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景教とシリア語

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 7月25日(月)16時22分24秒
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景教で拙稿を検索すると21件出てきます

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8Ci%8B%B3&inside=1&x=0&y=0

景教とは中国からきたネトリウス派のキリスト教で空海も唐で洗礼を受けました

https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=8&oq=%E3%81%91%E3%81%84%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4RNWN_jaJP240JP240&q=%E6%99%AF%E6%95%99&gws_rd=ssl

コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。 431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。 これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。 唐代の中国においては景教と呼ばれる。

ネストリウス派 -

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE

空海と景教~「いろは歌」が示す「咎なくて死す」

http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index4.html

秦氏はネトリウス派

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A3xTqFjB2pVXC2oAgBiJBtF7?p=%E3%83%8D%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

大秦景教流行中国碑で検索すると沢山ありますので勉強しましょう

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPgoHN05VX4U0ALlCJBtF7?p=%E5%A4%A7%E7%A7%A6%E6%99%AF%E6%95%99%E6%B5%81%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A2%91&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

高野山にある景教碑はレプリカです

http://www.geocities.co.jp/kmaz2215/motto/keikyo/keikyo/keikyou-hi.htm

碑には何が書かれているのか?

中国に伝わったキリスト教の 一派 景教の歴史が刻まれています。

約1900字の漢字と一部シリア語で、旧約聖書にある天地創造、アダムとイブ、キリスト誕生など景教の教義と唐のへの伝来、太宗の時代から147年間におよぶ景教の中国での発展の歴史、60余人の宣教師名などが書いてあります。

景教とは

一般的には 西暦431年の宗教会議において異端の烙印を押されたキリスト教、ネストリウスの
一派がローマを追われた後、シリア、ペルシャを経て、シルクロードの各地にその教えを広め、
635年中国まで伝わった時に景教と呼ばれたと考えられています。

中国景教はその後、皇帝による保護と圧迫を繰り返し、玄宗皇帝の時代には再度盛んになり、
唐末に衰退、モンゴルの興隆と共に発展。そして元とともに衰退しました。

高野山に景教碑のレプリカを建てたのはE.A.ゴルドン夫人という女性です。

1851年イングランドに生れ、日本の文化を愛し、様々な日本を援助する活動を行いました。 また日本に長期間滞在し、仏教の研究をしました。

仏教もキリスト教も元は一つであるという「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマでした。

「大秦景教流行中国碑」の複製を高野山に建てたのも、その研究の一環で、夫人は唐で学んだ弘法大師が景教にも関係を持っていたと信じていたようです。

京都で亡くなった夫人の葬儀は京都東寺で仏式によって行なわれ、その墓は高野山、景教碑の隣に建てられました。

世界大百科事典 第2版の解説

だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ【大秦景教流行中国碑 Dà qín jǐng jiào liú xíng zhōng guó bēi】

ネストリウス派のキリスト教が唐代,中国に流行した状況を記した記念碑。西安の陝西省博物館内の碑林に現存する。唐の781年(建中2),唐都長安の義寧坊にあった大秦寺に立てられたもので,明代の末年に同寺のあと金勝寺の境内から発掘された。景教とは当時の中国人がネストリウス派のキリスト教を呼んだ語であり,大秦とはその発生地ローマ帝国の東方領をさし,寺院を大秦寺(中国へは直接ペルシアから伝わったので,初めは波斯寺と称した)といったのである

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大秦景教流行中国碑
たいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ

ネストリウス派キリスト教(景教)が唐に流伝したことを記念する石碑。781年(唐の建中2年)建立。発見は明(みん)末で、長安の義寧(ぎねい)坊内あるいは長安近郊の大秦寺(景教教会堂)にあったものらしい。現在は西安(せいあん)の陝西(せんせい)省博物館の「碑林」に保存されている。碑高2.76メートル、基底部幅約1メートル、同厚さ27センチメートル。篆額(てんがく)部には装飾十字架と大字3行の漢文表題「大秦景教流行中国碑」が刻まれている。碑面は漢文の題記、述者名(僧景浄・アダム)、本文、後記、書者名(秀厳)が漢字総計1700字余、シリア語文2行からなり、さらに下方に漢字27字を含むシリア文19行の後記がある。碑側にはシリア文字と漢字で僧(主教・司祭など)70人の名が刻まれている。本文は、天地創造、メシアの出現と昇天、景教の意義、大秦(ここではシリア、ペルシア)のネストリウス派キリスト教と唐朝との関連、韻文による唐朝への頌文(しょうぶん)から構成されている。中国キリスト教史にとっても、また唐音韻学にとっても貴重な資料である。この碑文のラテン語訳がイエズス会士N・トリゴーによって1625年に発表されると、西ヨーロッパ・キリスト教世界が大いに注目するところとなり、シノロジーsinology(中国学、シナ学)に弾みがついた。[梅村 坦]
『佐伯好郎著『景教の研究』(1935/復刻版・1978・名著普及会) ▽神直道著『景教入門』(1981・教文館)』

世界史の窓~画像は元記事参照

http://www.y-history.net/appendix/wh0302-050.html

中国の唐代にネストリウス派キリスト教(景教)の隆盛を示す碑文。西安の碑林博物館に所蔵されている。

大秦景教流行中国碑

 唐の都長安に残る石碑で、碑文によって景教が長安で布教されていたことを示す貴重な記録となっている。景教とはキリスト教の一派のネストリウス派のことであり、431年のエフェソス公会議で異端とされてローマ領内での布教を禁止されたため、東方に広まっていた。
 大秦景教流行中国碑は、781年(徳宗の建中二年)、長安の大秦寺の僧景浄が大秦寺境内に建造した。大秦寺とは景教寺院のこと。その後、景教は衰微し、大秦寺も荒廃したため、長く忘れ去れたが明代に西安の崇聖寺で発見され、ヨーロッパにに紹介され、唐代に中国でキリスト教の一派が存在したことが知られ、有名になった。
大秦景教流行中国碑の発見
 景教は中国では衰微し、その碑文も忘れ去られていたが、明代の1625年に当時中国に渡ってきたキリスト教徒の一人がこの碑を発見し、碑文中の古体シリア文字を翻訳してその摺本とともにローマに送った。その紹介は当時のキリスト教会、学術界を驚かせたが、偽物説も出され、長く論争が続いた。現在ではその文字などからみて唐代のものであることが明らかになっている。<桑原隲蔵『考史遊記』明治40年 2003 岩波文庫 p.83-86>

Episode 石碑流出の危機
 明治40年、中国を旅した東洋学者桑原隲蔵(京都大学教授)は、西安滞在中の9月26日にこの石碑を崇聖寺に見に行き、その記録を残している(上掲)。ところで、一般に石碑は亀の姿をした石の上に置かれている。これを贔屓(ひいき)という。贔屓とは大亀のことで、大亀は重いものを負うのを好むところから、その石を贔屓と呼ぶ。俗に、特定の人を扶助することを、下から支えてることなので石碑の贔屓のようだということから「ひいき」といようになった。さて、桑原は10月4日夕方、見覚えのある大きな贔屓が西安の街を曳かれていくのを目撃する。宿に帰って聞いたところ、先日ある外国人がこの碑文を見て、どうしても欲しくなり、買収してロンドンの博物館に転送しようとした。陝西省の役人がそれを探知して、急いで碑を碑林(西安市内の貴重な石碑を保管する場所)に移すことになった。さっきみたのはその贔屓を移しているところだった。さっそく翌々日碑林を訪ねたところ、たしかに碑文は移されていた。こうして貴重な碑文の流出は直前で免れた。この外国人はあきらめきれず、景教碑そっくりの石碑を偽造してロンドンに送ったという。<桑原隲蔵『考史遊記』明治40年 2003 岩波文庫 p.130,145>
日本にある大秦景教流行中国碑

高野山の大秦景教流行中国碑
高野山の大秦景教流行中国碑とゴルドン夫人の墓
 高野山の奥の院、無数の墓石が列んでいる中に、「大秦景教流行中国碑」が立っている。これは、中国の西安にある碑林博物館に所蔵されている実物を、そのまま写し取ったもので、イギリスの宗教学者であるエリザベス・ゴルドン夫人が明治末年に建てたものである。「唐代に都長安において、すでに景教が隆盛していたため、このころ中国に留学した弘法大師も、何らかの接触があったと夫人は考えて、異教も懐深く抱擁する大師の思想に共鳴し、みずから望んでこの碑の傍らに葬られ、静かに眠っている。」<松長有慶『高野山』2014 岩波新書 p.56>
 開山1200年にあたる2015年、4月27~28日に高野山を訪ねた。高野山の中心、壇上伽藍では金堂で初めて公開された高村光雲作の薬師如来を拝観、根本中堂や国宝不動堂などを見学。霊宝館では空海が明州(寧波)から日本に向けて投げ、それが高野山に届いたという「三鈷杵」も見た。宿坊は金剛三昧院、鎌倉時代に北条政子が退耕行勇を高野山に送り込んで、真言密教と臨済禅の兼修道場として創建された寺院で、なんと国宝の多宝塔が宿坊内にあった。そして奥の院で大師廟を拝んだ後、戦国時代から江戸時代の大名たちの豪勢な墓を急いで見て回り、ようやく大秦景教流行中国碑を見つけた。西安に行かなくとも見ることができたので好かった。
 なお、ゴルドン夫人が、前記の桑原隲蔵『考史遊記』にいう「ある外国人」なのかは判らない。彼女は比較宗教学者として知られ、女子教育者として知られる下田歌子にも影響を与えた。wikipedia の下田歌子の項の注に簡単な説明がある。

アリウス派とネトリウス派の違いとは?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1482686024

キリスト教のアリウス派とネストリウス派の違いについて教えてください。

どちらもイエス(キリスト)の人性と神性を分けている考えかたですよね?

ベストアンサーに選ばれた回答

カトリック教会の視点から回答します。

■アリウス派(歴史から消えた教派)
イエス・キリストの神性を否定した四世紀の教派で、創始者はアレキサンドリアの司祭アリウス(256-336年)。神には三つのペルソナは存在せず、子は神につくられた存在です。ですから、ロゴスは存在しなかったときがあると考えました。
この教えが325年の第一ニケア公会議開催の切っ掛けになりました。220人以上の司教が出席し(大部分は東方教会)、その結果、アリウスは異端として排斥されました。アリウス派はその後数百年にわたって存在しましたが、イスラム教に吸収されたりしました。アリウス派の存在は、イスラム教が広まる下地になったようです。

■ネストリウス派(現在も続き、キリスト教会の関係は良くなりました)
受肉したキリストには、人格と神としての位格の二つのペルソナがあったと主張した五世紀の教派。コンスタンチノープル司教になったネストリウス(~451)に由来します。ネストリウス派は431年のエフェソ公会議によって排斥されました。ネストリウス派は使徒の後継である司教レベルでの分離でした。ここでの混乱が七世紀にイスラム教の拡張成功の一因になったとのことです。ネストリウス派の教会は現在もアッシリア教会などとして現在まで続いています。

エフェソ公会議~カルケドン公会議以降分かれた、アッシリア東方教会ですが、カトリック教会との関係は回復しました。
『キリスト理解におけるカトリック教会とアッシリア東方教会の共同宣言』(1994/11)
また、同じく非カルケドン派のシリア正教とキリスト教会の関係も良くなっています。共同声明参照。
http://www.syrian.jp/006-1-2.htm
http://www.syrian.jp/006-1-3.htm

■自滅したアリウス派、そして、1600年を経て信仰を伝えているエフェソ・カルケドンで分かれた兄弟。
「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使徒5:38-39)

補足

ネストリウス派の信仰について(1984年6月23日 共同声明より・・・上記URL参照)
二人(カトリックの教皇ヨハネ・パウロ二世、アンティオキアの総主教イグナティウス・ザッカー1世)は、双方の教会に共通する信条、すなわち325年のニケア公会議によって公式化され、一般に「ニケア信条」として知られている信条を信じることを宣言します。
二つの教会の間に生じた混乱や分裂が、彼らの信仰の本質に何ら影響を及ぼすことはなかったということを、今日、はっきりと確認します。なぜならそうした混乱や分裂は、用語、文化、そして様々な神学派によって採用された様々な公式の相違からのみ生じたに過ぎず、実はそれら全ては同じことを言い表そうとしていたのです。従って、私たちは今や、受肉の原理に関して私たちの間で何度も生じた悲しむべき分裂には何ら根拠がないことを理解しています。カルケドン公会議の時代に生じた解釈の相違にも拘らず、言葉においても生活においても、私たちは主キリストに関する真の教義を共有しています。

私個人の意見ですが、神という神秘を細かく人間の言葉で定義すればするほど本当の神の姿から離れてしまう気がしています。アリウス司祭の理解はやはり違っていたと思いますが、少なからぬ使徒後継の司教たちの現在まで続いている非カルケドン派の信仰との間には、長い歴史的な断絶があったにもかかわらず、その信仰の共通性に驚いています。「神はともにいる」という導きを感じました。

管理人注:それはイエス自身がいてイエスかバラバかの後に磔という世紀のイベントが歴史的に存在した事件であったのかということは悪魔や天使が実在しているのかどうかが魔術師にとってさほど重要でないように(重要なのは,そうしたものが,現に存在しているかのように働くという事実なのである),そのような形で行なわれたという聖書の記述と,それらを信じた信者の存在と,アラム語を話すナザレ人の新興宗教の教義がユダヤとシリアとに燎原のように広がってゆき,それが世界宗教へと格上げされていったという歴史的事実こそが重要なのである。

『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる~~~もっとも,この大母神の究極の起源を探ってゆくと,アナトリアのペシヌス(ガラテア地方の都市)でキュベレーとなり,ヒエラポリス(シリアの北部の町)でシリア女神De Dea Syraとなり,あるいはまた,遠く離れた北海やバルト海の聖なる島の森の中で,ゲルマン語を話す人々に崇拝される地母神となる以前に,元来シュメール世界においてイシュタルの名で知られていた女神であることが判明する』(Study of Historyサマヴェル縮小版より)

そしてキリスト教とその先祖であるシリア社会,イラクのチグリス・ユーフラテスや古代シュメールの地をなぜシオニストたちが破壊しようとしているのでしょう。

おまけ~GHQとは何だったのか~ではなくそうさせたのは誰かを考えましょう。

http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/425177308.html

シュタイナー 1906年の講演「弥勒の世界の到来」より

http://indeep.jp/there-might-be-nothing-we-can-do-to-prevent-a-catastrophe-of-this-world/

「人間の内部は、外界と相互作用をします。外的なものは、私たちの目が澄んでいるか濁っているかによって、姿を変えます。

20世紀のうちに、そしてこれから2千年後のあいだに、人々はキリストのエーテル形姿を見るにいたるでしょう。人々はエーテル地球を見るようになるでしょう。エーテル地球から植物界は生じました。

人間の善良な内面とは異なった影響を周囲におよぼすということも、人々は認識するでしょう。このエーテル的な科学を司るのは、およそ3千年後に下生して成仏する弥勒菩薩です。

弥勒という名は、「善良な志操の仏」という意味です。弥勒仏は人間に、善良な志操の意味を明らかにします。そうして、人間は自分がどの方向に行くべきかを知るべきでしょう。

抽象的な理想の代わりに、前進する進化に相応する具体的な理想が現れるでしょう。

そのようなことが達成されなかったら、地球は唯物論のなかに沈没し、人類は大きな災害ののちに、この地上で、あるいは次の惑星ですべてを新たに始めねばならないでしょう。

このように、シュタイナーは、

「人間が、善良な思想の意味を知り、それを達成する」ことがなければ、

> 地球は唯物論のなかに沈没し、人類は大きな災害ののちに、この地上で、あるいは次の惑星ですべてを新たに始めねばならないでしょう」

ルカ福音書~第8章26~36節

http://oka-jp.seesaa.net/article/358630734.html

聖書ものがたり・ルカ福音書

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/149.html

原点への旅

http://web.archive.org/web/20070828205355/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/159.html

ついでに茶カテキンは危険

http://www.mynewsjapan.com/reports/1513



 
 
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