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ブラック・プロパガンダ その2

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 6月10日(金)15時10分16秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.waseda.jp/prj-m20th/yamamoto/profile/books/book02_05/content.htm

第五章 中国戦線のブラック・ラジオ

一 SACO内部の対立

 SACOのねらい 蒋介石率いる中国の国民政府は、日本軍やその支援で成立した汪精衛(兆銘)の南京政府(連合軍のいう傀儡政府)に追い込まれて、奥地の四川省重慶に首府を移していた。連合軍は、アメリカが中心となって、インド・アッサム方面からビルマ北部を経て雲南省に入る蒋介石支援のルート(援蒋ルート)の開発を進める一方、CBI(中国・ビルマ・インド戦域)の中国軍にアメリカ装備の近代化を施していた。またアメリカ政府は、国民党と中国共産党の対立解消(国共合作)の方向に基本的に動いていた。それはアメリカ軍事視察団(ディキシー・ミッション)の中国共産党根拠地延安への派遣に見られた。さらに一九四四年はじめには、重慶に拠点を置くアメリカの陸海軍に加えて、OWIやOSSの機関も国民政府や国民党との共同作戦に次第に本格的に取り組みはじめた。

 一九四四年四月の重慶におけるリットル少佐と軍統代表戴笠との会談によって、SACOとOSSの実務面での協定がMO面でも結ばれる運びとなった。SACOは軍統とアメリカ海軍との軍事協定により一九四三年七月に発足していたが、ドノバン長官の戴笠などへの働きかけでそこにOSSが参加し、主としてMOの分野で協力することとなったのである。四四年四月の協定では、MOの代表にはSACOの中国側人物、副代表にはOSS側の人物が就くこと、専門家や輔佐は中国側・OSS側双方から出し、協力し合うことになっていた。“大東亜共栄圏設立”のようなプロパガンダを共同で撃破し日本の軍事勢力を中国で打倒する、つまり破壊的な心理戦争を継続的に展開するのがSACOの目的とされ、次のようなメディアをMOで使うと記している(1)。

 一 デマ

 二 ブラック・ラジオ

 三 印刷物

 四 その他(敵の支配者の信用をなくしたり、排除するために地下戦争に有効な欺瞞的手段、賄賂、特殊な武器を含む)

 このうちブラック・ラジオについては、次のように明記されている。

 一 占領下中国、朝鮮、台湾、琉球、日本本土の敵にむけたブラック・ラジオ局を自由中国(訳者注--日本の非占領地域)において、設置する。

 二 OSS側では以上の作戦に必要で適切な設備を全て提供する。また経験あり能力のある人員をも提供する。中国側とOSS側は全ての放送局の設立や維持に共同の責任をもつ。OSS側は傍受や方向探知に関連した設備を提供する。

 三 必要な人員や資材が中国に届くとすぐに、最初のブラック・ラジオ局を福建などの海岸地域に設立し、活動を開始する。その場所は軍事的、技術的観点から見て敵と戦うのに最適なところである。

 四 中国側もOSS側も台本づくり、傍受、放送、翻訳に必要な人員を提供する。

 五 中国側もOSS側もすべてのブラック・ラジオ活動の秘密性、安全性を図るのに責任をもつ。双方とも常時任務につくが、中国側は昼夜、ラジオ活動に軍人の警護を十分に提供する。

 軍統とOSSの対立 このような協定でOSSとSACOとの共同作戦はスタートした。実際に、SACOではビラ、ポスターなど印刷物ではいくつかの傑作を生んだ。「東亜共栄圏の図」(図26)は、日本を象徴する盆栽の松の木が広く東アジア全体に深く根を張り、吸血鬼のごとくその養分を吸い尽していることを示している。ここでは漢語版を掲げたが、英語、インド語版などもある。ガリ版二ページの「兵士平和聯盟ニュース(第十号)」(図27)は比較的新しい戦況を報じており、文章もこなれている。SACOが日本兵捕虜の協力を得て活動していたことを示唆している。

 ところで、OSSとSACO双方の信頼感はなかなか高まらなかった。それどころか、中国側ではSACOに派遣されたOSSの責任者が中国側に無断でたびたび更迭されること、そしてアメリカ側がインド、ビルマ戦線にも関心をもち、中国戦線のみを活動領域としないことに不満をもった(2)。またもともとSACOをつくったアメリカ海軍側では、新興のOSSへのライバル意識とセクショナリズムがあって、この協定の遂行に消極的であった。

 さらに中国側の責任者戴笠は、OSSよりも中国側諜報機関の軍統の方が中国の実情を把握しているので、中国の諜報活動へのOSSの積極的参入は不必要との認識をもっていた。

 一方、OSS側では、中国側の背後にアメリカ海軍がいて、OSSの妨害をしているとの見方が強かった。また、中国の方が最終権限をもつ協定であったため、中国側の内部事情で活動が左右された。したがってOSS側のイニシアティブが発揮されにくい協定であった。

 ブラック・ラジオで見てみると、〇・二五キロワットの低出力の局を四四年夏までに、七・五キロワットのものをその後に設立する手はずであった。四四年十一月、CBI戦域ではOSSは図28のような送受信ネットワークを建設しており、これに乗った形でラジオ活動を行うことになっていた。基本的な要員と日本語要員はOSS側で、それ以外は中国側で獲得する約束であった。日本語要員の必要が生じたときは、マリーゴールドとコリングウッドのプロジェクトから提供することになっていたと、オーチンクロスの「最終報告書」は記している(3)。

 ところが実際に協定の内容を詰める段になると、戴笠は重慶郊外のハッピー・バレーにあるSACOの本部が全ての権限を握ると主張しだし、昆明にあるOSSの中国本部の方針が無視された。ブラック・ラジオの責任者としてオーチンクロスが四四年九月に中国に到着し、重慶の本部に具体案を出してもSACOは協力的ではなかった。たとえば中国側の約束したラジオ要員を十二月まで訓練しなかった。しかもOSS側から見て、中国側のラジオ技術力や心理戦争へのモラールは低かった。たとえばOSS側が一週間ほど昆明で訓練しても、彼らは無断で重慶に帰る始末であった。あげくに、中国側がパイロット作戦として設置した三つの施設は、日本軍の急襲で捕獲されてしまった。

 OSSのSACO離れ ブラック・ラジオの活動に意欲を燃やして昆明と重慶を往復したオーチンクロスも、中国側の非協力ぶりに業をにやした。彼はワシントンのリットルらに対し、ラジオ活動をSACOから切り離し、OSS単独で昆明で行うことを強く要求した。リットルらも戴笠に強い不信感をもち、開局の遅れにいらだっていたことも手伝って、オーチンクロスの提案を受け入れた。

 ブラック・ラジオばかりでなくMO作戦全体が一九四五年一月末からSACOを離れ、OSSの手で遂行されることになった。OSSはアメリカ空軍と協定したAGFRTS(Air and Ground Forces Resources Technical Staff)を推進し、それを基盤に活動しはじめた。OSSは昆明に本拠を置くアメリカ第十四空挺部隊とともにSACOとは独立した地対空の情報作戦協力やMO活動を行い、次第にその比重を高めて行ったが、MOの内容、とくにブラック・メディア活動ではSACOのそれと大差なかった。しかし、以下に紹介するような秩父宮のブラック・ビラ(図29)や偽造切手(図30)、偽造パス(図31)などで注目される作品ができた。

 ブラック・ビラは四五年にOSSの工作隊が上海周辺に散布したもので、秩父宮が軍閥によって監禁され、釈放後上海に来て、英米との和平活動を行っているとのまことしやかなデマ言説を流布させようとした。OSSは秩父宮を和平派ととらえていたようであるが、天皇や皇族をプロパガンダに利用することは、他のアメリカ・プロパガンダ機関と同様に禁じられていた。したがってこのビラは珍しい事例である。

 偽造切手は東郷元帥の五銭切手である。ミシン目のタテ、ヨコが重なった部分が乱れているため、ニセモノであることが判明する。この切手は福建省の前線の日本軍へのプロパガンダの手紙を送るために使われた。偽造パスは日本本土の被爆者が地方へ疎開するための無料切符である。

二 コロンビア・プロジェクト

 OSSがSACOと手を分かち、昆明で独自のMO活動を開始した頃、日本軍は膠着した中国戦線を打開しようと、華北から広東、香港までの鉄道沿線をとぎれることなく支配する“大陸打通作戦”を展開していた。実際、日本軍は広西省の桂林、柳州を占領し、昆明にも進出する勢いを見せていた。制空権を奪ったアメリカ空軍に援護されたものの、中国軍の損害は大きかった。OSSは昆明の郊外に本部(図32)を構え、華南各地の中国軍の支援を本格化しだした。MO活動のためのラジオ送信所や施設も急ぎ設置された(図33)。桂林などの前線にもOSSの活動を支える送受信施設がつくられた(図34)。

 先の「最終報告書」で、オーチンクロスは次のようにコロンビア・プロジェクトの経過をまとめている(4)。

 一九四五年二月から八月。SACOから離れた中国戦線のブラック・ラジオの作戦は、コロンビア・プロジェクトといわれた。それは二月中旬に練られ、OSSのワシントンと中国の作戦本部に承認された。この計画の第一段階(昆明からの〇・五キロワットの送信)は全体として承認された。第二段階(沿岸地域からの七・五キロワットの送信)も承認された。モルウッドはオーチンクロスとともにこの計画に従事するため、SACO本部から昆明に配転となった。日本軍からの攻撃の恐れがなく、国民政府軍からも干渉の少ない昆明の地が選ばれ、OSSは他のアメリカ軍機関とともに昆明に移った(図32)。これらのプロジェクトは三月中旬にすべて受理された。承認を予想して、中国人の言語要員はすでに募集中であった。コロンビア・プロジェクトの本部は昆明のカントリー・ハウス構内に設置され、ラジオの送信所の屋根には、長いアンテナが張られた(図33)。三月二十五日には九人の要員が任務につき、彼らの訓練が始まった。後にこの中国人のグループは全部で十六人となり、四月十六日に放送活動を始めることになった。しかし使用する周波数の通信隊による使用許可が四月二十七日まで出なかったので、作戦開始は翌日の二十八日となった。全部で四つの異なる番組が自由放送局の覆面をもって、コロンビア・プロジェクトのもとで誕生したのである。これらは機械の故障や他の緊急事態によって何度かの中断はあったが、週七日の単位で実施された。桂林など前線には、ラジオの送信所が設置された(図34)。四つの作戦は以下のものであった。

   チャーリー作戦

 広東むけの広東語の放送。四月二十八日から八月十七日まで、全部で九十九の台本を使用。十五分間の番組を一日三回放送。作戦の概要は広東あたりの日本人に対するゲリラ活動を地下グループに働きかけ、受け身の非協力から積極的な単純破壊活動まで、あらゆるタイプの抵抗活動を激励することであった。

   ウィリアム作戦

 武漢むけの放送。六月六日から八月十七日まで、全部で七十の台本を使用。各番組は十五分間で、一日三回放送。内容は密輸を仕事とする漢口の反骨のビジネスマンに、自分の仕事を宣伝させるもの。“大いに儲かりまっせ”といった雰囲気をわざと表に出した放送は、市民の不服従、買いだめ、掠奪、地下組織活動を促進する刺激剤として利用された。

   ハーミット作戦

 南京やその周辺むけの放送。六月十九日から八月十七日まで、全部で五十七の台本を使用。各番組は平均十一分で、一日二回放送。占星術のにせ科学、占い、人相見、手相見、骨相見、数霊学の類いに基づくもの。主として傀儡政府の役人が分析、攻撃の対象となり、中国での日本の運命は非常に暗いと判断する予言が定期的になされた。注目すべきは、巨大な破局が(原爆の落ちた)八月第一週に起こると予言したことである。この予言は七月初旬になされた。行動への刺激は迷信と私的利益に基づいていた。傀儡政府への積極的な不服従や単純な破壊活動が奨励された。

   JIG作戦

 終戦まぎわの八月十一日から十七日の七日間。この番組はマリーゴールドの人員が間に合わなかったので、コロンビア・プロジェクトの要員を使って日本語で放送された。日本軍からの脱走を奨励し、降伏直後に予想される混乱に対応させる番組をつくった。

   ペガサス・プロジェクト

 三月上旬、観念上のネットワーク(Notional Network)の計画が連合軍中国前線参謀本部に提案されたが、拒否された。しかし五月にその計画はトップ・シークレットとして再審議され、新しい計画が提案された。これは中間的な暗号(訳者注--ニセ情報を混入させ、日本軍を混乱させることを目的にし、仮想の地域間で行う解読されやすいシンプルな暗号システム)による文書を、前線の実在しない工作員チームに送る四つの別々の作戦から成り立っていた。日本軍の電信傍受隊の目に本物と思わせる最初の作戦は完成した。“ホットな”まぎらわしい情報(これは前線本部からの供給)を軍の直接的な支援作戦と思わせて伝えるこの計画は、終戦時に終った。

   結論

 (前略)残念なのは、十分な能力を持つ送信機がなかったため、計画実行部隊の一〇%の能力しか発揮できなかったことである。七・五キロワットの送信機が三月上旬に昆明に到着したのに、それを保管する施設がなかったため、終戦まで雨ざらしにされていた。この送信機が使えたら、作戦の能力と効果を物理的に高め、コロンビア・プロジェクトを十分に拡大させたであろう。しかしこれを除けば、一九四五年二月十五日以降の中国のブラック・ラジオ作戦は迅速かつ可能なかぎり展開され、中国戦線でのMOの成功に多少とも貢献できた。

 以上が「最終報告書」である。ワシントンから作戦を急ぐよう催促されたOSSの中国前線のオーチンクロス中尉は、第一段階でブラック・ラジオの開局をSACOに働きかけた。だが、OSSと連携していた中国諜報機関軍統の戴笠将軍は、中国側要員の派遣の約束を実行しなかった。そのため、やむなくOSSとしては、独自に昆明でブラック・ラジオを開局することになった。四局がほぼ同時に動き出した。このうちJIG作戦は日本語による日本兵士むけの放送であった。しかしサイパンから日本本土むけになされたブラック・ラジオ作戦に遅れること約四カ月であった(前章参照)。中国戦線での四局は、いずれも日本軍占領地や前線の中国人及び日本人兵士をターゲットにしていた。

 チャーリー作戦の番組 チャーリー作戦では、五月、六月のはじめを見ると、次のような内容の番組が流されていた(5)。

五月一日 ジャップから買うな。

五月二日 日ソ中立条約の破棄。日本の最後の審判。

五月三日 広東を長沙のように破壊されてはならない。略奪されぬように持ち物を隠せ。

五月四日 ウー・ホー・タンがゲリラを訪ね、広東のジャップのモラールが崩壊し、自殺が相次ぐとのニュースを持ってきた。今こそ敵に立ち向え。

五月五日 ベルリンの陥落、二羽のチキンのたとえ話。ジャップ・チキンはまもなく死ぬ。

五月六日 ヒットラーの死。ヒムラーの裏切り。すぐにジャップのなかにも裏切り者があらわれよう。

六月一日 ジャップの住民どもは兵士としての徴集を避けるため、広東を離れている。やつらから物を買うときは、たたけ。

六月二日 ジャップは上海警察から銃を回収中だ。やつらを信じるな。ジャップと協力してはならない。

六月三日 ジャップはアメリカと国民政府の旗をつくっている。広東市が解放されたら、連合軍側住民を装って、いち早く立ち去るつもりだ。傀儡とジャップは広東の同じ穴のむじなだ。やつらの計画をたたきつぶせ。

六月四日 東京から日本軍のモラールを高めるため教授たちが送られてきた。ところが汕頭では十七人のジャップが自殺。広東からジャップをつまみ出せ。この正しい情報を近隣に伝えて欲しい。

六月五日 ゲーリングは降伏したとき、戦犯として扱われた。広東の全ての傀儡野郎とジャップを切り離して、彼らがわれわれの方につかないなら、ゲーリングと同じ扱いをしよう。

 この番組は現地語のスラングをフルに使って、住民に気やすく接触できる工夫を施している。日本人や日本軍の広東からの脱出計画を、住民レベルの日常行動によって阻止しようとの呼びかけがなされ、ドイツの敗北、ヒットラーの死など日本軍に不利なニュースが織り込まれている。番組に使われたドイツのニュースはサイパン・ブラック・ラジオよりは新鮮である。このような最近の本当のニュースに加えて、デッチ上げのニュースを混ぜている。こうした虚実混交のニュースを使いながら、日本軍への抵抗と反日ゲリラへの協力を広東住民に呼びかける編集方針が貫かれている。

 この広東むけブラック・ラジオが、どの程度住民に聴取されたかはわからない。四五年五月のコロンビア・プロジェクトの「月報」は、「対象地域の周辺につくられたOSSの前線施設のリポートは、ラジオの音声は弱いが、聴き取れたと伝えている」と記している(6)。このプロジェクトは〇・五キロワットの出力の送信機によるものであったため、昆明から広東に届くには、短波といえどもかなり無理があった。せいぜい抗日ゲリラへの暗号送信に活用されたと思われる。したがって一般家庭で聴取できるためには、七・五キロワットの送信機の到着を待たなければならなかった。しかしついに使われることがなかったことは「最終報告書」にある通りである。

 なお、これら四作戦はオーチンクロス中尉を主任として、二人の白人、それに十六人の中国人が運営していた。中国人のスタッフはモニター、台本書き、出演者から成り立っており、中国最北端を除く各地の方言を扱うことができた。近い将来、朝鮮語のできる要員や日本語の要員つまり日系人や日本兵捕虜も増加させる予定であった。また日系人に同行し、白人スタッフ二人が昆明に七月に来る予定であった(7)。

三 チャーリー作戦とMO

 広東地区でのMO作戦 OSS全体の活動の中で、MOは謀略のビラ、新聞、デマなどのメディアを有機的に組み合わせた転覆的な破壊工作活動を任務としている。図35は一九四四年のOSS・MOの広東など華南における全体的な動きを示している。左上の中国人たちは桂林でなにやら情報交換をしている。中国大陸の南北を鉄道沿線でとぎれなく支配せんとした“打通作戦”で南下した日本軍が桂林の一部を占領し、多くのデマを市内にまいた。そこでアメリカ、中国軍の将校は対抗デマや打ち消しデマを一週間で三十ばかり流した。そのうち八つのデマが誇張された形でアメリカ側に戻ってきた。デマに合わせて、偽造文書やビラまき用小ロケットなどの装置が作られた。

 図35の左上二番目は桂林と広東の中間点で獲得した中国人工作員を、前線地下本部の訓練所に連れて行く模様を描いている。将校、兵士はトラック、船を使って南下し、また密使が相互に連絡している。三番目は二人の中国人工作員が、広東の秘密印刷工場でビラを印刷している図だ。その集団のリーダーは反日活動家の教授だという。彼らはデマ、ビラ双方を日本軍憲兵の目を盗んで市内にばらまきながら、新しい工作員の勧誘にあたっている。左下の図は、華南の日本側プロパガンダ、諜報の中心地マカオに潜入した“メイベル集団”つまり商人を装った中国人工作員が、桂林、広東、梧州との間で無線機を使って連絡している模様を描いている。彼らは同時にデマ拡散、工作員獲得、諜報入手などの任務についていた。

 タートル・ミッション 図35にあるブラック作戦図は、現実には、タートル・ミッションの動きを示したものと思われる。OSSが昆明から各方面に二十人弱のMOのミッション(工作班)を出していたが、タートルというコード名をもつミッションは最も成功したものとして評価されている(8)。

 このミッションは広東地区にむけて三月上旬に出発した。その地に根拠地を置き、広東、香港、汕頭など華南の主要都市をカバーする活動を展開、六月までに三十六人の訓練された工作員がこれらの都市に出没した。汕頭の新聞にはいかにも実在する組織であるかのように“反戦同盟”の記事を出した。しかし“同盟”はMOの創作であって、ブラック・プロパガンダのメディアを配布するカバー(隠れ蓑)として使われたものであった。ブラックのポスターなどが香港の同盟通信の告知板に貼り出されたが、日本当局はすぐさまそれらを撤去した。

 七月にはタートルは生産と配布を拡大したため、より幅広い受け手をもつメディアにその名が登場した。香港、九竜地区では、タートルの出すMOのメディアが全ての公的場所に大量にあらわれた。スローガンの落書きが建物、劇場、ホテルで見られた。

 八月までに、タートルは日本が支配する地域の新聞にブラック記事を浸透させ、一万五千枚のビラには、収容所の日本兵の捕虜から得た情報が掲載されるほどとなった。

 チャーリー作戦の位置 先のブラック・ラジオの「最終報告書」にあるチャーリー作戦は、広東地区への中国語放送であった。ラジオは図35に示された四十四年夏から十カ月も遅れて始まったが、四十五年四月の時点でも、日本軍の健闘で南支での攻防図は基本的に変っていなかった。ここへブラック・ラジオが謀略のニューメディアとして登場し、ビラ、デマなどの前線MO作戦を支援することになった。ラジオは、中国人工作員やその背後にいるOSSアメリカ人の双方へ秘密のメッセージを送る役割ももっていた。ラジオからの暗号情報が各種工作を活性化させたことはまちがいない。もちろん中国人住民の世論誘導が、ラジオの主要な役割であったことは言うまでもないが。

 華南MO作戦の総括

 四十五年十一月二十四日付で中国でのMO作戦についてのやや長文のリポートが出ている(9)。まず冒頭で、MOの基本的目的が日本ならびに日本軍に対する破壊的なプロパガンダ工作を行うことであったと述べる。そこでいう日本には、日本兵、日本人、中国人の協力者、傀儡政府や軍が含まれていた。MOはそれと同時に中国人のモラールを刺激し、彼らの日本人へのレジスタンスを奨励することを目的としていた。MO隊では、ビラ、地下新聞、偽造文書、怪文書の印刷物、ラジオ、デマなどの制作にあたった。しかしSACOとの協定に縛られて、OSSのMO班が独自の活動ができたのは、日本の降伏までの半年間でしかなかった。

 印刷物は昆明本部、三つの前線本部、多数の前線で作られた。本部では長文で、時間が限定されない一般的、戦略的なもの、前線では戦術的、直接的、短文のものに分けた。編集物は中国語と日本語で印刷された。本部では約二百万部のプロパガンダ印刷物を作成、配布したが、そこには三つの週刊の地下新聞が含まれていた。前線では一~二人のアメリカ人の監督を中心に、中国人の工作員が作成。工作員“細胞”が都市、駐屯地などの敵支配地域に作られ、プロパガンダのメディアは秘密のルートでその地域に運ばれた。

 中国全体のMO部門には七十四名のアメリカ人がいた。昆明本部所属のMO部隊には、二十一人のアメリカ人が配置された。そのうち五人はブラック・ラジオの制作を担当した。二人が日本支配地区に潜入し、残り十四人が三つの前線で活動に従事した。

 これらの作戦の効果は、心理的な影響の測定が困難なため評価しにくいと述べながら、華南関係で十項目の結果をリポートは列挙している。

  一 広東、香港などで五十六人の工作員のネットワークができ、ブラック作品の配布の秘密活動を実行。

  二 香港、九竜では、ホテル、商店、市場、散髪屋などでビラを配布。

  三 日本軍がMO隊の摘発に乗り出し、九竜では新たな憲兵駐在所や歩哨所があらわれた。

  四 九竜では日本当局がMOビラを届け出た者に米を特配。

  五 八月はじめ日本当局は香港で防諜組織を作り、MO隊への反撃プロパガンダと破壊作戦の摘発に動き出す。

  六 衡陽では、一万枚のビラ配布後に三百人の傀儡政府軍が投降。そのビラには、日本軍との今後の協力は危険との内容があった。一方、日本軍はビラを読む者は処刑するとの警告を出した。

  七 衡陽では、多数の傀儡政府軍と朝鮮人兵士が脱走。朝鮮人脱走兵はさっそく日本軍にいる朝鮮人兵への手紙を書く任務を与えられた。その手紙は工作員が配布。

  八 衡陽では三紙一万二千部を配布。

  九 衡陽の工作員は、重慶ラジオから原爆ニュースを聞いた数時間後に号外を発行。

  十 長沙で“抗日組織”を装った組織がビラを出したところ、日本軍は全市の印刷所や倉庫を捜索。

四 コロンビア・プロジェクトと鹿地亘

 アメリカ各機関の鹿地詣で 昆明から発信されたブラック・ラジオの三波はいずれもが中国語の方言を使い、中国人を対象としたものであった。したがって台本書きなど編集作業を行ったのは、中国人であった。もちろんグリーンズ・プロジェクトと同じように、その内容を中国語が理解できる白人がチェックしていた。日本軍のプロパガンダに対抗するブラック活動を行うために、昆明のMO部隊には、中国や日本本土でなされている日本語放送の傍受活動を継続的に行っていたが、それも白人が担当していた。

 したがってコロンビア・プロジェクトには、初期の段階では、日本人や日系人が直接関与していなかった。しかしOSSでは、本土の日本人や中国前線の日本兵むけの日本語放送を当初から想定した準備をしていた。実際、SACOとの協定では、上海付近からの日本の本土むけの放送の計画を謳っていたのである。七・五キロワットの送信機が設置された段階で、マリーゴールドやコリングウッドの日系人を呼びよせる計画があったことは、先の「最終報告書」にも出ていた。そしてそれを裏づけるように、コリングウッドとグリーンズのプロジェクトの日系人側の実質的指導者だったジョー・コイデを、サイパン・ブラック・ラジオが成功する見通しのついた四十五年五月頃に、サンフランシスコから呼び寄せる計画もあった。

 ジョー・コイデの能力やOSSへの協力ぶりがOSSによって高い評価を受けたことは事実であるが、しかし鹿地亘(図36)ほどの実践的パワーと組織力、動員力をもつ人物は、アメリカの日系人社会には見当たらなかった。鹿地は東大文学部卒業後、マルクス主義芸術運動に参加し、日本共産党に入党した。まもなく検挙され、転向ののち釈放された。一九三六年に上海に渡り、魯迅の知遇を得た。さらに、日本軍を避けて上海から香港、武漢、重慶に行く。そして国民政府と協力しながら、国民政府軍に捕えられた日本兵捕虜を教育し、日本人民反戦同盟を組織。日本兵捕虜と一緒に前線に赴き、日本将兵への反戦プロパガンダ活動を行った実績があった。だがその後、鹿地や彼の捕虜グループが国民政府に批判的であるとの理由で、政府によってその活動が禁止され、彼のグループも再び鎮遠の捕虜収容所に入れられていた。そして彼は妻の池田幸子ら数人と重慶で独自の活動を行っていた。こうした経緯があったので、重慶を訪れた対日の諜報やプロパガンダの専門家ならだれしもが鹿地の存在に気づき、その利用を考え、接触を試みようとした。鹿地の回顧録によると、在華イギリス大使クラーク・カーが一九四一年末、アメリカ国務省書記のジョン・エマーソンが一九四四年十月と十二月に、同じく国務省書記のジャック・サービスが一九四五年五月に彼と会っている。

 OSSの鹿地へのアプローチ OSS関係者では、一九四三年に、ドノバン長官の使者として、ファース准将が来ていた。さらにリットル少佐がOWI幹部のフィッシャーとともに一九四四年春に訪れている。第二章で紹介したCBI視察報告書では、鹿地訪問の記述はないが、鹿地によれば、彼は日本軍への宣伝活動で協力してほしいと申し入れたらしい。「仕事の内容は日本字新聞の発行で、必要な資材、資金をすべて米国側でまかない、日本側からは編集スタッフを提供する。新聞の編集権は鹿地にまかせる、というのであった」。そこで鹿地はこれが鎮遠の同盟員を再解放する願ってもない機会になると判断し、米国側から国民政府に再釈放の件を交渉することを条件にして、提案に同意したと回顧録で述べている(10)。

 鹿地の回顧録は続いて、リットルが帰国した後、後任者のデューリンが、具体的な打ち合わせにたびたび訪れてきたことを記している。その最初の時期が四五年三月三十日以前であることはたしかである(11)。鹿地は反戦同盟から十五人の日本人をこの事業に参加させるため、収容所から彼らを出すのに協力してほしいと要求した。これに対し、デューリンは、出版活動の基地が雲南省昆明の米軍基地付近に設けられ、一切の準備は進行しており、日本側つまり鹿地側に協力する米国側スタッフとしての藤井周而、八島太郎ら五人が新聞活字をもって、本国を出発したと伝えたという。

 これを裏づけるOSS資料がいくつかある。そのうちデューリンが四十五年六月四日にワシントンMO極東本部のケネス・マン大佐とリットル中佐あてに送った文書「鹿地と一世、アメリカからの二世・一世グループ(12)」、「鹿地との予備会談(13)」の二点を全文訳しておこう。

   鹿地と一世、アメリカからの二世・一世グループ

 一九四五年六月四日

 ご存知のように、われわれはまだ彼ときっちりとした契約や協定を結んではいないが、鹿地亘は大変役に立つ人物である。

 彼は現在重慶にいるので、私が数日中に訪ね、昆明に来てしばらく滞在するよう要請する。昆明でわれわれは最終協定を結び、彼の小さな捕虜グループを使って日本語のメディア制作の最初の計画に着手することになろう。その後、彼を重慶にもどし、彼のグループを昆明に連れて来て、腰を落ちつけて基地をつくる予定である。

 私は鹿地を日本班の長に使う計画をもっている。この班は二つの日本人のグループから成り立つ。その二つとは(1)アメリカからの二世・一世グループ、(2)重慶の鹿地の組織から選んだ数人の捕虜グループである。これら二つのグループを一つの作戦班にまとめ、昆明郊外の安全な基地で生活させ、作業させる予定である。

 組織上からすると、鹿地は編集主任のロジャー・スター大尉の配下となろう。もちろん、実際において、彼の任務は全てのOSS部門にたいする日本事情専門のコンサルタントであり、言語の専門家ということである。同様にこのことは、また日本班の全メンバーにあてはまる。鹿地はアメリカ側からはハリー・フォックス氏に直接的に補佐されることになろう。

 その専門家集団という性格から見て、日本班は出版部門・ラジオ部門の双方で、高度に本物らしい“ブラック”型の日本語メディアづくりに役立つだろう。さらに私は、戦場での翻訳者かつライターともなりうる能力のあるこの班の全員を、可及的速やかに前線に派遣したいと考えている。

 日本班はまた、われわれのラジオ番組に必要な日本語を話す人材を供給してくれるだろう。これは、強い電波で日本や華北に到達する七・五キロワットの送信機を使った放送を始めたとき、とくに重要となる。戦争が近い将来進展を見せたとき、中波で放送できる施設を得ることがさらに重要になる。そうなれば、鹿地や日本班は、政治的知識と言語能力をもつ非常にすぐれた専門家集団を提供してくれるだろう。かかる小集団にとっては、ブラック・プロパガンダの目的に必要な、例えば“新日本”組織とか“臨時日本政府”開設とかいったもっともらしい仮想組織をラジオでデッチ上げるのは比較的簡単なことであろう。

 鹿地自身は、平均的な日本人に容易に受け入れられる憲法や政府組織の構想を非常に短時日に提示できる能力をもっていると、私は確信している。

 ご承知のように、ワシントンからの最近の電文に示された追加の七人の二世・一世グループの受け入れ承認を、現在中国国民政府やインド政府に求めている。承認が得られれば、彼ら七人の日本人には飛行機を優先的に手配して、一人の有能な将校が護衛につき、七月にアメリカを発つことが可能である。私の考えではザルツスタイン大尉がこれにふさわしい。さらにアメリカの人材の中から少なくとも十人の二世軍人をあなた方が確保してくれると期待している。ドアリング大佐とザルツスタイン大尉の両氏は、この点についての必要性をよく知っている。

 昆明にいるMO責任者のデューリンは、ブラック・プロパガンダの作戦にとって、鹿地はむろんのこと、彼が指導する日本兵捕虜集団がきわめて役立つと見ていることがわかる。鹿地らはビラ、パンフづくりばかりでなく、ラジオ番組の台本書き、さらにはラジオ要員として有能と見込んでいる。予想よりも早い終戦の到来で実現しなかったが、日本むけの中波による本格的ブラック・ラジオを担う中心グループとして、鹿地らへの期待は大きかった。なおデューリンは、彼らと国民政府軍とが組んで行ったプロパガンダ実績や経験を調査し、その能力への確信を得たのであろう。また鹿地には、アメリカから飛来する予定の七人の二世・一世グループをも指導する役割をもたせたいと考えている。つまり彼は、捕虜と二世・一世グループを束ねるMOの日本班の指導者としての力量をもっているとの高い評価を受けていることがわかる。

   鹿地との予備会談

 一九四五年六月二十六日

一 私は当地昆明で鹿地と三日間の会議をもち、彼と彼のグループとの将来の計画について議論した。

二 この会議での話し合いは、一般的な計画についてであり、詰めるところまでには至らなかった。私はわがスタッフの主要人物を全員紹介できた。私は今日重慶に帰り、鹿地との協定の締結の準備を進めるとともに、できれば彼の捕虜グループのメンバーを選抜して、わが陣営のために釈放するよう国民政府に働きかける予定である。

三 OSSと鹿地との公的な関係についていえば、非アメリカ人軍属の雇用の際に行われる通常の契約形態で彼を雇うのが最適なやり方だと私は確信している。鹿地と彼のグループに、なにか特別の地位とか特権を政府の名でもって与えるような契約を結ぶのは好ましくなく、また面倒なことになると考える。

四 鹿地と彼のグループの処遇にかんする私の見解は変わっていない。彼と捕虜たちをアメリカから来る二世・一世グループと合流させ、昆明で訓練した後、前線の工作にこれらの日本の小隊を張り付けるというのが私の考えだ。もちろん、この計画の成否は捕虜を前線の工作に使うことに指揮官の承認が得られるかどうかにかかっている。鹿地のグループが行う組織の再編、プロパガンダ、諜報活動という重要な三項目について鹿地と私は最近議論をかわしたが、私が重慶を訪問した際、彼にはそれに従ってもらうことになろう。

五 重慶滞在中、六~八人の鹿地のグループを、ごく近いうちに昆明に連れてくることにかんする協定を結びたいと希望している。そうすれば、鹿地は彼らをここに連れてきて、日本人のプロダクションを動かし、日本人によるプロジェクトをすぐに推進してくれるだろう。このスケジュールの下で、彼と支配下のグループが七月末に到着するやいなや、昆明で活動を始める予定である。彼の六十三名の捕虜集団が訓練されたプロパガンディストであり、そのうち三十人は活発な前線工作に十分に対応できるメンバーであるとの鹿地の見通しには、あなた方も興味を抱かずはいられないだろう。

六 捕虜や二世・一世グループの当地での収容地は、現在折衝中で、七月十五日直後に確保できるだろう。

七 「週刊日本兵新聞」という名の新聞を創刊する計画を鹿地と当地で議論したことも、あなた方は関心をもってくれよう。われわれは全体的なフォーマットや内容に合意したが、重慶への訪問の際に、その日本語の試作版を見せてくれる約束をした。私はそれを昆明に持ち帰り、ただちにプロダクションをスタートさせ、鹿地プロジェクトでの最初の日本語作品を示したい。この点で、当地への移送をチャビアで待っているフォックス氏が日本人のプログラムに適任であり、アメリカ側とのバランスをとるのに好都合と私は判断している。

八 重慶から帰ったら、私は鹿地の見解とそれへの対応をまとめる。さらに、その後に行う鹿地との最終協定の結果ならびに日本人プログラムの将来像についての完全なリポートをあなた方に報告できるだろう。

 これを見ると、鹿地は六月中旬に重慶から昆明を訪ね、三日間、デューリンと協議していて、彼のグループをも含めたブラック・プロパガンダ活動への参加は大きく前進したように見える。また、二世・一世グループと連携して活動を行って欲しいとのOSS側の提案に、鹿地も異論がないことがわかる。この時点では、捕虜をアメリカ人以外の外国人と見なした雇用形態も問題がなさそうだ。残るデューリンの懸念は、前線の指揮官が彼らのブラック工作活動を承認するかどうかということであった。

 デューリンがOSSの中国駐在のヴォルター中尉に送った七月二日付の文書がある(14)。そこでは、鹿地グループの捕虜収容所からの釈放問題が記されている。鹿地が選んだ十人の名前を列記し、彼らの能力と安全性については鹿地自身が保証している。OSSではこのうち五人をできるだけ早く昆明へ鹿地とともに連れて行き、日本語による破壊的なプロパガンダ作品を作らせたいという。残りの五人は鹿地の妻と重慶に留まり、MOのアイデアやメディアをつくったり、収容所との連絡の仕事をさせる。アメリカはいったん釈放した捕虜は戦闘に参加させない方針をとっていた。鹿地グループの捕虜の身分はこの捕虜と同じ地位にするよう、OSSが国民政府に働きかける。それについて国民政府の国防相とデューリンは非公式の議論をしたが、鹿地によると国防相は捕虜釈放に前向きである。最後にデューリンは釈放者の名前が明らかになれば、すぐに前線指揮官に伝えて欲しいと結んでいる。なお、七月四日に二世・一世グループは昆明に到着する予定であった。

 デューリンや鹿地の見通しどおり、捕虜釈放までは実現した。ところが問題はその後に発生した。先の鹿地の回顧録によると、まもなく届いた契約書には、「米国政府への忠誠を宣誓」とか「機関の機密漏洩の場合、いかなる処分にも甘んずる」といったアメリカ軍の雇用契約書の項目があった。しかし、彼は自分も自分のグループも蒋政府の傀儡でないと同じように、アメリカ軍の雇われ者ではないし、もちろんアメリカ人でもない。したがってアメリカ政府に忠誠を誓ったり、機密漏洩の処分を受ける筋合いではないと署名を拒否した。デューリンは、署名のない契約は前例がないといって当惑した。しかし八月八日には、次のような合意書が作成された(15)。

 
 
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