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被爆の記録 とアグニューフィルムの嘘

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2016年 8月26日(金)00時42分31秒
  通報 返信・引用 編集済
  皆さんは9.11に航空機が突っ込んでWTCビルが倒壊したとまだ思っていますか?思っていますよね。どうしてですか? それはテレビなどのメディアが繰り返した映像のせいなのです。WTC7まで倒壊しましたがこれはブッシュ一族の制御解体という技術です。WTCの方は通常の火薬とサムソナイト爆弾によるものです。これは放射能が検知されない仕組みになっています。威力は10キロトンと強烈です。航空機はなんとCGで煙まで.......種を明かせばこんなもんです。

いいですかみなさん,広島・長崎原爆も全く同じなのです。勘の悪い人は絶対にわかりません。

日本人が天皇を批判しないのは

https://twitter.com/honest_kuroki/status/767993228972822528

本物黒酒
@honest_kuroki
日本人が天皇を批判しないのは、
「そんなこと言うもんじゃない。批判していいのは総理まで」
「言ったら身内にどんな災いが降りかかるか知れない」
「へたしたら殺される」

潜在的に身の危険を感じるのです。
そんな君主国に民主主義は無い。

管理人注:イソギンチャク国家という怖さを最近感じ始めた。それ以上に怖いのは日本人だ。

http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page1-2-3.html

さてはての管理人様へ

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3745

に関連して先方のブログのコメントに返事がありました。その中で

>フーヴァー研究所の「「当研究所所蔵のハロルド アグニュー コレクションの中に、原爆投下の実写フィルムがある.......。

というのがあるが下記の「被爆の記録」に詳しい説明があるが原爆炸裂の実写フィルムであって原爆投下の実写フィルムではないのですよ。その最後に恐ろしい真実が語られている。暗に空中投下はなかったと言っているのである。

『.......前にも述べた通り、当時は、爆撃隊の侵入方向は北東で、爆撃目標は長崎港と一般に思い込まれていた。ボック氏の回答によれば、爆撃目標は長崎港ではなく、当初から浦上地区であり、接近経路は諌早、大村付近を経て北東方から長崎に入るコースとのことであった。しかし、それはおかしい。ボック氏の言う爆撃目標と接近(飛行)経路が正しいとすれば、浦上上空を通過したボックスカーは、自らが投下した原爆の衝撃波にたたかれて空中分解し、長崎湾上に散っていなければならない。北東方からの侵入は有り得ないことをビデオプリントの飛行経路で証明できたのは、ボック氏回答の報道から、わずか2週間後のことであった』と。

よってさてはて君とはもはや議論の余地はなくなり今後一切君が何を言おうが無視する。

素人ブログが凶器になる日 その2~さてはて君 あんたのことだよ

http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-325.html

鬼塚英昭のことは何回も記事にした。下記の記事でOSSのプロパガンダ(8月6日)を肯定している。彼は二つだけ大嘘をついている。大室虎之祐と原爆投下だ。白洲次郎の指摘は100%正しい

http://kane552004.blog135.fc2.com/blog-entry-930.html

『白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう』......白洲はニックネームがオイリー・ボーイであり英米日の原爆猿芝居の中心的役割を果たしたということだろう。オイリー・ボーイ=リトル・ボーイ 何か関係がありそうだ』

関連記事:広島・長崎原爆ルポ

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3738

トルーマンは原爆には関与していなかった

https://twitter.com/sunlight9501/status/762660538887180289



核の栄光と挫折

http://happi-land.com/baron-yoyaku.html



https://youtu.be/86lztMWGm28?t=191から注目

日本人が知らなくてはならない昭和史~必読

http://kisarazu.org/?page_id=35

星正治広島大学教授

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E6%AD%A3%E6%B2%BB

B29:エノラゲイ最後の乗組員の証言
広島原爆投下機、B29エノラゲイの乗組員で最後に生き残ったヴァン・カーク氏は、日本の取材AERAに対して気になる意味不明の言葉を残した。

その言葉とは「物事には諸説ある。一部は事実だし、真実でない情報も紛れ込んでいる。実際に何が起こったかの詳細は、あなた方は決してみつけられはしないさ」と・・・・。

これはB29-エノラゲイが広島に原爆を投下したのではない秘密の暗示だった。

東京空襲の際のTNT爆弾投下の実写フィルム~原爆はなし。

https://youtu.be/Acc2JVBoxqc?t=1152

第1章  原爆投下作戦

http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page1-2-1.html

第2章  長崎の記憶

http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page1-2-2.html

第3章  被爆の記録

第4章   偽りの資料

http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page1-2-4.html

第5章  原爆行使の理由

http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page1-2-5.html

田中 孟

執筆者紹介~http://sky.geocities.jp/stantanaka_charlotte/page2.html

以下は第3章から~記事を充分精査してから解説を追加いたします

(1)不可解な目撃記録

 被爆から40年が過ぎた時、私は名古屋に住み着いていた。早春のある日、再就職前の暇つぶしに、建て替えが終わったばかりの市立図書館を見学に行った。真新しい公開書架に、『長崎市制六十五年史』(昭34版)があった。戦前、父が市会議員を務めていた関係で、内には『長崎市史』(昭12・13版)と『長崎市制五十年史』(昭14版)があり、大切に保存していた。
六十五年史があることは、その時初めて知った。この本は、戦後初公刊の市史として原爆篇を設け、公的な記録報告だけでなく市販本等の記事も転載して、多様な観点から原爆攻撃、被爆の情報資料を提供している。ところがその中に、合点の行かない記事があった。その代表例を抜粋すると;

 1)長崎市防衛課記録から
「B29二機は十時五十二分頃、熊本市北方より西進して、島原半島北部上空を経て市内に進入す。先導機一機は十一時0分頃市内上空に入り、後続機一機は十一時五分頃市内北部上空にて投弾し脱去した。…原子爆弾は落下傘により落下し…」

 2)昭和20年(1945年)8月29日付、長崎県知事の原爆災害総合報告(第十報)から
「B29一機ハ十時五十三分頃熊本北方方面ヨリ西進シテ有明海島原半島北部上空ヲ経テ進入セルガ、先導機一機ハ十一時0分頃東北方ヨリ長崎市上空ニ侵入シ、後続機一機ハ十一時二分頃同方面ヨリ市内北部上空ニ侵入、投弾シタル後、反転シテ十一時八分イズレモ侵入経路ヲ経テ東方ニ脱去セリ 」

 3)長崎港外の香焼(こうやぎ)島に布陣していた高射砲第134連隊第3中隊指揮小隊観測班長の手記から
「その飛行機(原爆搭載機)の侵入した方向を申し上げますと、私どもが、はじめて飛行機を眼鏡で捕らえたのが野母沖で、陸地から二五、000メートル位のところでありました。それが野母上空から高島沖上空を経て式見沖上空を迂回して、長崎の北の方から侵入したのです。」
この続きは『長崎‐二十二人の原爆体験記録‐』(引用参考文献11.)の中にある。
「爆弾は、当時肉眼でも見られた通り、落下傘につり下げてありましたが、それは 一個だけでした。二個という説は当りません。はじめ落下傘が落ちてきて落下傘につり下げてあった爆弾が落ちるまで五、六秒位でしたが殆んど瞬間といってもいいと思います。その時にものすごい轟音と一諸に爆発が起りました。」

4)敵機侵入経路の想像図(図表6.「敵機侵入経路の想像図」)
以上の長崎攻撃の模様は、私の記憶にあるそれと丸で違う。特に爆撃隊の飛行経路の違いはただ事ではない。爆撃隊というものは、作戦命令の飛行経路(Route)に乗って、攻撃目標・照準点に接近しなければならないので、飛行経路が違うということは、問題なのである。
図書館の近代軍事史の書架に『戦史叢書 本土防空作戦』があったので開いてみたが、長崎原爆に関する記事は六十五年史から引用したもので、参考にならなかった。

 グレートアーチストに同乗していたローレンス記者の手記『ゼロの暁』(注.引用参考文献13.記者当人は、ゾンデ投下機ボックスカーに同乗した積もりで居た節がある)、マンハッタン計画総指揮官グローヴス将軍の回顧録『私が原爆計画を指揮した』(引用参考文献14.)等を見ても、爆撃隊の作戦行動、なかんずくその飛行経路は、なぜか次の様にばくぜんと描かれている。
「(爆撃隊は)硫黄島上空を経由しないで、日本の海岸めがけて直進した」、「屋久島上空から、九州の東海岸線沿いに北上した」、「小倉をあきらめて、長崎に機首を向けた」、「海峡を南下し、海岸線を横断して、長崎へと直進した」
この調子であるから、爆撃隊がどこをどう飛んで小倉、長崎に侵入したのか、見当の付けようがないのである。

 2)の長崎県知事総合報告によれば、敵機は2機、各機は2分間隔で松山町の北東から侵入、投弾して諫早方面へ脱去したことになる。2分間隔を距離に直すと、機速500km/時として約17kmである。前述のローレンス記者は、原爆投下直前、有害光線に備えて遮光(しゃこう)眼鏡を掛けた時、原爆搭載機グレートアーチストは前方1/2マイル(800m)にいた、と『ゼロの暁』に述べているので、各機2分間隔の侵入説は疑問である。
11時8分脱去とあるのも、脱去までの滞空時間が長過ぎる。長崎は、それ程の大都市ではない。
更に、9日は長崎上空の落下傘を大村湾西岸から視認できた程、視界視程共に良好であった。それにもかかわらず、11:00時ころ、長崎の北東空域でB-29が目撃された記録、報告はない。
そうすると、3)の高射砲中隊観測班長が見たものは、本当は何であったのだろうか。

 広島原爆の日の朝は、晴天高曇り。視界視程共に良好であったので、B-29の目撃情報は確度の高いものが集まった。長崎の場合は、空は良く晴れていたが、低空に片積雲が懸かっていたため、B-29の目撃情報は少なく、有っても断片的なものになった。そのため、長崎の目撃証言には、B-29/1機来襲説が多い。これは、B-29/2機が長崎上空で編隊を解いて互いに逆行した時、雲の陰に入った遠くの1機を見逃したのである。

 10:55時ころ、爆撃隊はレーダー航法によって橘(たちばな)湾上空を正確に長崎へ接近していた。そのまま進めば、ファットマンは、レーダー照準によって間違いなく長崎港東岸の市街地に落下するはずであった。しかし、そのレーダー爆撃は作戦命令で禁止されていて、目視爆撃(only visual bombing)だけしか認められていなかったのである。
爆撃隊が長崎半島の東岸上空に達し、雲の切れ間に浦上を発見した時、命令違反の汚名を着る覚悟でいた2人の指揮官は、ためらうことなく2次目標「長崎都市部」のレーダー爆撃を取りやめ、目標でも何でもない「浦上工業地区」の目視爆撃を敢行することにした。
まずボックスカーが甑岩(こしきいわ)上空で右旋回して、浦上方向へ北西進した。グレートアーチストは、ボックスカーに追随せず、ラジオゾンデ3個を愛宕山(あたごやま)上空に投下した後、左旋回して熊ヶ峰(くまがみね)方向へ南進した。
ボックスカーは、桜馬場町付近上空から松山町の陸上競技場を目がけてファットマンを投下した後、左旋回して長崎港上空を縦断し、長崎半島の西岸沿いに南西進した。両機の間隔は、市街地をはさんで3kmも開いた。

 長崎上空には片積雲の群れがあり、高空を飛ぶB-29の機影は、空の色に溶け込んでいた。多くの市民は、生活の維持と軍需生産に追われ、懸命に働いていた。遠い爆音を気に留めた人は少なかった。
爆撃隊の来襲方向については、目撃記録の中に「北方から接近中のB-29/1機」を長崎市役所西隣の大村町で見たとの文章があり、これが鵜呑みにされてしまった。北方説は、ボックスカーの爆撃進入(来襲)と離脱(脱去)を混同する過ちを犯している。すなわち、大村町で目撃されたB-29は、爆撃目標に接近中のボックスカーではなく、浦上にファットマンを投下した後、反転離脱中のボックスカーなのである。
マスコミも、時に誤解の種をまくことがある。平成2年(1990年)7月27日の新聞によれば、当時「爆撃目標は、長崎県庁と三菱造船所を結ぶ線の真ん中にあたる長崎港」と考えられていた由であるが、この記事は、「爆撃目標」の意味を誤らせる心配がある。

 プルトニウム239爆弾の爆撃目標は、少なくとも170,000人程度の人工を擁する半径7,500フィート(2,300m)の市街地でなければならなかった。雑魚しか住まない港湾では目標としての要件に合わないし、2点を結ぶ線の真ん中という表現は、「面(地域)」の破壊を目的とする原爆の目標にはそぐわない。記事の言いたかったのは「爆撃目標」ではなく、「標的」「照準点」のことであろう。

 ボックスカーと別行動をとることになったグレートアーチストは、高高度を維持しつつ長崎上空をかすめて天草灘(あまくさなだ)上空へ退避したので、長崎市民の目に触れることはほとんどなかったはずである。
ラジオゾンデをつり下げて愛宕山上空に浮いた3個の落下傘は、北東方ヘ流されて、北高来(きたたかき)郡飯盛(いいもり)町(現)の松尾岳南東側のふもとに降下し、原爆の不発弾と間違われて、一時は大騒ぎになった。ゾンデには、我が国の原子物理学者にあてた米国人学友からの手紙が封入されていた。落下傘の降下地点には、記念の標柱が建てられた。

 機上からは長崎が見えなかったのに、地上からB-29が見えたのはなぜか。その種明かしは簡単である。片積雲の群れは、高度1,000m付近に浮いていて、所所に自然の節穴を形成していた。節穴からのぞけば外は良く見えるが、外から節穴の奥は見えない。

(2)飛行方向は北西

 本節では、前節で取り上げた目撃記録に対する反証的記録を紹介する。

 ? 原爆災害報告第一報
「本日一〇・五三敵B29二機ハ熊本県天草方面ヨリ北進シ、島原半島西部橘湾上空ヲ 経テ長崎市上空ニ侵入、一一・〇二頃落下傘附新型爆弾二個ヲ投下セリ」
これは、前節の総合報告(第十報)に先立って、長崎県知事が報告したものである。
原爆以前の長崎空襲は、大陸方面からのB-24,B-25少数機によるものばかりで、それも決まったように天草灘上空を経て来襲していた。特に双発のB-25は、その軽快性を生かして超低空を長崎半島に接近し、唐八景(とうはっけい)付近で稜線をひらりと飛び越えたかと思うと、一気に高度を100m(300フィート)に下げ、市街地上空を突っ切って、浦上の工場地帯に小型爆弾を落としたりしていた。
この第一報の中に、B-29が「天草方面ヨリ北進」してとあるのは、確かな防空情報によるものではなく、先例にならったのであろう。なお、この経路で長崎に侵入したB-29が居たとしたら、それは第20航空軍(マリアナ基地)のものではない。
第一報にある「島原半島西部」~「橘湾」~「長崎」への北西進は、私が目撃した爆撃隊の侵入状況と合致する。それがなぜ、第十報で「東北方ヨリ長崎上空ニ侵入」したと書き改められたのか、その辺の事情は良く分からない。
爆弾の個数は誤認、又は誤植である。

 ? 長崎精機原子爆弾記
「拡声機のブザーの音。〝敵の大型2機、依然として天草、島原半島上空を旋回中なり〟」
長崎精機は、三菱長崎兵器製作所の後身。原子爆弾記は、従業員の被爆体験を取りまとめたもので、その中にこの所内放送の一節があり、原爆災害報告第一報の内容を裏付けるものになっている。

 ? 兵器製作所従業員の会話の記録
「(所内放送〝大型機2機、島原上空を西進中〟)島原上空西進中なら、長崎へ来ますね。」この記事も、爆撃隊が橘湾上空を長崎へ向かったことを示している。

 ? 上小島町の青年の証言
「かすかに爆音が聞こえて来ましたので、窓から顔を出して空を見上げますと、あのB29独特の白くキラキラ光った色をした二機が、上空を愛宕町の方から浦上の方へ飛んで行くのが眼に入りました。」
この青年は、長崎市街地南東部の高台から北東上空を見上げている。B-29の飛行方向は、北西。落下傘は、目撃されていない。この直後、2機は互いに逆行状態に入り、落下傘が愛宕山上空に開く。

 ? 九州配電長崎支店の屋上で被爆した作業員の証言
「飛行機が長崎地区に入って来るのを知っていましたが、方向が違うので安心して作業を続けていたのです。」
同支店は、現在の九州電力(株)長崎支店で、長崎県庁と長崎駅の中間に位置している。この証言では敵機数、飛行方向ともはっきりしないが、「方向が違う」とあるから、敵の1機もしくは2機が、同支店の在る長崎の中心部に横腹を向けて飛行していたことになる。落下傘は、目撃されていない。

 ? 高射砲第134連隊第4中隊指揮小隊観測班測定機長の証言
「吉田兵長が〝あっ!B-29だ〟と叫んだ。機は雲間から出たばかりのところで、 西方岩屋山方向に向かって進んでいた。意外なことに機の下の方に落下傘が三個浮いている。」
この中隊は、爆心地の南東2kmの金比羅山(こんぴらさん)上に展開していた。岩屋山(いわやさん)は北西に当たる。測定機長は、この直後に起きた原爆爆発のショックのためにか、折角発見したB-29と落下傘の位置の報告を忘れている。
測定機長の視線は、南東方向、仰角75度、直距離10km付近に向いている。北西進するB-29は、投弾直前のボックスカーである。グレートアーチストの存在には気付いていない。

 ? 西山町一丁目の主婦の証言
「ちょうど十一時に、金比羅山頂に銀色のB-29が爆音も聞こえぬぐらい高い空を静かに西に向かっておりましたが、胴体から何か黒いものがぶら下がり、それにダイヤモンドのように光る三つの電球様のものが灯って、三つとも奇麗な色彩に変わって実に珍しかったので、甥を呼び見せましたところ、あれは広島に落ちた新型爆弾かも知れんぞ…」
西山町一丁目は、諏訪(すわ)神社のすぐ北側で、金比羅山の南東斜面に当たる。
この主婦は、細かい点まで実に良く観察している。視線の向きは、ほぼ直上。彼女の耳がとらえた静かな爆音は、その時点から30~40秒前の、ボックスカーのエンジン出力状態を表わしている。胴体からぶら下がっていた黒いものとは、投下されたばかりのファットマンである。爆弾倉を離れた爆弾は、しばらくは機体に連れ添うように走る。それを、彼女は真下から見上げていたのである。
ボックスカーは、この直後、左に垂直旋回して、長崎港上空を南方へ離脱する。点滅していた光は、多分、安全警報装置の一部であろう。落下傘は、目撃されていない。

 これまでに出版された数多くの被爆記は、ピカドンで始まり、被爆の惨状を訴えて終わるものばかりで、肝心の作戦計画、爆撃隊の行動に触れたものは極めて少ない。それを書くために必要な情報資料が、国内には乏しかったのである。
私は、原爆攻撃に参画、参加した人達の手記、回想記等に着目し、縦読み横読みを繰り返して、まず爆撃隊の飛行経路を探ってみた。この作業は、作戦目的の解明に役立つと考えたのである。
ところが向こうには軍事機密という関門があって、原爆投下作戦に触れる内容の市販本は、取材、表現に制約を受けた。そのため、いくら小まめに市販本を調べてみても答えが出る訳がなく、返って次の疑問を生じた。
1.補助燃料系統に欠陥が発見されたボックスカーをなぜ原爆投下機として出撃させたのか。
2.出撃した爆撃隊3機の内の3番機は、どこへうせたのか。
3.2機となった爆撃隊の、屋久島から小倉までの飛行経路がはっきりしない。
4.小倉攻撃は雲のために目標が見えず断念したとされているが、小倉上空は良く晴れていたのではないか。
5.小倉から長崎までの飛行経路がはっきりしない。
6.原爆第2号は、目標に命中したことになるのか。

 この調査を通じて分かったのは、米国は第2次原爆攻撃を急いだこと、長崎は第二義的な代替目標であったこと、長崎攻撃は、必ずしも順調に推移した訳ではないことなどであった。

(3)アグニュー フィルムは語る

 被爆40周年に当たる昭和60年(1985年)7月6日の新聞に、「原爆投下のB29爆撃手 被爆者に謝罪したい」との見出しの記事が載った。それによると、元爆撃手ビーハン氏が長崎訪問を希望している旨、彼の代理人である臨床心理学博士ウォリビィ氏から長崎市長あてに打診の手紙が送られてきたのであった。市長は、これをやんわりと拒絶した。
私は、ビーハン氏に直接尋ねてみたいことがあったので、彼の住所を長崎国際文化会館に照会したところ、住所は秘匿されているとのことで、代わりにウォリビィ氏の事務所を気付先として教えて下さった。

 ビーハン氏に対する質問は、
 1.爆撃目標を浦上に変えた理由
 2.爆撃進入経路と投弾位置
 3.きのこ雲を撮影したB-29の特定

などであったが、私の貧弱な英語力のために、手紙は日米語混合の変な文章になってしまった。そのせいか、元爆撃手の証言はもらえず仕舞いになった。
平成元年(1989年)3月、彼は病没した。

 7月6日のビーハン氏に関する新聞記事の末尾に、1年前にも「観測機で上空を飛んだ元英国軍の将校」が長崎にやってきたことがある、と付記されていた。その元大佐レオナード チェシャー氏は、今や慈善事業家として財団を主宰し、世界中を飛び回っていた。
平成元年(1989年)11月初め、NHKテレビがチェシャー氏の来日を報じた。NHKにお尋ねしたところ、「チェシャー ホームズ」の国内における窓口が分かり、そちらの御厚意で、手紙をチェシャー氏へ送達して頂けることになった。手紙には、以前に発表したレポートのコピーを同封しておいた。
チェシャー氏は、私の手紙をロンドンの事務所で受け取り、レポートとも翻訳に回したうえで精読して下さった。
チェシャー氏に対する質問は、
 1.ホプキンス機が高速度写真の撮影技師を積み残した原因
 2.原爆爆発時のホプキンス機の飛行位置
 3. きのこ雲を撮影したB-29の特定
などであった。

4月初め、チェシャー氏から封書が届いた。その内容は、ホプキンス機の同乗者として往時を回想したもので、出撃前夜は長時間、綿密なブリーフィングが実施されたこと、それにもかかわらず、ホプキンス機は指示された高度よりも高く飛び、航法を誤って、屋久島の集合点から40マイル(64km)も外れた〔40 mile dog legs〕所に到達し、旋回し続けたことなど、貴重な証言が含まれていた。便箋の余白には、回答に正確を期したらしい書き込みまでしてあった。
しかし、しょせん、チェシャー氏は英国の軍人であり、米軍爆撃隊の作戦行動に関与できる立場にはなかった。ホプキンス機が撮影技師を積み残した一件についても、「記憶にない」とのことであった。平成4年(1992年)7月、彼は神に召された。

 原爆の航空写真といえば、被写体はきのこ雲と決まったようなものであるが、中に周辺の景観を写し込んだものがある。写真で地形地物を確認できれば、カメラポジションは大体分かる訳で、それが分かれば、飛行経路の調査上重要な資料となる。そこで、次の5枚の写真を解析してみた。

写真1.「原爆投下の瞬間―長崎上空のきのこ雲」
〔昭和55年(1980年)1月8日,NHKと朝日新聞が同時発表した16mmカラームーヴィーの一こま。後、原爆資料館に展示され、市販本にも掲載された。ムーヴィーは、今も事あるごとにテレビで放映されている。〕
平成元年(1989年)1月、昭和天皇崩御の直後、このグラヴィアを初めて目にした時、これはトリックではないかと私は思った。グラヴィアには、長崎の地形地物が何一つ写っていなかったからである。
ムーヴィーをマスコミに提供された方に手紙でお尋ねしたところ、ムーヴィーの発表に際しては、長崎国際文化会館(原爆資料館)で長崎市をはじめ被爆者団体、被爆写真調査会、NHK等の関係者に試写を見てもらって、映像は「長崎上空のきのこ雲」に相違ない、との確認を得た由であった。又、御意見として、このムーヴィーの撮影は、原爆投下機からではなく、随伴の観測機から行われた可能性があると指摘されていた。
しかし、私はこの説明に納得できず、情報を米国に求めることにした。英文の照会状を書くのは、フィリピンの留学生が引き受けてくれた。照会状は、写真1.を添えて、11月に発送した。

 翌平成2年(1990年)1月、最初の回答が米国防総省核防衛局から寄せられ、それには次のように述べられていた。
「原爆のフィルム ファイルは探し出したが、地表の細部がはっきり写っていないので、 質問に答えられない。ウィリアム G.ペニー卿が記録写真に興味を持っておられたようなので、撮影に関する情報をあなたに提供してもらえるかもしれない。貴信は、ペニー卿へ転送した。」
ペニー卿は、九州空域で迷子になったホプキンス機に、チェシャー氏と共に同乗していた。英国の「原爆の父」からの返事を心待ちにしていたが、翌平成3年(1991年)3月、卿も又、世を去ってしまった。

 国防総省からの回答に続いて、フーヴァー研究所から次の朗報が舞い込んだ。
「当研究所所蔵のハロルド アグニュー コレクションの中に、原爆投下の実写フィルムがある。広島の映像はグレートアーチストから撮影されたものであるが、長崎の場合は、撮影に当たった航空機もカメラの方位も不明である。フィルムには海岸線が写っている部分もあるので、あなた自身で御覧になる方がよいと思う。要請があれば、フィルムのビデオコピーを送る」(注.ハロルド アグニュー氏は、1970年から1978年まで、ロスアラモス科学研究所長を務めた)とのことであったので、折り返しカセットの郵送をお願いしておいた。
この年の春3月は亡父の三年忌に当たり、長崎に帰省する予定にしていた。出立の前日、フーヴァー研究所から小包が届いた。開けてVTRにかけてみる暇はなかったし、ちょうど良い機会でもあったので、そのまま長崎に運び、国際文化会館(原爆資料館)で担当の方といっしょにビデオを見ることにした。

 法事の翌日は、早朝から濃い黄砂が長崎を覆い、山々は黄色にかすんでいた。その午後、国際文化会館(原爆資料館)の映写室に関係者10名程度が集まって、カセットの封を切った。
映像は、テニアン基地の展望に始まり、広島任務から帰還したグレートアーチストの出迎え風景などがあって、いよいよ急降下中の観測窓から見た下界の雲のショットに進んだ。
低空から片積雲の群れがせり上がってきたかと思うと、俯角(ふかく)30度辺りに、いきなりシャボン玉のような半透明の火球が出現し、直下の地表が赤く火照った爆煙に覆われた。火球は膨れ上がってきのこ雲となり、上昇を始めた。
火球がまだ地表近くに浮いていた時、その左肩に一際高く立ち上がっている爆煙があり、その位置と形から、私は「あれは油木谷(あぶらぎだに)の市商ではないか」と思った。同時に、これと同じ映像をどこかで見たような気がした。
画面が爆心付近から港湾の方向へゆっくり振れ始めた時、だれかが「右旋回しとる…」と声を立てた。
カセットに収められていた映像は全9分間で、その内、長崎の場面は約3分間と短く、その中で地表が写っているのは最初の30秒間だけであり、後はきのこ雲の映像ばかりで拍子抜けした。

 旧原爆資料館(注.平成8年・1996年改築)2階の展示室の入って正面の壁には、かなり以前から「長崎上空で爆発した火球」いわゆる「長崎のきのこ雲」のカラー写真が掛けてあった。実は映写室に入る前、この写真に長崎の地形地物が何か写っていないかと思い、それこそなめるようにして探してみたのであるが、何一つ発見できなかった。
翌日、この壁掛け写真を50年来の友人に見てもらった。彼は、写真は素人ではない。地下者(じげもん)2人の所見を長崎弁そのままに書くとこうなる。
「ほんなこておかしかなあ、こん写真は。どっから見たっちゃ、長崎には見えんバイ。」「こらあひょっとしたら、ネヴァダ辺りの砂漠の写真かもしれんねえ。」なぜ「長崎のきのこ雲」の写真に長崎が写っていないのか、謎は偶然解けた。

 長崎から戻ると、直ちに映像の解析に取り掛かったまでは良かったが、10,000mの高空から16mmフィルムに収めた地表の映像を、家庭用VTRで見分けるのは、 そもそもが無理なことであった。映像を静止画に電子複写する装置があると聞いて、町の電器屋を尋ね回ったが、確かな商品情報は得られなかった。
季節は移り、梅雨明けも間近くなったある日、突然、救いの神が現われた。三菱電機(株)の傍系会社から、「ここにそのプリンターがありますから、テープを持って来てみて下さい。」と電話を頂いたのである。本当に夢かと思った。
ビデオカセットには「放映禁止」のラベルがはり付けてあったので、映像の複写配付に関しても、法的問題を引き起こすことのないよう、前もってフーヴァー研究所の許可を得ておいた。
8月初めの昼過ぎ、会社に出向き、作業棟の一室でプリンターの取り扱い方をおそわり、同行した家内を助手に器械と格闘すること2時間、プリント25枚を手にした時のうれしさは格別であった。
プリントには、VTRの画面からは探し出せなかった松山町の陸上競技場、医大と金比羅山の西斜面一帯、城山小学校を含む長崎市北部、道ノ尾(みちのお)、大村湾南岸まで良く写っていた。

写真2:「原爆爆発の瞬間」
プリントの中の1枚「原爆爆発の瞬間」は、一見したところ「写真1.原爆投下の瞬間―長崎上空のきのこ雲」そのものであった。しかし、どことなく違う。市販本の中の写真1.と比べてみると、何のことはない、油木谷の位置が左右逆、つまり、写真1.は写真2.の裏焼きだったのである。
折りしも8月9日、各テレビ局は裏焼きのきのこ雲を盛んに放映していた。

(4)きのこ雲の撮影位置

 ビデオプリントからそのカメラポジションを割り出すについては、権威ある機関に解析をお願いする道もあったが、考えてみると、撮影機の飛行位置を学問的に決定する必要などは少しもなく、爆撃隊は北東方向から侵入したのではないことを証明できれば、それで十分であったので、まずは自力で当たってみることにした。
私が思い付いた方法は、ビデオプリントの長崎と、ファインダーを通して見える地図上の長崎とを比較対照しながら、ファインダーの3次元位置を絞り込んで行くという、至って幼稚なものであったが、作業を反復した結果、ファインダーの位置は爆心地の南南西、香焼島の北東上空と推定できた。
撮影機は、原爆爆発の時点に、この位置と爆心地を結ぶ線上を、空中分解寸前の高速で南方へ離脱していたことになる。
その離脱方位を時計(右)回りに100度戻した方向、すなわち北西が離脱に入る直前の撮影機の飛行方向である。それは、私が記憶しているボックスカーの浦上進入時の飛行方向と一致する(注.作戦命令の左旋回角度は150度であるが、本番では100度程度の旋回にとどまった。激しい急降下によって、機体強度が耐空性の限界に達したためと考えられる)。
グレートアーチストでは、爆撃目標が変更されたことは分からなかったから、前もってカメラを浦上に向けておくことはできなかった。又、別の位置から別の写真5.を撮影した可能性も高いので、写真2.の撮影機は同機ではなく、ボックスカーと考えられる。撮影者は、尾部銃座にいた射撃手アルバート デハート曹長(そうちょう)で、カメラはベルハウエル社のアイモ級か、イーストマンコダック社のシネコダック級の16mmカメラであろう。
以上によって、原爆爆撃隊の長崎上空における飛行経路は、ほぼ確定した。
『長崎市制六十五年史』(後編)第五部第一章第二節及び『長崎原爆戦災誌』第二部第一章第三節に登載されている原爆投下機の長崎北東方からの侵入報は、誤報もしくは虚報である。

写真3:「米軍機から撮影した長崎の原子雲」
〔『ながさき 原爆の記録』所載〕
この写真は、きのこ雲の柱に生じた日陰と、背後の低層雲に特徴がある。日陰の向きは北であり、低層雲は、その形状からして長崎半島上空に懸かった片積雲の群れに違いないので、この写真の撮影位置は、大村湾の南岸上空と推定される。
香焼島上空に退避したボックスカーは、その後、時計(右)回りに爆心地の北西、烏帽子岳(えぼしだけ)上空まで侵入したことが判明しているが、この写真の撮影機は、烏帽子岳よりも更に深く北東方に侵入しているうえ、飛行高度がムーヴィーカメラよりもかなり高い。
従って、この写真3.がボックスカーから撮影されたものとすると、同機は、原爆爆発後、なけなしのタンクを絞って上昇飛行を続け、遠回りをして沖縄へ向かったことになり、不自然である。
天草灘上空に退避したグレートアーチストは、「天草灘上空を引き返して来るB-29」として、唐八景付近から目撃されている。同機は、ボックスカーに追随しようと北西進していたのであろう。
ホプキンス機は、唯一、公的な記録写真の撮影任務を帯びていて、そのために必要な資器材を積んでいた。戦術的観点からすると、同機は、小倉攻撃の予定時刻を過ぎた後は、小倉と長崎を両にらみできる空域の、長崎寄りで待機していた公算が大であるが、同機の任務、行動に関する資料は何も無い。
従って、写真3.については、爆撃隊3機の各飛行経路から推測するしかなさそうである。

写真4:「爆撃直後の長崎上空に立ちのぼるキノコ形の原子雲」
〔『私が原爆計画を指揮した』に掲載。米空軍の提供〕
この写真は、傍注に「観測機から撮影された」とあるから、ボックスカーは関係がない。写真中央の海面は橘湾、その向こうは島原半島の西岸であるので、この写真は、きのこ雲の西側を南進中の観測機グレートアーチストか、ホプキンス機のどちらかから撮影されたことになる。
飛行高度及びきのこ雲との位置関係からすると、この写真は前掲の写真3.に続いて撮影された可能性があり、2枚を並べて見ていると、撮影機はホプキンス機のような気がして来る。なお、島原半島西岸の映像はムーヴィーの中にもあり、そちらは北進中の機体から撮影されている。

写真5:「長崎上空に立ちのぼるキノコ雲」
〔『丸』(平元・11月号)に掲載〕
この写真と写真3.のきのこ雲に生じている日なたと日陰を比べてみると、2枚の写真は、ほぼ正反対の方向から撮影されていることが分かる。この写真のきのこ雲の後方は大村湾の南端に当たり、きのこ雲の背後には時津港が隠れている。時津港と爆心地を結ぶ線を南方へ伸ばすと、そこは天草灘であり、その上空にはグレートアーチストが退避していた。
写真の中央左寄りにくし団子を横にした形の片積雲が写っているが、このくし団子は別の角度からムーヴィーにとらえられているので、ムーヴィーを撮影したボックスカーには、この写真5.を撮る機会はなかったことになる。
ホプキンス機も又、きのこ雲が写真の高度に上昇するまでに、この撮影位置に飛来できたとは思えない。従って、この写真は、グレートアーチストから撮影されたものと断定できよう。
なお、もしボックスカーが原爆を投下して離脱する際、作戦命令の通りに150度左旋回していたならば、この写真の中央下方に、その機影がとらえられていたかもしれない。(注.第(4)節冒頭の注記に関連)

 平成元年(1989年)12月1日22:45ころ、NHKテレビが「広島の原爆機乗員5名が広島を訪問中」として、その代表格らしい人物「観測機機長スウィーニー氏」を大きく映し出した。彼の名前と顔付きには覚えがあった。
彼が長崎攻撃で演じた役割については、テレビニュースは何も解説を加えなかったから、NHKは、彼が長崎攻撃の指揮官であったことを、多分知らなかったのである。これを、私はNHKを通じて長崎攻撃の真相を聞き出す好機ととらえた。
翌朝、NHK長崎に事の次第を電話してみたところ、その件は広島の出稿なので、と相手にしてもらえなかった。NHK広島は、改めて一行との取材交渉に入って下さったが、こんどはスウィーニー氏の方が重ねてのマスコミの接触をきらった。デスクからの電話連絡によると、「彼の口振りでは、長崎まで足を伸ばす積もりはなさそうだった」とのことであったが、はるばる広島までやってきた長崎攻撃の元指揮官が、長崎を目前にして引き返す道理はないので、委細を国際文化会館(原爆資料館)に知らせ、質問を託した。ところが、会館も一行をつかまえ損ねた。

 翌平成2年(1990年)7月27日の新聞によれば、矢張り一行は長崎に入っていたばかりか、ゾンデ投下機グレートアーチストの機長であったボック氏も一向に参加していた。スウィーニー氏とボック氏は、市庁舎の玄関口らしい所で、にこやかに写真に収まっている。こうして広島と長崎は、その被爆史を完全無欠なものにする絶好の機会を逃がしたのである。
一行が離日して間も無く、長崎市長が右翼を名乗る暴漢に銃撃される事件が起こり、それを知ったボック氏が、市長に見舞い状を送った。これを機縁に、国際文化会館(原爆資料館)がボック氏に対して、爆撃目標は長崎港で正しいかを問い合わせたところ、彼は、スウィーニー氏の同意を得たうえで回答を送って寄越した。前にも述べた通り、当時は、爆撃隊の侵入方向は北東で、爆撃目標は長崎港と一般に思い込まれていた。
ボック氏の回答によれば、爆撃目標は長崎港ではなく、当初から浦上地区であり、接近経路は諌早、大村付近を経て北東方から長崎に入るコースとのことであった。
しかし、それはおかしい。ボック氏の言う爆撃目標と接近(飛行)経路が正しいとすれば、浦上上空を通過したボックスカーは、自らが投下した原爆の衝撃波にたたかれて空中分解し、長崎湾上に散っていなければならない。北東方からの侵入は有り得ないことをビデオプリントの飛行経路で証明できたのは、ボック氏回答の報道から、わずか2週間後のことであった。

管理人注:さてはてさんの返事は先方のコメント欄にありましたが相変わらずクレーター一辺倒です。フーバー研究所に原爆投下のフィルムがあるとのことですが..........上の記事に全部書いてあるよ

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3745

>フーヴァー研究所の「「当研究所所蔵のハロルド アグニュー コレクションの中に、原爆投下の実写フィルムがある。広島の映像はグレートアーチストから撮影されたものであるが、長崎の場合は、撮影に当たった航空機も カメラの方位も不明である。・・

注:グレートアーチスト~

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88

管理人注:ハロルド・アグニューが乗っていたのは科学偵察機(グレートアーチスト)と思われるが落としたのはパラシュートをつけた測定器のみであった。原爆投下の実写フィルムなんてあるハズがない。エノラゲイは気象観測機であるから。テニアン島での映像はプロパガンダでありLittle Boyはレプリカ。

詳細は上の被爆の記録記事参照

管理人注:ハロルド・アグニューコレクション

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RgBcGFDr9Xu2kA4B.JBtF7?p=%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89+%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC+%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

ビデオにありますがいかにも嘘をついているという顔をしています。勘がいい人にはすぐわかる



https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%8D%9A%E5%A3%AB

原爆投下を目撃した物理学者の死 となっていますがハロルド・アグニュー博士は、 原爆投下時に エノラ・ゲイに同航した科学偵察機で広島上空を飛び、測定器を投下した人物。あるいは気象観測器であるエノラ・ゲイに搭乗......ただそれだけのことをしただけ。B29はおらず空襲警報が鳴らなかった隙間を狙って起爆させた。最大の目的は身の保身のための第二総軍の全滅~ついでに学徒もやってしまったということだ。こういうインテリたちが戦後生き延びては困るということ。

http://jacircle13.blogspot.jp/2013/10/blog-post_8.html

『8月6日、リトル・ボーイ(Little Boy)と名付けられた原爆を搭載したエノラ・ゲイ(Enola Gay)と同航する爆撃機B-29に、アグニュー博士は他の科学者二人と共に乗り込んだ。彼らの役割は爆風の強度を測定することだった。その職務とは別に、博士はベル・アンド・ハウエル(Bell & Howell )16ミリ撮影機で、爆撃機の小さな窓から原爆の破壊力と広島の惨状を撮った。古今を通じて核実験から原爆の破壊力全てを目撃した証人は、アグニュー博士だけだったであろう』

管理人注:原爆投下のフィルムがないのはエノラゲイは気象観測機であったからで地上から吹き上げる原爆の威力を撮影したということだろう。



これが本物なら信じますが...........。



OSSによるプロパガンダフィルム~最初のテニアン島でのリトルボーイはレプリカと思われる。B29は広島には命令によって飛んで来ていない。気象観測機のエノラゲイと偵察機のみ

核兵器の特許所有者は?

http://orange.ap.teacup.com/yukikokajikawa/2003.html




 
 
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