teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:265/3577 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

ブラック・プロパガンダ その3

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 6月10日(金)15時21分17秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.waseda.jp/prj-m20th/yamamoto/profile/books/book02_05/content.htm

OSSと鹿地グループの合意書

一 OSSと協同する鹿地グループのうち、昆明のものをAグループとし、重慶のものをBグループとす。Aグループの責任者を鹿地亘とし、Bグループの責任者を池田幸子(鹿地夫人)とする。

二 A、BグループよりOSSに対しての約束

 1 政策的原則において背馳を生ぜざる限り、A、Bグループはアメリカ政府がこの工作継続の必要を認める期間にわたってOSSに協力する。目下、期間を厳格に定めず。

 2 A、Bグループはこの工作に関する秘密を絶対に厳守する(工作期間のみならず、将来にわたって永久に)。

 3 A、Bグループ各員の行動に関しては、各グループの責任者が一切の責任を負う。

三 OSSよりA、Bグループに対しての約束

 1 日本人民運動者の政治条件は国際政局(同盟各国と日本人団体との関係)の発展により、将来の変化あることを予想し、現在の条件で将来を拘束するおそれある一切の制約的条件を設けず。

 2 日本人民に対する影響を顧慮し、一切雇用契約の形式によらず、本質的にはOSSが日本人グループと協同して一個の事業に当るものと認める。

 3 中国政府との関係および自由日本人組織運動の必要により、工作継続に影響を及ぼさぬ条件の下で、鹿地は工作地点を離れる場合あることを承認する。

 4 日本人グループの必要により、工作継続に支障せざる条件の下で、Aグループの人員を交替せしめる場合あることを承認する(ただし双方の協議をへて決定する)。

四 OSSよりA、Bグループに支給される手当

 1 鹿地亘と池田幸子に各二〇〇ドルを支給する。グループ各員は目下同盟国側より俘虜と認められているゆえ、金銭による手当を支給せず。ただし衣食住をOSSより支給す(ただし、Bグループにたいしては右費用を支給する)。

 2 グループ各員の身分の認定は暫定的なることを承認す。米国政府、国際政局の発展により、将来これらグループ各員の身分上変化を生じたる場合、(四)の(1)は改正されるべきものとする。

    一九四五年八月八日

 結局、「契約の問題は後まわしにして、紳士協定として、仕事を実際的に進めることにした」と鹿地は述べている(16)。

 藤井周而ら七人の到着は遅れ、八月に入ったようである。打ち合わせに鹿地は昆明に飛んで、藤井と会見した。ドノバンも昆明に来ていて、鹿地のことを聞き、外国人亡命者でそんな態度の人物はおもしろいから会いたいといってきたらしい。しかしまもなく終戦となり、鹿地はドノバンとも会わなかったし、「米軍との協同事業は協定に達せず、実を結ばないうちに閉じられた」という(17)。

 鹿地やデューリンらは新聞やビラづくりについては記しているが、ラジオについてはあまり触れていない。しかし、鹿地らがブラック・ラジオにも動員される予定であったことは、オーチンクロスが四十五年六月の「月報」で、鹿地グループとアメリカから来る日系人グループがコロンビア・プロジェクトづくりに参加する計画があると述べていることからわかる(18)。

 鹿地が会ったという藤井は当時、中国の「OSSに参加していた」と語っている(19)。その頃、OWIで昆明にいたヨネダは、藤井の滞在の情報を耳にしてOSS本部を訪ねたが、MOの秘密工作従事のため面会を拒否されたらしい。藤井と同行したのは、カミカワ、タモツ、キタ、コウチであった(20)。鹿地のいうように七人だったとすれば、残りの二人の名は不明である。いずれにせよ、名前のわかった五人はいずれもマリーゴールドのグループであったので、放送番組づくりの経験がなかった。



五 アップル・プロジェクト--延安でのOSS工作と野坂参三

(1) 在朝鮮アメリカ陸軍CICとの接触

 なぜ野坂か 鹿地亘は一九五一年に在日アメリカ陸軍G-2(参謀第2部)直属のキャノン機関に拉致・監禁され、スパイ活動を強制された、いわゆる“鹿地事件”でも有名である。しかし戦前戦後を通じ、日本共産党を国際的、国内的に指導した野坂参三に比べると脇役でしかない。

 野坂は慶応大学理財科を卒業後、労働運動に入り、一九二二年に日本共産党創立に参加。翌年から検挙と仮出獄をくり返す。一九三一年、妻と非合法でソ連に入り、コミンテルンで活躍した。その後の履歴は後の供述を参考にされたい。だが、この野坂参三が第二次大戦期に、OSS、OWI、国務省など中国派遣のアメリカ機関の多様な人物と接触を重ね、鹿地と同様にブラック・プロパガンダでもOSSと協力関係を結んでいたことは、あまり知られていない。

 そこで戦後、彼が中国から帰国の途次、ソウルで接触した在朝鮮米陸軍CICの資料を手始めに、彼とOSS、とくにブラック・ラジオとの関係を含む全容を明らかにしておきたい。

 野坂の手紙 野坂参三は一九四五年十二月十九日付で、滞在先の北朝鮮の平壌から、ソウル駐屯アメリカ軍司令官ホッジに次のような英文の手紙(資料Ⅰ)を書いた(21)。

<資料Ⅰ>

  親愛なるJ・R・ホッジ将軍

 突然、乱雑な英文でお手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。

 私は日本人で、政治亡命者です。私は華北で日本人民解放連盟や日本工農学校を組織し、日本の侵略に反対し、民主日本を樹立する闘いを展開してきました。私は日本共産党中央委員会の元委員です。昨年夏に延安を訪ねてきたフォーマン、スタイン、エプスタイン氏などの外国特派員は、私の中国での活動について書いております。昨年七月に延安でアメリカ軍事視察団が設立されて以来、日本軍国主義者への心理戦争について、その視察団とずっと関係をもち、日本軍や日本国内の情勢についての情報や材料を提供してきました。視察団の全員がおそらく私を知っておりましょう。とくにアメリカ大使館二等書記官のジョン・エマーソン氏は昨年十~十二月に延安に滞在し、私に密着した活動をしていました。日本への心理戦争に従事していたアメリカのスタッフの人びととも懇意にしてきました。これらの事実の証拠をお見せするため、エマーソン氏の名刺やサンフランシスコのOWI日本部門主任のジョン・フィールド氏が私にあてた手紙のコピーを私の簡略な履歴書とともに同封させていただきます。(私は昨年夏に延安に滞在した朝鮮語の理解できる海軍大尉を存じていますが、残念ながら彼の名前を失念してしまいました。その方は現在朝鮮にいるかもしれません。)

 私と森、山田、梅田の三人の日本人は日本人民解放連盟(J・P・E・L)の指導者ですが、アメリカ軍事視察団にお願いし、延安のアメリカ当局の許可を得て、他の乗客とアメリカ軍飛行機で延安をたち、モンゴルの張家口南部のある町に今年九月上旬に着きました。そこから張家口へ行き、張家口からは満洲経由で今月十三日に朝鮮の平壌に着きました。ところがここで得たさまざまの情報から、南朝鮮での日本人の旅行は朝鮮人の反日活動のため現在非常に危険であり、朝鮮と日本との海上交通機関もないことを知りました。そのため、三十八度線からソウル、釜山を経て日本に安全に帰国するには、将軍の特別のご好意に甘えて旅行許可をいただき、私どもの安全と旅行の便宜を図っていただくしかないということになりました。私たちは朝鮮の友人の援助で三十八度線までは行くことができます。将軍が私たちの願いをお聞きくださり、ご援助をいただければ幸甚です。

 私たちが延安をたつ前に、私はエマーソン氏が東京に行かれることをアメリカ将校から聞きました。もしそうなら、氏は東京のアメリカ当局にかけあって私たちの問題の解決に奔走してくれましょう。

 私たちは日本に帰国すれば、今までのように日本の軍国主義の絶滅、日本の民主主義の擁立、太平洋の恒久平和のためにあらゆる努力をする所存です。そして延安でそうしたように、日本のアメリカ当局と協力し、私たちの共同の目的のために協力を惜しまぬつもりです。

 中国にはJ・P・E・Lのメンバーが約一千人います。彼らも満洲―朝鮮を経て、日本への帰国の途にあります。約三百人の第一集団が一カ月半か二カ月以内に平壌に到着するでしょう。彼らは日本軍国主義に反対し、民主主義を求めて積極的に働いた闘士であります。私は彼らの帰国についても、貴官のご援助をお願いいたします。(しかしこの件と、できるだけ早く当地を離れたいというわれわれ四人の件とは切り離してご検討ください。)

 私は平壌の朝鮮共産党組織局書記の金日成氏の所で、この手紙への貴官のご返事を待ちたいと存じます。ソウル共産党総書記の朴憲永氏あてにご返事をお送りいただければ、朴氏が金氏を経由して私に渡してくれる手筈となっております。好意あるご返事を期待しつつ  敬具

岡野 進(野坂 鉄)

  追伸

 私が延安をたつ前に、延安のアリヨシ准尉を通じアメリカ当局の援助を得たい旨のお願いをエマーソン氏に書きました。しかし氏の返事はまだ受け取っていません。おそらくコミュニケーションの状況が悪いためと思います。

 延安ニュースによれば、東京発の日本のラジオ放送は今夜、岡野と彼のグループが朝鮮に到着したなどと伝えました。これはアメリカ当局が私たちの旅に関心をもっていることを示しています。

 この手紙が末尾にあるソウル共産党総書記の朴憲永によって無事届けられたことは、四十五年十二月二十七日付のアメリカ陸軍CIC(対敵諜報部隊)諜報担当のニスト大佐から在朝鮮アメリカ陸軍G-2参謀次長あての文書(22)と同日の電文(23)から確認できる。そしてこの大佐は、あらゆる努力を傾注して、岡野が南朝鮮を通過する際、彼との接触を試みると述べている。当時、CICには野坂の情報はほとんどなかったようである。手紙の内容、手紙の届け人などからして、野坂が諜報機関としては軽視できない「大物」との認識だけはできた。そこでCICは八方手を尽くして、彼にまつわる全情報を彼のソウル到着前に集めようとした。東京でマッカーサーの顧問をしていたエマーソンにもその手紙のコピーを送り、彼からも野坂情報を得ようとしたと思われる。

 野坂の供述 岡野をソウルで尋問したのは、CICの第二二四支隊であった。四六年一月一日に彼は三十八度線を越え、同日に列車でソウルに到着した。その直後に彼は身元を証明するもの六点、活動歴、延安からソウルまでの帰国日程、今後の予定、政治目標と問題点などをCICに提供した。一月三日付のCICの「野坂参三別名岡野進」の「情報概要」という報告書(資料Ⅱ)は次のようになっている(24)。

<資料Ⅱ>

   野坂参三別名岡野進、年齢五十三歳

       住所 華北山西省延安

身元証明

 一 本人とバレット大佐の写真。大佐は延安軍事視察団の元団長で、現在、西安の陸軍班長と思われる。

 二 マクキャラン・フィッシャー OWI中国支局長。

 三 ジョン・K・エマーソン アメリカ国務省中国駐在大使館二等書記官の名刺。彼はCBIのアメリカ軍の顧問。

 四 クロムリー空挺部隊少佐の名刺。彼はアメリカ陸軍戦闘隊の隊長。

 五 複数のアメリカ特派員の写真。

 六 延安の日本工農学校の写真。

活動歴

 一~十(省略)

十一 一九三五年 モスクワの共産党会議に出席。「コミンテルン」の常任幹部会員に選出される。

十二 一九三六年 コミンテルンの地下指導者となる。日本共産党との接触を試みるが失敗した(工作員の注意書--これを語るとき、野坂は逃げ腰で、神経質となり、正確な場所や活動を供述しようとしなかった。彼は妻にもこの時期のことは話したことがないと語った)。

十三 一九三八~三九年 モスクワで共産党の仕事を継続。日本との接触なし。

十四 一九四〇年 地下の共産党指導者として華北へ行く。三年間北京、天津など華北の都市を旅行。中共八路軍の朱徳将軍といつも接触。

十五 延安に落ち着き、共産党の日本問題研究調査班と工農学校を組織。

十六 一九四四年六月 アメリカ特派員たちが来て、情報と助言を求めて岡野と接触。後に中国問題で本を書いたフォーマン氏も情報のため彼と接触。彼がかかわった別の仕事は以下のものである。

   A クロムリー少佐に戦闘情報を提供。

   B OWIのために日本のラジオ放送を傍受し、分析。

   C アメリカ民間外交経済派遣団に情報を提供。

帰国日程

四五年九月八日 アメリカ軍司令官の承認を得て、アメリカ軍輸送機で延安を出発。

   九月八日 霊邸着。

   九月九日 徒歩と自動車で霊邸発。

   九月十四日 張家口着。

   九月二十一日 張家口発。

   九月二十二日 長春着、日本行き飛行機提供をソ連に一カ月間求める。

   十二月十二日 列車で瀋陽発。

   十二月十四日 平壌着。

   十二月三十一日 トラックで平壌発、三十八度線へ向う。

四六年一月一日 徒歩で三十八度線を越え、アメリカ軍に迎えられ、十一時開城着。十六時四十五分、列車でソウルへ向う。

今後の予定

 東京に向い、共産党指導者の徳田球一、志賀義雄と接触する。社会党指導者の松岡や鈴木文治とも会う。

彼の今後の政治目標

 一 日本の民主化

 二 大企業の国営化

 三 民主原理に基づく憲法改正

 四 あらゆる勢力の糾合

 五 ポツダム宣言の実行

 六 生活状態の改善

 七 四つの自由の達成

 八 現在の日本支配者の辞任

彼の政治目標達成への予想される障害

 一 社会主義、自由主義指導者による拒否

 二 人民説得に要する時間の長さ

 三 現在不明な連合軍の政策

 四 軍部の若い将校、判事、内務省の役人などの抵抗運動

 五 神風特攻隊や武勇隊のような組織による地下運動やテロ

北朝鮮の状態

 彼は提供できるほどの情報がない。

 四六年一月十日付の文書で、岡野を尋問したガイスマー少佐は、そのリポートをCICの第二二四支隊長になるべく早くまとめるつもりだと伝えている(25)。つまり一月三日付の「情報概要」以外の尋問結果が一月十日以降にまとめられたはずである。だが、アメリカ国立公文書館にはそれに相当するものが見当らない。四六年五月二十三日付の東京のCICが野坂の帰国日程をまとめたものがあるにはある(26)。しかしそれは一月十二日に福岡、一月十三日に東京に着いたといったソウル以降の記録が新しいだけである。釜山から福岡までに同船した者には森健、山田一郎、梅田照文のほかに佐藤タケオという人物がおり、さらに野坂よりも数日前に釜山から福岡に着いた岡田文吉が、彼と東京まで同行したとある。

 以上、資料Ⅰ・Ⅱなど十点ほどが、アメリカ側が一九四五年から四六年にかけて作成し、その後公開し、筆者が一九九六年にアメリカ国立公文書館で入手した野坂の帰国関係の資料の全てである。野坂のアメリカ陸軍CIC、G-2文書は二つのボックスの二十二のフォルダーに膨大な量が保存されているが、四十七年以降のものに延安・帰国関係では新しい記述はない。

 回想記で野坂が回避したこと 野坂が帰国後出した回想記によると、一九四〇年三月にモスクワ訪問からの周恩来の帰国に同行し、モスクワから中国共産党の拠点延安を訪ねた。それ以来、一九四五年九月までの四年半も延安に滞在したことになる。しかし資料Ⅱでは、一九四〇年に華北に行ったとあって、延安訪問のことは出ていないが、活動歴の第十四・十五項の供述にあるように、華北到着後三年間は、八路軍のルートで北京など華北の前線や日本占領地などを極秘に訪問し、一九四三年に延安に落ち着いたとの新事実が出ている(27)。一方、一九九二年以降、ソ連共産党文書、国家保安委員会文書、さらには日本人民解放連盟同行者発言などによって明らかとなった延安からの帰国途中でのモスクワ訪問の事実が、アメリカ側に隠されているし、アメリカ側も全く掌握していないことも明白である。

 和田春樹『歴史としての野坂参三』は資料Ⅰ・Ⅱに関係する野坂の動きを、「帰国前のソ連行き」としてかなりのスペースを割いて記述、分析している(28)。エマーソン文書を通じて、資料Ⅰの存在や内容の概要が示唆されている。しかし手紙の内容の記載はない。ともかく同書によれば、彼のモスクワ訪問後のソ連共産党の対応は、彼をソ連のエージェントやスパイに仕立てることではなく、徳田球一よりも信頼できる彼を日本共産党内部で盛り立て、彼を通じて日本共産党の指導を行うことをねらっているものだという。野坂自身はモスクワ訪問をその時点でマスコミなどに伝え、公然化しようとしたが、ソ連がアメリカとの関係で、発表を抑えたらしい。というのは、モスクワ訪問がアメリカ側にわかれば、彼を使った戦後日本への工作が奏功しない恐れをいだいたからとされる。もしソ連の意向や思惑への配慮がなければ、彼は四五年九月二十二日から三カ月近くも長春、瀋陽などに滞在したといったウソの供述をCICにしなかったはずである。

 荒木義修『占領期における共産主義運動』は野坂の朝鮮半島通過の模様を、主として野坂自身の回想記などに依拠してまとめている(29)。資料Ⅱでは三十八度線をアメリカ軍の誘導で越えて、ソウルにその日のうちに到着したとあるが、同書にある野坂の回想記では境界線で一泊したと述べている。

 しかしこの違いにはさしたる意味はなかろう。むしろ重要なのは、野坂がソウルでアメリカ軍に抑留されたものの、氏名、年齢、帰国目的など、「型どおりの取り調べ」を受けたと、戦後日本でまとめた回想記ではさらりとしか述べていない点である。ところが資料Ⅱから見るかぎり、またその前後のアメリカ軍とくにCIC資料から判断するかぎり、野坂はかなり執拗な尋問をアメリカ軍側から受け、それに対してかなり丁寧に答えていることに注意せねばならない。とくに延安で接触したアメリカ軍事視察団いわゆるディキシー・ミッション関係者の具体的な名前と彼らとの協力関係を供述したり、一九三六年でのアメリカの滞在を示唆したり、華北到着後から延安定着までの三年間は八路軍支配地域を視察したことなど、彼が生前ほとんど語らなかった事実を明らかにしている。しかも供述した相手機関がCICというアメリカ陸軍の諜報機関である。尋問者はその機関の少佐であり、その尋問室には別の隊員が同席して鋭い目を光らせていた。つまりCICは彼の滞在中に今までの足跡と背後関係、そして日本での行動予定を彼自身の口から引き出そうと積極的に対応したことがわかる。

 野坂ほどの経験と能力のある人物なら、尋問の際、CICの姿勢や意図を明確に理解したはずである。そしてその尋問光景を回想したとき、彼がCICの尋問に協力的であったことは自身で認識していたはずである。しかしCICへの具体的な供述内容についてはむろんのこと、CICの名前が、彼の回想記などからは意図的に排除されていたと見るのが妥当であろう。

(2) 延安でのOSSブラック・ラジオ設立への協力

 OSSラジオ主任、延安へ ところで野坂とOSSの協力関係が、本書で扱ったブラック・ラジオでも見られたことはたしかである。実際、野坂の南朝鮮通過の要請を受けたホッジ司令官〓下のCICは、延安で「岡野がラジオ局の設立や日本への諜報工作員の派遣についてOSSへの支援を買って出た」ことを報告書にまとめている(30)。

 証拠は他にもある。昆明を拠点としたブラック・ラジオのコロンビア・プロジェクト主任だったオーチンクロス中尉は、一九四五年六月四日付の報告書で、彼とモルウッド副主任、そしてヤング技術アドバイザーの三人が延安に行き、共産主義者と協定して、ブラック・ラジオ局を設立する予定であり、中国語と日本語が話せ、書くことのできる人材を得る予定であると述べた。日本語の要員を野坂の率いる日本人民解放連盟の日本兵捕虜に求めるとの明記はないが、昆明でのケースがそのまま延安にあてはまることは確実である。OSSの延安でのラジオ活動が一部すでに動き出し、また野坂ら解放連盟との協定が具体化しつつあることも示唆している(31)。コロンビア・プロジェクトの日本軍むけ放送局が鹿地亘と日本兵捕虜の協力で開局間際まで来たのに自信を得たOSSは、華北でも野坂らの協力でラジオ局を設置しようと動き出したことがわかる。

 ところが資料Ⅰには、国務省のエマーソン(図38)、OWIのフィールド、コージ・アリヨシ(日系二世)などの名が、資料Ⅱには、エマーソンの他、ディキシー・ミッション団長のバレット大佐、OWIのフィッシャーとアメリカ空挺部隊少佐のクロムリーの名があがっている。毛沢東ら中共要人に歓迎されたのはエマーソンだけではなかった。ミッション参加者全員が歓待された。野坂は、そのアメリカ人たちから盛んな接触を受けたことをCICに示したかったのだろう。ここに出たクロムリーは本籍はOSSであったが、空軍に出向していたので、野坂はOSS将校と認識していなかったと思われるし、在朝鮮のCICに空挺部隊少佐との肩書きを書いても間違いではなかった。

 アップル・プロジェクト ともかく野坂はディキシー・ミッションの延安到着以来、OSSの将校との接触を深めていた。彼はミッション第一陣のコリングとスティールという二人のOSS大尉に対し、四四年八月二十二日に満洲、朝鮮、さらには日本への工作員派遣を申し出た。ミッション派遣には、蒋介石ばかりかアメリカ大使館や軍部の一部からも強い反対があった。毛沢東に利するとの懸念が反対論の根拠であった。そこで陸海軍、国務省、OWI、OSSなどの各機関は団長の統制下に行動し、共産党に利用させないとの内部協定ができていた。ともかくこのだしぬけの提案にびっくりした両人は、団長を通じてのみ重慶に電報を送るべしとのミッション内部での取り決めを破り、「原文暗号即時破棄、コピー禁止」と付言した秘密電報を重慶OSSのホール大佐に送った。その際、このプロジェクト名にアップルというコードネームをつけた(32)。かねてOSSは華中、華南に比べて弱い華北、満洲への工作員の潜入を図っていたが、なかなか思うような成果があがらなかった。ディキシー・ミッションへのOSSの参加目的の一つは、中共支配地域を媒介したこれら日本軍支配地域への浸透にあった。OSSは朝鮮さらには日本本土への潜入にかんしては、日本軍の防諜障壁が堅くて厚いため絶望視していた。野坂の指揮下にある数百名の日本兵捕虜とその組織日本人民解放連盟の日本軍への反戦プロパガンダ活動への関心、評価は、OSSでは当然高かった。野坂の組織こそ、華北のみならず中国全体、さらには日本本土でのOSSの第五列になると期待され、それを知ってか知らでか、野坂がOSSのミッションに積極提案をしたのだから、二人の将校が小躍りするのは無理もなかった。

 このアップル・プロジェクトはその後、終戦まで継続的にOSS内部で真剣に議論されている。当初、重慶のOSSでは、この潜入に必要な資金は四十万ドルと試算し、巨費はかかるが、よいギャンブルであると評価している(33)。ラジオ局設立の際には、ラジオ施設とラジオ技術者を延安に送ると述べた。また一年後の四五年七月の資料は、野坂とOSSとの話し合いがかなり具体化していることを示している(34)。次は日本本土潜入工作の可能性をOSSで分析した箇所である。

 日本へ工作員を潜入させるという岡野進の提案がOSS内部で受け入れられるとなれば、それに参加する少数者は短期間に集中的な訓練を実施して、なるべく早く派遣されるべきである。日本への工作員の潜入は岡野のグループが決めたルートと隠蔽工作によってなされるだろうし、成功する可能性も高い。その際、サワダが日本から中国に密入国した際に使った協力者たちを活用することになろう。工作員が日本に潜入すれば、共産党の地下組織との接触が図られ、彼らの保護を得て、諜報システムが展開することになろう。潜入計画の初期の諜報活動は、共産党グループが潜行している特定の地域、工場、施設のみを対象とするだろう。権力者による日本人民への支配は強固なので、諜報活動の範囲の広がりは遅滞し、困難であろう。活動は空襲による混乱や人びとの疎開といった支配機構の弱体化を利用して展開されねばならない。そうすればしだいに、工作員は山東半島のOSSの受信所に無線で送信することができるようになろう。ともかく華北から日本への工作員の派遣が危険をともなうことは明らかである。日本本土の情報はひどく不足している。一方、共産党は健在であるため、この工作は危険を冒しても決行すべき段階に来ている。

 このような計画がOSSと野坂との間で延安において練られたわけである。彼は日本共産党の日本での潜在勢力の強さを、OSSにやや過大にアピールした。しかし説得力があったのは、ここに出るサワダなる共産党員の日本から延安への到着であった。このサワダは岡田文吉である。岡田は一九三九年、網走刑務所出獄後、徳田球一らの指令で、朝鮮、満洲、華北を経て、一九四三年夏、延安にたどりついた。彼は徳田に任務を与えられ、本土から延安にきた唯一の共産主義運動経験者であったし、野坂の指示を受けて、一九四五年春に帰国の途についた(35)。

 この日本潜入工作のアップル・プロジェクトにはブラック・ラジオが連動していたこと、つまりOSSのMO活動であったことは、華中、華南で展開された先のコロンビア・プロジェクトから見ても明らかである。

 なお、OSSは野坂の組織した華北全域の日本人民解放連盟の巨大・細密な組織図(図39)を作成した(36)。この組織図によって、連盟と中国共産党、八路軍、新四軍との関係、朝鮮独立同盟などとの関係も判明する。OSSはこの組織図を使って、華北への工作を進展させることをねらっていたわけである。ただし作成年月日は戦後の一九四六年であり、その時点ではOSSの作戦部門は実質的には解散して陸軍省に吸収されていたのであったが、OSSの執念と周到な準備があったからこそこの図を完成し得たといえる。これほど大規模で精緻な図は、現在でも作成されていない。

六 語りにくい諜報機関やブラック・ラジオとの関係

 ここでは、第三~五章に出た主要な日本人あるいは日系人が、生前になぜアメリカの謀略機関とのブラック・プロパガンダでのかかわり合いを語りたがらなかったかを総括しておきたい。

 彼らはOSSが暴力的手段をも駆使する謀略機関であり、そのMO活動や、ブラック・プロパガンダはその一手段であることを認識していた。しかし、これだけが沈黙を強いた原因ではなかった。

 野坂の場合 延安から日本への帰国途中における野坂参三のモスクワ訪問は、アメリカの諜報機関の資料では、陸軍ではなく、OSSのものに次のようにわずかに記載されているだけである(37)。

 岡野進は日本の共産主義者であるが、延安で盛んに活動した後、日本への帰国途上で秘かにモスクワを訪問した。彼は日本滞在を終えた後、一九四五年十二月中旬に再びモスクワに旅立つ予定と報じられている。彼は延安に戻り、そこで活動を続ける計画をしていた。

 しかし野坂のモスクワ訪問は、その他のOSS資料には見当らない。おそらくこの資料はアメリカ情報機関から注目されたり、評価されることはなく、埋れてしまい、アメリカのどの機関もモスクワ訪問を把握していなかったと考えられる。あるいはここには四五年十二月以前での日本滞在、つまり日本への帰国を示す記述があるため、信憑性が低いと他の機関から見られたのかもしれない。

 ともかく彼のモスクワ訪問の事実は先述のように、一九九二年以降のソ連共産党文書や国家保安委員会文書の公開によって、秘密ではなくなった。野坂はモスクワでソ連共産党や諜報機関幹部らに会って、帰国後の共産党活動の方針を協議し、指示や資金を受けていたことが明らかとなった。

 野坂がアメリカに対し日本への帰国協力要請を行う意向をソ連に示し、またソ連訪問を公然化する考えもあったことは先に紹介した(38)。また資料Ⅰの追伸にあるように、延安を出発する前に、OWIのアリヨシを通じ帰国へのアメリカ軍の協力をエマーソンに依頼する手紙を出していた。つまり野坂からの手紙を受け取ったエマーソンが公表しさえすれば、彼の帰国は、アメリカ軍にも日本のマスコミにも周知となることを見通していた。彼はエマーソンあての手紙をすでに延安出発前に出したことを、ソ連当局に言いそびれたのである。

 野坂には中国共産党、ソ連に加えて、アメリカの後ろだてを得れば、戦後の日本で日本共産党のみならず政界全体を主導できる地位に就けるとの計算があったにちがいない。彼は延安で、アメリカの国務省、陸海軍、OWI、OSS、さらにはメディアのアメリカ特派員らの相次ぐ取材攻勢や協力の要請を受けていた。彼らが野坂の戦局分析の鋭さと行動力に高い評価を与えていたことを、彼自身が知っていた。彼は帰国後の日本でも、アメリカの各機関から歓迎されると予想していた。しかし占領期の実権を握るマッカーサーのGHQとの接触は初めてであった。したがってホッジへの協力要請の手紙は、エマーソンへのそれと同様に、占領下日本でのGHQはじめアメリカとの関係強化の契機にしたいとの戦略上の配慮があった。なぜなら朝鮮通過はアメリカ軍の協力を得なくても、安全だったからである。彼はソウルでのアメリカ軍との接触は表敬的で、CICによる尋問は儀礼的なものと考え、延安のときと同様に積極的に協力しようとしたにちがいない。

 ところがCICの尋問は、思いのほか彼の行動の核心をつく厳しいものであった。また、日本に凱旋帰国はしたものの、冷戦の進行で、秘かに期待していたGHQからの彼への支援はなかった。エマーソンも延安のときのような友好的な態度を示さなかった。それどころか彼が第二の指導者となった日共は、しばらくしてGHQの弾圧の対象にさえなった。したがって彼はソウルでのCICとの接触を、帰国後の政界とくにGHQ工作に活用できなかった。またGHQと日共との関係悪化で、ついにその接触の詳細を語ることはなかったのである。ましてや延安でのOSSとの協力関係は公言すべきものではなかった。OSSは解散したものの、一九四七年にはCIAとして復活し、反共の諜報機関として日本でも徐々に暗躍しはじめたからである。

 ジョー・コイデの場合 野坂はソウルでのCICの訊問に対し、一九三六年頃のアメリカ滞在中の行動は妻にも語らなかった秘密だ、と苦しそうに供述している。当時、彼のアメリカ西海岸での工作に協力したのが、サイパン・ブラック・ラジオを立ち上げた日系人プロジェクトの中心人物、ジョー・コイデであった。コイデは自伝『ある在米日本人の記録』をまとめた際、野坂との関係を語らなかった(39)。さらに、コイデはOSS要員以前の収容所時代、シカゴ工場時代を対象とした同書の上巻では、登場人物は実名をあげたのに対し、下巻のOSSの「宣伝部員時代」では、次のような事情で登場人物全てを仮名とし、全体をフィクション風の記述に変えてしまった(40)。

 後半は、ハート山からシカゴに出市して、満一ヵ年待機した筆者が、どのような経路でワシントン入りをし、そこで初めて知り合った数十人の日系人と、終戦までの一年間を、どのように過したかを書いたものである。

 日米戦争中、米国政府の傭員となった日系人は、莫大な数にのぼる。だが、これらの人々が、具体的に、何をしたかについては、あまり知られていない。戦後二十数年の今日、こういった記録は、今や公表されていいのではなかろうか。

 本書のこの部分は、内容がデリケートなため、物語風に書き下ろされた。一冊にまとめて出すと決意した時、前半と同じ形にすべきかとも考え、友人達に相談した。『事実を事実として、すべて本名でだせ』という者と、『そのままで』という二つに分かれた。結局、原形のままにした。前半と後半のつながりに円滑を欠き、よみづらい点があるとすれば、ご容赦をねがいたい。

 この本のなかでコイデは、日本の再建を願う真実の番組を送っていたことを強調しているが、ソースを隠している以上、彼の活動がブラック・プロパガンダであったことはまぬかれない。また彼ほどの知性と政治的感覚のある人物なら、自分の活動の本質を十分に認識していたはずである。上巻に見られた、確かな記憶に基づく明快な分析、記述に対比して、下巻は肝心なところが抽象的、文学的な表現となっている。ただ単にアメリカ当局への配慮からそうしたとは思えない屈折した表現に接すると、晩年のコイデには、日本人として自分たちのやったことは結果的に祖国を裏切ることになったのではないか、という思いが去来していたのかもしれない。ちなみに、彼の本のタイトルは「在米日本人」となっていて、日系人とか、一世といったことばを使っていない。

 坂井米夫の場合 坂井米夫はこのコイデに誘われて、グリーンズ・プロジェクトに参加し、活躍した。彼は戦後、『私の遺書』など多数の著書を出しているが、どこにもOSSとの関係を記述していない(41)。ところが、彼の残した文書のなかに、次のドノバン長官のOSS解散時における要員への通達が残っている(42)。

   各位

 一九四五年九月十三日

 OSSに所属したみなさんは、その作戦や人員の安全性に責任を負わされてきた。みなさんの多くは本機関に雇用されたり、指名されたことによって得られる情報を口外しないとの誓約書に署名した。

 みなさんは、敵国との戦争に関連した高度の機密情報を任されたが故に誓約させられた。OSSは、安全性の確保には特段の高い水準を維持してきた。みなさんがこういったかたちで任務を解かれたことは本当に喜ばしいことである。

 敵の敗北にともない、この組織の活動は実質的に終了した。したがって、厳格な安全性確保への義務の多くは存在する理由がなくなった。これらの義務内容を緩和することがこのメモランダムの目的である。以下に記す戦時のOSSの活動を一般的な言葉を用いて口頭で発言することは、特別に今や公認されるようになったことをここに明らかにしておきたい。

  公表許可事項

 OSSの要員は敵の後方で特別な偵察活動を行い、レジスタンスやパルチザンの集団を訓練、供給し、連合国軍を効果的に支援する活動を行ってきた。わが国や海外での訓練場所、兵站基地、輸送部隊の確保は、これらの目的達成に必要であった。

 諜報の分野では、とくに軍事、経済、政治、地理的なあらゆる面での敵国や敵支配地域に影響する情報の収集、分析、発表にOSSの要員は従事したといえよう。OSSの工作員は、この種の情報を得るべく、アメリカ人、外国人を問わず制服あるいは平服で敵支配地域に潜入した。T部隊は連合国軍の前衛において、連合国の目的のために軍事的、経済的に大きな価値をもつ文書の捕獲に努めた。さらにOSSの要員は、敵のために破壊的ないし諜報的活動を行う人物にかんする情報を収集し分析する任務を課せられていたといえるかもしれない。

 これらの多様な機能の遂行のために、多種多様な背景をもつ市民や軍人の専門家がリクルートされたといってもさしつかえない。類似した活動に従事するアメリカや連合国の他の機関や部門とも、密接な連携を保った活動を行ってきた。

 これらの活動を行うため、多数の行政職や軍務職や事務職の要員が必要であった。特別部門は、たとえば武器や設備の実験と開発、地図制作、複製、通信、心理戦争研究、写真、医療サービスに従事し、それぞれが全体のプログラムの遂行になくてはならない貢献をした。

 したがって(以下に述べる制限事項以外の点について)、みなさんが自分自身のOSSでの仕事を家族や友人に今や口頭で明らかにしてもよくなったといえよう。しかしわれわれが敵に全面的な勝利を収めた事実にもかかわらず、外国政府は知らないし、あるいは外国政府に知らせるべきでない事項がかなり残っている。そのほかにも、わが国政府、連合国や勝利を早めた勇気ある仲間を当惑させたり、危険に陥らせるものがある。この関連でとくに重要なのは、作戦要員の身元は、本人自身がこの組織と関係していたことを公表しないかぎり、明かすべきではないということである。したがって、以下のことは決して言及されるべきではない。

  公表禁止事項

 一 以上の公表許可事項以外のOSSの全ての活動

 二 前述の一般的情報を除き、OSSや他の機関のファイルに機密として指定されている全ての情報

 三 たとえば秘密ないし隠蔽作戦に用いられた特殊な技術、手段、方法、要員の身元を含む全ての作戦の内容

 四 連合国政府におけるOSSに相当する機関の名前、組織、機能、要員に関するあらゆる種類の言及

 新聞、ラジオ、書籍、講演で発表される情報も同一の一般方針に従うことになるが、これらの場合の情報は公表の際、長官あるいは機密解除事務所(海外では、戦略諜報将校)に許可の申請を行わねばならない。

 常に念頭に置いて欲しいのは、OSSが戦争機関として設立されたことである。この組織はそれ以外の使命をもつ機関ではなかったし、今もなお然りである。それは専らわれわれの敵を迅速に敗北させるためにのみ設立された。その任務が完了したわけである。

ウィリアム・J・ドノバン長官

 この通達は、採用時にOSS要員全員が国家機密を漏洩しないことを誓約させられていたことを示している。だからこそ、OSSとの正式の契約書へのサインを鹿地亘は要請されたにもかかわらず渋ったのである。結局鹿地はサインを拒否した。一方坂井は、アメリカ国籍がなかった一世であったにもかかわらず、OSSのプロジェクトの要員になった際には、誓約書にサインしたはずである。この誓約の要請とドノバン通達が、彼らにOSS作戦へ参加したことを公言させなかった一因であったことは間違いない。

 マリーゴールドの中心人物であった藤井周而のOSS要員としての足跡は、芳賀武やカール・ヨネダなど共産党員時代の仲間の証言から間接的にうかがい知れるだけである。芳賀や八島太郎のようにOSS体験を直截的に語る者は珍しい。

 岡繁樹の場合 幸徳秋水や堺利彦ら社会主義者と親しかった一世、岡繁樹は戦前、カリフォルニア州オークランドで日系新聞を発行していたが、開戦後、ニューデリーでイギリス軍の情報部の要員になり、カール・ヨネダらOWIと協力して『軍陣新聞』やビラをつくって、対日本軍のプロパガンダ活動を行った。

 アメリカから帰って見ると、何か邦人の私に対する釈然とせぬものがあった。私としては、私が戦前彼らに語った戦争の見透しがすべて正しかったし、予言も適中したのであるから、相当これに対して反響があってしかるべきだと思っていた。良い批判が得られるであろうと楽しみにしていた。しかるに何事の批判も反響も得られなかった。六十五歳の老躯に鞭打ってのこの無謀といってもよいインド行きが、日本敗戦と、それに続く日本の民主主義革命という現実に対して多少なりとも意味をもっていたと私は信じている。しかるに在留同胞の私を見る眼は冷たかった。私の言を強く否定したことのある人に会って、どうだい僕のいうことに間違いあるまい、というとその人は、君は先見の明があるよと言っただけである。

 私の失望は大きかった。人々は未だ私を国賊と罵り、売国奴と蔑すむつもりなのであろうか、いいようのない憤りの感情を抑えることができなかった(43)。

 岡の活動はホワイト・プロパガンダの範疇に入るものである。彼さえも自らの戦時体験をこれ以上詳しくふり返ることはなかった。

 なおホワイト・プロパガンダの代表格のVOAの日本むけ放送にも、多数の日系二世が協力したことはよく知られている。かれらは戦後、その協力ぶりを誇らしげに語ってさえいる(44)。同じ放送でもブラック・ラジオの関係者は過去に触れたがらない。ホワイトとブラックの差はあるとはいえ、謀略放送である点では変りないはずである。

 野坂・坂井らに共通するもの 最近、アメリカ国立公文書館で追加公開されたOSS文書のなかに、坂井がリットル中佐にあてた一九四五年八月二十日付のメモ風の手紙がある(45)。坂井はそこで日本の民主化のために、マッカーサー将軍の上陸軍に参加できるよう尽力して欲しいと中佐に懇願した。彼は日本のメディアとくに『朝日新聞』で戦前働き、同紙の副社長だった緒方竹虎情報局長と親しいこと、近衛元首相や前田多門文部大臣とも面識があること、したがって日本の反動勢力の陰謀を打破し、連合軍の勝利を実質化させるには、自分が最適な人材であることを必死に売り込んでいる。

 坂井はグリーンズ・プロジェクトにおいて、ライター兼出演者としての実積にOSSから高い評価を与えられている(46)。しかもコイデによれば、坂井は終戦まもない時期にリットルら幹部に「進駐意見書」を出した。その内容の卓抜さに驚いたリットルらは、それをOSSの意見書にしようとした。彼の意見書はOSS本部に最終的には採用されなかったが、その過程で彼はサンフランシスコからワシントンに特別機で運ばれるほどの活躍をした。ところが、コイデら多くの日系人要員が派遣されたアメリカ戦略爆撃調査団からははずされてしまった。コイデによると、リットルは「人間が問題なのだ」として、坂井の参加を許さなかったという(47)。彼は思想的には「中間的」と見なされている(一二〇ページの表5参照)。特派員時代の報道が反フランコ軍に肩入れしていた「赤」というのが、人選から振りおとされた原因とコイデは推測した。しかしこれは当っていないのではないか。つまり彼の余りにも強い売り込みとか思い上がりぶりが、リットルの反発を買い、彼は排除されたのではなかろうか。

 野坂のホッジへの手紙といい、坂井のリットルへの手紙といい、自己セールスに近い権力への秘かな接近は、思惑通りに事が進まなかったとき、手紙を出した当人には、恥辱や慙愧の気持が残る。後に自らの行為に対する自省の念が強まったときには、その行為の事実を秘密のままで墓に持って行こうとする。諜報機関は守秘性が高いため、自分の行動が公表されることはないとの安心感を生む。しかし野坂の場合も坂井の場合も、それらの機関は彼らのプライバシーを守ってはくれなかった。

(1) OSS, Organization of Secret Morale Operations under SACO, 1944.4.21, RG 226 Entry 139 Box 148 Folder 2008.

(2) Maochun Yu, OSS in China, Yale University Press, 1996, p.151.

(3) Gordon Auchincloss, Final Report-Black Radio, China Theater, 1945.9.11, RG 226 Entry 148 Box 59 Folder 850.

(4) 注(3)と同じ。

(5) Final “On the Air” Schedule of Canton Scripts, RG 226 Entry 148 Box 59 Folder 852.

(6) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.5.22, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.

(7) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.7.31, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.

(8) Roland E. Dulin, Morale Operations OSS, China Theater, March, 1945-August, 1945, RG 226 Entry 148 Box 1539 Folder 2008.

(9) Herbert S. Little, MO Operational History, China, 1945.11.24, RG 226 Entry 139 Box 148 Folder 2008.

(10) 鹿地亘『日本兵士の反戦活動』同成社、一九八二年、三六四~三八二ページと巻末年表を参照。

(11) 鹿地は一九四五年三月三十日付で協定案の手稿を英文で残している(鹿地亘資料調査刊行会編『日本人民反戦同盟資料』第七巻、不二出版、一九九四年、九一ページ)。

(12) Roland E. Dulin, Kaji and Issei and Nisei and Issei Group from States, 1945.6.4, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3070.

(13) Roland E. Dulin, Preliminary Meeting with Kaji, 1945.6.26, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3068.

(14) Roland E. Dulin, To Commanding Officer, 1945.7.2, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3068.

(15) 前掲『日本人民反戦同盟資料』第七巻、九五~九六ページ所収のThe Agreement between OSS and Kaji Groupの鹿地訳を若干修正し、本書に掲載する。

(16) 前掲『日本兵士の反戦活動』三六五ページ。

(17) 前掲『日本兵士の反戦活動』三八二ページ。

(18) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.6.23, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.

(19) カール・ヨネダ『アメリカ情報兵士の日記』PMC出版、一九八九年、二〇二ページ。

(20) 大森実『戦後秘史4 赤旗とGHQ』講談社、一九七五年、四四ページ。

(21) Susumu Okano, Dear General J. R. Hodge, 1945.12.19, RG 319 Box 163C Folder 22-26.この手紙の概要は前掲『嵐の中の外交官』二六四ページに記されている。おそらくエマーソンはこの手紙のコピーをCICから入手していたのであろう。

(22) Cecil W. Nist, Japanese People's Emancipation League, 1945.12.27, RG 319 Box 163C Folder 22-26.

(23) CCXXIV CORPS, TFGBI88, 1945.12.27, RG 319 Box 163C Folder 22-26.

(24) CIC Detachment, Summary of Information, Subject: NOSAKA Sanzo alias OKANO Susumu, 1946.1.3, RG 319 Box 163C Folder 22-26.

(25) Alan S. Geismer, OKANO Susumu, Japanese People's Emancipation League, 1946.1.10, RG 319 Box 163C Folder 22-26.

(26) CIC Metropolitan Unit NO.80, NOZAKA Sanzo, 1946.5.23, RG 319 Box 163C Folder 22-25.

(27) 野坂は「延安の思い出」(日本共産党中央委員会編刊『野坂参三選集 戦時編』一九六二年、二三一~二四六ページ)で、一九四〇年に延安を訪問したと述べている。ところが同地でOWIのアリヨシがまとめた「ススム オカノ(テツ ノザカ)--小伝」によると、「岡野がソ連に過ごした期間は比較的短かった。大部分を彼は日本に近いところか日本国内にいた。彼は日本の反戦運動や前線の運動を満洲事変や支那事変の間、地下から指導した。これは岡野のもっとも収穫の多かった政治運動の時期と言えよう。一九四三年春に、岡野は延安に突然歩いて入ってきた」とある(Koji Ariyoshi, Susumu Okano(Tetsu Nosaka), A Short Biography, 1945.1.22, RG 226 Entry 148 Box 15 Folder 224)。ディキシー・ミッションに参加して以来、約半年間、アリヨシは野坂に密着して、彼の言動をアメリカ本国へ客観的に報告していた。野坂も彼に全面協力していた。したがってこの小伝は野坂の発言に基づく回想記と見てよい。一九四三年に彼が初めて延安を訪問したことは、ソウルでの供述と合致する。ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡』(彩流社、一九九五年、二一七ページ)によると、野坂は一九四三年七月に天津から延安入りしたとある。しかし同書は、それ以前の彼は満洲、華北で日本の特務機関と共に活動したと記している。これは、中国共産党と行動をともにしたと語っているソウル供述と矛盾している。アメリカ国立公文書館資料には、管見の限りでは、野坂が日本軍の工作員であったとの記述はまったくないし、アメリカのスパイともとれる資料もない。

(28) 和田春樹『歴史としての野坂参三』平凡社、一九九六年、一二三~一五九ページ。

(29) 荒木義修『占領期における共産主義運動』芦書房、一九九三年、一一〇~一一二ページ。

(30) GENERAL HEADQUARTERS UNITED STATES ARMY FORCES, PACIFIC, Office of the Chief of Counter-Intelligence, The Yenan Group of Japanese Communists, 1945.12.31, RG 319 Box 163C Folder 22-26.

(31) Gordon Auchincloss, Columbia Project-June, July & August 1945, 1945.6.4, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.

(32) Colling and Stelle, To Col. Hall Only, 1944.8.22, RG 226 Entry 148 Box 7 Folder 103.なおこのアップル・ブロジェクトについては注(2)の本の一六八~一六九ページにも紹介されている。

(33) Colonel Robert B.Hall, To David G.Barrett for Captains Colling and Stelle, 1944.8.24, RG 226 Entry 148 Box 7 Folder 103.

(34) W. Shepardson, Kennett W. Hinks, Data for Planning Yenan Based Penetration of the “Inner Zone”, 1945.7.6, RG 226 Entry 139 Box 224 Folder 3178.

(35) 前掲『歴史としての野坂参三』一一八~一一九ページ。

(36) War Department, Office of the Assistant Secretary of War Headquarters, Strategic Services Unit, China Theater, Memorandum, To: BH/076, 1946.6.4, RG 226 Entry 182 Box 16 Folder 95.この図はこの資料に付属したものである。組織図名は「日本解放連盟組織状況表」となっているが、本書では「日本人民解放連盟組織図」と直して表示する。また支部の人名には判読不明のものも多いので、支部長名のみ記載した。

(37) OSS, China Theater X-2 Branch, Japanese Communist Activities in Shanghai, 1946.4.25, RG 226 Entry 182A Box 11 Folder 84.

(38) 前掲『歴史としての野坂参三』一三九~一四〇ページ。

(39) 野坂とコイデの関係は大森実『戦後秘史3 祖国革命工作』(講談社、一九七五年)のなかではじめて明らかにされた。

(40) 前掲『ある在米日本人の記録』下巻、「まえがき」二ページ。

(41) 坂井米夫『私の遺書』文芸春秋、一九七七年。

(42) William J. Donovan, All Personnel, 1945.9.13, Sakai Yoneo Collection, Special Collection-UCLA.

(43) 『文芸春秋』一九五〇年五月号。

(44) 石井清司『日本の放送をつくった男―フランク・馬場物語』毎日新聞社、一九九八年参照。

(45) Yoneo Sakai, A Memorandum to Lieutenant Colonel Little, 1945.8.20, RG 226 Entry 210 Box 142 Foldar 13.

(46) OSS, History of “Blossom” Radio, RG 226 Entry 139 Box 188 Folder 2500.

(47)       前掲『ある在米日本人の記録』下巻、三六一ページ。
 
 
》記事一覧表示

新着順:265/3577 《前のページ | 次のページ》
/3577