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カルトと宗教

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2015年11月20日(金)23時12分36秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://ehouma.web.fc2.com/htm/bk_corr.htm

関連記事:不思議なシンボル

http://www.h3.dion.ne.jp/~pbwzwdq/jw/jw_kaiyaku/

信じる者は救われないで検索すると......

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%90M%82%B6%82%E9%8E%D2%82%CD%8B%7E%82%ED%82%EA%82%C8%82%A2&inside=1&x=0&y=0

テンプル騎士団とマルタ騎士団

http://megalodon.jp/2009-0318-0301-56/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/296.html

カルトか宗教か
 竹下 節子/著
 出版元:文藝春秋 1999年

 本書が書かれたきっかけは、日本在住のフランス人の神父さんが、著者に、書くように勧めたことだそうです。
 そのフランス人の神父さんは、日本人が、オウム真理教事件で一時的に大さわぎするも、しばらく経つと、もうあんまり話題にしなくなる、問題意識の低さを、心配しておられたそうです。

 ヨーロッパ、とくにフランスは、カルト対策が進んでいる国です。
 フランス革命による「人権」の確立、および長期にわたるカトリックとプロテスタントの緊張など、歴史のなかでつちかってきたノウハウがあるからです。

 本書は、フランスの対処法を参考にしつつ、カルトと宗教の見分け方や、カルトが育つ土壌について、またカルトがどんな問題を引き起こすか、どう対策すべきか、考えていくものです。

 ※ 以下の紹介文・要約は、私が本書を読んで、自分なりにまとめたものですから、私というフィルタを通して情報の伝達に齟齬が生じる恐れがあります。関心をもたれたのなら、ぜひ、本書を、ご自分でお読みください。

カルトとは

 まず、はじめの方はまるっと引用してみましょう。
 もともと「カルト」という語は定義がむずかしく、人によってまちまちみたいなところがあるので、著者がどのように考えているのか、参考にさせていただきたい。

 この本の中でカルトというのは、ある特殊な人間や考え方を排他的に信奉する動きを指しているので、フランス語のセクトにあたるだろう。その特徴は、排他、独善、覇権主義、内輪主義、非公開主義などだ。グループ内には一定の典礼、修行、約束事があり、カリスマ的なリーダーがいて全体主義的な傾向もある。
 個人で何かに過度にこだわれば、「おたく」とか「マニア」ということになって、それが社会生活に支障を起こせばやはり病理の域に達することもあるけれど、カルトとはいえない。カルトとは数名以上のグループの動き方の一つを指すもので、集団で閉鎖に向かい、その中の個人は健全な識別能力や批判能力を失っている。

 だからカルトとは必ずしも、「宗教」とは限らない。

 そもそも人間がグループを組んで、外界との接触を断ったり、外部に発することのできる社会的な課題を与えられないでいると、新陳代謝を失って、カルトに向かう傾向がある。「新陳代謝を失う」と書いたが、人間のグループは本来有機的、生命的なものだから、文字通り、新陳代謝というエネルギーの交換を必要とする。生命体と同じように、境界を完全に閉じてしまうと、死に向かうのだ。
 閉鎖されたグループは、カリスマ的なリーダーを作り出して依存するか、外部に仮想敵を作り出して攻撃に向かうか、内部でカップルを作って安定するかなどとのグループ反応を示す。
 このように閉鎖され、開かれた「生命原理」に反するグループは、一部のリーダーによって権力や金の獲得のために利用されることがある。それがカルト・ムーブメントで、宗教カルトはそのひとつの形にすぎない。
 (略)
 カルト・グループのほんとうの問題点は、いったん帰属してしまうと「現実吟味力」が低下してしまうところにある。

 グループとは、有機的な生命体みたいなものだ、という指摘はもっともですね。
 ですから、「健全な団体」がいつの間にか「カルト」に変化することもあり得ますし、そのぎゃくも然りです。

 また、カルトに取り込まれていると「現実吟味力」が低下してしまう、というのも言い得て妙だなと思いました。

 フランスの反カルト協会では、「テーマ別」「規模別」「組織のタイプ別」「リスク別」など、いろいろな分類の試みが行なわれていますが、

 どのようにクラス分けするにしても、カルトがカルトたる理由は、その教義(宗教カルトであるなしにかかわらず)そのものにあるわけではない。勧誘方法、編成方法、外部からの隔離、脱出の困難さなどにある。
 カルト・グループは、自分たちのみが真実、進歩、絶対のモデルを体現していると前提している。だから自分たちの教えに合わない現実はすべてあやしいもので、否定すべきものだとなってしまう。外部の社会に対して非寛容であり、外部からの包囲、弾圧、迫害されているとの感覚を好んで育てることもある。
 カルトでは、メンバーがグループに加入する前に属していた世界と距離を置き、または縁を切るように要求される。家族、友人も例外ではない。このためにメンバーを外国に長期派遣して家族たちから隔離することもある。リーダーは、選挙などによって選ばれるわけではなく、リーダー自らが名乗りを挙げ、幹部や候補者も自分で決定する。リーダーや幹部への忠誠と服従は絶対的で、この忠誠自体がカルトの主要モラルと価値観になっている。メンバーは自由意志に基づく行動を失う。
 また、グループを離れるのは一般に難しい。リーダーのカリスマ性、グループの圧力、メンバーに対する心理操作、たたきこまれたイデオロギーなどのせいばかりではない。外界と隔離されていたための現実恐怖や不適応もあるし、それまでに費やした時間と金と労働を惜しむ気持も働くからだ。

カルトの育つ土壌

 現代では、メディアによって、世界中からネガティヴなニュースががんがん飛び込んできます。
 家庭崩壊、不況、犯罪、環境汚染、戦争などなど……。
 われわれ無力な個人は、「問題がありすぎて、とても解決できない」という無力感や、暗いきもちに襲われます。
 すがりつけるような、伝統宗教や、伝統的な価値観は、すっかり衰退してしまいました。

 ここにカルトが付け込む隙ができます。
 カルトは、確信的に「答え」を提供してきます。

 メンバーは最初は誘惑されるが、結局は自分の意思でカルトを選択するのだ。カルトが人を無理やり回心させるわけではない。人がすでに持っている自己変革のモティヴェーションや、現実拒否の欲求や、憧れや理想を利用してうまく取り入るだけだ。
 メンバー候補はカルトに出会ったとき、幸福感を覚え、充実して、高揚する。それまでもっていたすべての疑問に解決が与えられたからだ。彼らは進んで、カルトの網の中へ入っていく。

 例としてあげると、一世信者であるところのうちの母親も、エホバの証人と出会った時、「見つけた!!」という感覚を覚えた、と回顧していましたね。
 もっとも、「幸福感」はなく、ひたすらに、終わりがくる前に真理をふれ告げねばならない、という責任感と義務感に押し潰されそうで、苦しいばかりの二十余年だったと申しますが、まあ、「進んで、カルトの網の中へ入っていく」という表現のとおりです。

 さて、カルトの表看板は、UFOからエコロジーから健康まで、ほんとうに多種多様ですが、やはりいちばん多いのが宗教です。

 もともと人間は非合理的な情動をかかえている。恋愛したり怒った時にはもちろん、ちょっとしたお守りや小さなジンクスなど、多くの人が、科学的信念と抵触させないまま、部分的な非合理を生きている。

 これはまったくそのとおりですよね。
 人間は、恋愛とか占いとかUFOとか怪談話みたいな、ロマンティックなものに惹かれます。
 そういったものと、科学的信念は、基本的には対立するはずなのですが、今日、個々人がもつ科学的信念は、テクノロジーの発達に反比例して、案外ぐらついています。

 合理主義科学主義が高度に発達した時代とはいえ、普通の人にはテクノロジーの実質はミステリーだ。テレビやパソコンがどういう仕組みで動くのかをまったく知らずに使っている人は限りなく多い。テクニックが普通の人に理解できる等身大のものではなくなってしまったから、日常のテクノロジー環境への無意識の不安が積もる。だからかえってシンボリックで呪術的なレベルの説明でも歓迎されるのだ。科学が等身大でないから、結果的に非合理の占める場所が多くなる。
 一見情報があふれているので、個人では解析し選択することができない不能感におそわれるし、未来への不安が大きくなるので何かにすがりたくなることもある。

 そこで、オカルトやエゾテリズムや神秘主義がはびこる余地ができてくる、と。

神秘体験の真偽

 オカルトや神秘体験というのは、多くの場合、客観的には検証できないので、厄介なものですよね。
 「神が組織を導いておられるのだ」といわれても、その真偽をハッキリできる証拠は提出できません。
 たとえばオウム真理教信者も、瞑想中、ほんとうになにか体験があったので、入信してしまった、というケースが多いようです。

 このへんの真偽の見分け方は、神秘的な仏教の本場である、チベットに学べるものがあります。

 チベット仏教の主流派ではラマ(指導者)の教えは絶対だが、最初の十年は弟子がラマを取り替える権利がある。「真理の獲得」や「覚醒」などというものは一朝一夕に成るものではない。たとえ師が「真理」を掌握していたとしても、師弟のコミュニケーションの質によっては、方法の伝授が不可能なこともある。師は神ではない。人間同士は、じっくり観察しあい、よい関係を育てながらようやく何かに到達できる。
 また同じチベット仏教の主流派であるゲールク派の僧に課せられる「四つの大戒律」には、人を殺さぬこと、盗まぬこと、性関係をもたぬことと並んで次のようなものがある。それは、覚醒して仏陀になったとか、仏陀の姿を見たとか、慈悲や愛や智恵などの霊的徳を成就したとかを自分で口にしてはならないということだ。僧がこの戒を破ると、殺しや盗みの破戒と同じくすぐさま破門されてしまう。
 自賛に対するこの厳しさに比べると、自分が仏陀の生まれ変わりだとか成就者だとか解脱者だとか堂々と自称するカルト宗教の「尊師」たちは、それだけでどこかいかがわしい気がする。
 最初から一人の師を、けっして間違うことのない神のように崇めて絶対服従を求めるようなシステムには、だからくれぐれも注意しよう。

 これは、かなりうまく考えられている気がします。
 「弟子が師を自由に変えられる」、「自分で自分をホンモノだと称したらそれだけで破門」、これなら、ニセ指導者に人生を振り回される危険は最小限に減りそうです。

 じゃあ、エホバの証人の、神に選別された「14万4千人」の一員であるという自己申告なんて、もう即アウトですよね。
 もっともエホバの証人の場合、「一人の師」ではなく、「統治体というグループによる統治」であり、その彼らとて、「不完全な人間なのでまちがえることもあるし、神の霊感を受けているわけでもない」と先回りして認めている、ちょっとひねった教義になっているわけですが……。
 しかし、けっきょくのところ「組織全体として神の導きを受けている(そのトップは統治体である)」ので、「統治体の決定に背いたら追放処分」という、絶対服従を強いているわけで。
 チベット流の戒律なら、統治体はニセ指導者としてすぐさま破門されるべきかも知れません。

 たぶん、すぐれた宗教家って、黙ってても周りがそれとわかるのじゃないかという気がします。
 なんかよくわからないけど、あのひとはホンモノだと。なにかがちがうと。
 ぎゃくに、ニセモノほど、自分から威張ったり、権力をかさに着たり、周りに認めさせようと躍起になるのではないでしょうか。

悪魔(=カルト)の誘惑

 以下は、1955年の宗教テロリズムを受けて、上智大学神学部長にして、イエズス会の百瀬神父が行なった講演に基づく話だそうです。
 福音書に描かれる、イエスが悪魔に受けた誘惑を、まっとうな宗教が、カルト化しようとする誘惑である、と解釈する、とても面白いものです。

 悪魔は、まず、空腹のイエスに、「石をパンに変えなさい」と誘惑しました。
 つぎには、宮の頂上に連れて行き、「ここから飛び降りてごらんなさい、天使が助けてくれるから」と言いました。
 三番目にして最後の誘惑は、「ただいちど私を拝むなら、世界中の栄華はあなたのものです」と言いました。

 この三つは、それぞれカルトによる「現世利益」の誘惑、「超能力」の誘惑、「偶像崇拝」への誘惑を表している。イエスの答えは、人は自分の力のみで自己実現を図ってはならないし、富、知恵、自己実現を、礼拝すべき偶像にしてはならないということだ。人が人生の中でもっとも大切にしているいろいろなことでも、それを偶像にしてしまうと、そもそもその「人生」を反対側から成り立たせている「死」を拒否することにつながる。それでは「死」をも含めた人生を全的に受け入れることにはならない。
 キリスト教ではさらに、人はたとえ自分の力や意思や知恵はなくなっても、ただ神の御旨にしたがって礼拝せよという。神の前で永遠に価値があるのは「愛」だけなのだ。また、聖書は「偽預言者」を見分けるには、木の善し悪しをその実で見分けるように、その言葉のもたらす実りによって見分けよと言っている。

 福音書が書かれた時代には、すでに、早くも、いくつか「邪教」がはびこっていたので、正統な教えを見分けるための知恵が収められているのです。

マインド・コントロールをめぐって

 フランスでは、カルトがおこなうマインド・コントロールについても緒論あり、大ざっぱに言って、肯定派と否定派がいるようです。

 肯定派の意見としては、
 精神科医のアブグラル博士はフランス政府のセクト監視委員会のメンバーで破棄院(最高裁)の公認鑑定医だが、「マインド・コントロール」の概念を刑法に取り入れることを提唱している。被害者によるカルト訴訟を援助する民間団体はもちろんこれを支持する。イタリアではすでに刑法にPLAGIO(感化罪)が取り入れられている。
 かれらは、マインド・コントロールは、家庭や学校で行なわれる教育でも、商品のCMでも、政治でも、どこでも見られるものだと認めます。
 それは「接近、誘惑」→「説得」→「強制」の三段階を踏んで実施されます。
 ただ、カルトは、この手法を悪用するので、問題なのです。

 否定派は、おもに宗教社会学者のグループや、リヨン第二大学心理病理学教授のシュヴィエらです。
 かれらは、カルト信者とて、けっきょく本人の自由な意思で、入信したのであり、「絶対に逃れられないマインド・コントロール」なんて存在しないので、自己責任に帰すべきである、と主張します。
 むしろ、あるグループに「カルト」のレッテルを貼ることで、誹謗中傷や攻撃、差別の口実にしてしまう危険があるかも知れません。

 否定派に対する、マインド・コントロール肯定派側の反論は、「かれらは、じっさいに被害が生じている実態から目を背け、問題を矮小化している」というものです。

 けっきょくのところ、「安全なグループ」と「カルト」を、絶対確実に見分けることは、政府機関にも学者にもできません。

 個人の「自由な選択」の尊重と、カルトによる危険の予防の危険性との間には、綱渡りのような部分がある。

 そんななかで、少なくとも、確実に取り組んでいける課題は、人々が自分で判断する能力を養うことです。

 最新のデータを提供し、人権蹂躙、詐欺などの前科のある要注意グループについて警報を発し、「マインド・コントロール」を含む手管について実態を知らせ、多様性の現代に生きる人々の批判力や判断力を養う機会を提供しなくてはならない。
 同時に、悪意のマインド・ビジネスがはびこって成功するのは、今の普通の社会システムの中に、精神的なフォローや、理想のイメージや、人生の意味付けがいかに欠けているかということでもある。教育者や伝統宗教に携わる人間は、カルト・グループに替わる魅力的で確固とした救いや癒しのモデルを提供するよう模索するべきだろう。
 同時に、人間はたとえ本物の宗教者であっても、たえず迷い悩み考え抜く存在であって、自己開発や普遍的な救済手段や全能の判断者などはお手軽なファーストフードのように提供されるものではない、という認識も徹底させたいものだ。

 また、ニセモノの団体のかかげる理想や教義は、しばしば既存のテキストからのつぎはぎですので、若い人が、宗教や哲学の古典に触れる機会をもっと増やすべきです。
 そうすれば、カルトを相対化する見方がつちかわれるでしょう。

 普通の人間の普通の幸福をささえるような教えに、そんなに革命的なものは出るはずがない。形は違っても、何千年もの間、古代から宗教者が考えつくしているのだ。そして、その他多くの民衆の智恵というものも伝承されている。それなのに、現代社会は情報は一見多いけれど、一人一人の視野狭窄は逆に進んでいる。

 フランスでは、中等教育の段階で哲学を必修としており、「唯一の答えなどない問題」を前に、自分で徹底して考え抜く姿勢を訓練しているそうです。

具体的な見分け方

 フランスの反カルト・グループで、もっとも中心的なのは、ロジェ・イコール・センターです。
 作家のロジェ・イコール(1986年没)が、息子の命をカルトに奪われたことを契機に、1981年(奇しくも私の生まれた年です)に創立しました。
 彼は、「どんなに奇妙で常軌を逸した信仰でも、存在する権利がある。この原則に反することは、我々が全存在をかけて守るべき自由を大きく侵害することになる。これに対して、悪意を持った行為には断固として対応しなくてはならない。それは時として、全体主義的な企みだからだ。それらと戦うことは、人類の自由と尊厳のために戦うことである」と述べています。

 具体的な見分け方として、以下のようなチェック項目があげられています。

<勧誘>
 勧誘の仕方に執拗さはなかったか? 何が勧誘の謳い文句だったか? その約束は果たされたか?

<規範>
 グループの規範となっているものは何か? 絶対に正しいとされるリーダーか、彼によって書かれたテキストか、その両方か? グループの教えの中に、今の一般科学的知識から見て極端に異なったものがないか?
 グループの中で、現代世界の推移を全体として弾劾しているか? それは一般的な批判か特徴的なものか? グループ以外の世界の考え方や生活様式をすべて否定しているか? メンバーは自らを選ばれた人間だと見なしているか? グループの中でしか通用しない特殊な語彙を多く持っているか?(特殊語彙は、グループの団結を強めるだけではなく、外界とグループを客観的に比較したり、外界からの批判や研究を参照したりできなくする役割も果たす。一般学問の体系の中にも組み込めない)

<メンバーの操作や利用の仕方>
 どのくらいの時間をグループ活動に割かねばならないか? 勧誘期間と加入後の、拘束時間の変化はどの程度か? 睡眠時間は? 食事は? 会合への出席義務の間隔は? 特殊な薬や飲料水があるか? 反復される祈りやエクササイズ(肉体的修行)があるか? 幹部はグループが外部から不当に弾圧されていると言っているか? メンバー相互の監視システムがあるか? 作業はすべて二人のチームで行なわれるか? 密告システムはあるか? 他のメンバーのいる公開の場での個人批判があるか?

<グループの幹部機構>
 誰がグループを運営指導しているのか? 一人か選ばれた複数の人間か? 選ばれたとしたら誰によってか? 決定すべき事項についての審議があるか? グループに絶対無条件の忠誠を要求されるか? 運営を批判したり幹部から距離をおいたりしたら、どう扱われるか? 黙殺されるか裏切り行為だとされるか? リーダーたちはどう見なされているか? リーダーたちもメンバーによる批判の対象となり得るか? 絶対忠誠か? 尊敬か礼拝か?

<金銭について>
 メンバーから金を集めているか? それを使うのは誰か? グループの規模が大きい場合、収支が国内レベルで公開されているか? 国際レベルではどうか?

<布教>
 新しい信者の獲得が活動目標に入っているか? グループ外の人間はどうあつかわれているか? グループ外の人間を警戒するか、接触を避けるか、潜在的信者市場と見なしているか? メンバーは、家族や知り合いや他の団体などに教えを浸透させるよう勧められているか?

<孤立>
 家族や友人と縁を切ることを勧められているか? 以前の生活方法について自己反省をせまられるか? 過去の家族生活や愛情生活については? 学習や修行の完成を目指して外国へ出ることを勧められるか?

 以上のチェックによってカルトの特徴がすべて当てはまるようなカルトは、とても少ない。逆に、まったく無害のグループでも、いくつかの点が当てはまることは大いにある。しかし、以上の観察ポイントの多くのものが当てはまるグループに対する場合は、よりいっそうの慎重さが要求される。

 ……さて、エホバの証人は、いくつくらい当てはまるでしょうか?

 原典ではさらに突っ込んで詳細に論じられていますが、容量の都合で泣く泣く割愛します (;_;)

カルトの終末予言

 カルトと、終末予言について。
 このへんは、元エホバの証人にとってとても興味深い箇所だと思います。

 カルトのリーダーにとって、「終末の予言」はメンバーを動かすために、いたって便利な口実だ。第一に予言は予言であって、とりあえずは検証できない。また、終末予言はこの世界を終わらせようという神の意思を知らされていることだから、神の代理人だというステイタスを強調できる。それから、「世界は滅びるけれど、私についてくる者は救われるのだよ」という単純明快なうまい話が続く。人の保身の本能につけこんでいるのだ。さらに、このリーダーにつく集団はエリート集団であり、世界が滅亡した後に残って世界を制覇する、という権力願望も満たされる構図になっている。
 カルトが外部から批判や避難をされていても、終末予言をアレンジすれば、それは世界の終わりの兆候だと言いくるめることができる。どんなに非難されても、それは「義人の迫害」であり、試練であり、やがて来る「終末の日」には正義や真実が明らかになるだろう、と言えばつじつまがあうし、結束はますます固くなる。極端な場合には「最終戦争」に備えて武装するといったカルトもある。
 オウム真理教では、選挙の失敗の後に、教祖が突然「終末のヴィジョン」を見たと言いだして、動物まで連れて信者を石垣島に避難させたことがある。もちろん、知人や縁者を緊急に説得して入信させるように、銀行もつぶれるから預金を下ろしてすべて教団に布施し土地建物も売るように、との指示も出たという。
 その時は結局何も起こらなかったが、グループが危機に直面するたびに、教祖が殺されるといったり、最終戦争が迫っているといったり、「時間がない」「緊急だ」という不安と焦燥を煽ってメンバーの判断力を奪っていたようだ。日を特定しての終末予言は、不安の回路を作り上げるのに有効だ。「緊急」「最終」と言われれば、メンバーは思考停止して群集心理に埋没してしまう。

 と、オウムを実例に、カルトにおける終末予言が果たす役割を考えたあとで、そのままこうつづきます。

 キリスト教系新興宗教の「エホバの証人」も、これまで何度も「終わりの日」を特定してきた。それがことごとく外れても気にとめない。
 たとえば、一九〇三年の文献『ミレニウムの黎明』の中で、「我々はこの世の王国の終わりと神の国の完全な到来が一九一四年に起こることを明らかな事実だと見なす」と言ったが、同じテキストの一九一三年版では「一九一四年以後に起こる」と修正している。また一九一五年版のテキストでは、「神の大いなる日の戦いは一九一四年に終わるだろう」という部分を「一九一五年」に変えた。
 同じ本の一九二〇年版で、「神の言葉に拠って、現在生きている何千人かの人間は決して死ぬことがないと断言できる」と書き、一九二九年には復活したアブラハム、イサク、ヤコブなどを迎えるための家をカリフォルニアに建てさせた。
 ヤンキースタジアムでの集会では「一九一四年から始まる時代は四十年を越えては続かない」と言ったし、一九五五年が来ると「聖書の預言の成就に照らすと、ハルマゲドン戦争が起こる」と言った。一九七六年には、アダムは紀元前四〇二六年に創られたから、人間の最初の六〇〇〇年紀は一九七五年に終わると言い、その一九七五年が来ると、二月のロスアンゼルスの大会で、終末は十一月五日以降に迫っていると熱弁した。
 一九六九年四月の雑誌『めざめよ』の中では、「過去に世界の終わりを予告し正確な日付を定めたものたちがいる……なにも起こらなかった。彼らは偽預言者である」と書いてあるのに、自分たちの予言が外れたことへの釈明はない。
 結局、「終末の日」を特定することは、実際に終末に備えて行動することよりも「恐怖の回路」を成立させるために利用されているのかもしれない。だから、終末予言が外れても、そのせいで予言者に批判的になって離れていくというケースは少ないのだ。
 普通、「悪い予言」が外れたからといって後から文句をいうのは難しい。その上、そもそも最初から信じていない人なら、結果に注目するわけでもないだろう。良識の土俵の上では勝負が成り立たないのだ。

 オウム真理教とエホバの証人を並べられているのもショッキングですが、こうして、客観的な事実として突きつけられると、あらためて、「エホバの証人って傍迷惑な団体だよなぁ…」と情けなくなります。
 新世界訳聖書から二箇所、引用してみましょう。

 『しかし,話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し,あるいは他の神々の名において話す預言者,その預言者は死ななければならない。そして,あなたが心の中で,「エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが,もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない』。(申命記 18章20~22節)

 「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。(マタイ書 7章15~17節)

カトリックとエホバの証人

 さて、カルト的な団体がしばしば、ヒステリックと呼べるほど、終末の恐怖を煽っているのに対して、伝統的なカトリックはどういう態度を取っているかというと……。

 1960年代、第二バチカン公会議では、「終末がいつかはわからないが、神は、すべての者に愛と救いの手を差し伸べておられる」と発表されました。
 なんと、救われる者を、もうカトリック信者に限定しないのです。そして「至福千年」についても、これは「抽象的な数である」とする、無難な態度を取っています。
 個人的には、寛容という反面、ちょっぴり柔弱な印象も受けるのですが、歴史と伝統がある大手ならではの、余裕を感じますね。

 フランスでは、「エホバの証人」は、議会のカルト対策委員会によって「カルト」リストに挙げられている。カルト被害者の支援団体は、エホバの証人の内部で、自分の思考の自由を失ってしまったと訴える証言を集めている。
 これに対して、カトリック教会は、エホバの証人のメンバーが、ナチズムをも果敢に拒否したことや、兵役拒否の信念などに敬意を表している。末端メンバーひとりひとりの勇気と誠実さと滅私の態度にも感嘆する。その上で、彼らが強要する聖書の一方的読み方や検証不可能な固定観念や、内輪主義的で心理操作的な教育メソードなどに対して、拒絶を表明する。しかし、神の子として兄弟であるメンバーは尊重し共感するとしている。
 同じ聖書を奉じる「本家」筋に当たるカトリック教会がこうした立場をはっきりさせて、さまざまな出版物でそれを知らせているのは価値あることだ。政府がやれば「宗教の弾圧」と言われるし、反カルト・グループでは必然的に敵となるが、真理を求めようとする宗教同士で「兄弟」として話し合おうと扉を開けているのは悪いことではない。
 これに対して「エホバの証人」の方は、カトリックを弾劾していて話し合いの余地をもたない。しかし、こういうものは世代間の対立と似ていて、「年寄り」の方が余裕をもてるものだ。自分の立場ははっきりさせて批判すべきところは批判しても、「人生智」を生かして、懐を大きく広げておくというのが、望ましい態度だろう。これが可能になるには、伝統宗教の側に、確信とともに、ある種の柔軟さと学習能力が要求される。

 ということで、新宗教がもっているような情熱はなくとも、年長者の貫禄で、適度な距離感で接しているようですね。
 また、宗教問題をあつかう政府や、民間の機関に対して、オブザーヴァーの役割も果たしているそうです。
 日本では、カトリックって、すごく影が薄いイメージがあるんですが、西欧ではなにげにいい仕事してるみたいですねー。

 原典では、このあと、カトリックとモルモン教の関係についても書かれているのですが、省略します。

家族がカルトに入信したら

 カルトは、人のさまざまな弱さにつけ込みます。
 無料で性格分析や、運勢診断、なんらかの教育を提供したり、不安感をたくみに煽ったり、親しい関係を演出したりして、ターゲットを、少しずつ外界から隔離していきます。

 親しい人間が、急激に性格や、行動パターンが変化したりすると、カルト被害が疑われます。
 ただ、成人には自分の生き方を自由に選ぶ権利がありますし、問題点が、カルトとはべつのところにある可能性もあります。
 判断は、慎重にすべきです。

 たとえ、問題のある団体であることがわかっても、「カルトから救い出す」ことにのみ気を取られず、忍耐強く、相互理解や、歩み寄りの方法を模索していくべきです。
 相手を理解するうえで、やはり、重要なのは、「そもそもなぜ入信したのか」という、本人に固有の動機です。
 これらのモティヴェーションを正しく理解しなければいけない。成人が一度した選択を取り消させるためには、その選択の原動力になった心の深い部分にまで降りていかなくてはならない。言い換えると、その選択をあたまから否定するのではなく、選択にいたった過程とカルトの与えてくれた答えに本気で興味を示さなくてはいけない。

 私は、自分の母親を説得して脱会させた(どちらかというと希少なケースです)わけですが、本書のこのへんのアドヴァイスは、事実、かなり参考にしましたね。

 カルトの中では、マインド・コントロールが行なわれていたり、グループの情熱、リーダーのオーラ、教えへの狂信など幾重ものバリアーがはりめぐらされているから、論を駆使し理を尽くして説いてもたちうちできない。むしろ一方的にでもいいから、家族の消息を知らせたり、写真を送ったり、子供や兄弟の描いた絵などを送ったり、根気よくコミュニケートし続けることが、長い目で見て有効だ。
 話し合いや説得においては、「普通の生活」をしている者が、人生を積極的に変えようとしつつある者に対してそのプランを一方的に破棄させようというのは不毛である。説得しようとしている側にも、真剣に人生を考えて確信し選択しているという気概があるところを見せなくては同じ土俵で話せない。実際のところ、夫婦や親子のような近い関係にあった誰かがラディカルに新しい生活を選んでしまったら、残った方が以前とまったく同じ生活を営むことはもはやできない。みながじっくり自分の過去を見つめて生き方に修正を迫られているといっていい。

 状況によっては、いわゆる拉致・軟禁しての「逆洗脳」のような手段を考えざるを得ない場合もあるかも知れませんが、これはあくまでも緊急手段です。通常は、長期戦の構えで行く方がリスクが少ないでしょう。

 仮に脱会できたとしても、それからがまた大変です。
 元メンバーは、「人生を台無しにされた」深い傷を負っている場合が少なくありませんし、カルトは、自我を脆弱にするものなので、社会適応も困難でしょう。

 長い間拘置されていた人が「娑婆に戻る」時の難しさと同じものがある。「自由に生きる」のを学び直すのは、長く苦しい道程なのだ。中にはその現実に耐え兼ねてグループに復帰する場合さえある。家族や支援団体は、絆を絶たずに辛抱強く見守る必要があるだろう。

(まとめ)

 カルト問題は、とにかく、デリケートです。
 変わった団体だからといって、安易に叩くと、異端審問や魔女狩りみたいなことになり、それ自体が、自由の侵害となります。
 本書は、そのへん、非常に慎重に、偏らない態度であつかっていて、読み応えのあるものでした。
 容量の都合で引用できなかった箇所もたくさんあるので、興味がわいたらぜひ原典をお読みくださいね。
 あとがきで、著者が、このように書いておられるのは、すごーく共感します。

 これまで宗教に関する本はけっこう書いてきたけれど、今回「宗教とカルト」という形でテーマをくくる本を書くのはかなり勇気の要ることだった。
 人間の営みについて、「これはいいけど、それはいけない」といった判断を下す書き方が苦手な上に、誤解されたり敵を作ったりするのがこわい、という事なかれ主義のせいもある。これまでも、カルト・グループ内部の人間が示す確信の強さを見た時には、ただたじろいで無力感におそわれざるを得なかった。

 しかしこういう、いい意味で弱気なところが、本書を公正なものにしていると思います。

 宗教とカルトの見分け方は、きっと人生という長い航海における人の心の地図の読み方みたいなものだ。行く先も航路も違っても、空を見上げれば、ひょっとして同じ星が輝いているかもしれない。

 ちょっぴり楽観的な気もしますが、やさしい見方だと思います。

エホバの証人の子供に生まれて

http://ehouma.web.fc2.com/htm/index.htm#osusume

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin

 
 
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