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核兵器はどこにあったのか

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2016年 2月23日(火)17時30分42秒
  通報 返信・引用 編集済
  「日本はどこまで知っていたか」

http://antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Politics/j_where_nukes.htm#where2

元記事:ゴーストライポンの屋形

http://ameblo.jp/ghostripon/entry-12131663737.html

関連記事:ある日突然

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/15.html

自民党清和会の源流

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/406.html

歴代内閣総理大臣一覧

http://matome.naver.jp/odai/2133554170646582301?&page=1

一部抜粋~その他は元記事参照

ロバート・ノリス、ウィリアム・アーキン、ウィリアム・バー
「ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ」2000年1・2月号より

 人は誤りから学ぶものだ、と言われている。  1999年11月・12月号の本誌で、われわれは米国防総省が最近解禁した極秘の核兵器海外配備の歴史文書「核兵器の管理と配備の歴史:1945年7月~1977年11月」について論じた。この報告の付録Bは、1950年から1977年のあいだ、アメリカの核兵器がどこに配備されていたかをアルファベット順に記した一覧が含まれていた。しかし、この文書が解禁される前に多くの場所名は黒く塗りつぶされていた。

 入手できる限りの最善の情報、歴史的文書からの類推、状況証拠などに基づき、われわれは塗りつぶされた27箇所のうち25箇所までの正しい場所をつきとめた。「I」ではじまる核兵器保管場所となった国名をわれわれは間違ってアイスランドとしていた。

 ブレティンが発行された後、アメリカ政府は、自らの核兵器についての「肯定も否定もしない」政策を破る例外的な行動に出た。10月26日、AP通信社にたいし、このリストで塗りつぶされていた「I」のついた国はアイスランドではない、と述べたのである。

 誰でも謎解きが大好きだが、今や謎は2つになった。カナダとキューバのあいだにリストされた「C」のつく場所は謎のままだったのだ。アイスランドでないならば、本当の「I」のつく場所はどこなのか?

 世界各地から電子メールや電話が殺到した。スリランカの記者は「C」はセイロンではないか、と言い、チャゴス列島(ディエゴ・ガルシア)だろうと言う者もいた。チリ、クリスマス島、パナマ運河地帯、コロンビアなど、Cではじまるその他多くの場所が挙げられた。

 しかし10月23日に、われわれは東京都立大学の社会言語学者のダニエル・ロング氏から、「C」のつく場所は、1946年から1968年までアメリカに占領されていた日本の父島ではないか、との電子メールを受け取った。それから10月27日に、非常に見識の高い日本のある人物から、父島に間違いないという証拠を得、さらに、核兵器が硫黄島にも配備されていたとの証拠も得た。

 こうしてわれわれは、「C」と「I」のつく場所が、父島と硫黄島であるという結論に達した。国立公文書館、米海軍公文書館での調査、専門家との電子メールのやり取り、この2つの島に赴任あるいは訪問した退役軍人などにたいするインタビューを経て、われわれは、ペンタゴンが40年以上にわたって守り続けた秘密について語れるようになったのである。

*  *  *  *

 新たに判明した事実をもってすると、「非核の国」と偽られてきた日本の姿はずいぶんと違ったものに映る。日本は日本としての原則を持っているのだろうが、ペンタゴンは自らの核戦争計画を持ち、許容範囲ぎりぎりまでそれを押し広げてきたのだ。父島と硫黄島に核兵器を置き、大量でさまざまな核兵器を沖縄に持ち込み、核爆弾(分裂物質部分を除いて)を本土の三沢や板付空軍基地(そしておそらくは厚木、岩国、ジョンソン、小牧空軍基地にも)に貯蔵し、核兵器を積載した米海軍艦船が佐世保と横須賀に配備されていた。極東司令部の「1956‐1957年核兵器作戦のための常時運用手続き(Standing Operating Procedures for Atomic Operations)」によると、日本国内で全部で13個所に核兵器あるいはその構成部分が置かれていた、あるいは危機や戦争の場合には核兵器を受け入れる準備がなされていた。

 核戦争計画者たちは完全な形での核兵器を本土に貯蔵する権利を手にしたことは一度もなかった。そして国務省は、この問題に関する対立や秘密の取り決めについての情報の漏洩が、アメリカ追従の与党自民党の没落を招くことは避けられないことを恐れ、決定的な対決をつねに避けていた。日本はそれでも広範な核兵器支援施設を受け入れていた。ピーク時には、その規模は他のどのアメリカの同盟国よりも大きかった。

 父島、硫黄島、沖縄がアメリカの占領下にあったこと、そして本土に貯蔵された核兵器がプルトニウムあるいはウラニウムの分裂物質部分を欠いていたことは事実であり、核兵器を積載した艦船は日本の国土からわずか2、3センチ離れて合法さを保っていた。全体として、この念入りな術策が、アメリカが「日本国内に」核兵器を置いていないという名目を維持したのである。

 核兵器による攻撃を受けた唯一の国として、日本は非核の政策を採用したが、それはひとつには、将来核攻撃の標的となることを避けるため、あるいはそうできると考えたからであった。しかし1950年代の初め頃から、ペンタゴンは、核戦争のさいには、日本と沖縄の米軍基地はすぐに破壊されると考えはじめた。このため、核戦争立案者たちは、父島と硫黄島に隠れ家を確保したかったのである。2つの島は、潜水艦と爆撃機の秘密の「形勢立て直しと再装備」のための基地となり、島に撤退しても、新たに攻撃を続けることができることになる。  レーガン時代には、長期的核戦争遂行という概念が悪評をとったが、この計画は、核の時代の始まりからあったのである。

*  *  * *

 日本本土から南東に500マイル、そしてアメリカが領有するグアムから北に850マイルのところに父島(英名はPeel Island)がある。小笠原群島 (Bonin) のなかで唯一人が住む島である。

 19世紀初め、英国が小笠原諸島の領有を主張し、1830年、在ハワイ英国領事が父島へ遠征隊を派遣した。団に加わったアメリカ人(マサチューセッツ出身の青年ナサニエル・セイボリーも含まれていた)など他の植民者たちは、父島に定住した。日本が1876年にこの島の領有権を得て以降も、西洋人たちは島に残った。第二次世界大戦開始のころには、人口は約4300人に増えていた(初期の移住者の多くは日本人と結婚していた)。

 日本による父島の要塞化は第二次世界大戦の約20年前に始まった。1951年に初めて島を訪れた当時の米太平洋軍司令官アーサー・ラドフォード提督は、地下に、コンクリートで内装され換気設備もある洞窟に、砲床、機械工場、燃料保管庫、弾薬庫などがあったと書き残している。ラドフォードは自伝「パールハーバーからベトナムへ」に、「地下のトンネルと洞窟が複雑に組み合わさって作られていた」と述べた。日本は父島を「太平洋のジブラルタル(堅固な要塞)だ」と豪語していた。

 父島から120マイル、そして東京から南南東に760マイル離れたところに硫黄島がある。(8マイル四方にある)3つの島からなる硫黄列島のうち最大の島である。日本軍は1944年に硫黄島を軍事的要塞とすることを決定した。硫黄島のレーダー施設はサイパンとテニアンから飛来するB-29米軍機を探知し、警戒警報を本土に中継した。3つの空港が建設され、硫黄島から出撃した日本の攻撃機は日本へ向かうあるいは日本から戻る爆撃機を悩ませただけでなく、マリアナ諸島のアメリカ軍基地を攻撃することもあった。

 参謀本部は硫黄島の攻落が必須であると決定した。1945年2月19日、米海兵隊の3個師団が島に上陸し、第二次世界大戦でももっとも悲惨なたたかいとなった、36日間にわたる激しい戦闘を開始した。3月26日には戦闘は正式には終結し、硫黄島はアメリカの支配下に落ちた。

 硫黄島の核兵器とのつながりは早い時期に始まった――広島・長崎への原爆投下にあたって緊急事態の際に使用されることになっていたのである。海軍はこの島に予備の爆弾積み込み用の作業所を建設した。もしエノラ・ゲイかボックス・カーのうちどちらかがテニアン島を離陸後にトラブルが発生したら、硫黄島に着陸して、待機させている別のB-29に原爆を積み替えて日本への飛行を続けることになっていた。

*  *  *  *

 1951年、米軍による日本占領の終わりが近づいたとき、両国は、「日本国内と周辺に」米国の陸海空軍を駐留させる広範な権利を米軍に与える安全保障条約に調印した。戦前日本の領土だった場所すべてに、完全な主権が認められたわけではなかった。アメリカは、沖縄、小笠原諸島、硫黄列島について、日本の「残留的主権」を認めていたにもかかわらず、ひきつづきこれらの島々はアメリカの支配下に置かれた。

 戦後、父島に移住していた西欧移民の子孫100人以上が、戦時中移住させられていていた日本本土から父島に戻ってきた。硫黄島の方はこれまでどおり無人であった。父島に住むアメリカ人の子孫は、米国市民権を求めてラドフォード提督に請願をおこなった。彼らはまた、小笠原諸島をこれからも米国の管理下に置くことを願ったのである。1952年3月1日、米国海軍は、父島の行政をおこなうため、小規模の駐留所を設立した。

 父島は潜水艦の寄港地となり、硫黄島は極東空軍の前哨地点となった。1950年代中頃、アイゼンハワー大統領が太平洋への広範な核配備を承認すると、父島と硫黄島は核基地となった。1955年、国防長官チャールズ・E・ウィルソンは、国務長官ジョン・フォスター・ダレス宛ての書簡の中で、少数の原子兵器を小笠原諸島と硫黄列島に分散する話を持ち出している。これにたいしダレスは、11月18日、異論なしと返答したうえで、これらの場所への原子兵器貯蔵は、今後の小笠原諸島への住民の帰還をさまたげない、と付け加えている。

 のち統合参謀本部の議長となったラドフォード提督宛ての解禁覚書によると、「1956年2月6日、海軍作戦の参謀[アーレイ・A・バーク提督]は、核部分を装着した兵器ひとつが、父島の貯蔵庫に置かれたと述べた」。この日付は、「56年2月」を「最初の持ち込み」の日と記載している付録Bの「爆弾」持ち込みの日付と完全に一致する。

 これと同じ月、「非核爆弾(ファットマンの設計をもつMk6にもっとも類似したもので、分裂物質の芯の部分がない)が硫黄島に送られた。こうして父島の洞窟と硫黄島の中央航空基地は、ソ連の日本本土侵略や攻撃に備えた、万が一の核陣地となったのである。  われわれは、父島にどれだけの爆弾が配備されたのか、また、1956年5月それらがなぜ急に撤去されたのかは知らない。おそらく、数個の核爆弾は、まだ島に到着していなかったミサイルの替え玉だったのだろう。3月、海軍のレグルスミサイル用のW5核弾頭が、父島に持ち込まれた。その後の8年間、レグルス弾頭(とおそらくミサイル)は、父島の洞窟に隠されていた。

*  *  *  *

 レグルス兵器システムは、構想と実行において奇想天外であり、見た目もそう良いわけではなかった。ある乗員は、米艦グレイバックを初めて見たときの印象を「これまで見た中で最もぶかっこうな潜水艦」と記している。500マイルの射程をもつミサイルが、潜水艦上部にある、大きい、耐水性の吊手に取りつけられており、まるで横になった穀物倉庫が2つ並んでいるようであった。潜水艦は、長さ42フィートのミサイルを発射するためには浮上しなければならなかった。ターボジェットを装着した巡航ミサイルを吊手からはずし、レール発射台に載せ、位置を揚げてから発射された。

 レグルスは最初、1955年に、巡洋艦ロサンジェルスと空母ハンコックに配備されたが、核戦争立案者たちに、比較的攻撃にさらされにくい砲座からソ連の標的を威嚇する能力を与えたのは、レグルスの潜水艦配備であった。5つのレグルス搭載潜水艦―タニー、バルベロ、グレイバック、グラウラー、ハリバット―は、1959年から1964年までのあいだ北太平洋で41回の核巡視行動をおこなった。当初120キロトン級のW5核弾頭を装着していたこれらのミサイルは、その後1958年の秋から、2メガトン級のW27熱核弾頭を装着したものに強化された。

 グレイバックとグラウラーはそれぞれ4発、タニーとバルベロは2発つづ、原子力潜水艦の米艦ハリバットは5発のミサイルを塔載していた。ディーゼル潜水艦の場合、一回90日間の巡視行動のなかで、作戦の地域により、ミッドウェー諸島かアラスカのエイダック島のどちらかに補給のための寄港をする必要があった。

 ミサイルの通称であった「ブルー・バード」を発射するには、潜水艦は浮上して、標的の範囲内に位置していなければならなかっただけではない。これらの潜水艦には、攻撃潜水艦が随行しており、誘導指令発信のためミサイルの飛行ルートにそって動くこれら攻撃潜水艦との調整もおこなわなくてはならなかった。

 海軍では、最低4発のレグルスミサイルの常時配置を要件としていた。これは、2隻のミサイル塔載艦船をいっしょに配備するか、それぞれ独自に配備するかを意味していた。きびしいスケジュールを守るため、お多くの潜水艦は、真珠湾に戻るよりは、エイダック島から「連続」で巡視行動をおこなった。

 レグルス潜水艦の元艦長で、太平洋艦隊の核戦争立案者であった人物は、父島は「戦略的作戦において、搭載ミサイルの発射後また別の攻撃にも参加できるレグルス潜水艦の『再装填地点』であった」。これは、真珠湾、グアム、エイダックの基地とならんで、主要な在日米軍基地が核戦争において破壊されることを想定したものである。小さな基地である父島は、このような惨害をのがれ、生き残った潜水艦が再装填をおこなう安全港となる、と企画者らは考えた。潜水艦の予備部品と食料も洞窟に保管された。

 硫黄島も、核戦争作戦において同様の役割を果たした。第7戦術弾薬飛行隊第1分遣隊は、中央航空基地に核格納庫を設置し、1956年9月、核部分が装着された完備状態の爆弾が持ち込まれた(これらの爆弾は、1959年12月まで硫黄島に置かれた)。非核爆弾(分裂物質の芯部分をともなわない爆弾)は、1956年2月に持ち込まれ、1966年6月まで置かれた。

 硫黄島での任務についていた元空軍将校によれば、硫黄島は、グアムと沖縄という大規模で使用頻度もより高い米軍基地から離れていて人目につかない場所にあり、戦闘機部隊も爆撃機部隊も所属しておらず、復旧施設として機能していたという。爆撃機は、ソ連または中国の標的に爆弾を投下した後、二回目の一斉投下を準備する補給、再装填、再準備をするため、硫黄島に飛ぶことになっていた。

*  *  *  *

 1960年、ポラリスミサイルとポラリス潜水艦が導入されると、レグルスの時代は終わりに近づいた。1964年12月26日、米艦ダニエル・ブーンが、16発のポラリスA-3で武装し、最初の太平洋巡視行動に向けグアムを出港した。7月14日にハリバットが真珠湾に入港し、レグルスの時代に終わりを告げてからわずか5カ月後のことであった。

 1964年の10月から12月のあいだに、最後のレグルス弾頭が父島から撤去された。核戦争作戦におけるレグルスの役割は終わろうとしていた(ただし、1964年10月から、海軍の地対空ミサイル、タロス用の核弾頭W30が15ヵ月にわたり配備されたという不可解な時期がある)。小笠原諸島と硫黄列島の日本返還を求める新たな圧力が強まっていた。

 潜水艦の戦力の増強と多弾頭ミサイルの導入により、長距離の射程をもつ兵器の数がすさまじく増加したことで、前方基地の必要はますます小さくなっていた。それでも、戦争立案者たちは、この2つの島を手放すつもりはなかった。国務省が東京にある米国大使館に宛てた1964年の電報では、2つの島の重要性が強調されている。「現在、父島には使用中の海軍施設がある。小笠原諸島は、特別兵器格納庫、SAC(戦略空軍司令部)の牽制作戦・補給基地、潜水艦の前進基地、訓練場、NSA(国家安全保障局)とCIA(中央情報局)活動など、追加的な軍事機能のために必要である」。

 軍部の主張はあったが、ジョンソン政権は、より重要な沖縄の基地の復帰を事前に食い止めるために、父島と硫黄島は返還せねばならないとの認識を深めていった。ジョンソン大統領はまた、東南アジアにおける米軍の作戦にたいする日本の暗黙の支持が欲しかった。1967年11月14日と15日におこなわれた佐藤栄作首相との首脳会談の際、ジョンソンは、小笠原諸島と硫黄列島の日本政府への「早期返還」にかんする会談をおこなうことに合意した。

 国務長官ディーン・ラスクは、日本の外相との会談の場で、硫黄島を維持する権利を主張していた。中国政府もしくはソ連政府が、「アメリカは西太平洋から撤退しようとしている」という「誤算」をしないようにするためというものだった。日本側は、2島を維持するという米国側の考えを拒否したが、最終的には、佐藤首相は、返還合意は米国の安全保障上の利害を考慮したものとすることに合意した。

 この利害とは具体的に何であり、米国が日本側に求めたものは何だったのだろうか。海軍は、緊急時の核兵器貯蔵のために父島の使用権を強く求めていた。ジョンソン・佐藤会談の何日か前、統合参謀らは国務省にたいし、小笠原諸島にかんする合意はどんなものであっても、「将来敵の潜水艦の威嚇があり、」沖縄とグアムの「核格納庫が利用できない状態にそなえて、対潜水艦兵器を貯蔵する緊急の必要性」を考慮に入れたものでなくてはならない、と伝えている。1967年12月、会談のあいだ、米国の駐日大使U・アレクシス・ジョンソンは国務省にたいし、緊急時における核の問題について、「日本の後任政権が、米国の見解について承知するようにするため」日本側からなにか書面で誓約を得るよう試みると告げている。

 この交渉の最終的な結果は、明確といえるものからは程遠い。すでに佐藤首相と三木武夫外相は日本の国会にたいし、小笠原諸島の返還に核兵器は何ら関係していない、と述べていた。三木は、密約が漏れることにより、沖縄の核の役割が国内では公然である琉球諸島の返還が、さらに困難になることを恐れていたのである。

 最終合意には、秘密の付属文書が含まれたが、そこで使われている正確な用語はいまだ機密扱いである。日本の米国大使館から送信された1968年12月30日付けの電報の表題は、「小笠原諸島合意核貯蔵」となっているが、(米国)国立公文書館には、これに添えられた東京からの1968年4月10日付の「小笠原諸島合意―秘密付属文書」と題する電報のかわりに「引出し票」が、同じファイルにはさまれている。われわれは、アメリカと日本が「核貯蔵合意」に1968年4月10日に調印したと考えている。

 おそらく、ここでの了解が、軍事的緊急事態における核兵器貯蔵の権利をもとめる国防総省の最低限の要求を満たすものとなったのだろう。ただ、ここにそれ以外の何かが含まれていたかどうかは、まだ明らかではない。1968年6月、小笠原諸島と硫黄列島は日本に返還され、東京都の小笠原村の一部となった。

*  *  *  *

 「核アレルギー」をもつ国があるとすれば、それは日本である。第二次世界大戦の敗北と米国による占領は、1947年につくられた憲法の第9条に結びつき、そのなかで日本は、戦争と「陸海空軍」の保持を放棄した。日本の国会は、第9条を、国家の安全保障に必要と思われる軍事同盟を容認するものと解釈してきたが、その場合でも、核兵器を拒絶する道を逸脱しないことを選んでいる。この拒絶のかなめが「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則である。これらの原則は、1956年に岸信介首相が、日本は核兵器の開発もおこなわないし、領土への持ち込みも許可しないと述べたことに端を発している。
 しかし、三原則が宣言されたときすでに日本の領土は、文言上はともかく、その精神において完全に侵害されていたのである。実際の核兵器は硫黄島からは1959年末に撤去されたが、硫黄島と同じ法的地位にあった父島には、1965年まで核物質部分付き弾頭が置かれていた。そしてもちろん沖縄には、1972年まであらゆる型の核兵器が満載されていた。在日米海軍の基地に停泊した核武装艦船をはじめとする船が、日本の港湾に自由に寄港していたのである。

 しかし、いかに踏みにじられていたとはいえ、日本の非核政策はまったく架空の話であったわけではない。国防総省は決して日本本土への核貯蔵の権利を握ったことはなかったし、沖縄からは1972年に核兵器を撤去しなくてはならなかった。

 歴史的状況により、アメリカ政府は、いくつかの誓約を受け入れざるを得なかった。第一に、広島と長崎の衝撃的な経験から、日本国民は核兵器にたいし強い感情を抱くようになり、日米両国のどの政権もこの感情に適応しなくてはならなかった。第二に、日本政府は、自国を超大国間の核戦争がもたらす影響から免れさせたかった。あの冷戦中にそのような目標を提案することはどの国でも難しいことであった。日本国民と日本の指導者にとって、この手の込んだ術策が、核からの純潔という幻想を維持させてきたのである。日本の政界の指導者たちは、すべてを否定することも、知らなかったと抗弁することもできなかった。

 米国政府との妥協は、あの暗い冷戦時代における日本の安全保障にとって必要だと、日本の支配層が考えていたことは疑いない。とはいえ、最初から最後まで、「非核の日本」は感情的な志向ではあったが、現実ではなかったのである。

著者略歴:
 ロバート・S・ノリスは、ワシントンの天然資源保護協議会の上級研究分析員で、現在レズリー・R・グローブズ将軍の伝記を執筆中。ウィリアム・M・アーキンは、"Nuclear Battlefields (1985)"の共同執筆者である。この本はアメリカの核兵器の国外配備状況を記録した初めての出版物であった。ウィリアム・バーは全米安全保障文書館の上級分析員であり、アメリカ核の歴史ドキュメンテーションプロジェクトの責任者である。

 
 
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