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核の栄光と挫折 その2

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 8月15日(月)14時29分57秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://happi-land.com/baron-yoyaku.html

第11章  永遠の泉

 1955年は、8月にジュネーブで国連主催の第1回「原子力平和利用国際会議」が開かれて、「平和な原子力」にとって画期的な年となった。

 冷戦が始まって以来はじめて東西両陣営(全世界73ヶ国)の科学者が集まったこの会議では、アメリカはパレデナシオンの敷地に小型の運転炉をつくって大々的なPR活動を行ったが、驚いたことに、そこにはソ連の科学者たちもつめかけて、気楽にお互いの研究の秘密を語り合うなど、大いに打ち解けた、解放的な雰囲気が醸し出されていた。期間中は、発電から汚物の殺菌に至る「平和な原子力」に関する記事が連日、世界中の新聞の第一面を飾り、また、それまで供給不足と考えられていたウランの新しい資源が世界中で発見されるなど、核分裂の将来は完全に保証されたように見え、放射線の危険(低レベルでも危険である)や、発電用原子炉から生れる有毒廃棄物の処理問題(後にこれは原子力を苦境に追い込む問題となる)は脇に押しやられてしまった。

 イギリスとフランスは、炭酸ガスを冷却材、黒鉛を減速材に使った原子炉を、アメリカとソ連は、最初海軍で推進力計画に利用した加圧水型原子炉を初期の民間用原子炉として選んだ。

 イギリスはジュネーブでクリストファー・ヒントン(38)が、ガス冷却原子炉の方がアメリカの軽水型よりも安全で、より信頼できると主張した。ガス冷却炉は確かにコストが掛かり、高度の技術を必要とするが、副産物のプルトニウム(原爆用のほか、将来開発されるであろう高速増殖炉に利用できる)がそのコストを相殺するというのである。イギリスはこの時、10年以内にガス冷却炉を12基建設し、1975年までに全電力の半分を原子力にするという具体的な目標を設定しており、1956年5月にはコールダーホールの1号炉が完成して、原子力による電力を全国規模で送電した最初の国となった。

 1955年10月、国連で「原子力平和利用に関する決議案」が可決されて、「国際原子力機関(IAEA)」が設置され、西ドイツ、日本(12月)、ベルギー、イタリア、スペイン、ブラジル、アルゼンチンの各国が原子力委員会を設立して、“今、原子力のバスに乗り遅れたら、永久に置き去りにされてしまう。慎重論を唱える者は非愛国的だ。”という空気が全世界を支配した。

 ジュネーブ会議後の原子力輸出市場争奪戦は最初、イギリスとアメリカで争われた。1950年代末までにウェスチングハウス社がベルギーとイタリアに軽水炉を各1基、GE社も西ドイツ、イタリア、日本に各1基を販売、イギリスのGE社は日本にガス冷却炉を1基、同じくニュークリア・パワー・プラント社はイタリアに1基を輸出した。

 こうした原発熱はたちまち世界中に広がったが、中でも最も熱心だったのは第二次大戦の二大敗戦国である西ドイツと日本で、その次がインドであった。しかし、西ドイツと日本がこの時期に原子力計画を開始することは、乏しい資源を無駄に配分するという点で明らかに時期尚早であったし、インドに至っては国家的悲劇とさえなった。

 戦時中、ドイツ屈指の巨大化学コングロマリット、I・G・ファルベンの「皇太子」といわれたカール・ウィナッカー(53)は、第一回ジュネーブ会議での技術的興奮が覚めやらぬうちに、当時彼が会長を務めていた化学会社ヘキストの指導的技術者たちに電話して、直ちにジュネーブに来て新技術を学びとるように命じた。出品されたいくつかの展示品、とくにアメリカの運転炉に深く感動したウィナッカーは、西ドイツ独自の原子力産業の誕生にかけた衰えることのない情熱により、のちに「西ドイツの原子力の法王」という称号をたてまつられるのだが、西ドイツの原子力産業はやがて、軍事計画に支援されていない国の核技術開発では最先端を行くまでに成長した。

 ジュネーブ会議で西ドイツは、1930年代に「黄金時代」を誇った同国の原子力の成果が今や失われてしまっていることを今更ながら痛感した。新聞はそれについていろいろと書き立て、それが圧力となって、アデナウアー政府は原子力産業を育成するために、国家資金を配分する「原子力問題省」、それを実際に使う「原子力委員会」、それに別の規制機関として「原子炉安全委員会」の三つの機関を創設した。

 原子力委員会にはウィナッカーの他、核分裂の発見者であるオットー・ハーン(2)、州政府の代表であるレオ・ブラントがいたが、ウィナッカーはすぐに最大の実力者にのし上がり、原子力委員会を意のままに動かして、カールスルーエに新しい原子力センターを設立し、その主要ポストに自分の友人や仲間を配置した。カールスルーエの初代所長にはヘキスト社から送り込まれた技術者出身のゲルハルト・リッターが就任し、原子炉安全委員会の運営には、同じくヘキスト社の主任技術者で、学生時代からの友人であるヨーゼフ・ウェングラーが当たった。

 プロテスタントの中でも最も偏狭で、厳格で、頑固な一派の中心地であった、北ドイツのブレーメンで生まれたウィナッカーは、ドイツ産業界の成功者の典型であった。謹厳で、超然として、規律にうるさい彼は、「プロセス・エンジニアリング(新しい化学製品を工場規模で生産する技術)」の最初の専門家の一人であったが、この分野は化学と物理学と技術の合流する境界的な分野で、その点、原子力の開発と似たところがあった。

 彼は戦時中のI・G・ファルベンとの関係から、戦後は非ナチ化の命令を受け、自宅で化学技術の論文を執筆するぐらいのことしか出来なくなったが、1952年、I・G・ファルベンの再編成計画が実施されたとき、その三つの後継会社の一つであるヘキスト社の経営委員会に復帰することを許された。彼はまもなくその委員長となり、ヘキスト社がI・G・ファルベンの遺産の大半を相続できるよう取り計らうことに成功した。これらの三社はいずれもその後、主要な多国籍企業に発展し、ヘキスト社はやがて世界最大の化学会社に成長した。

 将来の産業における原子力の重要性に早くから気付いていたウィナッカーは、すでにジュネーブ会議の前に、西ドイツの主要産業を「物理研究協会」というグループに組織化していたが、この団体こそ、原子力研究に対する産業界の支援を取り付ける第一歩となったものである。その後20年間にわたって、政府と民間投資家は200億マルク近くの資金を注ぎ込み、13種類の違った型の原子炉が調査された。その目的は、すでに確立された技術であるアメリカの軽水炉やイギリスのガス冷却炉に依存しない独自の方式を開発することであった。

 最初、重水型原子炉が西ドイツの独自性を短期間に確立する最善の方法のように思われた。この方式は天然ウランを使用するので、アメリカの濃縮工場からしか手に入らない濃縮ウランを使う必要がなかったし、また、重水については、ヘキスト社が戦時中にその技術を開発していた。しかしウィナッカーは長期的な独立のためには高速増殖炉の開発がどうしても必要だと考え、ヘキスト社の経営陣や株主に対して十分な投資価値があることを保証して、その研究に当たらせた。

 かつて化学が20世紀前半の産業制度を変えたように、20世紀後半は物理学が原子力を通じてまちがいなく産業構造を変えるとウィナッカーには思われた。彼の核技術に対する理解がそう信じさせたのだが、日本でウィナッカーに相当する正力松太郎(54)にはそのような素養はなかった。しかし彼は優れたギャンブラーで、彼には原子力こそ50年代半ばでの絶対的な賭けにみえたのである。

 正力松太郎は大変なやり手で、「日本のプロ野球の父」「日本のテレビの父」「日本の原子力の父」など多くの分野で華々しい偉業を成し遂げたが、とくに核エネルギーに対する熱意は彼のそれまでの目覚ましい経歴の頂点を成すものであった。

 彼の祖父は橋づくりを専門として、一介の庶民から下級武士にとりたてられた人物であったが、彼の父は田舎町の平凡な技師で終った。日本では、官界に進むのが、家柄や財産のない若者が社会的に出世する数少ない道であるが、正力も、官界エリートの中心的訓練場である東京帝国大学法学部を卒業して、1913年に東京警視庁に入った。そこで彼は、偽牧師による大量殺人や朝鮮王室一員の暗殺など、数多くのセンセーショナルな犯罪事件を手掛けて頭角をあらわし、また、米騒動、選挙権デモ、学生暴動を見事に鎮圧して政治指導者の注意をひき、1921年、日本国内の政治情報を握る中心ポストである警視庁警備部長に任命された。そして、1924年、当時の皇太子裕仁狙撃事件の警備責任を問われて辞職を余儀なくされたが、その時までに彼は財界や有力者の間に十分な影響力を蓄えており、経営不振の読売新聞を買い取る資金を工面することができた。

 新聞経営者としての正力は、日本独特の新聞配達制度の下での激烈な販売競争に勝ち抜くために、新聞販売店をがっちりと握ることに腐心したが、美術展の開催や火山探検など話題を呼ぶ催し物の企画にも腕を振るい、中でもスポーツ関係の興行は大成功した。1934年に正力が東京にベーブ・ルースらを呼んだとき、銀座でのパレードには100万人もの人々が見物に押しかけた。また、神宮球場で、日本のプロ野球チーム・東京ジャイアンツとの試合が行われたため、明治天皇を記念した球場を汚したとして、右翼分子に襲われて、2ヶ月の重傷を負ったこともあった。

 第二次大戦中は「大政翼賛会」の指導者の一人となり、1944年には天皇によって貴族院議員に任命された正力は、終戦後、A級戦犯に指定され、追放令を受けて、いかなる公職にも会社の役職にも就けなくなった。しかし、追放解除後、正力は国会議員となり、旧友の鳩山一郎の率いる自由党に入った。そして鳩山が政権をとって、閣僚の椅子を勧められると、彼は自ら、原子力担当相を選び、1956年1月に発足した「原子力委員会」の初代委員長となった。

 彼は自分の新聞の主催でアメリカから原子力の専門家を呼んで、新しい原子力時代について講演させたり、アメリカから融資を受けて「平和のための原子力」展を開いたりする一方、財界首脳に働きかけて、1956年3月、既存の民間原子力調査機関を結集した「原子力産業会議」を発足させた。

 正力は手っ取り早く日本の原子力開発体制を固めるため、歴代の日本の指導者と同様、外国の技術を輸入し、それを模倣する方式をとろうとしたが、原子力委員会の少数派と、日本科学界の大多数は、独自の研究を進めるように求めた。正力は自費で東京に呼んだAEA産業部長クリストファー・ヒントン(38)の助言を受けて、その年5月にコールダーホールで完成したガス冷却原子炉に傾いていた。日本の科学者たちは、炉心のまわりに溜まる黒鉛の固まりは、イギリスでは認められても地震国の日本ではとうてい受け入れられないと主張したが、正力はそれを押し切った。発足当初から原子力委員をしていたノーベル賞学者の湯川秀樹は、正力の強引さと仲間の科学者たちの反対との板ばさみに嫌気がさして、1956年4月に辞意を表明、翌年3月に原子力委員を辞任した。しかし正力によって導入されたコールダーホール型ガス冷却炉は当初見積もりよりも建設に時間がかかり、多くの費用をついやして、そのため日本は苦しい経験をしなければならなかった。

 ウィナッカーと正力が、西ドイツと日本でいかに性急に原子力開発を推し進めようとしたとしても、それは少なくとも既に工業基盤を持った国でのことであったが、インドにはそのような基盤さえなかった。ジュネーブ会議でも、イギリス代表のコッククロフト(37)が「原子力は、開発途上国にとっては必ずしも繁栄をもたらす魔法のカギではない」と警告したが、インドの原子力計画の創設者であるホミ・バーバー(55)はそれを無視した。

 ヨーロッパで原子物理学を学んだバーバーは、外国の支配と経済的後進性のために何世紀も遅れをとった祖国が、独立後、それを取り戻すには科学技術しかないと考え、姻戚関係にあるインド最大の工業帝国の所有者タタ一族の援助を受けて、原子力研究所を設立した。そして、1948年に、アメリカ、フランスにつづいて、早々とインド原子力委員会が設立されると、その委員長に就任し、1966年に死去するまでその地位にあった。

 バーバーと同じ様に貴族の家に生まれ、ケンブリッジで学んだ首相のネールは科学の進歩の信奉者であったが、インド原子力委員会はそんなネールの政治的保護の下で、民主政治の管理を受けず、政府の他の省からも何の疑問も持たれずに、1970年代末まで秘密裏に活動することができた。そして、1956年8月にはインド最初の国産原子炉が完成したが、それはアジアで自力でつくられた最初の原子炉でもあった。

 インドのエリートたちは、中国の場合と同様に、自分たちの栄光ある古代文明と近代以後の救い難い後進性とのギャップに悩んでおり、それを埋める「進歩の近道」「大躍進の魔法」としての原子力に大きな期待をかけていた。インド固有の技術による理想社会、小さいことは良いことであるというガンジーの思想は、インドの工業化を目指すネール政府によって、徐々にないがしろにされていった。

 バーバーは、エリートたちのこんな雰囲気の中で、超愛国者のイメージを作り上げることに成功したが、彼がどこまで本当に国家の独立や主権に忠誠で、科学者あるいは科学行政官としての誇りを持っていたのかは疑わしい。結局、彼の本心は、最初は創造的科学者としての、次には、インド独自の大規模な計画を精力的かつ立派にやり遂げる行政官としての名声を確立することだけが目的の個人的エゴイズムにあったのかもしれない。

 バーバーの原子力推進の基礎となったのは、主として、インドが世界最大のトリウム資源を保有しているという事実であった。トリウムは一定の条件下で原子炉の燃料として使うことができる。彼はトリウム資源をインド千年のエネルギー独立の基礎にしようと、世界中がウランに努力を集中しているときに、トリウム原子炉につながる長期的な戦略を採用した。それは、まず、天然ウランを使った原子炉でプルトニウムを生産し、このプルトニウムを、炉心のまわりにトリウムのブランケットを置いた高速増殖炉内で燃焼させれば、分裂性のU233 ができ、これがトリウム増殖炉の燃料になるというものである。

 この計画は当初はヨーロッパの識者によって称賛されて、インドの科学者と技術者は国際技術開発の最先端にいるという誇りを感じていた。しかし、1955年末に、当時の指導的なエネルギー経済の専門家のI・M・D・リトルが、その経済性に欠陥があると指摘し、1958年には、フランスのフランシス・ペラン(49)が「途上国では、伝統的な方法による工業化段階を通り過ぎるまでは、核技術を利用することはできない」と結論づけるに至った。

【登場人物の整理】

(53) カール・ウィナッカー(独):実業家(西独原子力の法王)
正力松太郎(日):政治家(讀売社主。初代原子力委員長)
(55) ホミ・バーバー(印):科学行政官(インド原子力の父)

第12章 「AECは何をしているのか」

 1951年1月29日、湖岸の町、ニューヨーク州ロチェスターに大雪が降り、同地のイーストマン・コダック社のフィルム工場のガイガーカウンターが狂ったように鳴り始めた。コダックの幹部はすぐにそれが1500マイル以上離れたネバダ州の新しい原爆実験場からの降下物ではないかと考えた。というのは、1945年、ニューメキシコ州で最初の原爆の爆発があった時、実験場から1000マイル離れたインジアナ州ウォーバシュ川に放射能粒子が「雨と一緒に流れ込んで」、フィルムを包装するために使うボール紙を汚染し、フィルムが使いものにならなくなったことがあったからだ。コダック社は業界団体の全米写真製造業者協会に苦情を申し入れ、協会はAECに、「一体何をしているのか」と詰問する電報を打った。

 戦後まもなくの原爆実験は太平洋上のマーシャル群島(ビキニ、エニウエトク)で合計4回行われたが、朝鮮戦争中にトルーマン政権は、国家安全保障上の理由から、アメリカ大陸に実験場を確保する必要を感じ、ネバダ州の人里離れた砂漠地帯が選ばれて、1951年1月27日から2月6日までに5回の戦術核兵器の実験が行われていた。

 コダック社は最初、政府に損害賠償を求めようとしたが、そのかわりに、特権的な情報を得ることで折り合った。つまり、AECは、それまでの秘密政策から離れて、コダックに対して、新たな実験を行う際には、あらかじめ、大量の放射能が降下するおそれのある地域を示した、極秘の降下物地図を送ることになったのである。しかし、ロチェスターのコダック工場よりももっと直接的に降下物の影響を受けるネバダ州やユタ州南部の住民たちには、そのような特権は全く与えられなかった。

 1950年代、AECは、公益(即ち、世界を共産主義の進出から守るということ)のために働いているという強い感覚を持っており、兵器の実験に当たる原子科学者の一部と違って、放射能の拡散に対する道義的呵責は全然なく、国家の安全保障は公衆衛生よりも優先すると考えていた。

 むしろAECは国民に、月1回、時としては4回行われる、砂漠での大爆発を祝うように奨励した。事実、ネバダ州やユタ州の住民にとって、原爆のキノコ雲はすばらしい見世物であり、危険に賭ける「チャンスの町」ラスベガスでは、しばしば窓ガラスを壊すその爆風を歓迎しさえした。

 しかし実際には、実験の数時間後にAECの検査官がガイガーカウンターを持って測定にやってきた時、きわめて多量の、原子雲から降下した埃の粒子が、地上や車の屋根にたまっていることがあった。住民たちは室内に留まっているよう警告されたが、同時に、何の危険もないとの保証も出された。

 AEC自身、降下物についてそれなりの心配をし、ネバダを実験場とする以前の1949年春にオークリッジでもたれた研究会で、降下物質の中では、プルトニウム、ストロンチウム90、イットリウム90が最も危険であるとの推定を下していたが、その報告は全く公表されなかった。

 低レベルの放射線の影響については当時、ほとんど解明されていなかったため、AECはそれをよいことに国民に安全を保証しつづけ、ネバダの実験による降下物にさらされた人々に対して、健康診断も強制的な隔離も行わなかった。こうした状態は1963年の「部分的核実験停止条約」ですべての実験を地下で行うことが義務付けられるまでつづいたが、それまでに、アメリカは183回、ソ連は118回、イギリスは18回、フランスは4回(フランスは条約に調印しなかったので、その後もつづいた)の大気圏核実験をしていた。

 1970年代末になってやっと、ネバダ核実験の初期の降下物に関する報告が公表され、その放射能の影響の全容が明らかになり始めたが、情報が出てきたのはアメリカからだけで、ソ連、イギリス、フランスは実験に関するデータを一切公表せず、今日でも何もわかっていない。なかでもイギリスは、熱烈なイギリス贔屓で、「大英帝国」を固く信じていたロバート・メンジスが1952年から56年まで首相をしていたオーストラリアの全面的な協力を得て、西海岸沖のモンテベロ島と、後にはオーストラリア中部の砂漠で核実験を行ったにもかかわらず、それによる放射能の影響については何も発表されなかった。

 1895年、ドイツ人科学者、ウィルヘルム・コンラッド・レントゲンは光線と違って、黒い紙を通り抜けられる目に見えない線を発見した。彼はこの魔法の線が何であるかわからないので、X線と名付けた。その直後、フランスのアンリ・ベクレルが、同種の透視線がウラン化合物からも出ていることを発見した。この奇妙な現象を「放射性」と名付けたキュリー夫妻は、その後、放射性ラジウムを発見した。ところがある時、ベクレルが数日間、チョッキのポケットにラジウムの入った小さなガラス瓶を入れて持ち歩いていたところ、自分の皮膚が焼けているのに気付いた。

 レントゲンがX線を発見してから2年後の1897年3月までに、すでに69件の、X線による生物損傷が記録されていた。ドイツのある研究者は、X線を常時照射された二十日鼠が白血病になることを発見した。また、別の研究者は、X線照射を受けた人から94例のガン腫瘍を報告したが、そのうちの50例は放射線学者自身のもので、67才で死亡したマリー・キュリーの死因も白血病であった。

 初期の未熟な装置から発生するX線はエネルギーが低かったので、その影響はすぐにはあらわれず、そのため研究者たちはX線の照射を受けることをあまり気にしなかった。だから当然、一般の人々もそうであって、1920年代には、イボやニキビや不要な毛を取り除くためにX線照射をする美容院が大繁盛し、また、ラジウムも新しい魔法の薬として、関節炎、痛風、高血圧、神経痛、糖尿病などの治療に、注射や内服薬として多用された。

 放射性物質は崩壊ないしは分裂の状態にあって、それが完全に安定するまで、線や粒子を放出しつづける。その粒子にはアルファとベータの二種類があり、透過能力が最も弱く、紙一枚で止めることができるものをアルファ粒子、もっと透過能力が強く、薄いアルミ板で止めることができるものをベータ粒子と呼んでいる。その他に、X線と同じ強度を持つガンマ線があり、この透過能力はきわめて強くて、鉛のような密度の高い物質でなければ止められない。これら三つはイオン化能力を持つ放射線で、それが物質中を通過する過程で原子をイオン化し、一定の作用を起こすエネルギーを発散する。

 アルファ粒子とベータ粒子は人体を透過できない(少くとも、皮膚の奥には通らない)ので、初めは、有害なのはガンマ線だけだと考えられていた。しかし、アルファ粒子とベータ粒子を出す物質は、食べ物などを通じて体内に摂取される。これらによる人体内の損傷が初めて明らかになったのは、時計の文字盤に発光ラジウム塗料を塗っていた婦人労働者たちの悲劇からである。

 ラジウムは暗闇の中で光り輝く。1915年、アメリカの開業医で素人画家のサビン・フォン・ソコッキーは発光ラジウム塗料の製法を考案し、ニュージャージーに、ラジウム・ルミナス・マテリアル社を設立した。この工場では、腕時計の文字盤のほか、電灯用スイッチ、十字架像、第一次大戦中の航空機用計器盤などたくさんの仕事があって大いに繁盛し、250人もの婦人労働者を雇っていた。

 彼女らは細密な線を引くために、塗料を湿した筆の先をなめて整えてから線を引くように教えられていた。なかには、ラジウム塗料があまりにもきれいだったので、自分の歯に塗って、暗闇の中でも輝くようにする者もいた。その結果、彼女らは知らず知らずのうちにラジウムを飲み込んで、1924年に地元の監察医がその危険性に気が付くまでに、9人が死亡していた。ラジウムは骨の中にとどまり、破壊的な放射性アルファ粒子を放出して、徐々に骨を蝕んでいたのだ。

 彼女らは会社を訴えて、裁判を起こした。しかし、その裁判中にも次々と犠牲者が死亡して、この事件は国際的な反響を巻き起こした。パリのマリー・キュリーや、新しく発刊された「タイム誌」が彼女らを支援したが、125万ドルの賠償請求は認められず、結局、1人1万ドル、年600ドルの年金を支給することで示談が成立した。

 放射線を測る尺度として、保健物理学者たちは、最初、ガンマ線の破壊力、即ち、一定のガンマ線を一定時間照射した際、一つの原子からどれだけの電子を放出するか、を示すレントゲンという単位を用いた。イギリスの放射線専門家たちは1920年代に、X線やラジウムを扱う労働者が放射能に曝される一日の最高限度を設定しようとしていたが、1925年に「国際放射線防護委員会(ICRP)」という団体が設立され、1934年になってやっと、それを一日あたり0.2レントゲンとするという基準を発表した。

 アメリカは1936年に、この基準を0.1レントゲンに半減させたが、それはラジウム塗装女工事件の結果であった。またそのおかげで、マンハッタン計画では、遠隔操作装置、埃分散装置、排気浄化装置などの設置が認められ、何千という労働者が大きな危険から免れた。

 しかし、それとは対照的に、アラモゴルド実験の周辺住民に対しては、その70倍以上に当たる一週間50レントゲンの基準が設定され、また、降下物の通り道には1000人の牧畜農民とインディアンの一種族200人が住んでいたにもかかわらず、実験の秘密を守るため、避難措置などは一切講じられなかった。実験当日、30マイル平方の周辺区域で測定された放射線量は1時間で35レントゲンに達したが、住民たちは何も知らずに、放射能雲が通り過ぎるのを眺めていただけであった。

 戦後になると、X線、ラジウム以外に何百という人工同位元素が登場し、ヨード131、ストロンチウム90、炭素14、プルトニウム239などが放射線防護問題の中心となってきた。

 アメリカの保健物理学者たちは、マンハッタン計画での新たな経験により、たちまちICRPの有力勢力となったが、彼らを指導したのは、戦時中、プルトニウムをつくったシカゴの金属研究所にいたカール・モーガン教授(56)であった。彼はオークリッジ国立研究所に新しくできた保健物理学部の責任者となり、また、ICRPの内部放射線量に関する作業委員会の委員長にもなって、放射線の「許容基準」の設定に取り組んだ。しかし、新しい実験の結果出てきたのは、これ以下であれば無害という「敷居線量」は放射能には存在しないという結論であった。

 遺伝子に対する放射線の影響は、インヂアナ大学の動物学教授ハーマン・マラー(57)の指導で研究が行われた。ノーベル賞受賞者で、近代放射線遺伝学の父といわれる彼は、ミバエに放射線を照射すると、その遺伝子変化(変化した性質がそのまま新世代に伝わりうる化学的変化)が150倍に増加することを証明した。

 さらに、オークリッジで何万という二十日鼠を使って行われた、いわゆる「メガ・マウス」実験では、ミバエの実験データの10倍の遺伝子変化があることが明らかにされた。結局、遺伝子変化は照射された放射線量に正比例して確実に起こり、どんなに低レベルの放射線でも安全とはいえないということになる。

 遺伝子学者たちは、降下物や原子炉を通じての人工放射能の増加が人類に悲惨な影響を与えると警告した。人類の進化の過程での自然発生的な遺伝子変化は、宇宙線やウラン、トリウムなどからの自然放射線によって起こり、何万年もかかって遺伝的均衡が進んだと考えられるが、人工放射能の急増はこの均衡を破るおそれがあるというのである。

 1950年、アメリカは、ICRPの勧告を受けて、基準を再び下げて、週0.3レントゲンとし、翌年のネバダ核実験から適用されたが、これはあくまでも職業上の基準であって、一般住民のための、全国的な基準や、国際的な基準は存在しなかった。

 コダック工場に放射性降下物をもたらした1951年当時の周辺の放射能監視体制は全く間に合わせでいい加減なものであった。1953年3月の第4次の実験シリーズの時から一応の改善がなされて、地上と空中の監視チームが統合され、アメリカ公衆衛生局も加わるようになったが、この時はじめて危険信号があらわれた。つまり、ガンマ線検出量が基準値を超え、近くで飼育されていた1万8000頭の羊のうち4000頭以上が被曝のために死に、国道では予想の二倍以上の放射性物質が降下して、そのため、所々に検問所を設けて、車やトラックなどにたまった降下物を水で洗い流さなければならなかったのである。

 この時の状況はその後、実験場の一監視官によってまとめられ、5月にAECのもとに届けられた。しかし、AECはこの書類に「極秘情報」のスタンプを押し、26年後の1979年4月(スリーマイル島原発事故の直後)まで公表されなかった。

 この報告がワシントンのAEC本部に届いた一週間後の1953年5月19日、「ハリー」という暗号名の原爆実験が実施されたが、32キロトンのこの爆弾は300フィートの高さの塔の上で爆発させたこともあって、厖大な量の放射能を周囲に撒き散らして、のちに科学者たちによって「汚ない爆弾」と名付けられたほどであった。

 実験場の東方150マイルの町セントジョージでは5時間後に一時間当たり0.32レントゲンの放射線が検出され、後日、人々が受けた外部ガンマ線量は2.5~5.0レントゲンと推定された。もし、これだけの放射線量をAECの原爆製造工場で被曝していたならば、ただちに被曝者に対して精密かつ詳細な検査と、厳重な隔離処置がとられたことであろうが、周辺住民にはそのような措置は何もとられなかった。そんなことをしたら、AECが住民の安全のために最低限の予防措置もとっていなかったことが知れ渡ってしまうだろう。住民は室内にとどまってシャワーを浴び、放射能雲が通り過ぎたら、車が被った降下物を水で洗い流すよう指示されただけであった。

【登場人物の整理】

(56) カール・モーガン(米):保健物理学者(放射線に「敷居線量」は存在しない)
(57) ハーマン・マラー(米):動物学者(近代放射線遺伝学の父)

第13章 確証のない可能性

 オーストリア生まれの物理学者ロナルド・リヒター(58)は戦時中、ドイツのユンカース航空機工場でヒトラーのために働いた後、アルゼンチンに渡り、そこで旧ナチ党員らの援助を受けて、ペロン大統領を説得し、原子力計画のための資金4700万ペソを国庫から出させることに成功した。リヒターと30人のアルゼンチン技術者は、ブエノスアイレスから1000マイル離れたチリ国境近くの湖の無人島で原子力研究所の建設を開始したが、独裁者ペロンはそれを積極的に援助した。自国の工業上の劣位(とくにアメリカと比較して)を常に意識していたペロンは、全世界が何よりも称賛する工業技術の一部門、原子力エネルギーの分野でアメリカを凌ぐことができると期待したのである。

 研究開始からわずか18ヶ月後の1951年2月、リヒターは設立されたばかりのアルゼンチン原子力委員会の委員たちを無人島に招待して、「世界初の制御された熱核反応」と称するものを見せた。

 当時、アメリカでさえ、ロスアラモスの研究所で、「無制御」の熱核反応(即ち、水爆)を実施する方法をみつけようと懸命に努力していたところで、それを制御する方法はまだ知らなかった。

 この世界に先駆けた「大成功」に有頂天になったペロンは、3月24日、この歴史的な成果を大々的に発表した。全世界、とくにワシントンとモスクワは驚いて、その事実を確認しようと駆け回った。かつてリヒターと一緒に働いたことのある、ソ連在住のマンフレッド・フォン・アルデンネ男爵は当局者に「彼の話は信用できない」と断言した。まもなく、各新聞が、その成功は不可能であるという記事を載せはじめ、AECのリリエンソール委員長も、リヒターの成功を否定する談話を発表した。

 その理由は、もし、制御された熱核反応(核融合)が行われたとすれば、次の三つの奇跡が成し遂げられていなければならない。即ち、(A) 何百万度という高温の達成、(B) この高温を百万分の一秒以上持続すること、(C) このような高温に達するまでに蒸発してしまわない物質の開発、である。

この条件は今日でも未だ達成されていないものなのだが、リヒターはその質問に対して、「内容は秘密である」としか答えなかった。しかし、リヒターがペロンをぺてんにかけてたぶらかせたことは、アルゼンチン当局の仕掛けた盗聴器によって見破られ、彼は即座に研究所を追放された。

 リヒター事件は、たとえ誤りであったにせよ、大国以外でも簡単に核兵器が作られる可能性があるということで、「核拡散(核兵器の拡散をあらわす外交用語)」の危険を初めて警告したものであった。そして、アイゼンハワーの「平和のための原子力」計画がその危険性を助長した。というのは、この計画では、他国に「平和的な」原子力を供給する際、それを「戦争用」に変えないという文書による約束しか求めなかったからである。そこで、それを裏付ける「保障措置」として、各国の核施設の現地査察という方法が考えられたが、各国が査察という「主権侵害」をすんなりと受け入れるかどうか、それに、もし、査察の結果、戦争用に転換されたと判明したとき、それをやめさせるよう、その国に、政治的、外向的圧力を加える時間的余裕があるのか(濃縮ウランやプルトニウムは、その気になれば数日以内に核兵器に利用できる)、ということが問題となった。

 アメリカ国務長官のジョン・フォスター・ダレスは「保障措置」問題担当の特別補佐官として、40才の弁護士ジェラード・コード・スミス(59)を任命した。名門カンタベリー・スクールとエール大学を卒業した共和党員で、気質、外見、経歴などから堅実そのものの印象を与えるスミスは、1969年にリチャード・ニクソン大統領から軍備管理軍縮局長官、SALT首席代表に指名されるまでは一般国民にはほとんど知られていなったが、それまで15年間、つねに二番手としてアメリカの外交政策立案過程に関わってきた人物である。

 1954年以降、ダレスはスミスが草案を書いた演説の中で、核拡散を防止するには、核物質の供給国が新しい核施設に対する「保障措置」を守らねばならないと強調したが、その一方で、彼らは1954年5月にウラン生産8ヶ国(アメリカのほか、イギリス、カナダ、南アフリカ、フランス、ベルギー、オーストラリア、ポルトガル)に働きかけて秘密のカルテルを組織していた。のちに「西側供給者グループ」という名で知られるようになったこのカルテルの加盟国は、定期的にウラン販売に関する資料を交換し、すべてのウラン大口輸出はカルテルの承認を必要とする、など、共通の「保障措置」政策を策定して、核拡散防止に一定程度の成功を収めた。

 ソ連は共産圏諸国向け核輸出において厳しい制限を実施することにうまく成功していた。1955年1月、ソ連は、共産圏諸国からの継続的なウラン供給と引き換えに、東ヨーロッパと中国に新しい平和目的核援助計画を実施すると発表したが、この時、核兵器に利用できる核分裂物質を厳しく制限し、プルトニウムを含む、原子炉の使用済み燃料棒の返還を常に要求した。しかし、クレムリンの規則にはひとつ、明らかな例外があった。それは中国である。

 中国とソ連の核協力は1950年、ソ連による中国産ウランの開発をきっかけに始まった。戦争中、ソ連が占領していた新疆省では、それまで大量のウランが発見されていたが、ソ連は1949年、中国共産党が勝利したのを機にそれを中国に返還した。そして、1950年3月27日、両国共同の「中ソ非鉄・希少金属会社」が新設され、この合弁企業ははじめから専らソ連向けの採掘・精製活動を行った。

 1953年2月、フランスで物理学を学び、新たに設立された中国科学院の北京近代物理学研究所長に任命された銭三強(60)を団長とする中国科学代表団がモスクワ入りして、原子力に関する将来の具体的な協力案を話し合い、その数年後、北京に中国原子力研究所が設立された。

 また、この訪ソを機に、関連施設と物資が中国に送られ、1954年に共産圏諸国向けに開設されたドブナの合同原子力研究所では、約1000人の中国人専門家が訓練を受けた。1957年から59年まで、ここでの指導に当たった中国側の指導者は、西側で教育を受けた王淦昌(61)である。彼は中国で最も著名な物理学者の息子として生まれ、1934年、北京の清華大学を卒業後、ベルリン大学に留学して、核分裂に関するハーン=シュトラスマン実験を理論的に解釈したリサ・メイトナーの下で研究を続けた。戦後はアメリカに渡って、カリフォルニア大学で物理学の研究助手を務めていたが、1960年代に彼が中国の原爆計画の責任者になっていることが西側専門家によって確認された。

 フルシチョフは後年、中ソ間の原子力情報の交換に関して、「我々は彼らの望むものはほとんど何でも与えていた」と述懐しているが、事実、1959年には、中国に完全な形の原爆を提供する寸前までいっていた。しかし、当時すでに、中国領土内の核兵器を自分の管理下に置きたいというソ連の要請を中国側がきっぱりと拒否するなど、両国間の将来の紛争の兆候がいくつもあらわれていた。1963年に両国の対立が表面化したとき、中国側は破綻した両国間の核関係についての具体的な個々の情報をごっそり公表した。それによれば、対立が始まった日は1959年6月20日で、その日にソ連政府は1957年10月15日に締結された国防協定を一方的に破棄し、中国に原爆の見本とその製造に関する技術データを提供することを拒否した、ということであった。

 中国の核計画に関する情報はソ連以上に断片的で、ソ連のように最近になって初期の回想録などが出てくるということも皆無である。だから、銭三強と王淦昌をその面での最重要人物とみなす西側の観測もあるいは間違っているかもしれない。しかし、確かなことは、中国が1970年代後半まで、大量の技術ノウハウや施設を発電用原子炉開発に振り向けずに、専ら軍事用に限っていたということである。顧れば、中国の核兵器目標は1956年に採択された「12ヶ年科学計画」の中に設定されていたようである。そして、科学向け支出を前年の1500万ドルから1億ドルにと大幅に増額したこの計画の実施を担当する委員会の主任に就任したのが、北京の最も有力な政治家の一人で、最上級の軍人の一人でもある聶栄臻(62)であった。

 四川省の富裕な地主の子として生まれ、中国の独立と近代化のために尽くしたいという理想に燃えていた聶は、19才のとき、中国を離れて、ヨーロッパに留学し、フランスとベルギーで科学・技術を学んでいたとき、マルクス主義に転向した。1923年に共産党に入党後、1年半にわたってモスクワで政治・軍事訓練を受け、1925年、中国に帰国した。その後10年間は共産主義を吹き込む政治オルグとして働いたが、国共内戦が進み、日本軍の侵略が本格化するにつれて、次第に軍事活動に傾いていき、北京を含む中国北東部に自分の部隊を結成した。この部隊は戦後の内戦時には、共産党の勝利のカギを握る存在となり、勝利後は、共産党中央委員の一人として、初代の北京市長を務め、また、人民解放軍の総参謀長代理として、朝鮮戦争を戦った。

 1956年の「12ヶ年科学計画」は周恩来首相によって強力に推進されたが、周恩来は聶にとってパリ時代からの親しい友人であり、1925年に帰国した直後、一緒に黄埔軍官学校で軍幹部の養成に当たった間柄であった。さらに、周恩来の後を継いで中国科学の推進者となった 小平ともパリ時代からの個人的親友であったばかりではなく、高校時代からの級友でもあった。

 聶はこの新しい任務に、何十年も前から抱いていた、中国の独立と近代化の使命感を持ち込み、外国の援助に頼っている限り、中国の技術はいつまで経っても自立できないとして、中国の軍・工業組織にソ連の専門家が入り込んでくるのに神経を尖らせた。

 1958年7月、北京にある、ソ連から供給された1万kwの原子炉で中国最初の連鎖反応が成功したが、次にできた研究炉はソ連の青写真を基にしているが、完全な中国製であり、その後は、青写真そのものも中国自身によってつくられた。

 ソ連の退去後、中国は最初、内モンゴルの包頭に、次いで北央部の甘粛省玉門に、プルトニウム生産原子炉を建設したが、1964年10月16日、新疆省ロプノールで最初の核爆発が行われたとき、西側の専門家は驚いた。というのは、中国の最初の原爆がイギリス、フランスのそれのように、技術的に容易なプルトニウム系列を使わず、ウラン濃縮というはるかに高度な能力を要するU235 を使っていたからである。このU235 はソ連の援助停止後、黄河上の大規模な水力発電所からの電力を使って完成した、甘粛省蘭州のガス拡散工場から供給されたものであった。かくして聶栄臻の自立政策はその成果を見、その後も長足の進歩を遂げて、水爆製造へと速やかに移行していった。しかし、聶はつねに、自分の配下の核官僚たちが発電用原子炉に注意を向けるのを許さず、中国は広範なノウハウと特別な施設を持っていたにもかかわらず、70年代末まで、原子力発電には全く関心を示さなかった。

 1964年に中国が6番目に核兵器クラブ入りした時、同クラブに入れる潜在力を持っている国が三つあった。西ドイツと日本とイスラエルである。イスラエルがフランスの原爆計画に強い関心を持っていることは、早くから西側の情報機関にはよく知られていて、少なくともワシントンは、イスラエルはいずれ原爆をつくるだろうと見ていたが、西ドイツと日本の場合は政治的に不可能だろうと考えられていた。

 西ドイツが核兵器を持つことは、明らかにソ連への先制攻撃を意味することになり、そのため、アデナウアー首相は1954年に、「状況が変わるまでは核兵器を所有しない」と一方的に宣言せざるを得なかったし、日本では、広島と長崎の経験から、核兵器反対が一つの遺産として残り、核エネルギーに関する法律は、兵器開発を否定したばかりか、一切の秘密研究をも禁じた。しかし、そんな両国にも、将来の世代のために原爆製造の選択を何とか残したいと思っている政治家がいた。その中でも特筆すべき人物は、ともに異端の政治家であるフランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(63)と中曽根康弘(64)である。二人は常々、自国の「平和意図宣言」を全面的に信頼しないことをほのめかし、平和目的の原子炉から核兵器をつくることを防止するための最初の国際条約である「核拡散防止条約」(1967年)の批准をはっきりと批判した。

 シュトラウスは戦後の西ドイツ政界で「はぐれ象」と称されており、中曽根はその日本版であった。それぞれ1915年と17年生まれのこの二人は、戦争末期には国家に奉仕する年齢に達していたが、崩壊した両国の旧体制に深く関わり合うほどではなかった。

 二人の政治スタイルは極めて酷似している。精力的で、ワンマン的で、野心的で、しかも機敏で抜け目がなく、政界の一匹狼的な性急さと喧嘩早さを持ち、ショーマンシップの才と、激烈な雄弁術を備えていた。しかし、それにもかかわらず、二人とも十分な教育を受けた人間で、頭の回転が早く、常に情報を蓄え、新しい政治分野を巧みに、迅速に把握する能力も兼ね備えていた。そして、この能力と、あからさまな野心が二人を常に浮き上がらせ、同時代の中で最も信用の置けない、嫌われ、恐れられる政治家とした。また、二人には、本物の政治哲学が欠けていても、戦闘的な愛国心によって人々を団結させるポピュリスト的傾向があった。

 シュトラウスはかつて、自分に対する批判を封じるために「シュピーゲル」誌のオフィスを突如手入れしたかどで、中曽根は選挙献金に関する不正申告と、ロッキード贈収賄事件との関わり合いで、ともに一時期、政治浪人の憂き目に遭ったが、それ以上に、その政治歴を通じて、常に、愛国心の許容限度を確かめるような国家主義的主張を繰り返したため、定期的に自分の性急な発言を説明したり、修正したりしなければならなかった。しかし、彼らはともにその政治基盤が限られている(シュトラウスはバイエルン地方の一政党の指導者、中曽根は主流から離れた派閥の領袖)にもかかわらず、たえず潜在的な国家指導者として論じられ、二人がいずれ首相になるのではないかとの見方が両国の政治エリートの多くに不吉な予感を与え、政治的左翼にとっては二人は特別な敵意の対象となった。

 愛国心の最終的表われは国防政策であるが、二人はともに国防政策を最優先の政治課題とみなした。シュトラウスは戦後二代目の国防相となって、西ドイツ軍育成にとって最も重要な8年間に、その再建と拡充に大きな力を振るった。中曽根も防衛庁長官を一期務めたほか、国会議員としても、憲法上問題の多い自衛隊の創設に関する立法措置の草案を作成した。

 シュトラウスは1955年に初代の原子力問題担当相に任命された時、「二、三週間以内に、国民に原子力意識を持たせてみせる」と豪語したが、その行動は慎重であった。国防相に転じてからはイギリスの政治家に、「フランスが独自の原爆を保有すれば、西ドイツも同じような気持ちになるかもしれない」と語ったといわれるが、後にそれを否定している。彼はまた、熱烈なヨーロッパ主義者となり、独仏協力を軸とするヨーロッパ独自の抑止力を積極的に推進し、1957~58年にフランスのシャバンデルマス国防相と秘密の会談をもったことがあったが、ドゴールは、政権に復帰するや、直ちにこの話し合いを打ち切った。

 中曽根にはシュトラウスのヨーロッパ主義のような思想はなかった。彼は古風な盲目的愛国者であり、日本の最も極端な愛国主義につきものの孤立主義、人種的優越感、生まれつきの尊大さという傾向を持っていた。

 彼の影響力行使の手段は、正力松太郎(54)との親密な個人的関係を利用することで、原子力分野では事実上、正力の参謀格であった。原子力委員会が活動を開始すると、中曽根は官僚たちがそれをないがしろに扱うのではないかと懸念して、その対抗勢力として、テクノクラート出身の国会議員から成るグループを組織した。

 1954年、日本で誰ひとり核政策について考えはじめていなかった頃、中曽根は核エネルギー計画に3億円の支出を求める予算修正案を提出した。そのうちの原子炉建設費、2億3500万円は、U235 に語呂合わせしたという、いい加減な数字であったが、国会は当時の熱狂を反映して、それを承認した。中曽根は得意になって、「科学者がまったく動こうとしないから、彼らの顔に札束を叩きつけて目を覚まさせたのだ。」と放言し、またまた、それを弁明しなければならなかった。

 中曽根は1955年のジュネーブ会議には、国会議員団の団長として出席し、この議員団は帰国後、100億円の予算を提案した。結局、20億円しか認められなかったが、中曽根は舞台裏での個人的な接触で、資金配分に影響力を発揮した。この時、大蔵省で原子力関係の予算を担当していたのが、鳩山一郎元首相の息子で、のちに外相となった鳩山威一郎であるが、彼と中曽根は海軍時代の仲間であった。

 1959年に中曽根が初入閣して長官となった科学技術庁は、長期的な原子力計画を立案し、その中で、核兵器選択への明確な関心を示していた。日本は当時、コールダーホール型原子炉から出る使用済み核燃料の再処理について、イギリスと低価格の契約を結んでいたが、国内に小型の再処理工場を建設する案も出されていた。この時、中曽根は「平和目的」の高速増殖炉用プルトニウムを供給するため、この工場の能力を二倍にすることを決定した。

 しかし、中曽根は1970年には、日本は核兵器の選択を否定すべきであると断言している。結局、中曽根もシュトラウスも、国民の多数意見を代表してはいなかったということなのだが、選択は生き残った。いまや、平和目的の原子炉から蓄積される大量のプルトニウムは、日本や西ドイツなどの諸国が一夜にして核保有国になり得ることを意味しているが、アメリカはこの決定的な10年間にそれを放置したままであった。50年代のアメリカの政策立案者は、自分たちのプラグマチズムを過信し、新しい核保有国が出現するのはずっと先だと安心しきっており、また、自らの交渉力によって、それを阻止しうると考えていた。しかし、その交渉力も50年代半ばがピークであって、重要な問題の解決を遅らせれば遅らせるほど、長期的なコストが多くかかることに気付いていなかった。かくして、「平和のための原子力」計画の短期的なPRの勝利は、危険にして、永続的な遺産を後世に残したのである。

【登場人物の整理】

(58) ロナルド・リヒター(オーストリア→アルゼンチン):えせ科学者(ペロンを騙す)
(59) ジェラード・コード・スミス(米):弁護士(国務長官補佐官。軍縮問題のプロ)
(60) 銭三強(中):物理学者(北京近代物理学研究所所長)
(61) 王淦昌(中):物理学者(原爆計画の責任者)
(62) 聶栄臻(中):政治家・軍人(原子力最高責任者)
(63) フランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(独):政治家(原子力担当相、国防相)
(64) 中曽根康弘(日):政治家(正力の参謀格。科学技術庁長官)

第14章 第一氷河期

 アオバエはアメリカ南東部にあっては、畜牛群のしつこい敵であった。ところが1958年、進取の気性に富んだ一部の政府職員が、アオバエにガンマ線を照射して、生殖不能にし、それをフロリダ、アラバマ、ジョージアの各州に飛行機でばらまいた。18ヶ月後、この去勢された雄バエは生存競争に勝って、去勢されていない雄バエを9倍も上回ることになった。そして、1959年末までにアオバエはこの三州から完全に一掃された。

 この放射線によるアオバエの駆除の成功は、原子力平和利用の流れの中で高い評価を受けた。これに刺激されて、人工同位元素の新しい利用方法がいろいろな分野で試され、放射線を照射するだけで、三種類の新種の豆類、病気に抵抗力を持つ二種類のからす麦、冬をより良く過ごせる大麦、花弁は少ないけれど長持ちするカーネーションなどがつくられた。また、放射線を受けたイチゴ、ある種のオレンジ、プラム、ネクタリンなどが腐りにくくなって長持ちすることも発見された。

 これらの核利用の新しい可能性は、これからの未来は原子力なくしては語り得ないとする、科学的というより宗教的な信念に満ちた雰囲気に支えられ、次々と新しいプロジェクトを生みだし、信じられないような多額の予算を獲得していった。

 1946年に開始された原子力航空機のプロジェクトは、上下両院合同原子力委員会(JCAE)の寵児だった原子力潜水艦を引き写しにした計画であったが、空軍の戦略爆撃機派の情熱の対象となった。操縦室のカウボーイ、カーチス・ルメイ(37)に率いられた彼らは、原子力を動力とする航空機から原子爆弾を投下するという夢に酔い、原子力爆撃機を、騎士道にもとる無人ミサイルの脅威に対する回答とみなしていた。

 しかし、原子炉から出る強力な放射能からパイロットを守るためには、それを十分に遮るだけの密度があって、なおかつ離陸できるぐらい軽い素材が必要であったが、そんな物質などあり得るはずはなかった。また、放射性の核分裂生成物が排気口から絶対に漏出しないようにすること、さらにもっと根本的な問題として、原子力航空機が墜落した場合、放射能を帯びたエンジン部分はどうなるのか、という問題に対する解決策は見つかりそうもなく、結局、この計画は、空軍の執着にもかかわらず、10億ドル以上の税金を浪費した挙句、頓挫した。

 一方、ソ連も新たな原子力の奇術を産み出すことに熱意を燃やし、1959年に原子力砕氷船レーニン号を進水させたが、これは、後にさらに二隻建造されたことからみて、成功だったようである。

 同じ頃、アメリカも原子力貨物船「サバンナ」を建造し、その姉妹船として、西ドイツの「オットー・ハーン」と日本の「むつ」が建造された。しかし、これらの船舶にはあまりにもお金がかかり過ぎ(「サバンナ」は年間300万ドルの補助金を受けていた)、そのうえ、全く不必要なものであった。なぜなら、原子力潜水艦とちがって、公海上を無限に走り得る貨物船、つまり、幽霊船「さまよえるオランダ人」の再来のような貨物船が演じる役割など何もなかったからだ。

 また、アメリカでは、「プルート計画」「ローバー計画」「プードル計画」という名の、核推進ロケット開発計画が次々と立てられた。しかし、有害な放射性物質でいっぱいの排気ガスが発射場周辺に住む人々の頭上に降り注ぐのを防ぐ術を誰も見つけられず、20億ドルの金を費消したのち、中止された。(いまだに、その心配のない宇宙ステーションからの打ち上げに希望をつないでいる人々もいるが。)

 そのほか、1957年には、アメリカとソ連で、核爆弾の破壊力を利用して、山を動かし、河川の流れを変え、港湾や運河を掘るというプロジェクトが考え出されて、一連の実験が行われたが、残留放射能も含めた、より完全な原価計算が要求されるようになると、その熱も冷めていった。

 結局、これら様々な原子力利用計画の結果分かったことは、原子力の優越性は限られたものだということである。つまり、アオバエの撲滅には成功しても、ミバエや、とうもろこしの害虫アワノズイムシなどには効き目がない。放射線でオレンジは保存できても、レモンは駄目。潜水艦や砕氷船には役立つが、貨物船、航空機、ロケットは無用の長物、といった具合である。しかし、この事実を冷静に受け止める者はほとんどおらず、原子力に伴う「進歩的」イメージが、効用のないことに途轍もない資金を浪費させた。

 原子力発電においても、各国の推進者たちはその盲目的な自信から、途方もなく楽観的な計画を予告したが、そのどれ一つとして目標を達成できず、1950年代末は、後に彼らが名付けたように、原子力の「第一氷河期」となってしまった。

 1956年5月、コールダーホール動力炉の開設祝賀式典が、イギリス女王を迎えて執り行なわれた。黒鉛減速・ガス冷却方式で、電力供給よりプルトニウム供給を主目的として設計されたこの原子炉を基礎として、1955年に作成されたイギリス最初の発電計画は、今後10年間に200万kwという比較的控え目なものであった。しかし、1956年10月に勃発したスエズ動乱による石油供給の不安定化と慢性的な石炭不足に対する大胆な対策として、イギリス政府は翌57年3月、原子力発電の目標を三倍増して、600万kwするという政策を打ち出した。

 この劇的な発表に西側諸国は仰天した。しかし、その中には、日本やイタリアのように、イギリスがそう言うからには、きっと核の将来はバラ色に違いないと確信して、取り急ぎ、コールダーホール型原子炉を買い入れた国もあった。

 当時、イギリスの原子力計画の中心にいたのは、のちに「イギリス原子力の父」と呼ばれたクリストファー・ヒントン(38)である。

 田舎の校長の息子として、1901年に生まれたヒントンは、地方の名もない身分からケンブリッジ大学に進むために、16才のときに鉄道の鉄工所の見習い工になるなど苦学しなければならなかった。しかし、大学に入学後は順調に出世し、23才でイギリスの化学大企業ICI社のアルカリ部門主任技師となって、そこで同社の有名な会計・経営慣行を学んだ。戦時中は、弾薬工場の全国ネットワークをつくりあげることで、経営上の価値ある経験を積み、戦後、将来を約束された民間企業での地位を打ち捨てて、原子力の世界に飛び込み、政府のために働くことになった。

 彼は極端に自信の強い人物で、10年間にわたって、容赦ない、権威主義的なやり方で科学者、技術者、産業人、官僚らを酷使したため、多くの敵をつくったが、他方、プロであり、現実主義者であった彼は、原子力の「バラ色の未来」に惑わされない慎重な人物でもあって、1957年の三倍増の計画には反対であった。

 1957年計画に反対したこともあって、ヒントンは原子力公社(AEA)を去って、新設された国有電力企業、中央電力庁(CEGB)の長官となったが、57年計画は、ヒントンが懸念したとおり、次の三つの要因によって、行き悩み状態となった。その第一は、石炭、石油の在来燃料との大きなコスト差、第二に、プルトニウムの価値の下落、そして、第三が金利の上昇であるが、1957年10月10日、ウィンズケールのプルトニウム生産工場で世界最初の原子炉事故が起きて、「安全性の問題」が第四の要因として大きく浮上してきた。

 原子炉の炉心(ウラン燃料棒を封じ込めた部分)が火を噴いた、ウィンズケールの事故は、これ以後、似たような繰り返しをみる、典型的なパターンの嚆矢となるものであった。この場合の唯一の手段は、通常の水で炉心を鎮めることしかないが、技師たちは、その時、炉心に爆発性の水素が発生して、全体を吹っ飛ばしてしまうのではないかと懸念した。結局、注意深く水を注入することで、付随的事故を起こすことなく、すべてはうまく片付けられたが、炉心が燃えている間に、大量の放射性同位元素(とくにヨード131)が大気中に放出された。

 イギリス政府はこの事故についての完全な公式報告を一度も公表していないが、ヨード131は工場周辺500平方キロの範囲を汚染し、そのため、200万リットルの牛乳が川や海に投棄処分され、原子炉は永久に閉鎖された。

 ウィンズケール事故は、アメリカの原子力発電計画にもブレーキをかけるものとなった。 それまでにも電力各社は、技術的な不確実性、在来燃料よりもはるかに高い資本コスト、それに加えて、安全性に対する不安のために、原子力発電を推し進めることに二の足を踏んでいた。そこで、AECは、その不安を鎮めるために、1957年、原発事故を想定し、その被害を計算した「ブルックヘブン報告」を作成した。ところが、その中に、「最悪の場合(即ち、炉心が溶融した場合)」として、死者3400人、重症者4万3000人を出す放射性物質の放出と、70億ドルの資産被害が描き出されていて、この可能性は皆無に近いというAECの説明にもかかわらず、かえって電力会社を怯えさせるものとなった。
 また、議会でも、原子力推進派の議員によって、原子炉事故に対する電力会社の補償に限度額(6500万ドル)を設け、それを超える補償は5億ドルまで国家が肩代りするという「プライス=アンダーソン法」が、56年9月に成立していたが、電力各社は容易に腰を上げようとはしなかった。そして、その1ヶ月後に起きたウィンズケール事故がその駄目押しをしたのであった。

 AECは、以後、目を海外に向け、年間2000万ドルにものぼる米政府の補助金をつけて外国に原子炉を売り込むよう方針転換することになる。

 ウェスチングハウスとGEは、原子力発電に冷淡な国内電力企業への売り込みをあきらめて、電力のコスト高に直面しているヨーロッパに市場を求めた。
 ヨーロッパは当時、その政治・経済統合に情熱を燃やしていた最中で、フランス国鉄のルイ・アルマン総裁(65)のように、原子力を核としてヨーロッパを統合しようと考える人々がいた。複雑な利害関係のしがらみの中で微妙に釣り合いを取らねばならない石炭や鉄鋼に比べて、既得権益がほとんど確立されていない原子力は、はるかに容易に統一の基盤となるように思えたからである。そして、1957年1月の西ヨーロッパ6ヶ国外相会議で、共同の原子力施設をつくることが合意され、アルマンらの三人委員会が結成された。3月には、ユーラトム(欧州原子力共同体)条約が調印されて、翌年1月に正式発足の運びとなった。

 アルマンらは直ちにアメリカに渡って、各地の原子力施設を視察し、1957年5月にその最終報告「ユーラトムの一つの目標」を公表した。そこでは、アメリカの軽水炉技術の先進性が強調され、その支持を受けて、10年間に、6ヶ国の総電力の1/4に相当する1500万kwの発電能力を達成する目標が掲げられていた。

 しかし、ユーラトムがアメリカの開発計画と強く結びつくことに対しては、フランス原子力庁(CEA)から強い反発が起きた。CEA委員長のギヨーマ(48)と同じ「鉱山組」のメンバーであるアルマンは、ギヨーマの支持を期待していたが、ギヨーマはCEAのガス黒鉛技術に十分に満足しており、ヤンキーの技術上の帝国主義とは如何なる関係を持つことも好まなかった。

 また、西ドイツでも、自立した核技術を追求するウィナッカー(53)は重水炉に焦点を合わせていた。もっとも、この重水炉は、ヘキスト社が撤退したのち、ジーメンス社に受け継がれて、バイエルンに1基建設されたが、様々な困難に苦しめられてのち、1974年、3億5000マルクの巨費を費やした末、閉鎖された。

 こうして、ユーラトムの壮大な構想は宙に浮いて、2年後にはその発電目標を半減しなければならず、結局、ベルギーに2基、イタリアに1基の計3基の原子炉の建設をみただけであった。しかし、それでもアメリカの軽水炉技術はヨーロッパに大きな足掛かりを得、これ以後、フランス以外は、ガス黒鉛炉から軽水炉システムへと徐々に転換していくことになった。

 ソ連においても、1957年頃ピークに達した原子力平和利用についての楽観論の爆発のあと、スランプがやってきた。1955年のジュネーブ会議の熱情を受けて組まれた、世界でも最も野心的な核計画は、1959年までに急速に下方修正されたが、その大きな原因は、ウラル地方での悲惨な核事故と、核技術者兼行政官(即ち、「赤いスペシャリスト」)の権力の失墜であった。

 ソ連の公式文書は、原爆計画初期の放射線防護基準について、不吉な沈黙を守っている。しかし、あるドイツ人難民は、その頃、東ドイツのザクセンのウラン鉱山で実施されていた原始的な保護基準に注意を喚起しており、また、アメリカ情報機関も、初期のソ連原子力潜水艦での水兵たちの死に関する恐怖物語の未確認情報を多数集めていた。そして、1968年になってようやく当局者が、1946~48年に作業員の一部が放射性の白内障に罹っていたことを明らかにしたが、これを聞いた西側の専門家たちは愕然とした。というのは、白内障は広島、長崎で何とか生命を取り留めた被曝者たちによく見られたもので、200レントゲン以上の放射線を受けなければあらわれない症状だったからである。

 1957年2月には、核計画の最高指導者マリシェフ(51)が放射線被曝が原因の白血病のために死亡して、クレムリンを戦慄させたが、さらに悪いことがそれに続いて起った。正確な日付はわからないが、1957年12月、または翌年1月頃、西側で世界最悪の核事故と受けとめられている事故が、ウラル南部の主要都市スベルドロフスクとシベリア平原の端にあるチェリャビンスクの間で起きたのだ。

 ソ連領内で死の灰に関する重大な事故が起きたらしいという最初のニュースは、1958年4月にデンマークから伝えられたが、AECのストラウス委員長(38)は、そのような情報はない、と否定した。しかし、翌5月には、アメリカの宣伝機関「自由ヨーロッパ放送」傘下の、ミュンヘンにあるソ連研究所が、ソ連の医学雑誌や一般雑誌の関心が異常なまでに、放射能による疾病に向けられていると指摘、とくに、1月9日のモスクワ放送がそれについて大きく報じ、可能な予防措置を詳細に述べたとして、事故の時期をも示唆した。

 この事故はその後、約20年間忘れられていたが、1976年11月、ソ連の亡命生化学者ジョレス・メドベージェフ(66)が、フルシチョフによるスターリン批判20周年を特集したロンドンの科学雑誌から求められた論文の中でこの大災害に言及した。それによれば、その原因は核爆発ではなく、放射性廃棄物の化学的な爆発だった可能性が強いということだった。

 1976年当時、原子炉から出る廃棄物の処理が大きな問題になっていたため、メドベージェフのこの発言は大いに物議をかもし、イギリス、フランス、アメリカの専門家たちは競うようにして、これを否定した。しかし、貯蔵された核廃棄物が特殊な環境下で「爆発する」可能性があることは、1972年のAEC報告の中で既に触れられていた。底のない壕に捨てられたハンフォードの低レベル廃棄物が、高度に濃縮されたプルトニウムの層をつくりだしていたのが発見されたからである。これが豊富に水分を含んだ土壌にしみこむと一連の連鎖反応が起って、水蒸気となり、泥火山タイプの爆発を起こす可能性があった。

 結局、ウラルの大事故はCIAによって確認され、ソ連の技術出版物の中からも、それに関連すると思われる記事が続々と見つかった。その数は1966年~79年の間で115にのぼっている。その中でも、イレンコという学者の研究は、クイシツムの町の近くと推定されるある湖がストロンチウム90によって高濃度に汚染されていることを示唆していた。

 クイシツムはピョートル大帝時代からロシア兵器産業の中心であったが、1948年、プルトニウム生産の秘密工場を建設するため、住民は退去させられた。ソルジェニーツィンによれば、この工場を建設した囚人たちは、秘密保持のため、刑期を終えても帰宅を許されず、シベリア極北にあるコルマ川の収容所に移されたという。しかし、彼らはクイシツムに残った者と比べれば、まだ運が良かった。

 ソ連からの移住者の話によれば、事故後、何日も経ってから退去命令が出され、クイシツムに通じる道路は9ヶ月にわたって閉鎖された。その間、付近の病院は超満員になり、ホテルや保養所などが急遽、医療センターに転用された。2年後にクイシツム付近を車で通りかかったソ連のある物理学者は「その一帯は未だに死の町のままで、今後、数百年にわたって何の役にも立たず、何を生産することも出来ないだろう」と述べている。

 このウラルでの破局的事故は、その直前のスプートニク打上げ(57年10月4日)で最高度にまで高まっていたソ連科学者たちへの政治的評価を明らかに低下させ、それに「赤いスペシャリスト」と呼ばれる原子力エリートたちの失脚が重なって、原子力発電計画は大きく後退してしまった。

 スターリンの庇護のもとでソ連の階級組織の中をのし上がってきた「赤いスペシャリスト」たちは、フルシチョフによる1956年の「スターリン批判」キャンペーンには反対の立場をとった。彼らは、かつてスターリンが党組織を完全に支配していたことから、党を手続き的な権力しか持たない、立憲君主制下の官僚機構のようなものだと思い込んでいた。しかし、それは誤算であった。

 1956年末、彼らは党政治局内に、重要テクノクラートで構成される「経済内閣」を創設し、翌年6月、これら政治局多数派はフルシチョフ罷免を試みた。これに対して、フルシチョフは党の中央委員会総会に訴えるという前例のない措置をとった。そして、軍の輸送力の支援を得て、全国から中央委員を急遽モスクワに招集し、その結果、テクノクラート一派は逆に「反党グループ」として非難され、罷免された。フルシチョフのこの勝利は、西側議会制度でいえば、行政府に対する立法府の支配の再確認に相当するものであった。モスクワにあった25の強力な中央経済官庁は廃止され、数千人の経済官僚が地方に左遷された。そして、フルシチョフが権力を握っていた期間中は、原子力発電の拡大については議論さえ行われなかった。

【登場人物の整理】

(65) ルイ・アルマン(仏):国鉄総裁(ユーラトム=欧州原子力共同体創設)
(66) ジョレス・メドベージェフ(ソ):生化学者(亡命中にウラルの大事故を暴露)

第15章 放浪者たち

 水爆製造のカギを握るのは、原爆とちがって、材料の問題ではなくて、設計の問題であった。基礎成分をつくり出すのは比較的容易で、それは水素同位元素の混合の中で巨大な爆発の引き金となる1個の原爆である。問題は、原爆が爆発したあと、200万~300万分の1秒の間に、数百万度という超高温と何千気圧という超高圧を生み出すことができるように、原爆に対して、いかに同位元素を配列するかであった。核分裂からの衝撃波が水素同位元素を高密度の小さな固まり(たぶん、1万分の1ミリ)に変える引き金となる。これが“熱核燃焼波”のミステリーを動かす核心であるが、構成部分の形態とタイミングが絶対的に完全でない場合には、融合が燃焼を起こすことはあっても、爆発には至らない。 これらの問題の解決法を、ともに50年代の初めに発見したのは、ハンガリーからアメリカに亡命してきたエドワード・テラー(42)と、22才でソ連科学アカデミーの最年少の会員となった、背の高い、金髪のモスクワっ子、アンドレイ・サハロフ(67)であった。

 テラ-は1908年、富裕なユダヤ人家庭に生まれたが、この環境は、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に続く社会的大動乱で逆転してしまった。彼は1920年代にハンガリーを離れて、ドイツ物理学界の知的な旋風の仲間に入ったが、1933年、ナチスによってそこも追われ、デンマーク、イギリスを経て、1935年、アメリカに渡り着いた。そして、彼はジョージ・ワシントン大学に職を得、次いで、ロスアラモスのマンハッタン計画に参加する。

 テラーは自分の考えについて独り善がりの自信を抱き、それはしばしば他人の目には尊大さと映った。そのため、彼は高校時代から仲間たちの集団的軽蔑と揶揄の格好の対象とされたが、彼は少しも変らなかった。

 彼は常に、あたかも他者によって拒絶されることを期待しているかのように振る舞い、その徹底的に非協調的な態度に、ロスアラモスの理論部門の長であったドイツ人物理学者ハンス・ベーテ(68)はしばしば激昂した。仲間から排斥されたテラーは拗ねて、ロスアラモスでの時間を水爆研究に費やした。

 戦後、彼は、そのペット・アイディアである水爆が実現性のないものと見做されたことから、ロスアラモスに留まることを拒否した。水爆研究のゴー・サインが出たときでも、彼は他の誰かの下で働くことを嫌がり、短期間ロスアラモスに戻ったものの、プロジェクト完成の前にそこを離れた。彼はロスアラモスをひどく憎み、カリフォルニア大学バークレー校のアーネスト・ローレンス(19)とともにAECを説得し、カリフォルニア大学にリバーモア放射線研究所を設立させることに成功した。この研究所は最初、「テラーの研究所」として喧伝されたが、このつむじ曲がりの科学者は数年間にわたって、そこに行くことも拒否した。

 テラーの行き過ぎを知的な尊敬の故に耐えることができた、同僚のエンリコ・フェルミ(8)は、テラーを「いくつもの妄執にとりつかれた偏執狂」と評したが、中でも、ロシア、あるいは共産主義に対する病的な恐怖感と、水爆に対する執着はことのほか強かった。彼はソ連をナチス・ドイツと比べただけでなく、ジンギスカン率いるモンゴルの略奪集団と同等のものとみなした。だから、彼にとっては、米ソの対立は、文明と名のつくあらゆるものを巻き込んだ決定的なものであって、それに勝つための究極兵器が水爆であった。

 ソ連恐怖症の将軍が勝手に出した出撃命令のために偶発核戦争が起こるという、スタンリー・キューブリック監督のブラックコメディー映画『博士の異常な愛情, Dr. Strangelove』(1963)に出てくる狂気じみた科学者のイメージは、ドイツ人のロケット技術者ウェルナー・フォン・ブラウンとテラーを意図的に混ぜ合わせたものだといわれている。

 水爆製造にあたっては、ポーランド人数学者スタニスラフ・ウラム(69)が最初に設計の構想を組み立て、テラーがこれを応用して実用的な水爆をつくりあげたといわれている。だから、アメリカ政府は水爆に関する共同特許権をこの二人に与えようとしたが、すべての功績は自分にあるとするテラーは、それに異議を申し立て、ウラムを憤激させた。こうした狂的な感覚は永遠にテラーについて回ったが、彼はそれを自分の宿命だと考え、逆境を食って肥っていった。

 テラーより13才若いサハロフは、1921年、革命と内戦の混乱からまだ完全に脱していないモスクワで生まれた。彼の父はベストセラーの教科書を書いたこともある物理学者で、彼の家庭は、リベラルで、無私無欲で、正直で、原則的という、ロシアの科学インテリゲンチャの伝統を引いていた。だから、生家が没落し、ミュンヘンでの市電事故で片足を失うという不幸にあったテラーとはちがって、サハロフの不満の起源は社会的なものでも、個人的なものでもなかった。

 サハロフは1942年、モスクワ大学を卒業してから3年間、軍需工場で働いたのち、1945年から47年まで、モスクワ・レベーダー物理学研究所の技術部門の長で、ソ連量子力学の指導的専門家であるイゴール・タムの下で、大学院生として研究に従事した。そして、1948年から、彼は公的活動から姿を消し、水爆製造の秘密計画に参加する。イラン国境近くのトルクメンと推定される秘密研究所で、とびきりの特権待遇を受けながら従事したその仕事について、彼はのちに「わが国と世界の勢力均衡のために超兵器を創り出すことの重要さに関しては、何の疑念も持たなかった」と述懐している。

 サハロフもテラーも精力的で、情熱的で、熟考型で、自分自身の理想主義に強い感受性を持った、特別に感性の強い人物だった。二人とも科学の進歩の究極的価値を深く信じており、自分自身を、人類の福祉と知的自由にコミットした、直進的で開放的で、無邪気でありさえする人間とみなしていた。

 しかし、水爆が完成してからの反応はまったく正反対で、テラーがそれを改良し、その利用が拡大されることを確実にするために邁進していったのに対して、サハロフは同じように決然としていながらも、自分が創り出した憎むべき武器の廃止を追求していった。  でもいずれにしても、彼らはその観点と行動のために、最初その天才を称賛した社会から投げ出され、見捨てられた存在となる。テラーは多くのアメリカ人の目には「悪の権化」と映り、大学のキャンパスでは「戦争犯罪人」の烙印を押された。そして、サハロフは、彼があれほど熱心に守ろうとしたロシア社会に対する強力な批判者となり、西側では、ソ連内反体制派の象徴となったのである。

 1963年8月、大気圏内、宇宙空間および水中における核実験を禁止する、「部分的核実験停止条約」が、米英ソ三国によって調印されたが、それに至るまでの運動は、アメリカの水爆実験がもとになって始まった。

 1952年10月31日、「マイク」という暗号名の、世界初の水爆実験が行われたが、その爆発は、幅1マイルの太平洋上の島エルジラブ島を文字通り吹き飛ばしてしまい、その威力はTNT火薬10メガトン(1000万トン)、広島原爆の約1000倍と推定された。しかし、「マイク」は、起爆に先立って水素燃料を液状に保っておくために、二階建ての建物以上の大きさの、65トンもの巨大な冷凍工場を必要としていた。 1954年3月1日、マーシャル群島のビキニ環礁で実験された水爆「ブラボー」は、「マイク」の半分の大きさなのに15メガトンの威力を発揮した。しかし、それ以上に重要なことは、「ブラボー」は水素同位元素の固体、重水素化リチウム6を用いていたため、冷凍工場が要らないということであった。すなわち、大規模すぎて軍事目的に応用するには手に負えない装置であった「マイク」とちがって、「ブラボー」は飛行機やミサイルに搭載可能な形態で、兵器として実用化できるものであった。でも、それらよりももっと重要なことは、「ブラボー」実験が世界中に放射性降下物についての意識を持たせた実験だったということである。

 「ブラボー」はビキニ環礁の数百万トンという珊瑚を粉々にして、急速に膨脹した火の玉の中に吸い上げた。高度の放射能を帯びた珊瑚の微片は、渦巻きながら膨脹する白い雲に乗せられて運ばれ、東向きに変化した風にのって太平洋上を移動して、葉巻状の7000平方マイルの水域に降下しはじめ、マーシャル群島の島民たちに最高175レントゲンの放射能を浴びせかけた。

 パニック状態の中で避難が行われ、破局的な事態となったが、AECは現場がアメリカ本国から遠く離れたところにあることから、政治的には何とかできる問題だとタカを括っていた。

 ところがAECのそんな思惑をよそに、「ブラボー」の降下物は一隻の日本漁船、「第五福竜丸」の上に大量に降り注いでいた。第五福竜丸は危険水域と宣言されていた水域をわずかにはずれた所で操業していたが、風向きの変化が死の灰を運んできた。第五福竜丸が母港の焼津に帰港したとき、乗組員23人のほとんど全員が何らかのかたちで放射性疾患に罹っており、6ヶ月後に39才の乗組員が死亡したとき、東京の病院は死因を放射能によるものだと発表した。

 一夜のうちに日本人たちは、自分たちの核犠牲者について、それまで埋もれていた関心を甦らせた。10年近くの間で初めて、広島、長崎の生存者の現状が国民的な関心事となった。

 抗議運動はたちまち国際的なものに発展し、水爆の恐ろしい潜在能力についての情報が世界中に広がった。AEC委員長のルイス・ストラウス(38)は、非難の嵐を乗り切ることにあまりにも強い自信を持っていたため、第五福竜丸を、向こう見ずにも危険水域に足を踏み入れたと非難するとともに、記者団の質問に答えて、軽はずみにも「水爆は一発で大都市ひとつを滅ぼせるぐらい大型化できる」と語った。

 ストラウスのこの発言は世界的な反響を呼んだ。水爆は、原爆とちがって、世界の運命に直結しており、人類絶滅がもはや単なるサイエンス・フィクションではなくなったようにみえた。核戦争による死の灰がいかにして地球上の人間を滅亡させるかを描いた、ネビル・シュートの小説『渚にて』がベストセラーのトップになり、映画化もされて世界中でヒットした。

 イギリスでは、今世紀最大の哲学者の一人で、数学者でもあるバートランド・ラッセルが核戦争の危機を訴える宣言を起草した。この宣言には7人のノーベル賞受賞者が署名したが、その中には、ジョリオ=キュリー(4)、ハ-マン・マラー(57)、ライナス・ポーリング(70)らがおり、また、マンハッタン計画のきっかけをつくったルーズベルトへの書簡を深く後悔していたアインシュタイン(5)も、死の二日前にこれに署名した。

たちまち国際的な注目を集めたこの宣言は「パグウォッシュ運動」の創設につながった。1957年7月、カナダのパグウォッシュで、鉄のカーテンの双方にまたがる10ヶ国、24人の著名な科学者が集まって、核兵器の脅威と核実験による放射線障害の危険について話し合ったが、この運動は以後数年間、軍拡競争に狂奔する米ソの、科学者間の唯一の対話の場であった。

 ロンドンのセント・バーソロミュー病院の物理学教授ジョゼフ・ロットブラット(71)と、アメリカの物理学者兼作家のラルフ・ラップ(72)は、それぞれ別個に、「ブラボー」からの破片を分析して、それが単純な分裂・融合装置ではなかったことを発見した。「ブラボー」の融合燃料の周囲は、巧妙にも天然ウランの層でもう一度包まれており、そうすることによって、より多くの放射性物質がつくり出され、爆弾をより一層汚いものにしていたのである。

 
 
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