ことを謳うべきだ、という主張に対して、ケーディスは強い調子で「そういうユニヴァーサル・チャーチ的なものを一国の憲法に入れるべきでない」、憲法の効力は日本国民に由来するのであって、主権は普遍的道徳ではなく力に基礎を置くものである、と自説を保持し続けた。

6.委員の1人ベアテ・シロタ・ゴードンの起草した、憲法24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」について口添えして、日本政府側に認めさせた。しかし彼女の他の規定、たとえば社会福祉などの条項については「フランス憲法のように何でも書いてしまうというのは避け、簡単明瞭に書き、詳細はそれぞれの法に委ねるというポリシー」により、ケーディスによって削除されている。

憲法原案作成責任者としてのケーディスは、積極的な社会改造案を憲法に盛りこむよりは、逆に他のメンバーのそうした熱意に水を差す人物として現れる。ケーディスは自覚した社会改革支持者(ニューディーラー)だったが、草案作成委員の中で彼だけは、アメリカで普遍原則とされていることを占領軍の圧力で他国民に押しつける不当性に気づいていたようだ[要出典]。欧米の普遍的理念に基づいて日本を啓蒙しようとする理想家肌のメンバーに反対するケーディスの姿から、「他民族にとっての自治」をも含むアメリカ憲法の精神をうかがうことができる。

チャールズ・L・ケーディス文書~下のURLをクリック

ケーディス文書 (The Charles L. Kades Papers) は、1947年の新憲法の形成過程に関する記録を保存しPart A,Bに分かれている。Part Aは松本烝治国務相による明治憲法の改訂版とも云える草案(1946年1月)に始まり、1947年5月3日発布の日本国新憲法の最終草案となる米国国務省案に辿り着くまでの継続する草案をすべて収める。Part Bは.覚え書、委員会議事録、書簡、チェックシート、憲法改正に関する天皇のメッセージ等を収録』

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/YF-A1.php

ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー

CONTENTS

序章
PART1 「女性の権利」の生まれた背景。
PART2 GHQ憲法の草案の話。
PART3 世界の過去と未来と憲法9条。

序章

伊藤 初めまして。今回、僕はベアテさんにお会いするためにニューヨークにやって来ました。

ベアテ 本当? とても光栄だわ。

伊藤 渡辺さんから今回の展覧会の企画を初めて聞いた時、とにかく一度ベアテさんに会って、いろいろ話を聞いてみたいと思いまして。頻繁に日本に来ているとは知らなかったものですから。それで一年程前から「機会があれば僕も行くから」と伝えて、ようやく一年越しにそれが実現して今日ここに訪問させていただきました。

ベアテ それは良かったわ。本当にようこそ。今まで随分日本に行きましたよ。そう言えば、もし何か飲み物を飲みたかったら、そこの冷蔵庫から自由に飲んでくださいね。はい、それじゃ主に聞きたいことは何でしょう?

渡辺 今回の訪問に合わせて、伊藤さんは憲法についてとても勉強してきたみたいなんです。

ベアテ それじゃあ、あなたの方が良く知っているかもしれませんね。

伊藤 とんでもない。僕は1975年生まれで、今は31歳なんですが、僕らが子供の時には学校の授業で「憲法」についてあまり習った記憶がありません。正直、あまりこう憲法について意識することはなく暮らしてきました。でも、ちょうど高校生くらいの時に『湾岸戦争』が始まって、その時にメディアで「憲法9条」が話題になって、それ以来僕の中でも「憲法=9条」みたいになってしまって、あまり憲法を身近に感じる事ができなかったんです。今回、自分なりにいろいろな資料を読む中で、「あの時に憲法を作った人が実際にまだ生きている」という事実が僕の中ではすごく衝撃的なことで。一気に身近になったというか。ほとんどの人は、もう亡くなっていますよね?

ベアテ そうでしょうね。多分、私一人だけだと思います。実際に作成した人で生きているのは。当時、私はGHQの中でも一番若かったですから。

伊藤 GHQで憲法草案の中心的な人物だったケーディス大佐も、若かったとは言え当時40代ですよね?

ベアテ はい。確か、90歳くらいで、今から10年程前に亡くなられました。ちょっと調べてみないと正確なことは分からないけれど。

伊藤 去年、日本では「白州次郎」の本が改めて話題になりました。

ベアテ あの人は亡くなられたの? あの人のことは良く知っています。彼はとてもこう、英国人みたいな人でね。ローストビーフが好きだったのを覚えてるわ。

伊藤 そうですか。僕は、白州次郎さんのことも去年メディアが取り上げたことで初めて知って、ベアテさんの存在も彼の本を読んで知ったんです。それで、白州次郎さんを始め、あのマッカーサーや吉田茂など歴史の教科書に出てくるような人物と実際に会って話していたベアテさん本人に、とにかく一度お話を聞きたいと思ったのが、今回の一番の目的なんです。

ベアテ 光栄だわ。ところで、英語はあなた、日本で習ったんですか?

伊藤 学校で受験勉強した程度です。もし、ベアテさんが話す上で英語が楽でれば、英語で話して下さい。でも、日本語は今でも達者なんですね。

ベアテ ええ。だって、しょっちゅう日本に行くからですよ。それと日本のお友達が随分いるんです。ニューヨークにも。だから、私はよく日本語を使っています。

渡辺 確か、ドイツ語もペラペラで、フランス語も話せますよね?

ベアテ ええ。フランス語は全然使わないけど話せます。全部、子供の時に習ったんです。スペイン語だけ16歳の時に。他の言語は、全部私が6歳から15歳までの間に覚えました。

伊藤 それは日本に暮らしていた時期ということですね。

ベアテ そうです。日本で習いました。だから、幼いうちに習うと忘れないですね。ちょっとしか覚えてなくても、次にまたその国に戻ると、全部思い出してくるんです。

渡辺 それじゃあ、ロシア語もまだ話せるんですか?

ベアテ もちろん。昨日も確か誰かとロシア語で話しましたよ。もう、私のお父さんとお母さんは亡くなっていますから、ドイツ語は話してないです。ロシア語も普段は話さない。時々フランス語だけ。私たち夫婦でヨーロッパへ行く時は、いつもパリに行くんです。夫がとってもパリが好きなので。だからそういう旅行をする時だけね。でも、ここアメリカでは大体英語ですよ。

伊藤 そうですよね。

ベアテ でも残念。今度何か「倶楽部」みたいなものを作ろうかしら。私みたいな、ちょっと歳を重ねている女性たちを集めて。

伊藤 なるほど。「カンバセーション倶楽部」みたいなものですね。

ベアテ 今みんなで「ブック倶楽部」を作ってるの。それが流行ってるんですよ。日本でもそうですか?

伊藤 それは「読書会」みたいなことなんですかね?

ベアテ そうです。みんなが同じ本を読んで、そして2週間から3週間に一回、誰かの家に行ってお食事をして。

伊藤 日本でもそういう「詩」の朗読会とかはありますね。

ベアテ だから私はね、それを「言語」でやればいいと思うんです。どういう風に人を集めるかは考えなきゃね。以前、「ピアーズ(友人会)」はやっていましたから、どうにかできると思います。ちょうど今思い付いたアイディアですけど、本当に残念なことですよ。私の知り合いにもドイツ語やフランス語を話せる人はいますけど、使わない。それは話す理由がないから。でも、こういう倶楽部を作ればね。まあ、でもこれは重要なトピックではないわね。本題に戻りましょう。もっと大事なことについて話しましょうね(笑)。



PART1「女性の権利」の生まれた背景。

伊藤 聞きたいことがあり過ぎて、何から質問するか迷ってしまうんですが…

ベアテ はい。

伊藤 やっぱりベアテさんを語る時に、まずは「日本の女性」ということについてお聞きしていきたいと思います。ベアテさんの書籍の中でも出てくるように、アメリカに留学して『ミルズ・カレッジ』に行った時に、最初に校長先生が「女性の権利」について演説されますよね? 以来、ベアテさんの人生の中でもいろいろな機会に「女性の権利」について考えることが多かったと思うんですが、日本で憲法を作ることになった時に、『男女平等の権利』にこだわったのは、やはりベアテさん自身が日本の女性が置かれた環境を見て育ってきたことで、「この状況を何とかしたい!」という想いが強かったということですよね?

ベアテ そうです。私が日本に初めて来た時は5歳半だったんですが、アジア人を見たことがありませんでした。1929年のウィーンには、あまりいなかったんです。

渡辺 いなかったでしょうね。

ベアテ 最初に日本に着いたのは、横浜港だったか神戸港だったか忘れてしまいましたが、港に着いた時にいろんな人が歩いてて、「あら、みんな黒い髪の毛!」と思って、みんなの目もちょっと違うので私はママに「あの人達はみんな兄弟ですか?」って聞いたんです(笑)。子供だったから私はよく分からなかったけど、でも多分ママはびっくりしちゃったんですよ。私がそういうことを言ったことに。だから「この子をちゃんと日本の社会に入れなければならない」って思ったみたいで。ママはとても進歩的な人だったんです。だって、東京にはアメリカンクラブがあって、イングリッシュクラブ(英国人会)もあって、ジャーマンクラブ(独人会)もあって、みんなは自国のクラブへ行ってたんです。日本の子供と遊ぶようなことはあまりしなかった。でも、私は最初から日本の社会に関わりました。他のお母さん達はあまりそういうことをしなかったんですよね。

伊藤 日本の子供たちと一緒に遊んでたんですか?

ベアテ 私のパパが言うには、3ヶ月で日本語を分かったそうです。でもそれはね、大変なことじゃないんですよ。5歳半の子供たちのテーマは難しくないでしょう? だからボキャブラリーがそんなに難しくない。パパが言った通り、3ヶ月ぐらいで普通のことについて私はしゃべることができていました。でも、パパとママはそうじゃなくて、随分夫婦で変な日本語を話していましたね。

伊藤 具体的に「女性の権利」にそこまでこだわった理由は、もちろんいくつもエピソードがあると思うんですが、ベアテさんから見ていて「日本の女性が平等じゃない」とか、もしくは、「これは変えなきゃいけない」と思ったきっかけ、ベアテさんご自身が経験した具体的なエピソードはありますか?

ベアテ はい、あります。

伊藤 僕らも、歴史的には日本人の女性にあまり権利が与えられていなかったことや、平等じゃなかったんだろうというのは何となく想像がつくんですけど、具体的にはどんな状況だったんでしょうか?

ベアテ あの、あなたの飲み物ね。もし氷が欲しかったらありますので。私はヨーロッパから来ましたので氷は入れないんですよ。…というのは嘘です(笑)。時々入れます。
それで、具体的なエピソードですね。私は小さい時から「美代さん」という家にいたコックさんからいろんなことを聞いたんですよ。台所へ行くというのは西洋人はやらなかったんです。女中さん達は、行くけどもね。でも、私達は台所がとっても面白い所だと思っていました。美代さんというのは、とっても面白い人だったんです。そしてとても若い人だった。私が5歳半だった時、あの方は18歳だった。

渡辺 若いですね、それは。

ベアテ 美代さんは、ヨーロッパやアメリカのことについては何にも知らなかったので、もちろん英語もしゃべれない。でも、私の日本語が段々と上手になったから、私と話すのは多分面白かったでしょうね、美代さんにとって。そして、美代さんが「今度自分の妹もこの乃木坂の私達の家へ呼びたい」って言うんですよ。大きい家だったから。だから3人で会ったんです、美代さんともう2人。

伊藤 妹さんもですか!?

ベアテ 時々二人、時々三人だった。大体、美代さんの家族の人だったんですよね。だからいろんなことしゃべるでしょ。女性はいつでもそうでしょ? 他にも、私の隣の家の子供達とか、特に女性の人達と遊んでいましたので、朝から晩までね。一緒にいろんなことをやりました。一緒に食事を食べて、お母さんに会って。一つ私覚えているのは、暑い時に私達は「襦袢」だけで外で遊んでたんですよ、あの時。もちろん、日本的なものじゃなく、普通のスリップ。そして洋服を脱いで、庭にこう置いて、羽子板で。まあ何でも遊びました。ヨーロッパ文化から見れば、そういうことするのはいけないんです。洋服を取って、こうね。でもみんながやってたから、私もそれと同じことをやってました。そして、そういう風に段々と日本のカルチャーが何かが分かっていったんですよね。そして今度は、このお嬢さん達が「お琴」や「お花」を習っていて。なぜ、こんな習いごとをしているかというと、日本では女性が結婚する際に必要だってことが分かりました。だから、私も少しお琴を習って、そして日本舞踊も(笑)。

渡辺 ええ? 本当ですか?

ベアテ とっても難しいですよ、日本舞踊は。あなた知ってるでしょ? あんまり大変だったから、辞めました。しかし、多分6ヶ月ぐらいはやりましたよ、一週間に2回くらい。日本流の教え方で、ちゃんと畳の所を歩くのね。ああ、嫌だった。でも、私はバレエとモダンダンスをずっとアメリカ人の先生について、そこで習いました。だからね、私は本当に日本の若い女の子達とお友達になって、何でも話しました。そして、私達はみんなで映画も観に行きました。その時は、アメリカのハリウッド映画がとても人気があったんです。いろんなミュージカル映画。あなた達が知らないような古いものですけれど。「ストコスフキー」って聞いたことあります? 指揮者が「ディアナダービン」っていう。シャンテゥーを歌う映画を作ったんです。タイトルは『A Hundred Men and One Girl』。「A Hundred Men」がオーケストラで、「One Girl」が歌う人。その映画は東京のどこだったか忘れましたけど、帝国劇場とかそういう所で、一年以上それだけを上映していたんです。

渡辺 ロングランですね。

ベアテ そう、一年以上。私達は同じものを観てその映画の話をします。すると、そういう映画は大体ハリウッド映画でとてもロマンチックだったから、私達はみんなもちろん「結婚」のことについて随分話しました。私がびっくりしたのは、その女性達が「私達が結婚する時には、その相手が誰ってことはあまり分かりません」と言ったんです。結婚するその日に会うのが初めての場合もあるし、あるいは一週間前にようやく会うとか。それを聞いて、私の頭では全然理解ができませんでした。だから、美代さんに聞いたり、私のお母さんに聞いたりして。私のお母さんは、随分良い身分の日本のお友達がいました。そういう女性は、大体お金持ちの家から来ている人だったので、あの当時でもヨーロッパへ旅行に行ってたんです。そして帰って来ると、私のママに「ヨーロッパを見てきましたが、いいですね。あっちでは、女性がこう普通に歩いています。男性と同じように、いろんなことをやっている。私達は日本では何にもできません」って。だから、私の家ではそういう会話が頻繁にありました。

伊藤 ベアテさんご自身や、お母さんのお友達から聞いたことの影響が大きかったんですね。

ベアテ もう一つ大きかったのは、私には家庭教師がいたんです。ヨーロッパでは、お金持ちの人だけじゃなく、ミドルクラスも子供がいれば普通のことでした。私の家庭教授はエストニア出身の人だったんです。そして『クリスチャンサイエンス(キリスト教科学)』っていう宗教で、ご存知ですか? キリスト教から出てきた新しい宗派で、病気になってもお医者さんは駄目で、全部拝むことで治るっていう宗派。家庭教師がそういう人だったんですよ。独り身で、全然結婚してなくて。この方もとってもそういうことについて興味がありました。だって、私達は誰も日本のことについてよく知らなかった。だから、私の家庭教師もいろんな人と会って調べていたんです。日本にはどういう習慣があるか? 何をするのか? 私の家では随分そういう話題が出ていました。私のママは当時では割合に進歩的な人だったので、離婚も経験しているんです。

渡辺 そうでしたね。

ベアテ あの当時のヨーロッパでは、あまり離婚はしなかったんです。でも、私のママも日本の女性みたいに無理矢理に誰かと結婚しなければならなかった。相手の人は悪い人じゃなかったみたいなんですけど、ママが愛した人ではなかった。だから、ママがピアノのレッスンで私のパパに出会って、そしてパパを好きになってしまったから「どうしても離婚をする」と言って。けれど、ママのお父さんがまだ生きている間はきっと大変でしたから、ママは「離婚しない」と言って、パパは「待つ」となって。ちょっと日本的じゃないですか? そして、待ったんです。ママが再婚した時に、私のパパはちょうど10歳年が離れていたので、ママは20か21歳で、パパは30か31歳ぐらいで結婚をした。私はその話を家で聞きました。離婚のことは、私が12歳まで言ってくれなかったんです。その時、私達は日本で住んでいて前の夫はウィーンにいたから、子供にそういうことを言わなくてもいいじゃないかと多分考えたんだと思います。でも、1936年に私達はウィーンに遊びに行きました。その旅行前にママがそれを教えてくれました。「私も日本の女性みたいに、お父さんがどうしてもと言ったから結婚したの」とその話を全てしてくれたんです。それが12歳の時。だから、その後私はそのことに大変興味を持ちました。
 日本へ帰って来て、男性が道で歩いている時に奥さんがいつも後ろから付いていく光景に、私は「変だ」と思うようになりました。「全然平等じゃない!」ってことも。パパとママはとても平等だったんです、私の家ではね。ママもピアノを教えていて、ママはあまり上手じゃない生徒を教えて、上手になったら今度はパパが教えて。だからこう男性の方が上とか下とかっていうそういう気持ちが、私は全然なかった。だから私は「おかしい」と思ったんです。そして、無理して結婚することは、本当に悪いことだとも思いました。女性にとっては、とても大変なことなんじゃないかって。私は何だかとてもロマンチックな子供だったみたいですね(笑)。

伊藤 でも、ベアテさんが12歳の時にお母さんから「自分も実は最初の結婚がそうだった」という話を聞かされ時というのは、どういう受け止め方をされたんですか? それは“自分自身”のことでもありますよね?

ベアテ それは本当に上手く言えない。多分、ショックだったと思います、すごく。だって、私は「離婚」という概念を知らなかったですから。日本では、そのことについて友達は誰も話してなかったですからね。

伊藤 当時の日本ではそうかもしれませんね。

ベアテ だから、私あんまりよく分からなかったと思います。

渡辺 当時の日本で、離婚をする人っていたんですか?

ベアテ もちろん。

渡辺 いたけれども、男性が…?

ベアテ 男性が決めたら離婚することができる。女性からはそれをできない。

渡辺 受け入れるしかないってことですか!

ベアテ もちろん。だからそれがまた大変だった。

渡辺 大変ですね、それは。

ベアテ でも、私が当時そんなにそのことを考えられたかどうかは分かりません。覚えているのは、ママがそれを汽車の中で私に話をしたということ。13日間乗っていた汽車の中で。

渡辺 ソビエト経由で行ったんですか?

ベアテ シベリア鉄道、あれで行ったの。多分ママの方が大変だったんじゃないかしら? 私にそれを言うのは。私は本当に人として「Innocent(純粋)」だったから。いろんなことを知らなかったんです。全然知らなかった。例えば、私は“あのこと”を知らなかった。「ホモセクシュアリティ(同性愛)」。17歳までその存在を知らなかったんです。今のアメリカなら、赤ちゃんでも知ってるわね。だから、離婚のこともあまりよく分からなかったと思います。けれど、他の国から来てみると「日本女性が圧迫されている」ということは、自分の目で見て知ることができます。日本人にとってはそうじゃなかったかもしれませんが。

伊藤 日本にずっといる人は分からないけれども、外から来ると気づくってことですよね?

ベアテ そうです。外から来ると、それはとても目立つ。いろんな場面で気づきます。例えば、「パーティー」なんかに出てこないんです。奥さんがあまり会話しないんですよ。

伊藤 出てこない?

ベアテ パーティーなどの外出をしないんです。男性だけで来る。私は奥さんのことをよく知っているのに、旦那さんだけが来るの、私の家へ。「なぜですか?」って聞いてみたら、家からあまり外に出ない習慣ってことでした。

伊藤 なるほど。しかし、ベアテさんは海外生活との比較ができるわけですけど、例えばさっき話していた美代さんとかと台所で話している時などに、日本人の女性自身もその状況を「変えたい!」っていう気持ちを持っているという印象を受けましたか?

ベアテ そりゃもちろん。だって、日本ではすでに1885年頃から「選挙」に関する女性運動がありましたでしょ? だから日本には歴史がありますよ。あなた達は知らないかもしれないけど、とてもいろんな女性の運動家がいて、例えば「市川房枝先生」みたいな方達も出てきたんですよ。だからもう、そういう土台があったんでしょうね。

伊藤 なるほど。

ベアテ そういう女性達はすごく苦労して、いろんな活動をしたんですよ。ストライキみたいなことをやって、監獄にも行って。だから、例えば美代さんみたいな人達も、あの人は生まれてからずっとエネルギーに溢れていて、自分で何でもしたい人だったんです。そしてできなかった。私のママがいつも言ってたのは「美代さんがちゃんと教育を受ける機会があったら、頭がとっても良いから“皇后”にだってなれたでしょう」って。それほど美代さんは聡明な人だったんです。何でも自分の力でできる。でも、夫のことはあまり好きじゃなかった。尊敬できなかったみたいです。

渡辺 美代さんは18歳ですでに結婚なさってたんですか?

ベアテ 年齢のことはちゃんと覚えてないですけど、美代さんの夫のことはよく覚えています。子供も2人いました。美代さんも、自分の意志とか関係なくその人と結婚しなければならなかったと言っていました。

伊藤 ベアテさんの本にも書いてありますけど、『密室の9日間』と呼ばれていた憲法草案を作成していた時に、「自分がちょっとでも大事な条文を見落としていたら、日本の女性の未来が変わってしまう」と言って必死に勉強して条文を書きましたよね? あの時というのは、やっぱりベアテさんの中では身近だった美代さんとか、そういう人達の顔が頭の中に浮かんでいたということでしょうか?

ベアテ もちろん。お友達の環境というのが、私にすごく大きい印象を与えたから。私は「フェミニズム」という考え方を当時は知らなかった。7歳とか8歳でしたから。フェミニズムについて理解し始めたのは、それはアメリカの大学に行った時です。そして、雑誌の『タイム誌』で仕事をやり始めてみて、アメリカでも差別があることを学んで。16歳頃くらいから少しずつ理解をし始めました。

伊藤 なるほど。

ベアテ アメリカの女性だってね、そんなにいろんな自由はなかったんですよ。でも戦争が始まった時に、男性が戦争をしているから、女性が男性の仕事を全部代わりにやらなければならなかった。だから、工場に入って、オフィスに入って。戦争の時にいろんな分野に入って、いろんな仕事をやっていました。私の大学の時は、フェミニズムについてのいろんな講演がありました。学長がこういうことを言ったんですよ。「女性が大学行くのは、未来の旦那さんを探しに行くんです」って。そういうジョークが随分あったんです。

伊藤 アメリカで?

ベアテ そう、アメリカで。私は女子大だったから、男性はいなかった。でも、カリフォルニア大学はすぐ近くだったから、そこにいろんなクラブがあったの。「フラタニティ」って分かります? 何て日本語で言うんでしょう、「男子社交クラブ」みたいなのがあって。それで、私の友達の誰か一人がフラタニティの男性に会ったみたいで、そのお嬢さんがフラタニティのお友達に電話して「二週間後にパーティーをするから、男性50人連れて来て下さい」って頼んだんです。私は何だかとっても嫌だった。その50人が来て、こう立ってて…

渡辺 うわ、それは嫌ですね。

ベアテ 私達がこう向かい合わせに立ってね。そして、その男性達が女性を選ぶんです。だから、ちょっと何だか牛みたいね(笑)。

伊藤 確かにマーケットみたいですね。

ベアテ そう、マーケットみたいなかたちで。学長が本に書いていましたが、「あなた達は大学にいて教育があるのだから、それを今度は使わなければいけない。あなた達も、男性と同じようにキャリアを持つことはとても良いことだ」って。そういう考え方が、ミルズカレッジにはありました。

伊藤 なるほど、よく分かりました。

ベアテ もう一つ私が言いたいのは、私はいろんな政府機関に務めていたんです。そういうオフィスには、もちろんたくさんのインテリの女性達がいました。その人達の中には、ヨーロッパから来た人も数多くいました。その人達の中では、私は一番若かったんです。私は15歳半の時にカレッジを卒業しましたから。アメリカではとても早い方です。大体18歳で卒業しますが、私は15歳半だったから約2年半前倒して卒業したんです。だから、どこへ行っても私は一番若かったから、年上だった人達は私のことを妹みたいに何でも教えてくれました。例えば、私は男性と出かける時に「hand holding」はしなかったの。分かりますか?

渡辺 「手を握らない」って意味ですね。

ベアテ アメリカでは、そういうマナーが頭に入ってない(笑)。一緒に歩く時に、こう手を重ねるのはヨーローッパの若い子はやらなかったんです。

伊藤 意外ですね。

ベアテ 多分、アメリカでは高校生頃からそういうことをやっていました。私は最初ドイツの学校に行っていたんですが、先生がよく「アメリカ人はとてもマナーが悪い」と言っていました。女性は高校でもう口紅をつけて、手もつなぐ。そして、キスも時々するって。「それはすごく悪いことなんですよ」ってドラマチックに私達に教えていたんです。それが私にすごい影響を与えていて。その後、私はアメリカンスクールに行ったんですけど、「あぁ、ドイツ学校で言っていた通りだ。こんなに悪いことをしてる!」って(笑)。
 二年間だけアメリカンスクールに通って、カレッジに行った頃というのは、私はまだそんな感じだったんです。そのカレッジ時代に、ある海軍の方が私をデートに誘いました。その方は海軍で日本の通訳をやっていたみたいで、日本語を習ってたんです。どこで出会ったのかは覚えていませんが、その方がデートの時にね「出かけましょう」と言って、私の手をこうして重ねてきて、私が「Oh, I’m sorry. I can’t do that.(ごめんなさい。それはできないわ)」って言いました。それからしばらくして、もっと親しくなった後に私に「あなたが“手をつなぐ”ことをしないのは、どういう考えからですか?」って聞くんです。「あなたは“手をつなぐ”とそれで子供が生まれるとか考えているんですか?」って。私は「それはちゃんと知ってます」と答えました(笑)。けれど、私は「そういう教育をされたから、ちゃんとフィアンセになるまで、結婚するまでそういうことはできません」って言ったんです。そしたらその人は「私はあなたと結婚したいんですよ」って。でも「まだ私は17歳だから、もちろん結婚のことは考えていません。だから私とデートしたくなければ、どうぞ他の人と」って言いました。もちろん、そうならなかったですけどね。でも、とても良い方で、今はプリンストン大学のプロフェッサー(大学教授)になりました(笑)。

渡辺 ばれちゃいましたね(笑)。

ベアテ あぁ、楽しい。でも、私があなた達にこの話をしているのは、私のキャラクターからそういう考え方が生まれているから。本当にとても真面目だったから。

伊藤 はい。「女性の権利」にリンクする話なので、気にせず話を続けてください。

ベアテ そう? でも、「ホモセクシャル」のことを何も知らなかったって話については、あなたはそれほど興味がないでしょ? ある?

伊藤 お願いします(笑)。

ベアテ そうですか。その話は、日本で私みたいに育ったお友達がいて、私より一歳年上だったか、その人友達はアメリカに誰か家族がいて、その方も一緒にミルズカレッジへ通うことになって、後にカリフォルニア大学へ行きました。そのお友達がある時に「私、昨日知り合いになった人がいて、その人のお友達と一緒にダブルデートに行きましょう」って誘ってくれたんです。その男性はヨーロッパから来た人で、私は喜んで行きました。デートの日は、私が自動車の後部座席で、お友達が助手席に座って。私と隣になった男性から「どこから来たの?」って尋ねられたので、「日本から」と自己紹介をしました。それから、「どういう習いごとをしていましたか?」って聞かれて。私はダンスが好きだったから、ドイツ学校とアメリカ学校で随分ダンスを習いました。私の先生はとっても良い先生だったんです。私達に「バレエ」と、あの時は「モダンダンス」じゃなくて、何って言ったか…?

渡辺 フォークダンスですか?

ベアテ ドイツから来たダンスが流行ってたの。What did they call it ?(何て言うだったっけ?)。とにかく、モダンダンスみたいなのを教えていて。それで、その先生がスタジオのすぐ近くに自分のリビングルームとダイニングルームを作っていて、自分の新しい内装を見せたかったんでしょうね。ちょうど私がそのデートに行く前に見に行っていたんです。私がとっても面白かったのは、内装がみんなピンク色だったの(笑)。それでそのデートの時に「ね、変なテイストですよね? 全部ピンク色の物だけなんて」って話をしてしまったんです。そしたら、前の助手席に座っている私のお友達が私のことをこう見てね「ふーん」って怒っている顔で。私はとっさに「あ、こんな話を私がするのは、私がその先生を尊敬していないからって思われているのかな?」と思ったんです。彼女は、悪口を言うことは品が悪いことだから言わないのです。だから「でも私、その先生のことがすごく好きで、すごく尊敬している方なんですよ」ってその男性に言ったんです。そうしたら、自動車が止まって車から出た時にお友達が「あなたはなぜ、最初のデート中に“ホモセクシャル”のことを話すの!?」って。それで私が「ホモセクシュアルって何? 聞いたことないんだけど」って。

伊藤 その時に初めて知ったんですか?

ベアテ そう、お友達に化粧室に連れていかれて。私はそのことを教えてもらって、もうびっくりして(笑)。私は本当にそういうピュアな人みたいな考え方だったんです。それは“生い立ち”がそうだったから。私は、16か17歳まで聞いたことがなかった。面白いのは、私のお父さんとお母さんは、私が「ホモセクシャル」って言葉を知らないことを知っていました。でも、私に話す理由が別にないと思ったから何も言わなかったみたいです。

伊藤 それはまあ、そうでしょうね(笑)。

ベアテ ある時、日本からママとパパがサンフランシスコへ遊びに来ました。一緒に来た方もいて、その人はウィーン出身のバイオリニストで、日本で教えている方でした。その人が「ホモセクシャル」だったんです。アメリカに着いてから、その人の為にどこか面白い所に行こうとなって。サンフランシスコにはいろんなお店があったから。一つは『フィノキオ』っていう有名なキャバレーがあったんです。パパとママは私を一人でホテルに置いて行くのが嫌だったみたいで。だって、ミルズカレッジはちょっとサンフランシスコから離れていましたから、私も一緒にサンフランシスコのホテルにいたんです。『フィノキオ』というキャバレーは、「Transvestites(異性装嗜好)」の場所で、男性が女性になって、女性が男性になるキャバレーだったんです。私はすごく喜んで。あの人達はとっても上手だったんですよ。コスチュームも良かった。みんな男性だったんですけどね、私は構わなかった。男でも女でも。でも、私は聞いたことのない言葉だった。誰も私に「Transvestites」について教えてはくれなかった。
 次の日ミルズカレッジに帰って、ランチをしている時に、一人のお友達が「週末は何してたの?」って聞くから、「とっても面白い所に行ったわ。『フィノキオ』っていうお店に行ったの」って答えたら、みんなが黙るの(笑)。何にも言わないで私を見る。それは有名な所だったんですね。でも、友達もその場所のことは知ってるけど、行ったことは多分ない。私は分からなかったから「何で行かないの?」って。後で、「ホモセクシャル」について教えてくれたお友達にまた聞きました。
 こうやって、私は自分よりも年上の人達にいろいろなことを教えてもらったんです。ニューヨークへ行ってからも、「政治」のことや「デモクラシー」のことを上の人達が随分教えてくれました。特にそういう女性達は、割合にみんな進歩的でした。一人は南アフリカから来た人で。その人は南アフリカから逃げてきてたの。黒人じゃなく白人だったんだけど、「アパルトヘイトは認められない」と言って自分から逃げてきちゃった。自分の家族からも。お父さんとお母さんはドイツ系のイギリス人。彼女が私にいろんなことを話してくれました。「女性は権利がない!」とか特別にそういう話をするわけではないんです。とてもナチュアルに。例えば、『タイム誌』で働いているオフィスで「あなた見た? 見てご覧なさい。男性はみんなライターで、女性はみんなリサーチだけ。あなたはそれで良いと思う?」って私に聞くんです。私はもちろん「それは良くない」って答えます。そしたら「なぜ? 変でしょ」と言って。そしたら別のお友達が「この事務所で説明すると、会社は女性だからあまりお金を払いたくない。女性だから記事を書くのは許されない。ここには150から200人ほど働いてるけど、女性として本当に権力を持っている人がどれだけいると思う?」って聞いてきました。「分かりません」って答えると、「ここにはね、女性で権力をもっている人は二人だけ。後はみんな男性。だからこれは男性の世界なのよ」って。こういうことは、私が頼んだから教えてくれたことじゃなく、いろんなそういう…

伊藤 そういう出会いが積み重なってということですね。

ベアテ 私が特に運が良かったと思うのは、出会った人達が本当にインテリの女性達だったんです。とっても面白い人達で。世界中のことを良く知っていた人達。あの当時は、女性が自分一人で旅行するなんてことはしなかった。あなた達の時代のことは忘れて下さいね。今とは随分違うんです。今はこういう話をしても全然現実味がないでしょ? みんな自分で選んでどこかに行くことができるでしょ? でもその当時は全然そういう状況じゃなかった。

伊藤 アメリカでさえそうだったんですね。考えたことがなかったです。

ベアテ アメリカは民主主義国家であるのに、そういう国でも平等が実現できていないっていうことがよく分かりました。そして、戦後にもまだこういういろんな差別がありましたね。でも仕事のことはね、私には心配だったんです。どういう風にすればちゃんと仕事を…。だって、私はその時まで、リサーチが悪いとは言いたくないですよ。でもその前にやっていた仕事は、誰も日本語が分からないから、もちろん給料も良かったんです。

伊藤 ラジオの仕事のことですね。

ベアテ 私のこういう考え方というのは、いろいろな人達の影響から自然に来てるんです。あまり書籍じゃない。随分本も読みましたけど、そういう類の本は、フェミニストの本とかは読まなかった。

伊藤 実際に出会った人や経験からアイデンティティーが形成されたと。

ベアテ そう、全部そういう人達から。I am a people’s person。私は人が好きなんですね。だからいつでも人間に興味があります。本を読むのも好きですけど、人に聞くんです。私の頭に入っているいろんな知識は、他の人に聞いたことです。運が良かったのは、とっても支えてくれる人達に出会うことができたこと。例えば、私がミルズカレッジに行った時に、16歳で若かったでしょ? だから、ある音楽の先生は、私がパパとママから離ればなれで可哀相と思って、いろいろと気遣ってくれました。その先生はとても有名な作曲家で、あなた達は聞いた事あるかもしれませんが、フランスの「Darius Milhaud」という近代作曲家です。その方が作曲を教えてくれていて、キャンパス内に先生達の家があったんです。先生の子供が男の子一人だけいて「子供のベビーシッターをしてくれたら家にいてもいいですよ」って。お食事も全部奥さんが作るから。奥さんは女優でした。フランスの女優さん。そこで私はすごく良いフランス語を学びました。だから私のフランス語を聞くと、みんな私がフランス人だと思うみたいです。そこにいたからです。その奥さんは女優だったので、とても進歩的な人で、自分のキャリアとかそういうことを考えている人だった。ちゃんとキャリアもあって「ディザーズ」だったの。「ディザーズ」っていうのは、自分でモノローグをやる人のこと。自分の夫がそのモノローグの為に、音楽あるいは詩を書いて、その音楽が奥さんの伴奏になる。夫と奥さんのそういう協力作業はとても自然で。だから、日本にはそういう環境がないってことが改めてよく私分かりました。そういう気づきの一つひとつが、私にとても大きい印象を残していったんです。

伊藤 本当にベアテさんは出会った人たちから学んだんですね。

ベアテ その家には、その当時に一番有名だったいろんな音楽家が会いに来ていて。私は本当に恵まれてました。あなたも「ストラビンスキー」はご存知でしょう?

伊藤 はい。

ベアテ ストラビンスキーさんともそこで出会いました。ストラビンスキーは私のパパのこともよく知っていました。その家でランチをしていた時に、サインブックを渡したんです。そしたら、あの人は普通のサインじゃない、何か変わったサインをしたんです。それで私は「Mr. Stravinsky, I want your real signature.(ストラビンスキーさん、本当のサインをして下さい)」と言ったら、「Why?」といって今度はロシア語で書き始めたので、私は「No, I want you to sign it the way you sign when you sign for people, in a hall.(コンサートホールで観客にサインをあげる時と同じサインを下さい!)」って頼みました(笑)。最後にはちゃんと書いてくれましたけど。他にもね、「アンドレ・モロア」って聞いたことありますか? とても有名な小説家だったんですけど、アンドレ・モロアはパリ在住のフランス人で。その方の場合は、私にとても関心を持ってくれて、私のサインブックに「Beate」だけじゃなく「A mon collègue」って書いてくれました。「collègue」というのは「To My Colleague(同僚へ)」って意味で、当時その方は50代か60代だったけれど、私を同じ立場で接してくれたんです。そういうものは今でもちゃんと取ってあります。写真に撮りますか?(笑)

渡辺 しかしすごい資料ですよね、本当に。

ベアテ 私はそういうトップのインテリの方達に出会う機会に本当に恵まれていました。私の大学の専攻は仏文学だったので、文豪の人にも会いましたけど、ピアニスト、モデル、指揮者、音楽、文学、どういう方面においても本当にいろんな人達と。マダム・ミヨーの家族はとても広い範囲で交流を持っていた方だったからこそ、私はそういう人達と会うことできたのです。彼らにとって私は16や17歳で大人じゃなかったけれど、「日本から来た」ということでエキゾチックな存在でした。「日本」のお陰で、みんなが私に興味を持っていたんです。
 他にも思い出しました。マダム・ミヨーがサンフランシスコに呼ばれて、コマーシャルシアター(営利目的劇場)でフランスの『Moliere』をやることになった時のこと。『Moliere』ってご存知ですか?

渡辺 『モリエール』ですね。

ベアテ そう、『モリエール』の劇をやることになって。そして、「誰かフランス語が上手な若い人知ってますか?」って聞かれたらしく、「ええ、ベアテって子がいるわ」って言ってくれたんです。私のフランス語が上手だったから。私はミルズカレッジで「フランスクラブ」を作っていて、そこでフランス語を話したり、いろんなことをやっていたの。マダム・ミヨーの生徒にもなって、ただで教えてもらっていたんですよ。一人か二人上手な人がいて、私もその一人だった。だから私をその劇団に推薦してくれたんです。そこで、私は本当の舞台に出演しました。18歳の時だったかしら。自分で舞台に立って演技をすることに、私はすごい喜びを覚えました。なぜなら、ママがいつも私に「自分は女優になりたかった。でも、自分の父がそれは許さなかった」って言っていたからです。昔のヨーロッパでは、「女優」は良い職業だと思われていなかった。何と言えばいいか、ちょっと「Prostitute(売春婦)」みたいな、あの当時はそういう感覚だったんです。でも、マダム・ミヨーにはもちろんそういう感覚は全然なくて。大学もそういう考えでないことを私は知っていましたから。フランスは割合に進歩的だったんですね。少なくてもオーストリアより。

伊藤 なるほど。ベアテさんが、どうしてあそこまで「女性の権利」を憲法に書こうと思ったのか、その根源が少し分かったような気がします。

 
 
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