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核の栄光と挫折 その1

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 8月15日(月)13時26分50秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://happi-land.com/baron-yoyaku.html

はじめに~http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/60a50792cbe2ffe35c409838c621a4b3

名著紹介

『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち The Nuclear Barons』

  ピ-タ-・プリングル、ジェ-ムズ・スピ-ゲルマン著  浦田誠親 監訳
(時事通信社・刊)

第1部  1940年代

第1章  原罪

 原子爆弾の製造を最初に着想したのは、ハンガリ-人の物理学者レオ・シラ-ド(1)だと言われている。彼は1935年、亡命先のロンドンで、H・G・ウエルズの小説『解放された世界---人類の物語』をヒントに強力な爆弾を製造する幻想にとりつかれた。その基礎になる理論は次の二つである。

1. 『核の連鎖反応理論』……一部の元素(放射性元素)では原子はたえず変化の状態にあり、分裂して電荷を持った粒子を放出している。 その中の一つの中性子が一つの原子を分裂させると二つの中性子ができ、その二つの中性子が二つの原子を分裂させると四つの中性子ができる……という反応をまとめて一度に起こすと突然、巨大なエネルギ-が得られることになる。(当時、彼はその元素がウランとは思いつかずベリリウムを有力候補とみなしていた。)

2. 『臨界質量理論』……放出された中性子がすべて原子に命中する訳ではないので、連鎖反応を引き起こすには、放射性元素の最低限度、すなわち「臨界質量」が必要となる。

 彼はナチスが先に原爆をつくるのを強く懸念して、このアイディアを特許に取りイギリス軍に提供しようとしたが、その反応は鈍かった。

 1938年12月、ベルリン大学のオット-・ハ-ン(2)とフリッツ・シュトラスマン(3)がウラン元素の原子に中性子をあてると分裂が起こることを証明する実験を行った。その数週間後、フランスのフレデリック・ジョリオ=キュリ-(4)がウラン原子はいったん分裂すると一個以上の中性子を放出することを証明した。

 当初、ドイツ政府もフランス政府もその結果に無関心であったが、大戦勃発(1939.9)後は「レ-ダ-」とともに「原爆」の開発がカギを握るとわかって、物理学者が戦争に大量に動員されることになった。(第一次大戦は「化学者」の戦争であった。)

 両大戦間は物理学の黄金時代で、その中心はドイツのゲッチンゲン、ベルリン、ミュンヘンの各大学で、アインシュタイン(5) 、マックス・プランク(6)、ニ-ルス・ボ-ア(7)らがいた。その他、デンマ-クのボ-アの原子物理研究所、イギリスのケンブリッジ大学カベンディッシュ研究所、パリのラジウム研究所、レニングラ-ド物理学研究所、アメリカのコロンビア、シカゴ、プリンストン、バ-クレ-の各大学に原子力研究部門が置かれていた。

 シラ-ド(1)はアメリカに渡り、イタリア人エンリコ・フェルミ(8)と組んで、コロンビア大学にいて、アメリカ海軍に働きかけをしたが、反応はなかった。

 ドイツではジョリオ=キュリ-の実験の直後、ハンブルグのパウル・ハルテック(9)とウィルヘルム・グロ-ト(10)が陸軍に働きかけ、その支持を受けた。

 ソ連では科学アカデミ-が「ウラン問題」研究委員会を発足させ、イゴ-ル・クルチャトフ(11)とユ-リ・ハリトン(12)が連鎖反応を起こす計画を開始したが、ドイツ軍の侵攻で挫折した。
 物理学ではいちばん進んでいたドイツは原爆製造では結局立ち遅れてしまったが、それは、ウェルナ-・ハイゼンベルグ(13)らドイツの物理学者がヒトラ-に好感を持っていなかったということのほか、彼らが工業技術を一段低いものとみなす「俗物主義」にとらわれていたためといえる。

 1939年、ジョリオ=キュリ-たちは放出される中性子を減速して命中する可能性を高めるために、1931年にアメリカのハロルド・ユ-リ-(14)が発見した重水でウランを取り囲む方法を考案した。当時、大量の重水を製造していたにはノルウェ-のノルスク・ハイドロ社だけで、同社の株式の65%はフランスのバンク・ド・パリ・エ・デ・ペ・バが所有、25%をドイツの化学コングロマリット、I・G・ファルベン社が所有していた。1940年2月、フランスはハイドロ社の重水を買い占め、空輸しようとしたが、ドイツ軍の度重なる妨害を受け、苦難の末、スコットランド経由でパリに運ぶことに成功した。しかしフランスはこの年の6月にドイツに敗北したので、重水は結局使用されないままイギリスに運ばれた。

 イギリスは、当時の大きなウラン鉱のひとつであったチェコスロバキアの鉱山が既にドイツの手におちていたので、ベルギ-領コンゴ産のウランを狙い、ベルギ-のユニオン・ミニエ-ル・ド・オウ・カタンガ社に近づき、ウランの入手に成功、ここに重水とウランという連鎖反応に必要な材料が揃ったのである。

 しかし、ウラン鉱石中の99%以上は非分裂性のU238 で、分裂性のU235 はごく僅かしか含まれていないため、臨界質量に達するには40トンものウランを集めなくてはならず、そんなに重い爆弾は飛行機では運べないので、政府は原爆を非実際的な兵器とみなし、その開発には消極的であった。その時、亡命ドイツ人学者のオット-・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)がU238 とU235 を分離して、純粋なU235 を抽出するアイディアを出し、やっと政府も乗り気になって、暗号名「モ-ド委員会」を設置して、1940年末までにその分離が理論的に可能なことを確認した。しかし、1941年5月のドイツ軍によるロンドン大空襲など、戦局が緊迫してきて、ついに原爆研究を断念、それまでの成果をアメリカに送り、それが後のマンハッタン計画の基盤となった。

 アメリカでは、シラ-ド(1)がアインシュタイン(5)を説得し、1939年8月2日、ル-ズベルトに手紙を書かせた。ル-ズベルトはそれに応じて、「ウラン委員会」を設置したが、委員会の活動は緩慢であった。その時、シラ-ドはジョリオ=キュリ-の研究をヒントに、重水のかわりに「黒鉛」を使用するアイディアを得て、これを公表するということを脅しのネタにしたル-ズベルトへの手紙をアインシュタインに書かせ(1940年3月)、その結果、アメリカ政府はやっと重い腰を上げ、ウラン委員会を国防委員会の下に置き、カ-ネギ-研究所理事長だったバンネバ-・ブッシュ(17)を委員長に任命し、「マンハッタン計画」を策定した。これ以後、物理学者たちはビッグ・ガバメント、ビッグ・ビジネスの世界に入りこみ、その後、永久に自分たちの学問の独立を失うことになる。

【登場人物の整理】

(1) レオ・シラ-ド(ハンガリー→米):物理学者(原爆の着想)
(2) オット-・ハ-ン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(3) フリッツ・シュトラスマン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(4) フレデリック・ジョリオ=キュリ-(仏): 物理学者(中性子放出の発見)
(5) アインシュタイン(独→米): 物理学者(ルーズベルトに書簡)
(6) マックス・プランク(独): 物理学者(物理学の重鎮)
(7) ニ-ルス・ボ-ア(デンマーク): 物理学者(のちに原爆の国際管理を主張)
(8) エンリコ・フェルミ(伊→米): 物理学者(初のプルトニウム生産)
(9) パウル・ハルテック(独):物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(10) ウィルヘルム・グロ-ト(独): 物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(11) イゴ-ル・クルチャトフ(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(12) ユ-リ・ハリトン(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(13) ウェルナ-・ハイゼンベルグ(独):物理学者(ヒットラー嫌い)
(14) ハロルド・ユ-リ-(米):化学者(重水発見、ガス拡散法によるウラン濃縮)
(15) オット-・フリッシュ(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(16) ルドルフ・パイエルス(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(17) バンネバ-・ブッシュ(米):実業家(マンハッタン計画を策定)

第2章  従順な行為

 1942年、「マンハッタン計画」が始まると、主役は『物理学者』から『技術者』へと変わった。これを管轄する陸軍工兵隊のレスリ-・グロ-ブズ(18)が技術担当最高責任者となり、彼は軍人特有の強引なまでの行動力で、全米から桁はずれの量の必要物資と工業技術のノウハウをかきあつめ、計画を強力に推進していった。

 原爆の材料を製造する方法として、次の四つが試みられた。

 コロンビア大学では、ハロルド・ユ-リ-(14)が『ガス拡散』によるU235 分離技術を担当。これは、U238 、U235 を含むウランガスを多孔性の障壁を通過させると軽いU235 は重いU238 よりも容易に通過するので、これを繰り返せば最終的に濃縮されたU235 が得られるという方法である。

 カリフォルニア大学では、サイクロトロン(原子核破壊装置)の発明者であるア-ネスト・ロ-レンス(19)が『電磁場』による分離技術を担当。これは、ウランガスを強力な磁石の上を通過させると、軽いU235 は重いU238 とは異なった割合で磁石に吸いつけられる、という方法である。

 ピッツバ-グのウェスチングハウス研究所では、スタンダ-ド石油ニュ-ジャ-ジ-の技術者イジャ-・マ-フリ-(20)が『遠心分離法』によるU235 の分離を担当。これは、ウランガスを遠心分離器に入れて重いU238 と軽いU235 を分ける方法である。

 シカゴ大学では、X線の研究者のア-サ-・コンプトン(21)が、フェルミ(8)、シラ-ド(1)、ユ-ジン・ウイグナ-(22)と共に、黒鉛ブロックで出来た原子炉を建設。 1942年12月2日にはフェルミが世界で最初の核連鎖反応の実験に成功し、微量のプルトニウムを生産することになる。

 このうち、『遠心分離法』は、グロ-ブズ(18)が、イジャ-・マ-フリ-の指導力に疑問ありと判断したことにより、最も計画が進んでいたにもかかわらず、放棄され、他の三つの研究が同時進行された。すなわち、『ガス拡散』と『電磁場』による濃縮工場がテネシ-州オ-クリッジに、プルトニウム原子炉がワシントン州ハンフォ-ドに建設された。 しかし『電磁場』は、マンハッタン計画の全予算20億ドルのうちの6億ドルを注ぎ込んだが、結局失敗、以後永久に放棄され、土壇場で『ガス拡散』が劇的な大成功を収めて、その後、この方法が全世界に定着した。ところがこの方法は大量に電力を消費し、(この工場だけで全米の電力の10%を消費し、その後、ソ連、フランス、イギリス、中国で同様の工場が建設されたので、何百万バ-レルもの石油が消費された。)20年後にカムバックした『遠心分離』の方がはるかに電力を食わない、きわめて効果的な方法であることが証明された。

 原爆の設計(臨界質量のU235 またはプルトニウムを、事前に爆発が起きないようにケースの中で二分し、それを何百万分の一秒以内にもとに戻す装置)については、バークレー校の39才の物理学者ロバ-ト・オッペンハイマー(23)が抜擢された。FBIは彼がスペイン内戦中に左翼の主張を支持したこと、また、彼の親戚や友人の一部が共産党員だったことから強く反対したが、グローブズ(18)はオッペンハイマーが科学者臭くなく、また、組織能力もあると判断して、それを斥けた。結局、各部門がバラバラに進行していたマンハッタン計画の全貌を知ることができたのは、グローブズを除いてはオッペンハイマ-ただひとりであった。

 爆発原理(1):『銃型方式』……臨界質量が約15kgのU235を二つの半球内に収め、それぞれに銃身を取り付け、向かい合わせにして組み立て、銃を発射すると二つが一体となって反応が始まる。

 爆発原理(2):『爆縮方式』……プルトニウムの臨界質量は不安定なため、臨界質量に満たない分量を二つの半球に分け、それを爆発物で覆う。そしてそれを爆発させるとプルトニウムは内部にむかって押し潰され、その巨大な圧力によって臨界に達する。

 1945年夏の初めまでに両方式とも完成したが、『爆縮方式』には実験が必要ということで、7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠でプルトニウム爆弾の実験が行われ、成功した。フェルミ(8)の速算によれば、その威力はTNT火薬1万トンに匹敵した。

 ところがこの実験の前にドイツは既に降伏していたので、シラード(1)やウィグナー(22)らヨーロッパからの亡命科学者たちのシカゴ大学グループは原爆製造の動機を失ってしまい、シラードはその使用に反対する意見書をルーズベルトに提出しようとしたが、ルーズベルトは4月12日に死去し、あとを継いだトルーマンはそれに取り合おうとはしなかった。

 トルーマンは決断を引き延ばしていたルーズベルトとは違って、原爆使用については何の疑問も持っていなかった。結局、トルーマンは自分の大統領としての地位を確かなものにするために「決断の人」というイメージをつくりたかったのだ。

【登場人物の整理】

(18) レスリ-・グロ-ブズ(米):陸軍軍人(マンハッタン計画統括者)
(19) ア-ネスト・ロ-レンス(米):物理学者(サイクロトロン発明者。電磁場法担当)
(20) イジャ-・マ-フリ-(米):技術者(遠心分離法担当)
(21) ア-サ-・コンプトン(米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(22) ユ-ジン・ウイグナ-(ハンガリー→米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(23) ロバ-ト・オッペンハイマー(米):物理学者(原爆の設計)

第3章  「最悪の幻想」

 1945年5月、ニールス・ボーア(7)は、戦後の原爆製造競争を懸念して、それを避けるためにはマンハッタン計画の秘密をソ連に知らせて国際管理機関をつくるしかないとチャーチルに提言したが、ソ連を潜在的にはドイツよりも大きな敵とみなしていたチャーチルはそれを一蹴した。その後、ボーアはルーズベルトとも会談したが、ルーズベルトもチャーチルと同意見であった。

 トルーマンは原爆を政治的に利用しようと、ポツダム会談(7月18日~)に間に合うようにアラモゴルドの実験を急がしたが、結局、スターリンに原爆完成のことははっきりとは言わなかった。

 グローブズ(18)はソ連の工業力とウラン埋蔵量を過小評価して、コンゴのウランさえ押えておけばアメリカの原爆独占は20年は続くとトルーマンに吹き込み、トルーマンもそれを信じて、原爆を戦後の世界支配の切り札に使おうとしたが、広島から4年後の1949年8月ソ連が、そして1952年イギリスが、自力で原爆を製造して、その幻想は破られた。

 また、グローブズは、マンハッタン計画について、多額の予算を使ったので国民に報告しなければならないという義務感から、そしてそれに携わった自分たち技術者や科学者を顕彰したいという気持ちから、シカゴ大学のヘンリー・スミス(24)に命じて報告書を作成させ、それは1945年8月12日に公表された。そこには原爆の製造方法は明らかにされていなかったが、どうすればうまくいかないかは説明されており、またプルトニウム爆弾が実際に機能したこと、『ガス拡散』で必要量のU235 が生産できたことなどが書かれており、ソ連などのゼロから出発する国々には計り知れないほどの価値があった。このスミス報告は1948年に、原子力委員会によって、「重大な機密違反」の烙印を押された。

 トルーマン政権の国務長官ジェームズ・バーンズ(25)、国務次官ディーン・アチソン(26)らはまもなく、原爆が外交的にはそれほど力のない武器だと気付いて、何らかの国際機関をつくる方向に動きだし、その原案をつくる委員会の長になったアチソンはグローブズを抑えて、1946年1月、TVAを運営してきた法律家デービッド・リリエンソール(27)を長とする顧問団を設置した。

 リリエンソール顧問団の課題は、一方では世界から原爆を廃棄し、他方ではそれを平和目的に利用するという二つを何とか結びつけようというものであった。委員のひとりオッペンハイマー(23)が具体的な方式(全てのウラン鉱山と核分裂物質生産工場を国際機関が管理する)を発案した。この案には、鉱山を所有している資本家が「国際化」という名の接収に簡単に応じるのか、またソ連が国内の査察を認めるのか、という問題点があったが、それは克服できないことはないということで、この線で最終的なアチソン=リリエンソール案がまとめられた。しかし、そこにはアメリカの原爆製造の停止は入っていなかった。

 この頃、東西の冷戦が公然化しようとしていた。1946年2月、カナダでソ連の原子力スパイ網が摘発され、3月5日、ミズーリ州フルトンでチャーチルの「鉄のカーテン」演説が行われた。

 バーンズ(25)はアチソン=リリエンソール案を国連に提案するアメリカ代表としてウォール街の投機家バーナード・バルーク(28)を選んだ。彼は反ソ的な人物で、アチソンはこれではぶち壊しだとバーンズを説得したがうまくいかなかった。はたして、バルークは1946年3月末に自分自身のための顧問団を設けて、アチソン=リリエンソール案を骨抜きにし、またソ連に対してきわめて挑戦的なものにつくりかえてしまった。6月14日、このバルーク案が国連に提案されたが、同19日にソ連のグロムイコ外相はこれを拒否、「まず核兵器を禁止すれば、査察にも同意できる」と逆提案した。その直後、アメリカがビキニで二度目の原爆実験をしたりして、米ソの対立は厳しくなり、7月5日、アメリカはソ連の提案を正式に拒否して、実のある国際管理体制は挫折してしまった。

 一方、原子力の国内管理については1945年から話がすすめられ、軍人を含めた管理委員会という法案が提出されたが失敗し、コネチカット州選出の新人議員ブライアン・マクマホン(29)提出の法案が1946年8月1日、原子力法として成立した。このマクマホン法では核兵器の製造、使用に関するあらゆる情報が「部外秘」とされ、違反者には死刑を含む厳しい罰則が設けられた。

【登場人物の整理】

(24) ヘンリー・スミス(米):物理学者(原爆製造報告書作成)
(25) ジェームズ・バーンズ(米):国務長官(原爆の国際管理を志向)
(26) ディーン・アチソン(米):国務次官・長官( 原爆の国際管理を志向)
(27) デービッド・リリエンソール(米):弁護士(米原子力委員会=AEC初代委員長)
(28) バーナード・バルーク(米):投機家(原爆国際管理の国連代表。反ソ派)
(29) ブライアン・マクマホン(米):上院議員(両院合同原子力委員会=JCAE委員長)

第4章 原子力群島

 ソ連の原爆は、広大な国土に散在しながらも、非常にしっかりと統合された一連の都市、工場、研究所で製造されたが、その全体像は明らかでない。科学者や技術者の正体も長らく不明で、名前が明らかになってからも世に広く国際的評価を受けていた者はいなかった。そのため西側の分析家たちはソ連の専門知識をなかなか認めようとはせず、当初、1946年のカナダでのスパイ摘発や、1950年の亡命ドイツ人科学者クラウス・フックス(30)の自白などもあって、ソ連の原爆成功は原子力スパイがもたらしたものに違いないと推理した。

 しかし実際にはソ連は1939年8月には原子物理学に強い関心を抱いており、イゴール・クルチャトフ(11)を中心にドイツ、フランスの画期的な実験をフォローし、また独自の諸実験も行って、1942年末には原子力の計画を確立していた。クルチャトフはクリミア国立大学で物理学を学び、1925年に22才の若さでレニングラード物理学研究所に招かれ、1937年にはローレンス(19)に遅れること7年目にして、ヨーロッパで最初のサイクロトロンをつくった人物である。

 ソ連軍がドイツ領内に侵攻していくにつれて、ソ連当局者は西側と同様ドイツの原子科学者と接触し、マンフレッド・フォン・アルデンネ男爵を引き抜くことに成功した。彼は一匹狼の物理学者で、U235 の電磁分離の端緒になるものを開発していたが、そのスタッフと実験所は黒海沿岸の保養地スフーミに移され、以後10年間、同位元素分離の仕事に没頭した。

 1945年8月、スターリンは彼らに急いで原爆をつくるよう命じた。その計画では、政治面をラベレンチ・ベリヤ、科学面をクルチャトフ、そして技術面はソ連版グローブズ将軍ともいうべきボリス・バニコフ(31)とベリヤの副官の一人、アブラーミ・ザベニャギン(32)の二人が管理した。この二人は1920~30年代にソ連の工業基盤を建設するために厳選されたエリート行政官グループ(西側の学者は「赤いスペシャリスト」とよんでいる)のメンバーであり、自分たちの仕事に非人間的、権威主義的かつ専制的な(即ちスターリン的な)管理スタイルを導入した。

 1945年8月に発表されたアメリカのスミス報告はソ連チームに貪り読まれ(モスクワでは第一刷として、3万部が公刊された)、その研究に大きな示唆(とくにU235 の分離に『ガス拡散法』を用いたことなど)を与えた。

 ウランの供給を確保するため、ソ連は、世界最古のウラン、ラジウム産出地であるチェコスロバキアのヨアキムシュタール鉱山のほか、東ドイツのザクセンの諸鉱山を開発し、1946年の135トンから1948年には900トンまで生産を伸ばした。しかし、そのためにはナチスの技術者を監獄から釈放して主任顧問にしたり、安全に全く配慮しない奴隷労働を課して多くの死傷者を出すということがあった。

 クルチャトフらは1948年に黒鉛原子炉を完成させ、翌49年には別のチームによって重水減速のプルトニウム生産用原子炉が完成し、同年8月29日中央アジアのカザクスタン砂漠で最初の原爆実験がなされるまでに、ソ連は原爆2個分のプルトニウムを所有していた。

【登場人物の整理】

(30) クラウス・フックス(独→英):科学者(ソ連の原子力スパイ)
(31) ボリス・バニコフ(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)
アブラーミ・ザベニャギン(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)

第5章 『貧しい関係』

 広島、長崎の原爆投下は、戦争に勝つための良策としての大量殺人を容認した軍事思想のクライマックスをなすものであるが、その理論は単純で、つまり民間人をできるだけ多く殺せば、生き残った者の戦闘意欲は挫けてしまうだろうというものである。その前例は第二次大戦の前にも小規模ながらあって、1935年のムッソリーニのエチオピア空襲、1937年の日本による中国諸都市の爆撃、そしてドイツによるスペインの町ゲルニカの攻撃がそうであった。

 第二次大戦時のドイツ軍のロンドン空襲は港湾施設を爆撃していたつもりだったのだろうが、実際は住宅地域にまで被害が及んだ。イギリスは反攻に転じてから、ドイツの工業基地を爆撃してその戦争遂行能力を打ち砕こうとしたが、実際には目標に正確に命中させる能力が空軍にないことがわかった。そこでチャ-チルは1941年、空軍による出撃を中止させる決定を下した。

 この決定はイギリス空軍の自尊心を大いに傷つけ、参謀総長チャールズ・“ピーター”・ポータル(33)は、チャーチルの科学顧問フレデリック・リンデマン(後のチャーウェル卿) (34)とともにチャーチルを説得して、爆撃禁止令を解除させ、1942年のセント・バレンタイン・デーに行われた爆撃では、新しい主要目標は敵民間人の士気であるとの秘密命令を出した。そしてこの戦略が残したのはドレスデン、東京、そして最後は広島と長崎の廃墟であった。

 戦後のイギリスは原爆に関する科学的ノウハウはたっぷり持っていたが、その資金を欠いていた。にもかかわらず、当時の労働党政権は1945年、大国としての地位を守るため、独自の核抑止力をつくりはじめたが、そのことについては国民は何も知らされなかった。新聞は「政府機密法」と原爆計画に関する特別な報道禁止令にしばられ、また議会で質問しても答弁は返ってこなかった。そして1952年、10億ポンドを費やしてつくられた原爆の実験が成功したが、それは当初のもくろみどおりの戦略的、外交的な配当はもたらさなかった。

 イギリスは、原爆は製造可能であるとしたオットー・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)の「フリッシュ=パイエルス・メモランダム」をアメリカに提供することによって、カナダとともにマンハッタン計画には大きく寄与していた。そして1943年8月、ルーズベルト、チャーチル、それにカナダ首相のウィリアム・マッケンジー・キングが秘密会議を開き、「ケべック協定」が成立し、原爆の情報、製造、そしてその利用に関しての三国間の協力体制が約束されていた。しかし戦後アメリカで制定された「マクマホン法」は米英間の原子力協力の扉を閉ざしてしまった。

 広島原爆の数日前に首相に選ばれたクレメント・アトリーは、当初、原子力国際管理の方法を検討すべきだと思い、また米英ソの三大国が戦争の廃絶の不可欠性を宣言することを期待したが、一ケ月も経たぬうちにイギリスに原爆保有をめざす特別閣議を召集することになる。この点でアトリーを補佐したのは官房長官サー・エドワード・ブリッジズ(後のブリッジズ卿)(35)であった。

 イギリスの官房長官は文官であって政治的に任命されたものではないので、政権交替によっても取り換えられず、伝統的に歴代首相のお守り役という存在である。ブリッジズは高名な詩人ロバート・ブリッジズの息子で、有能な行政官として成功し、大蔵省を経て1938年にこの職に就いた。

 彼は行政の隅々まで知り尽くした冷徹な官僚としてチャーチルを補佐してきて、また、イギリス史上初の労働党多数政権のアトリー内閣になっても、即座に次のような三つの重要提案を行って、内閣が原子エネルギーでとるべき明確なコースを設定した。

 それは、(A) チャーチルの原子力専門家で、官僚出身の保守党員、元内相、元蔵相のサー・ジョン・アンダーソン(36)を原子力最高顧問に起用すること、(B) 原子エネルギーに関する専任閣僚は任命しない、(C) 原爆計画の担当を科学工業研究省から、戦時中、軍需工場の組織化にあたっていた供給省に移すこと、の三つであったが、これらは1945年8月10日、アトリーの原子力問題に関する閣僚級特別委員会「ゼン(ゼネラル)75」によって承認され、ここに、政治家から独立した原爆製造体制ができ上がった。

 第一歩としてロンドン郊外50マイルの旧イギリス空軍飛行場の所在地ハーウェルに「原子力利用のあらゆる面」をみる研究機関が設置され、その所長にはケンブリッジの物理学者で、戦争中、カナダの重水原子炉の担当者だったジョン・コッククロフト(37)が任命された。次いで、1945年11月、アトリーはアンダーソン(36)とともに訪米し、トルーマンならびにカナダの当局者と会い、将来の英米間の協力について話し合った。アメリカのグローブズ将軍(18)は、植民地官僚出身で「尊大なジョン」「神様」と異名をとるアンダーソンの高圧的な態度をひどく嫌った。トルーマン、アトリー,キングは原子力開発における三国間の「全面的かつ効果的な」協力を確認したが、グローブズが固執したために、協力は科学データのみに限定されてしまい、イギリスが最も欲しかった技術的なノウハウ、工業上の細目はアトリーの再三にわたる要望にもかかわらず、結局イギリスには与えられなかった。

 「ゼン75」は1945年12月、プルトニウム生産用の大型原子炉建設に関するアンダーソン委員会の勧告を承認したが、原爆製造についての決定は1947年1月まで下されなかった。しかし、工場の建設と運営を担当した、インペリアル化学工業会社の技術者クリストファー・ヒントン(現在ヒントン卿)(38)は原爆製造という目的をしっかりと認識していた。

 プルトニウム生産の監督には、空軍参謀総長を退任していたピーター・ポータル(33)が起用された。彼は原子力についての知識はほとんどなかったし、ロンドンのシティーで若干の会社の取締役をつとめながら徐々に引退生活へと消えていくつもりであったため、その就任を渋っていたが、アトリーの懇請により受諾した。彼は戦時中の意欲や情熱の多くを失っていたが、第一次大戦中の「空の勇士」以来、ずっと大きな尊敬を集めており、また「人を操る技術に鋭い理解力をもった」、非常にすぐれた能力の指揮者でもあったので、原子エネルギーに引き続き最高の優先性を与えるための、閣僚や参謀本部との交渉に重要な役割を果たした。

 「ゼン75」では、ヒュー・ダルトン蔵相、スタフォード・クリップス商務相の二人が大規模な核計画の経済的側面に若干の留保を表明した。また肝心のイギリスの契約社である「ICI」と「イングリッシュ・エレクトリック」も、戦後復興の投資需要があまりにも莫大で核の方にまでは手が回らないとして、核計画と一切の関係を持つことを拒否したが、二人の経済閣僚の意見はその反映であった。そのため「ゼン75」は最終的かつ正式な決定を下さないまま、1946年12月に解散し、1947年1月に新しい「ゼン163」が原爆製造を決定した。「ゼン163」ではダルトンとクリップスは排除されていたが、それはおそらくブリッジズ(35)が官房長官として首相に及ぼした影響力の結果であったと思われる。

 政府の「原子力に関する諮問委員会」の委員で、ユトランド沖海戦の海軍士官、ノーベル物理学賞受賞者、戦争における作戦研究の事実上の発案者という経歴の持ち主、パトリック・ブラケット教授は、核計画の秘密世界の中で唯一、反対論を記録にとどめた人物である。彼は1945年11月の秘密メモランダムにおいて、イギリスが原爆を開発すれば、資源や物理学者が他の必要産業分野から奪われてしまい、また、核拡散を刺激することにもなると政府に忠告し、さらに、いったん原爆反対を決めたら、イギリスは原子力施設を国連などの査察に開放して、その誠意を証明すべきだと提案した。しかし彼の提案は1944年にニールス・ボーア(7)がチャーチルから食ったのと同じ肘でっぽうを食った。アトリーはブラケット報告を退け、参謀本部はそれをあっさりと無視した。おまけに彼はもう一人の物理学者ヘンリー・ティザードとともに原子力関係の諸委員会から排除されてしまった。

 ティザードは、戦時中、チャーチルの個人的な科学顧問フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(34)が、敵爆撃機の編隊にパラシュートをつけた爆弾を落とすという、いささかバカげた防空対策を提案したとき、レーダーに優先性を置くように反論して、何度も公開の席で激論し、また、チャーウェルの「戦略爆撃論」の効果にも反論するなど、チャーウェルと衝突をくりかえして、戦時の核問題から排除された。1946年、アトリーによって、新設された国防省科学顧問に任命されたが、ブリッジズ(35)とポータル(33)は彼を警戒し、1947年1月の原爆製造の秘密決定のときには、彼をブラケットとともにつんぼさじきに置いた。1949年にティザードは秘密メモランダムの中に、「イギリスはもはや大国ではなく、再び大国にはならないだろう。我々は偉大な国民であるが、もし、これからも大国のように振る舞いつづけるなら、偉大な国民でもなくなるだろう。」と書いたが、この論評は、戦後いちはやく、イギリスの没落を予言したものであった。

【登場人物の整理】

(33) チャールズ・“ピーター”・ポータル(英):軍人(空軍参謀総長)
(34) フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(英):(チャーチルの科学顧問)
(35) サー・エドワード・ブリッジズ(ブリッジズ卿)(英):官僚(官房長官)
(36) サー・ジョン・アンダーソン(英):官僚出身の政治家(原子力最高顧問)
(37) ジョン・コッククロフト(英):物理学者(英原子力研究機関・所長)
クリストファー・ヒントン(ヒントン卿)(英):技術者(原子力の父)

第6章 片目の王様たち

 1949年9月3日、アメリカ空軍の気象偵察機が、カムチャッカ半島東方の北太平洋上空で大気中の放射能が増加しているのを感知し、科学者が分析した結果、8月29日頃にソ連が初の核爆発実験を行ったことが判明した。

 アメリカ原子力委員会(AEC)委員長のリリエンソール(26)からこの知らせを受けたトルーマンはひどいショックを受けた。彼はソ連が原爆をつくるのは10~20年先だと思い込んでいたからである。ホワイトハウスがソ連原爆のことを発表したのは9月23日になってからであった。

 ソ連の原爆実験は、原子力の国際管理を復活させる機会でもあったのだが、アメリカの為政者たちはパニック状態に陥り、カーチス・ルメイ将軍(39)に率いられたアメリカ戦略空軍(SAC)を急先峰としたタカ派の政策により、原爆製造は次々に拡大され、1950年3月のトルーマンの水爆製造決定で頂点に達した。

 ウラン、プルトニウムといった重い元素の原子を分裂させることによってエネルギーを得る原爆とちがって、水爆のエネルギーは最も軽い元素(水素同位元素)の融合によって得られる。その融合に先立って、大量の熱爆発と途方もない圧力を必要とするが、それさえ得られるなら、理論的には爆弾の規模には限りはない。初期において制約となったのは運搬可能な爆弾の大きさと重さであった。

 リリエンソールはAEC初代委員長として、文民統制のもとで原爆と原子力の発展を維持するために、AECを議会や軍部からできるだけ独立した機関とすることに尽力した。それ以前の10年間つとめてきたテネシー渓谷開発公社(TVA)の経験から、「人は自然の諸力と調和しながらはたらく方法を学ぶことができる」というのが彼の信念で、また、5人のAEC委員のうちただ一人、政治的に中立な人物であった。他の4人は共和党員で、サムナー・パイクは証券取引委員会の元委員、ルイス・ストラウス(40)はウォール街の金融家、ウィリアム・ウェーマックは新聞編集者、ロバート・バッチャーはロスアラモス時代からの科学者であった。そして、この5人のうちの3人の反対を押し切って、トルーマンの水爆製造決定が下され、その後、リリエンソールは辞任する。

 当初、原爆製造に最も積極的であったアメリカ空軍は、軍事的な優位を確保するためには原爆400個が必要だと提案し、トルーマンとAECはそれを達成するために、ハンフォードでのプルトニウム増産に同意するとともに、U235 も増産するため、オークリッジにもう一つガス拡散工場を建設した。

 こうした当初の増産の背後にあったのは「戦略爆撃思想」の完全な容認であった。この先例はイギリスにもあったものだが、航空戦力の任務は、単に陸軍と海軍を支援するのではなくて、敵の国内軍事能力を破壊することによって直接的に勝利をもたらすことである、というものである。アメリカ人はこの軍事思想に深くコミットし、「戦略的」ということばはアメリカ爆撃部隊を包含するものの名前としてつけられ、「戦略空軍部隊」とよばれた。そしてそれは最初、ベルリン、ドレスデン爆撃として行使され、次いで、ルメイ(39)の指揮のもと、1945年3月9日の東京大空襲を皮切りに、日本でも大々的に展開された。

 「戦略爆撃」は対外的な関わりあいを厭う孤立主義的な政治家にも、「遠方からの爆撃」によって戦争に勝つという点で歓迎され、ここに、電撃的な都市大量爆撃の完全容認という「空軍力」のドグマは、今世紀初めの地政学的な「海軍力」中心のドクトリンにとってかわるものとなったのである。

 議会では、上下両院合同原子力委員会(JCAE)がAECの活動に未曾有の関心を示していた。JCAE委員長のマクマホン(29)は核の狂信者として、自分の地位を固めている最中で、「ミスター・アトム」の名で自分を売り込んでいた。そのマクマホンを助けたのは、頭の切れる、まだ若い、戦時中の爆撃機パイロット、ウィリアム・ボーデン(41)で、この二人の、マクマホン=ボーデン枢軸は、アメリカに原爆はいくらあっても足りないと信じていた。

 リリエンソールはアメリカの核政策の変化に疑念を強めており、これにトルーマンが同情的に耳を傾けてくれるものと信じていたが、死ぬ日まで広島についての自己不信の気持を一度も語ったことのないトルーマンは、国務長官、国防長官、AEC委員長で構成する「三人委員会」を設置して、自らの決定権の放棄を制度化してしまった。そして「三人委」で原爆の増産を検討しているとき、ソ連の原爆実験のニュースが入ってきて、以後、水爆製造という問題がもち上がってきた。この新しい熱核兵器が人類全体に及ぼす影響をリリエンソールは深く憂慮したが、彼の前には、軍部のタカ派、議会の強硬派の他、AEC内部の敵も立ちはだかってきた。

 ソ連の原爆実験に個人的に非常に驚いたストラウス(40)は水爆製造の必要性をすぐさま確信したが、それを実現するために、マクマホン=ボーデン枢軸の他、マンハッタン計画でグローブズのナンバー2であり、この時、アメリカ軍特殊兵器計画の指揮にあたっていたケネス・ニコルズを仲間に引き入れた。

 原子物理学者の中にもタカ派がいた。その中心人物は、ナチから逃れてきたハンガリー難民のエドワード・テラー(42)で、彼はマンハッタン計画の初期から熱核兵器製造の可能性に魅せられ、戦後も、この兵器の実際化についての研究を続けていた。テラーの同調者として、愛国主義的で保守的な、バークレー放射線研究所長ローレンス(19)とその子飼いのルイス・アルバレスがいた。

 水爆に反対したのは、オッペンハイマー(23)以下のAECの一般諮問委員会(GAC)の委員たちであった。彼らは、運搬手段による制約を除けば無限の爆発力を持つ水爆が民間人に及ぼす影響を重視したが、それはまた、水爆賛成論の論拠でもあった。GACは水爆よりも、小型の戦術用核兵器(戦場で使用できる規模の核兵器)を多様に開発すべきだと主張した。

 リリエンソールはGAC報告を心強く感じたが、一方、水爆賛成派の勢力も拡大していることに失望し、1949年11月7日、トルーマンに辞意を表明した。トルーマンは慰留に努め、その結果、リリエンソールは後任が見つかるまで1~2ケ月留まることにした。その二日後、AECは、水爆を製造しないというGACの勧告を3対2で承認した。反対したのはストラウスと、マクマホンの法律事務所の共同経営者で、AEC新メンバーのゴードン・ディーン(43)であった。この問題は、アチソン国務長官(26)、ルイス・ジョンソン国防長官、およびリリエンソールの「三人委」に委ねられたが、なかなか合意に至らず、リリエンソールは決定の延期を提案したが、アチソンはそれを支持しなかった。

 アチソンは冷戦下のアメリカの主要な政策イニシアチヴのすべて(トルーマン・ドクトリン、マ-シャル計画、NATO、それに、全面的な軍備強化を勧告した1950年4月の国家安全保障会議報告)をつくりあげた最も重要な人物であり、また、トルーマンに朝鮮介入を確固として進言した他、ヨーロッパ第一主義を推進した。彼はリリエンソールとは1946年にアチソン=リリエンソール案をつくった間柄であったが、1950年までには、ヨーロッパに対するソ連の脅威を、ソ連も「パックス・アメリカーナ」を恐れていることを知ろうとも、理解しようともせずに、数世紀前にイスラムがヨーロッパに及ぼした脅威と同一視するようになって、核爆弾の使用について、もはや道義的限界があるとは思わなくなっていた。要するに、かつてのような理想主義の贅沢に耽ることを許すような国際体制は崩壊しており、アチソンは、いわば、道義的な盲人の国にあって、片目の王様たちの仲間に入り、ソ連の原爆がその新しい立場を補強しただけの話であった。

 1950年1月13日、ジョンソン国防長官は統合参謀本部よりGACを批判する報告書を受けとり、そのコピーをホワイトハウスに届けた。そして1月19日にはトルーマンがそれを評価する発言を側近にもらして、水爆についてハラを決めたことを示唆し、1月27日の記者会見でそれを確認した。年老いたバルーク(28)は即座に支持を表明、アメリカ科学界で非常に尊敬されていたハロルド・ユーリー(14)がそれにつづいて、リリエンソールを意気消沈させた。

 1月31日、「三人委」で、「水爆を含む、あらゆる形の核兵器開発を続ける」という勧告がつくられ、それをトルーマンに提出した時、トルーマンは「水爆の実現可能性について調査する。生産の決定はその結論が出るまで待つ。」と答えた。ところがそれから48時間以内に、イギリスで原子力スパイ、クラウス・フックス(30)が逮捕されたというニュースが伝えられた。フックスは1943年以来マンハッタン計画に関係していたので、このニュースは、ソ連の核兵器について、再びヒステリカルな疑心暗鬼を呼びおこし、水爆の製造はもはや必至とみなされて、3月10日、トルーマンは製造命令を下した。

 しかしそれでも、タカ派はおさまらず、分裂物質の生産をもっと拡大せよと圧力をかけた。リリエンソールが去って抑制力のなくなったAECは、国防省とともに、新型の重水式原子炉2基を新たに建設すべきであると提案するに至ったが、マクマホン=ボ-デン枢軸は満足せず、そこにワシントン州選出の下院議員ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)も加わって、結局、10月にトルーマンが2基ではなく、5基の重水原子炉の新設を認めたことで、タカ派は勝利を収めた。

 1950年6月にリリエンソールの後継者としてAEC委員長になったゴードン・ディーン(43)は、文民統制を守り抜こうとしてタカ派に抵抗した。しかし、1952年1月、新国防長官ロバート・ロベット(45)が分裂物質の更なる増産を提案したとき、アチソンがそれを黙認し、トルーマンもそれに傾斜するに至って、彼は為すすべもなかった。その結果、アメリカは、国防総省が必要とみなしたよりも多くの分裂物質を生産し、1953年にアイゼンハワー大統領が「平和のための原子力」を提唱したとき、それに提供できる分裂物質は原爆5000個分以上に達していた。

【登場人物の整理】

(39) カーチス・ルメイ将軍(米):軍人(戦略空軍の総帥。東京大空襲を指揮)
(40) ルイス・ストラウス(米):銀行家(AEC委員。水爆製造積極派)
(41) ウィリアム・ボーデン(米):元空軍パイロット(JCAE事務局長)
(42) エドワード・テラー(ハンガリー→米):物理学者(超タカ派。米水爆の父)
(43) ゴードン・ディーン(米):弁護士(AEC2代目委員長)
(44) ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(米):下院・上院議員(JCAE委員)
(45) ロバート・ロベット(米):国防長官(分裂物質の増産を提案)

第2部 1950年代

第7章 運命と憤激

 ウォール街の銀行家ルイス・ストラウス(40)が1953年夏、AEC委員長に就任したとき最初に手掛けたのは、彼の得意とする一種の秘密工作、つまり、連邦政府からの「赤狩り」というアイゼンハワーの選挙公約を実行に移す仕事であった。彼はまた、連邦捜査局(FBI)のエドガー・フーバー長官(46)に対しても、長年「フーバーの喉に引っかかった骨」となっていた一部の人たちをAECから追放することを約束していた。それらはすべて、ストラウスが1946~49年にリリエンソールの下でAECにつとめていた時に目星をつけていた「危険人物」たちで、彼らに過去の「事実」を突きつけたり、あるいは、産業界や各種財団、大学に対する自らのコネを使って、彼らに新しい職を斡旋するという便宜を与えることによって、巧妙にAECから追い出していった。ストラウスのやり方はただ一つの例外を除いてうまくいったが、その例外とは、最も重要で、おそらくフーバーが最も気にしていたオッペンハイマー(23)のケースであった。

 1947年3月、最初のAECがようやく軌道に乗り出した頃、フーバーはAECにオッペンハイマーの過去についてのメモを送った。それは、彼の親友や親族が共産党に関係していたとか、彼自身、共産党に献金していたというものであったが、AECはそれらを再点検した後、ストラウスの同意も得て、オッペンハイマーが安全な人物であることを再確認した。

 アメリカ政府はこのきわめて著名な原子力学者を、好ましからざる人物と断定するまでは、彼の時間が許すかぎり、各種の委員会、軍事研究、政府の審議などに積極的に参加させた。オッペンハイマーはどんな場合でも原子力の軍事利用を支持し、それを拡大することを主張し、最後には水爆の開発も認めた。またある時、下院非米活動委員会で追及されている科学者にとって不利な、伝聞とこじつけによる証拠を提示したことさえあった。彼は常に権力の回廊への立ち入りを楽しんでおり、個人的な苦悩はどうあれ、公的記録ではいつもタカ派であった。

 戦略空軍司令部(SAC)はすでに1949年頃からオッペンハイマーに疑念を抱いていたが、1952年秋、かねてからの「戦略爆撃」支持者ロバート・ロベット国防長官(45)が、空軍とAECとの緊張関係に憂慮を抱き、側近にその問題の調査を命じたところ、返ってきた答えがオッペンハイマーだった。「戦略爆撃」に凝り固まっていた空軍にとっては、小規模の「戦術」核兵器の開発や「領空防衛論」を唱えるオッペンハイマーはSACを壊滅させようとしている人物としか映らず、一種の偏執的な感情を抱きはじめていた。

 1952年春、アチソン(26)はオッペンハイマーを軍縮に関する特別諮問委員会の委員長に任命した。バンネバー・ブッシュ(17)やCIA長官アレン・ダレスもそのメンバーで、ハーバードの若手学者マクジョージ・バンディーが事務局長をつとめるこの委員会は、核軍縮が不可能であるという結論を出して、オッペンハイマーを原子力タカ派の中で孤立無援にした。この結論は1946年のアチソン=リリエンソール案の線に沿った核兵器廃絶の道を永遠に葬り去り、以後、核兵器規制の話は、戦略兵器制限交渉(SALT)の場合と同様、すべて「運搬手段」に集中することになるのだが、そんな時でもオッペンハイマーは、アメリカの核兵器保有数を公開せよという自分の主張を盛り込んだ。この委員会の報告は、「現在のジレンマについて率直でなければ、軍備管理はつよく機能しえない」という確信の上にたっていて、すぐに「率直な報告」とよばれることになったが、それを利敵行為とみなすストラウスを憤激させることになる。

 ストラウスは1945年夏にオッペンハイマーと初めて会った時、「その非凡な頭脳と人を惹きつけずにはおかぬドラマチックな個性、それに、直面する問題に対して詩的で想像力豊かなアプローチをする感性」に強い印象を受けていたが、この二人の経歴や背景、その育った境遇はまったく正反対のものであった。

 ともにユダヤ人であったが、ストラウスが宗教心に富んだ貧しい靴屋の息子として生まれ、後にワシントン、ニューヨークに出て成功した、叩き上げの人物であったのに対して、オッペンハイマーは金持の家に生まれ、ハーバードで物理学を学んだ後、ケンブリッジ、ゲッチンゲンに留学するという恵まれた青少年期を過ごした。ストラウスがニューヨークで財産を蓄え、上司の娘を射止めたころ、オッペンハイマーはカリフォルニアのキャンパスで左翼思想にかぶれ、1937年にスペインで死亡した「国際旅団」の一員の未亡人に求婚していた。戦争になると、オッペンハイマーはマンハッタン計画に加わり、ストラウスは海軍に入った。ともに上司には恵まれ、オッペンハイマーはグローブズに、ストラウスはウォール街で旧知であったジェームズ・フォレスタル海軍長官に出会って昇進の道を得た。

 オッペンハイマーは1943年、バークレーでフランス語の教授をしている熱心な左翼の友人ハーコン・シュバリエより、ソ連領事館との接触を打診された。彼はそれを拒否したが、グローブズには報告しなかった。そして後にそれが露見した時にも、シュバリエをかばって嘘の供述をしたが、オッペンハイマーを買っていたグローブズは不問に付した。

 リリエンソールのAECの時代に、放射性同位元素の医学用輸出をめぐって、それをマクマホン法違反とするストラウスとオッペンハイマーは激しく対立した。1949年、上下両院合同委員会の聴聞会でこの問題が取り上げられたとき、オッペンハイマーは傲慢な態度でストラウスらの主張を一蹴して、ストラウスの憎しみを一層かきたてた。

 しかし実際にオッペンハイマーを裏切り者と非難したのはストラウスではなくて、上下両院合同原子力委員会(JCAE)事務局長ウィリアム・ボーデン(41)であった。1953年11月7日、ボーデンは再度オッペンハイマーの過去を洗い出し、FBIのフーバーに書簡を送った。フーバーは直ちにオッペンハイマーに関する新しい資料を作成して、国防長官のチャールズ・ウィルソン(47)らに送った。GM元社長で短気なウィルソンはすっかり仰天して、ホワイトハウスに駆け込んだ。問題の核心は例のシュバリエ事件で、オッペンハイマーが1953年夏、フランスで休暇中にシュバリエと再会した事実をうまく利用したものであった。AECはオッペンハイマーに、辞任するか、あるいは査問委員会の査問を受けるように求めた。オッペンハイマーは辞任を拒否した。

 聴聞会にはオッペンハイマーの友人だった科学者の多くが出頭し、彼を支持する証言をした。不利な証言をしたのはごく少数だったが、その一人にエドワード・テラー(42)がいた。彼はその証言で、オッペンハイマーを非愛国者とか裏切り者とはいわずに、あまりにも「一貫性がなくて」信頼できず、アメリカの安全保障に関わるのに必要な「英知と判断力」を欠いていると攻撃した。

 1954年5月27日、査問委員会は2対1の採決で、オッペンハイマーの追放を決めた。これはアメリカで最も経験のある、最も鋭敏な原子力専門家の一人を追放しただけでなく、学界全体に恐怖を広げた。オッペンハイマーのような経歴を持つ人が安全でないとすれば、いったい、他にどんな人が自由に意見を言う勇気を持てるのだろうか。リリエンソールがトルーマン時代後期の冷戦の潮流を食い止めることが出来なかったことからその徴候を見せはじめたAECの知性の崩壊は、オッペンハイマーの「見世物裁判」と追放によって完結した。AECはこれ以後、二度と初期の虚心さを見せたことはない。この有害な遺産がやっと消滅しはじめたのは1970年代の後半になってからであるが、その間、原子力の歴史は、アメリカでも海外でも、冷戦とマッカーシズムの集団的愚行に支配された。

 アイゼンハワーは、オッペンハイマーの没落を横目で眺めつつ、他方では、その「率直な報告」の内容を何とか生かしたいと考えていた。そして、1953年8月、ソ連が初の水爆を爆発させるに至って(アメリカの水爆実験は1952年11月)、その努力はにわかに緊急性を帯び、アイゼンハワーは、核兵器保有国が核分裂物質を「原子力プール」に預け、そこから平和目的に配給することは可能ではないかと思いついて、それを側近や、ストラウスに諮った。彼らはこのアイディアを、軍縮の手段としてではなく、冷戦下の宣伝の手段として評価した。それに、水爆では、分裂物質は起爆剤として用いられるだけで、その相対的重要性は大幅に低下していた。

 1953年10月3日、この計画はホワイトハウスで正式に策定され、アイゼンハワーは12月8日の国連総会で、「平和のための原子力」を大々的に打ち出した。前半で、核兵器の保有状況とそのおそろしさを率直に説明し、後半で「原子力プール」の創設を希望すると述べたこの演説は、10ケ国語のパンフレットとなって世界中にばらまかれ、それに関する放送テープや宣伝用フィルムなどが次々とつくられて、あらゆる分野における原子力の平和利用というバラ色の夢を全世界に振り撒いた。しかし、「原子力プール」は結局、実現せず、演説の余波として、核物質と核のノウハウが世界中に拡散しただけであった。

【登場人物の整理】

(46) エドガー・フーバー(米):FBI長官(オッペンハイマー追放を画策)
(47) チャールズ・ウィルソン(米):国防長官(元GM社長)

第8章 「X」の力

 戦争によって研究資材もスタッフも失い、占領下のフランスで孤独な苦しい闘いに耐えていたフレデリック・ジョリオ=キュリー(4)は、シャルル・ドゴールの戦後臨時政府が、広島原爆の2ケ月後に設立したフランス原子力庁(CEA)の事実上の責任者となった。彼は、イギリスの 1/10、アメリカの 1/100という乏しい資金にもめげず、研究用原子炉の建設にとりかかった。彼は平和目的の原子力にしか関心がなかったが、まもなく原子炉がプルトニウムを生産しはじめると、国内の保守派は原爆を望むようになった。

 アメリカは、フランスの計画が共産主義者のジョリオ=キュリーの手中にあることに懸念を深め、さまざまな方法でフランスに圧力をかけてきたが、ノーベル賞受賞者であり、マリー・キュリーの女婿であり、レジスタンスの英雄でもある、この著名なフランス人を追放することは難しかった。しかし、そのうちに、ジョリオ=キュリー自身が、共産党への政治的忠誠と、フランスの戦後科学の復興とのジレンマに耐えられなくなり、1950年3月に、核兵器禁止を訴えたストックホルム・アピールに署名した後、はっきりと前者に傾くことによって、自らの解任の道を開いてしまった。

 ジョリオ=キュリーの追放後、彼の仲間の科学者たちが次々とCEAから解雇され、マンハッタン計画の場合と同様、技術系の行政官がそれにとってかわった。もともとは鉱業専門家のために組織されたフリーメーソン的な権力集団「鉱山組」がそれである。

 「鉱山組」はフランス革命後に設立され、ナポレオンによってフランス軍のための技術者を養成するように軍隊化された保守的な専門学校「理工科大学」の最優秀の卒業生たちで構成されている。

 「理工科大学」は現在でも文部省ではなく国防省の管轄下にあり、全国での厳しい入学試験を経て入学した学生たちは、パリのカルチェ・ラタンの中心にある兵舎のような建物に住み、軍隊式の規律正しい生活を強いられるが、砲身を十文字に型どったその校章から、卒業生は一般に「X」と呼ばれている。

 科学、論理学、数学を重点的に学ぶ彼らの多くはフランス人特有の、技術中心の、能率と進歩を信じる考えをとっており、それにプラグマチズムの考えが重なって、政治の「非能率」には我慢できないという体質があった。そんな彼らにとって、原子力エネルギーの分野とCEAの特権は、そうした考えを実践に移すための肥沃な土壌となったのである。

 「理工科大学」の中でも「鉱山組」は卒業生上位10人にしか開放されていない超エリートで、彼らは長年、政府の主要部門の重要ポストと民間企業のトップの座を独占してきたが、1951年、彼らが原子力委員会を合併してのち、その指導的な地位についたのはピエール・ギヨーマ(48)であった。

 彼は第一次大戦時の有名な将軍の息子だったが、家に財産がなかったため、富と権力を手にいれるため、「理工科大学」に進み、「鉱山組」の資格を得た。当初、インドシナとチュニジアで鉱山関係の勤務についたのち、フランス解放後、ドゴールに売り込んで、燃料局長の座についた。彼は正確さ、能率、スピード、根性、思慮分別を容赦なく要求する、異常なまでの行政手腕の持ち主で、その、自らの絶対的権威の下で強力な原子力産業を創設するという野望は、軍部さえもCEAに寄せつけぬほど徹底したものであった。

 1954年12月、フランスの原子力政策を明確にするように求めるCEAと軍部の原爆推進派の圧力を受けた、社会党出身のピエール・マンデスフランス首相は、ギヨーマ、フランシス・ペラン(49)(ジョリオ=キュリーの後継者でCEAの科学者グループの代表)らCEA幹部を呼んで、原子力研究の現状についての報告をもとめた。その時、彼らは、即座に原爆製造に切り替えることが可能な状態であったのに、そうとは言わず、軍事向きの研究は一切していないと答えた。そしてその後の、クリスマス・イヴの日の、長い、コンセンサスの得られない会議で、マンデスフランスは結局、CEAに対して、「原爆製造の選択を残して」ひきつづき、将来役に立つ基礎研究を続けるように指示したが、ギヨーマはそれを「核兵器の原型の準備について承認」されたものと勝手に解釈して、極秘のうちに「一般研究局」という名の原爆設計部を設置し、アルベール・ビュシャレ将軍をその長に任命した。

 1955年2月、マンデスフランス内閣が崩壊し、エドガー・フォール首相の率いる新連合政府への移行のごたごたに乗じて、ギヨーマとドゴール派の政治家は、原爆推進派の新しい国防・原子力省の責任者たちと秘密取り決めを結んで、三番目のプルトニウム生産原子炉に関し、国防省から秘密の資金移転を受けることに成功した。さらに5月20日、フォール内閣は長期的な電力生産計画の資金という名目で、CEAの予算を倍増することを承認したが、議会では、原爆はつくらないと言明した。

 1956年初め、フォールの後継者ギ・モレは、このような秘密の原爆製造計画があることを知ってそれをやめさせようとしたが、ドゴール派の支持撤回をおそれてそれもならず、そのうちスエズ動乱が起こってフランスの軍事的脆弱さが暴露されると、原爆製造への疑念も消え失せて、ギヨーマは易々と国防省との間で新しい秘密協定を結んで、原爆実験までの軍事的時間表を定めることができた。しかし、原爆製造に対する最高水準の公式命令は依然としてなかった。

 この一連のギヨーマらによる既成事実の積み重ねを正式に追認したのは第四共和制最後の首相フェリックス・ガイヤールであったが、1958年5月、ガイヤール内閣が崩壊し、1ヶ月後にドゴールが登場して、1960年2月13日にサハラ砂漠でフランスの最初の原爆が爆発した。ギヨームら「X」の力に完全に翻弄されつづけた科学者の最後の抗議として、フランシス・ペランは実験への参加を拒否した。

【登場人物の整理】

(48) ピエール・ギヨーマ(仏):官僚(仏原子力庁=CEA委員長)
(49) フランシス・ペラン(仏):物理学者(ジョリオ=キュリーの後継者)

第9章 別世界

 1950年代半ばまでに、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ソ連の5ヶ国で原子力の公式機関がつくられた。それらはたいてい6人の優秀な公務員、それも大半は科学的資格のない人たちから成る委員会の形をとり、軍事的な関連からみな「閉鎖社会」となって、民主主義社会の下での通常の「抑制と均衡」を避けることができた。

 イギリスでは、チャーチルの科学顧問チャーウェル卿(34)が、同国の最高級の科学者や技術者をひきつけるために、供給省からはなれた、高給を払うことのできる新しい組織をつくった。

 カナダでは、経営者から政治家に転じたクレランス・ハウ(50)が、民主主義社会で最も広範な、政府の管理になる産業帝国を築き、原子力もその一部にしようとしていた。

 ソ連では、1953年3月のスターリンの死と、それにつづく秘密警察長官ラベレンチ・ベリヤの失墜により、それまであまり知られていなかった「赤いスペシャリスト」出身の技術系行政官ブヤチェスラウ・アレクサンドロビッチ・マリシェフ(51)が原子力担当者として登場した。

 1951年に首相の座に返り咲いたとき、ウィンストン・チャーチルはそれまでの労働党政権による原子力計画の規模の大きさを知って驚いた。古い議会人の彼にとって、前任者たちが議会に相談なしで100万ポンドもの資金を原子力につぎこんだのは信じられないことであった。彼はアメリカがイギリスに、その核のカサの下に入ってもよいといってくるのを期待していたが、チャーウェル(34)は、「我々がこの不可欠の武器をアメリカ軍に依存しなければならないとすれば、イギリスは、補助部隊の供給しか許されない二流国家に転落するだろう」と主張した。

 ドイツ生まれでイギリスで育ったチャーウェルは婿養子のような愛国心を持っており、ソ連がイギリスよりも先に原爆をつくったのが我慢ならなかった。両大戦間にドイツに戻って、「黄金時代」の物理学を学んだ彼は、計算尺や黒板よりも金持たちの応接間で過ごすことの方を好んだ人物で、上流階級の人々に複雑きわまる科学を簡明に教授することを得意とし、その点でチャーチルの信任を受けるようになった。

 1951年、もっと効率的な原子力機関を設立するという目的を秘めて、チャーチルの個人的な顧問に復帰した彼は、それまでの機構で十分だとするブリッジズ卿(35)の激しい抵抗にあった。しかし、1952年10月3日、「ハリケーン」という暗号名のプルトニウム原爆がオーストラリア西岸沖の島モンテベロで見事に爆発すると、チャーウェルはそれに力を得て、精力的に裏工作に奔走し、ついに1954年、イギリス原子力公社(AEA)を誕生させることに成功した。

 1965年、供給相としてカナダ下院に出席したクレランス・ハウ(50)は、「我々は原爆をつくったこともないし、これからもつくるつもりはない」と明言した。それは確かに事実には違いなかったが、カナダはそれまで、自国の重水型実験炉で生産したプルトニウムをすべてアメリカの原爆計画に供給していたのである。

 ハウは、政界入りする前は「世界で最も有名な穀物倉庫の建設者」として知られていたが、1935年、自由党のウィリアム・マッケンジー・キングに誘われて運輸相になった後は、カナダ国鉄を再編し、カナダ放送局を設立し、カナダ航空の前身会社を創設するなど、次々と新しい組織をつくりだし、戦時中には軍需品供給相として、武器・弾薬の他、航空機、アルミ、合成ゴム、金属ウランなどの産業基盤を確立して、一大政治帝国の「皇帝中の皇帝」として君臨していた。

 1942年2月、ドイツの猛爆撃を受けて自国での原子力研究が難しくなったイギリスが、ウラン資源と、ノルウェー以外では唯一の重水生産工場をもつカナダに原子力の共同研究をもちかけてきたとき、ハウは友人の最高科学顧問チャルマーズ・マッケンジーの助言を受けて、この前途洋々たる新産業に乗り出す決意をした。1944年4月に始まったこの共同プロジェクトには、イギリスのレーダー専門家ジョン・コッククロフト(37)の他、ジョリオ=キュリーの仲間の自由フランスの科学者たちも加わり、オタワ西方約200キロのチョーク・リバ-とよばれる小村で、プルトニウムを生産する重水型天然ウラン原子炉の建設が開始され、1945年9月に臨界に達した。

 1947年7月、二番目の重水型原子炉が完成し、カナダの原子力技術は確固たるものとなったが、それには年間数百万ドルのコストを要し、カナダのもつ巨大な水力発電の潜在力からいっても、その価値はかなり疑問視されるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会が生産されたプルトニウムをすべて買い取ることに同意したことによって、経営的な見通しがつき、ハウはその将来性を信じて、カナダ原子力公社を設立、その長には友人のマッケンジーが就任した。

 1954年、ソ連は、僅か5000kwの規模(現在の原発の1/200)ではあったが世界最初の原子力発電所を建設し、モスクワ南西100キロにあるオブニンスクの町に電気を送りはじめた。このすばらしい業績をあげた責任者が、新たに中型機械製作相に就任したマリシェフ(51)である。

 マリシェフの活動ぶりは、ソ連の秘密主義のベールに隠されて明らかではないが、ソ連の市民たちが彼の重要性を知ったのは1953年6月、彼が政治局の面々と共にモスクワ・オペラに突然姿を現わしたときである。その時、姿を見せなかったのが秘密警察長官のベリヤで、ベリヤはこの公演中に逮捕されて、のちに処刑される。こうして、ソ連の原子力計画はマリシェフの手に移った。

 マリシェフは初期の原爆計画にも参加していたが、その正確な役割ははっきりしない。ただ、その地位は、技術畑の責任者バニコフ(31)よりは下だったようだが、ザベニャギン(32)よりは上で、しばしば技術関係の会議の司会をしていたそうである。

 彼は理想家で、マルクス主義の真面目な学徒であった。1931年、彼は若い技術者として、シベリアでの水力発電の開発を熱っぽく主張した。電力はソ連の神話の中で特別な意味を持っており、レーニン自身、H・G・ウエルズに対して、共産主義を「ソビエト権力と全国土にわたる電化」と定義づけて説明していたほどであったが、マリシェフはそれを忠実に推進した人物であった。

 彼はモスクワ駅で機関車の運転手として働いていた1926年に入党し、のち選ばれて、後の首相ゲオルギ・マレンコフの監督下にあったモスクワのバウマン工科大学で、将来の政府高官たちといっしょに特別訓練を受けた。1939年には閣僚に任命され、戦時中にはソ連国防産業の最高責任者の一人として、戦車生産の責任を担った。そして、スターリングラードの攻防戦では、包囲されたスターリングラードの経済面の管理を担当した。この戦いは愛国的伝承となり、それに参加した人々は後年尊敬されるようになったが、そうした中に、グリゴリー・ジューコフやニキタ・フルシチョフも入っていた。

 ベリヤとその秘密警察の監視がなくなったことにより、マリシェフの原子力計画は大幅に拡大され、原子力潜水艦の開発なども進められたが、とりわけ大きな部分を占めたのは、レーニンの言葉を実行に移す原子力発電の計画であった。原爆実験成功後、科学者のスポークスマン役であるクルチャトフ(11)はあらゆる型の原子炉の研究を推進し、最初に完成したのが、1948年の最初のプルトニウム生産原子炉の後裔にあたる、黒鉛を減速材に使用したオブニンスクの水冷式原子炉であった。以後、1958年に、発電とプルトニウム生産の両用の重水型原子炉がシベリアに完成し、まもなく、ソ連は新しい「原子力の世紀」にむけて、自国の原子力計画を再編、強化し、中型機械製作省から「原子力利用中央評議会」という新しい部門をつくった。

【登場人物の整理】

(50) クレランス・ハウ(加):実業家(カナダの原子力産業を創設)
(51) ブヤチェスラウ・A・マリシェフ(ソ):官僚(原子力担当者)

第10章 提督

 1950年代半ば、アメリカから全世界に伝染病のように広がった原子力利用の熱病は、発電、航空機、船舶、食料保存、汚物の消毒、ガン治療など多くの分野にバラ色の幻想を振り撒き、核兵器による人類絶滅の恐怖や、核実験による放射能被害への警戒感を圧倒する勢いであったが、アメリカ海軍のハイマン・ジョージ・リコーバー大佐(52)にはそのような浮かれた幻想はひとかけらもなかった。

 アメリカ原子力産業の誕生に実際の力を振るったこの男の頭にあったのは、原子力は海軍を救うことができる、原子力はアメリカを救うことができる、の二点だけであった。即ち、第二次大戦後の空軍力優位の中で、海軍に残された可能性は、燃料補給基地に依存することなく長期間潜水したままで、、敵の攻撃にさらされることの少ない「原子力潜水艦」であり、また、アメリカも、原子力革命の中でその威信を守り、化石燃料が枯渇したときの代替エネルギーを獲得するために原子力を必要としていた。

 ドイツでウランの核分裂に成功したというニュ-スが1939年にアメリカに届いて以来、アメリカ海軍実験研究所の物理学者たちは世界最初の原子力潜水艦の建造を夢見ていた。従来の潜水艦はディーゼルエンジンを動かすための酸素を必要とする関係上、ほとんどの時間、海面上を航行しなければならず、潜水するときは電池を使い、再充電が必要となるまでのごく短い距離しか水中を航行できなかった。

 しかし、マンハッタン計画を管理しているのは陸軍で、海軍は戦後、原子炉の開発状況をみるため代表団をオークリッジに送るようにという招請を受けるまで、実質上、原子力問題から排除されていた。そしてそれ以後も、戦争が終わって減額された軍事予算では、原子力潜水艦開発に要する巨額のコストは賄いきれそうもなかった。そんな中でリコーバーだけは原子力潜水艦開発の確信を失わず、原子力に対する知識、立身出世の意欲、そして権力掌握の野心に支えられた凄まじいまでの執念で、部下を、時には恫喝しながら、叱咤激励して、原子力潜水艦の建造を推進させていった。

 また彼はウェスチングハウス社と結んで、現在では最も一般的なタイプとなっている軽水型原子炉を採用して、1954年1月21日に、ジュール・ベルヌの空想船に因んだ初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を進水させるとともに、1957年、ペンシルバニア州シッピングポートで操業を開始したアメリカ最初の原子力発電所をつくった。

 リコーバーは1900年、ポーランドのユダヤ人家庭に生れたが、6才の時、彼の家族はニューヨークに移住してきた。彼の父は裸一貫から働きとおして小さな財を築いた人物であったが、リコーバーも高校を卒業するまでアルバイトに追われ、19才のとき、地元議員の援助を得て、やっと海軍兵学校に入ることができた。兵学校では、彼は熱意のない学生であったが、それは海軍の中に隠然と存在するユダヤ人排斥の気風のためであったのかもしれないし、海軍に入って潜水艦勤務の資格を取得し、「技術専任」将校の任命を申請したのも彼の屈折した心理の反映であったものと思われる。

 1939年6月、彼は全海軍艦艇の設計、建造、修理を担当する、ワシントンの艦船局勤務を命ぜられた。そこで彼は徹底して無駄を省く設計監理を行って、出入り企業を震え上がらせたが、これは彼が後年、原子力潜水艦建造にあたって持ち込んだ管理スタイルの芽生えであった。

 1946年、オークリッジで原子力のコースを歩みはじめ、1948年、正式に海軍原子炉の責任者に就任したリコーバーは、最初の原子力潜水艦の進水期限を自ら、1954年1月1日と設定し、それに向けて民間請負い業者に技術上の完全を徹底的に要求した。彼はまた同時に、AECの海軍原子炉部長にも就任し、この二つの地位を巧みに使い分けて、繁雑な官僚的形式主義を排し、また時にはそれを逆用することによって、原子力潜水艦建造に向けての環境を整備し、そして自分自身の権限をも強めていった。

 戦後まもなく、AECは原子炉研究を、アーサー・コンプトン(21)のシカゴ大学グループの後身であるアルゴンヌ国立研究所に集中しようとした。リコーバーは1500気圧の沸騰しない普通の水を減速材と、炉心を冷やす冷却材の両方に使用する『加圧水型原子炉(Pressurized Water Reactor=PWR)』を、その研究スタッフの力量を見込んで採用しようとしていたが、アルゴンヌ研究所の科学者たちはそれに批判的であった。またAECもリコーバーがPWRを自由に支配することに警戒的であったが、1949年のソ連原爆によってそれらは完全に吹っ飛び、リコーバーは昇進以外は、欲しいものは全て手にいれることになった。

 リコーバーはこのような重要な任務の責任者の地位にありながら、社交や、上司への全面服従をきらう、スペシャリスト的な偏屈さのために、対人関係での衝突が絶えず、そのことが彼の昇進をいつも妨げてきた。しかし、退役が迫ってきたとき、彼はそれを拒否し、議会に支持を求めた。それを助けて、彼を少将に昇進させる中心的な役割を果したのは、JCAEの最初からの委員で、下院から上院に移ったばかりのヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)であった。リコーバーは議会の聴聞会では、はきはきと、簡潔で率直で的を射た証言をすることによって、自信と、時には傲慢ささえ滲ませながらも、全般的には正直だという印象を与えることに成功した。彼は、監視役という議会自身のイメージにおもね、それが議会側の好感を誘ったのだが、しかし、議員たちは何にもまして、リコーバーこそ多くの将校や高官たちの中で見事にその仕事をやり遂げた人物であることを承知していた。

 リコーバーはまた、航空母艦用原子炉システムを構想し、1950年にはその技術的設計を行うチームを持っていたが、空母は現代の戦争では攻撃を受けやすいことから、アイゼンハワー政権の支出削減公約とも相俟って、1953年4月、その計画は撤回された。しかし、その原子炉にはすぐに民間用に転用する道が開けていることがリコーバーにはわかっていた。潜水艦用の原子炉を開発したウェスチングハウス社が発電用原子炉の建設にすこぶる熱心だったからだ。

 この頃、ソ連は自分たちが発電用原子炉をほぼ完成したと主張し、イギリスも1956年までに全国に電力を供給する原子炉の運転を開始しようとしていたため、アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説を準備していたアメリカにとって、発電用原子炉を早急に建設することは国威にかかわる問題であった。

 そこでストラウス(38)に推薦されて、凱旋将軍のように登場したリコーバーは、アイダホ州の実験ステーションでウェスチングハウス社製の潜水艦用加圧水型原子炉(PWR)のモデルをデモンストレーション運転して、AECの契約をかちとることに成功した。そして1954年9月6日、オハイオ州シッピングポートにアイゼンハワーを迎えて、PWR発電用原子炉の起工式が行われ、その原子炉は1957年12月、6万kwの原子力発電を開始した。その結果、ウェスチングハウス社は新しい製品ラインにPWR型原子炉を付け加えることになったが、それはまたリコーバーのウェスチングハウス社内での新しい支配力の確立をも意味していた。

 ウェスチングハウス社はライバルのゼネラル・エレクトリック社(GE)のような才能や独創性を持っておらず、いつも、あらゆる面で「ナンバー2」に甘んじているようにみえたが、信頼性の高い「技術会社」として知られていた。そしてGEみたいに経営者を絶えず交代させることはせず、トップ経営陣は何年も同じ部署に留まっている傾向があって、原子力部門でも、チャールズ・ウィーバー、ジョン・シンプソン、ジョセフ・レングルの三人が、その後30年間にわたってトップの地位を占めつづけた。この三人は船舶用原子炉の開発の時からリコーバーと深く関わっており、いわば「リコーバー・スクール」の優等生であった。

 リコーバーは彼らに対して常に絶対の従順を求め、のちにシンプソンがウィーバ-に代わって発電用原子炉担当の副社長に就任した際に、アメリカ航空宇宙局(NASA)のために原子力推進ロケットを研究する「航空原子力研究所」の設立を決定すると、激怒して、自分の息のかかった要員がNASAに移るのを拒否した。そしてシンプソンがそれにもかかわらず、計画を強行するや、リコーバーは最新型原子力潜水艦用原子炉に関わる契約を一方的に破棄し、それをGE社に与えた。しかし、ウェスチングハウス社はすでに何百人もの原子力技術者を持っていて、リコーバーの怒りにあっても十分に耐えられる、強大な原子力帝国を築き上げていた。シッピングポートの原子力発電所が従来の火力発電の10倍ものコストが掛かっていても、もっと大型のPWR原子炉を建設する認可と政府援助を、直接、AECからとりつける実力を持っていた。これまで常に「ナンバー2」に甘んじてきたウェスチングハウス社は、原子力開発のおかげでトップの座を獲得する機会を手にいれたのである。

 その間、ライバルのGE社も手をこまねいていたわけではない。戦争終了直後、GEは、同社の原子力研究所をつくる資金をAECが提供するという条件で、ハンフォードにあるプルトニウム生産原子炉の運営責任を引き受けることに同意した。そしてその新しい研究所は、ニューヨーク州北部のスケネクタディのGE本社の近くに建設された。

 当初、GEの計画は科学者たちが支配しており、彼らは、プルトニウムを燃料とし、消費するよりも多くのプルトニウムを産出する「高速増殖炉」の研究に重点を置いていた。リコーバーはそれよりも、潜水艦計画の絶対的優先を要求し、また、技術者ではなく科学者に計画を管理させるという、GEの基本姿勢にも反対だったので、両者は鋭く対立した。しかし、1950年、高速増殖炉の開発は技術的困難に直面し、GEはやむなくリコーバーとの話し合いに応じて、海軍の契約を受け入れた。そして冷却材として、水ではなくナトリウムを使う潜水艦用原子炉1基(1954年7月21日、これを搭載した原子力潜水艦第二号「シーウルフ号」が進水)をつくったが、GEは、ウェスチングハウスのように、その研究所をリコーバーのお気に入りの計画だけを行う、単一目的の機関として使われることは許さなかった。

 一方、アルゴンヌ国立研究所では、科学者たちがもう一つの軽水原子炉である「沸騰水型原子炉(Boiling Water Reactor=BWR)」の理論研究に従事していた。BWRは冷却材および減速材として普通の水(軽水)を使う点ではPWRと同じだが、PWRとは次の二点が違っている。即ち、(A) 水を加圧せずに炉心を囲む容器内で沸騰させるため、容器は高圧に耐える必要がない。(B) 炉内で発生した蒸気をそのまま発電機を動かす動力として使用するので、蒸気発生器は要らない。事実、その構造はPWRよりも単純で、建設費も安かった。

 GEはこのBWRという新しい技術を開発しようと、政府の補助をはねつけて、カリフォルニア州サンノゼの近くに新たに研究所を設立した。1903年にGEの最初の発電用蒸気タービンを注文した実績のある、シカゴのコモンウェルス・エジソン社を中心とする電力会社コンソーシアムが早速、この新型原子炉に関心を示した。GEはコンソーシアムに、最初に決めた価格で発電所の建設と初運転までの全責任を負う「固定価格契約」(後に「ターン・キー契約」と呼ばれるようになる)を提案したが、この契約方式は10年後、国内の電力会社に原子力発電所を売り込む際の重要な要素となった。

 GEの最初のBWR原子炉「ドレスデン1」は1959年10月15日、20万kwの電力供給を開始したが、それは世界で最初の大規模な、民間資金による原子力発電所であった。すでに政府出資のシッピングポートのPWR発電所は二年前に完成しており、また、BWRの開発コストをそっくり負担することはGEにとっても大きなリスクであったが、このBWRの完成によって、GEは原子力事業の分野でも「ナンバー1」の地位を取り戻したのである。

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