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現代版魔女の鉄槌 その4

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2017年 3月 7日(火)22時53分39秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11264830664.html その4

〔苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 第2章 魔女狩りの歴史~中世ヨーロッパで何が起こったのか?~ より P.84-P.128〕

■キリスト教は異端に寛容だった!

ヨーロッパ中世の魔女裁判には、異端審問 Inquisitio という暗黒裁判の前史があります。

異端とは、正統から外れているという意味です。現代における異端はそれほど悪いイメージで語られるものではありません。しかし、宗教で異端という言葉が使われると、それは重大な意味を持ちます。特にヨーロッパ中世では、異端は生命に係わる問題でした。

異端という言葉がいつ生れたのか定かではありませんが、キリスト教初期の頃から異端戦争が行われていたことは、聖書からも窺(うかが)えます。例えば、パウロ書簡には、正統ではない教義を信奉するものに対する警告がなされており、教えの解釈を巡る対立が存在したことを物語っています。

しかしながら、初期のキリスト教では、異端に対する態度はむしろ寛容なものでした。異端だから迫害して殺すという、カルトのような過激な迫害も無かったことでしょう。どうしても主流派の考えを守れない信徒に対しては破門を宣告するくらいのものだったはずです。キリスト教は、元々救いの宗教だったからです。

その寛容さに変化が表れるのは、キリスト教が権力と結び付き、権威を持ち始めてからのことです。権力維持の一翼を担い、宗教として権勢を振るうようになると、その権威が貶(おとし)められるようなことを嫌うようになるのです。その結果、宗教的な純化が行われます。

例えば、既に紹介したように、コンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)の時代にアリウス派 Arianismus が異端とされたことはその典型です。狭義に多様な解釈や考え方があることを許容せず、正統以外のものを撲滅しようとする力学が働き始めます。もちろん、何が正統かという問題に決着を付けるのは、常に信仰ではなく政治力です。

コンスタンティヌス大帝が三位一体を唱えるアタナシウス派 Athanasius と結託したのも、その結果と言えます。アタナシウス派が最大派閥であり、その優勢を見て取ったからでもあるでしょう。また、精霊の位格が同じとなれば、その精霊が宿ったパウロ Apostle Paul(5-67、ユダヤ人)の言葉も、公会議の議決も神の言葉となるので政治的に利用し易いからと言えます。

■コンスタンティヌス大帝の大衆洗脳

コンスタンティヌス大帝の目的は、当時、4つに分割統治されていたローマ帝国(帝政ローマ) Imperium Romanum で、唯一の皇帝としての専制君主制を確立することでした。その為に、当時、人気が上昇していたキリスト教の力を利用することを思い付いたのでしょう。テレビやラジオといったマスコミュニケーションの手段がありませんから、宗教者による教導は、大衆洗脳の唯一最大の手段でした。

キリスト教徒達によって、コンスタンティヌス大帝の権威があまねく伝えられ、広く彼を唯一無二の皇帝に推す世論が形成されることが、彼には目的を達成する上でどうしても必要だったのです。

その意味で、コンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であり、救いではなかったはずです。だからこそ、彼の選択には、迷いが無かったに違いありません。教義に対する厳格な姿勢ゆえに分裂の火種となり、その頑固さゆえに使いづらいアリウス派を切り捨て、恭順の態度を見せているアタナシウス派を拾い上げたのです。

アリウス派がその後どのような扱いを受けたか、記録には殆んど残されていませんが、ローマ帝国の領土内において激しい迫害を受けたことは、僅かながらも伝えられています。彼らは家を壊されたり、暴力を振るわれたり、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。

ちなみに、当時、東の正帝だったリキニウス LiciniusⅠ(263?-325、ローマ皇帝在位:308~324)は、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発し、キリスト教徒に対する迫害を強化しました。彼は、得体の知れない新しい武器の切っ先が自分の咽喉元に伸びてきたことを察知し、それを必死に跳ね除けようとしたのです。

しかし、迫害を強化すればするほど、リキニウスは不利になっていきました。惨(むご)たらしい迫害が続き、民心が離れていったからです。圧倒的な不人気の中で戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって325年に処刑されました。これによりローマ帝国は統一され、325年に第1回ニカイア公会議 First Council of Nicaea がコンスタンティヌス大帝の主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立します。

このように、宗教と権力が結び付き、国教化されるということは、即(すなわ)ち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることと同義です。とすれば、権力者にとって異端とは、剣に浮いた錆びのようなものであることが分かります。戦いに勝つ為に、錆びはいつもきれいに落としておかなければならない、ということです。

〔資料〕LiciniusⅠ(Gaius Valerius Licinianus Licinius Augustus 263?-325) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9

〔資料〕ConstantinusⅠ(Gaius Flavius Valerius Constantinus 272-337) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82
%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96


〔資料〕キリスト教 Religio Christiana(英:Christianity) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99

〔資料〕異端審問 Inquisitio - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

■法王権の全盛時代

とは言え、ローマンカトリック教会 Ecclesia Catholica(英:Roman Catholic Church)の歴史を振り返ると、12世紀を迎えるまでの彼らは、異端撲滅に絶えず取り組んだというわけではありません。

キリスト教にして書かれた歴史書には、この頃までの教会が異端に対して寛容に接していた様子が描かれています。コンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)から数えておよそ800年の間に限って言えば、時の権力に求められ、或いは教会の中から生じた理由によって、異端撲滅をしなければならない特別な事情が、彼らには生じなかったのだろうと私は思います。

さて、4世紀から5世紀にかけてのゲルマン民族の大移動、その影響によるローマ帝国の滅亡と再建を経て、12世紀のヨーロッパの体制は様変わりしていました。政治的には、言わば政治権力の爛熟(らんじゅく)期であり、同時に堕落期が訪れていました。王侯達は市民や領民の生活を顧みることなく欲するままの生活を送るようになり、統治力の喪失は甚(はなはだ)だしかったのです。

一方、宗教から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代でした。一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。

西欧諸国の政治に介入したことでとりわけ有名なのは、法王インノケンティウス3世 InnocentiusⅢ(1161-1216、ローマ法王在位:1198~1216)でしょう。彼は、1215年の第4ラテラン公会議 Fourth Council of Lateran において、次のような言葉を残しています。

「教皇は太陽、皇帝は月」「王侯の権力は教会に由来する。ゆえに王侯は聖職者の下僕である」

もちろん、この頃には、教会もまた大変な堕落を重ねていました。聖職の売買や聖職者が情婦を持つことが日常茶飯であるばかりか、教会の小部屋は尼僧(にそう)や女性信徒との情事の場と化し、私服を肥やすことばかりに熱心だったのです。

ダンテ Dante Alighieri(1265-1321)は13世紀に、『神曲 地獄篇 La Divina Commedia, Inferno』で逆さまにされた教皇ニコラウス3世 Nicholaus Ⅲ(1216?-1280、ローマ教皇在位:1277~1280)を描き、(ニコラウス3世は)ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世 Bonifatius VIII(1235-1303、ローマ教皇在位:1294~1303)が同じ運命を辿るだろうと予言しています。

つまり、ダンテはその一節を、教会権力への告発状として描いているのです。ダンテの『神曲 地獄篇』は、民衆が時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。

〔※『神曲 地獄篇』第19歌では、聖職者売買の徒が罰せられている。その中で、岩穴に逆埋めにされ両足を炎で焼かれたニコラウス3世は「後に来るのはボニファティウス8世、そして教皇クレメンス5世 Clemens Ⅴ(1264-1314、ローマ教皇在位:1305~1314)だ。彼は教皇権までもフランスの王に売った」と述べ、「お前はもうそこに来たのか?ボニファチオ(ボニファティウス8世)?」と、第6歌にも登場したボニファティウス8世の名を呼ぶ。

逆埋めになった頭の下には、聖職を汚(けが)した他の教皇達が引き摺り込まれ押し潰されており、ボニファティウス8世がやって来る暁には、自分もそこに堕ち行くことになるのだと語る(詳細は添付資料を参照)。

1301年にフィレンツェ使節の1人としてダンテはローマ教皇ボニファティウス8世に会うが、ボニファティウス8世により永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。2年後の1303年、フィリップ4世がアナーニ事件を起こし、捕らえられたボニファティウス8世は憤死に至る。この時ダンテはフォルリに滞在しており、翌年に『神曲 地獄篇』を書き始めた。地獄篇は1304~1308年頃に執筆され、地獄篇・煉獄篇・天国篇の3部から成る『神曲』は、印刷本として、1472年に初版が刊行されている〕

余談ながら、聖書の物語に題材を取ったルネッサンス Renaissance(伊:Rinascimento)の絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。何故こうも同じようなテーマが繰返されたのか、何故こうもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた読者もいるでしょう。その理由も、ルネッサンス絵画の作者達が、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握ってきたからです。

教会の腐敗は、それほど酷いものでした。例えば15世紀には、現世の悪事が金銭によって許されるという贖宥状 Indulgentia(しょくゆうじょう、免罪符)まで登場し、その販売利益で太った教会が、更に利権漁りをするという悪循環が繰り返されています。

見るに見かねた宗教者達が立ち上がり、宗教改革運動が起こるのは当然の流れと言わなくてはなりません。宗教改革を唱える信徒が増え、これがピューリタン Puritan(清教徒)の宗教改革を促すのです。

実は、異端審問と宗教改革は切っても切れない関係にあります。教会が何故異端審問を行うのか。その大きな目的は、教会の権威を守り、組織を防衛することです。何故組織を防衛するのか。それは、異端者とされる信徒達が、教会の足元を崩すようなことを主張するからです。

教会が最も金と権力を握った中世は、同時に、教会が最も保身に気を配らなければならない時代でもありました。

〔資料〕InnocentiusⅢ(Lotario dei Conti 1161-1216) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Clemens Ⅴ(Bertrand de Gouth 1264-1314) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%
83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)


〔資料〕Dante Alighieri(Durante di Alighiero degli Alighieri 1265-1321) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%8
3%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA


〔資料〕『神曲 地獄篇 La Divina Commedia, Inferno』 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

http://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/
8777a1cbfe87fb6df3f0901019fd34f1


http://renessance.jugem.jp/?eid=121

〔資料〕ダンテ『神曲 地獄篇』対訳(上) By 藤谷道夫(PDF、全189頁)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani16.pdf

〔資料〕ダンテ『神曲 地獄篇』対訳(下) By 藤谷道夫(PDF、全199頁) ※『神曲 地獄篇』第19歌は14~24頁
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/gaikokubungaku-17-3.pdf

〔資料〕Dante Alighieri著, 壽岳文章 訳『世界文学全集 2 神曲 愛蔵版』(集英社 1976年刊行)より 『神曲 地獄篇』第19歌の対訳
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/dante.html

〔資料〕ダンテ『神曲』本文の基本的解釈の問題点 Ⅰ地獄篇 By 西沢邦輔(PDF、全22頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110006241079.pdf?id=ART0008261080&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw
=&no=1338389720&cp=


〔資料〕晩年のダンテ By 野上素一(PDF、全11頁) ※ボニファティウス8世によるダンテ追放
http://ci.nii.ac.jp/els/110002959102.pdf?id=ART0003314844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_s
w=&no=1338390146&cp=


〔資料〕彼岸の世界構造~ギリシア・ローマ及びキリスト教文学に現われた~ By 野上素一(PDF、全18頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110002959183.pdf?id=ART0003314990&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_
sw=&no=1338390523&cp=


〔資料〕ダンテ神曲ものがたり 1~33(左端に目次あり) - LEGACY OF ASHES 2010年11月17~19日 ※注. このブログが閲覧出来るのは2012年末迄
http://angel.ap.teacup.com
/gamenotatsujin/


〔資料〕Paul Gustave Doré(1832-1888) - Wikipedia ※ポーの『大鴉(The Raven)』、『欽定訳聖書(KJV聖書)』の挿絵も手掛ける
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AC

http://commons.wikimedia.org/wiki/Gustave_Dor%C3%A9

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B4%89

〔資料〕Nicholaus Ⅲ(Giovanni Gaetano Orsini 1216?-1280) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Bonifatius VIII(Benedetto Caetani 1235-1303) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B98%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕アナーニ事件 Outrage of Anagni(1303年) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

〔資料〕贖宥状 Indulgentia - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6

■異端審問の始まり

惨(むご)たらしい拷問、凄まじい虐殺を連想させる中世の異端審問 Inquisitio は、12世紀の南フランスで始まりました。

当時、南フランスでは領主から市民までがローマ法王の権威と距離を置き、自由な文化を育てていました。その地で勢力を伸ばしていたのが、カタリ派 Cathares(英:Cathars)と言われるキリスト教宗派です。

カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの καθαρός, katharos」を意味する言葉です。地域によってはアルビ派 Albigeois(英:Albigenses)ともバタリニ派とも呼ばれていました。カタリ派そのものが消えてしまった為、彼らの思想の詳細は分かりませんが、教会を否定し、何処で祈りを捧げようとも信仰心の篤さとは全く関係が無いとする一派でした。

祈りと教会については、少々説明が必要かも知れません。

ローマンカトリック教会では、祈りは教会で行うものと定めていました。それは典礼に則(のっと)り、司教などの宗教指導者によって執り行うものとされていました。その為、祈りの場としての教会は、ステンドグラスなどの装飾が象徴するように、豪奢(ごうしゃ)なものになっていきました。そして、それが教会の高い権威を象徴し、信者支配を強化する手段にもなりました。

つまり、神への信仰がいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰、金儲け、或いは政治の場に堕してしまったということです。

カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという、問題の本質に早くから気付いていました。西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように1行で片付ける記述が多い為、これは以外に分かりにくい点です。

宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気付いた宗教指導者や信徒達による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。信仰というものの本質を考えれば、祈りを捧げるのに場所は関係ないはずです。そうやって考えていくと、そもそも教会は必要ない、という終点に行き着きます。これが、宗教改革運動が教会を否定したと言われる要点なのです。

ローマンカトリック教会にとって、こうした宗教改革者達の論理は、甚(はなは)だ都合の悪いものでした。祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威が直ちに崩れる危険性が生じます。

まかり間違って、祈りを捧げる場所と信仰の篤さは関係が無いということになれば、これまで営々と執り行ってきた典礼は何の為のものかと批判されるばかりか、信仰の邪魔をしてきたのは協会のほうだという極論さえ成り立つからです。仮に、この論理を振り翳(かざ)す民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力も崩れてしまうことでしょう。

政治と宗教は、時に利用し合い、時に協力し合って、民衆を治め、国家を統治してきました。それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)以来の統治システムでした。

ところが、教会による縛りが強化される中で信仰の原点に返るという論理が生れ、それが精緻に作り上げられた教会システムに蜂の1穴を開けました。信仰の本質を考えれば考えるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。些(いささ)か性急に言えば、それを許すことは、政治と宗教の合作による統治システムの破壊を招くのです。

権力者が黙って見ているはずはありません。

■最初の十字軍は異端討伐隊

さて、1198年にインノケンティウス3世 InnocentiusⅢ(1161-1216、ローマ法王在位:1198~1216)が位に就くと、カタリ派(アルビ派)に対する弾圧を始めます。そして、1209年、遂に南フランスに討伐軍を送ることを決定します。

彼は討伐軍を組織するに当り、異端に対するローマ市民の怒りを巧みに煽りつつ、その一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束しました。何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。軍人1人1人に最も精力的に異端狩りを行わしめる方法は、彼らの私利私欲に火を点けることだと心得ていたのです。

法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍 Croisade des Albigeois(英:Albigensian Crusade、1208~1229)と呼ばれました。初めからキリスト教徒の討伐を目的として組織された、最初の十字軍です〔※十字軍という名称は、一般にはキリスト教による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも使われている〕。異端討伐は、その後20年間にわたって繰り広げられています。

アルビ十字軍が各地で行ったのは、住民の大虐殺でした。カタリ派か否かということは、もはや関係がありませんでした。そもそも掠奪することが目的ですから、殺戮に躊躇(ちゅうちょ)や逡巡(しゅんじゅん)が入り込む余地など無いし、彼らはむしろそれを楽しんでいました。例えば、娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行がその典型でしょう。

いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪であり、同じような蛮行を繰り返したと考えられますが、彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が如何にご都合主義の理由であるかを、アルビ十字軍の例は殊更雄弁に物語ってくれます。何故なら、同じキリスト教徒に対しても、また異端でなかった人々に対しても、変わりのない蛮行が振るわれたからです。

1章で、「キル(kill)」と「マーダー(murder)」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍の例では一体どこが違うと言うのでしょうか。(中略)

13世紀の南フランスで行われた虐殺のエピソードは枚挙に暇がありませんが、ここでその話に分け入ることは止めておきましょう。そして、1229年の戦争終結までに、南フランスの諸都市は全て陥落するのです。

〔資料〕カタリ派 Cathares(英:Cathars) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E6%B4%BE

〔資料〕アルビジョア十字軍 Croisade des Albigeois(英:Albigensian Crusade、1208~1229) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

〔資料〕十字軍の暗黒史:「アルビジョア十字軍」によるカタリ派大虐殺 - THE HEXAGON
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_ha/a6fha100.html

〔資料〕カタリ派について 1~3 - アトリエそうりん 2009年5月14~17日
http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--5dae.html

http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--df47.html

http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--9131.html

〔資料〕Simon de Montfort, 5th Earl of Leicester(1160-1218) - Genealogy
http://www.geni.com/people/Simon-IV-de-Montfort-the-elder-5th-Earl-Leicester/6000000006355720542

http://fr.wikipedia.org/wiki/Simon_IV_de_Montfort

■異端審問官は人類史上最大の思想警察

戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。

果たして、審問の法廷に引き摺り出された人々が本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのか、今となっては分かりません。拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。中には、自らの無実を訴え続ける不屈の人もいました。しかし、そういう人は、拷問の苦痛が耐えられなくなって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っているのです。

これが、残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の号砲だったと言うことが出来ます。そして、カタリ派への異端審問をきっかけに、異端審問制という制度が生れていくのです。

それまで、異端を取り締まる権限は、各地の司教に属していました。司教の権限であれば、地域性や司教本人の考え方に判断が左右され、政治的妥協が入り込む余地も生れます。

また、カタリ派への異端審問がそうであるように、激しく抵抗する異端者を制し、その地域から丸ごと一掃するような芸当が必要になった場合、それを司教の権限だけで遂行するのは無理があります。捜査権、逮捕権といったものを裏付ける武力が必要ですし、その際には識見の問題も生じます。

更に、司法権の問題も存在します。或る者を宗教裁判で異端と認定するまでは教会の権限で行うことが出来ますが、処刑を行う権限は教会にはありません。司法は、統治権に属する問題だからです。

とすると、異端審問を行う場合、調査、逮捕、取り調べ、裁判、刑の実行という全てのプロセスにおいて、その権限と手続きを保証する、より大きな権限の裏付けが必要になるわけです。カタリ派への異端審問の後、この実行体制を制度的に支える仕組み作りが直ちに検討され、それが異端審問制という形で結実していくわけです。

インノケンティウス3世の後を継いだグレゴリウス9世 Gregorius Ⅸ(1140?-1241、ローマ教皇在位:1227~1241)は、法王が直轄する専門の異端審問官を設け、異端審問についての全権を委任する制度を打ち出します。要するに、恒久的な専門組織として創られた異端審問官が、法王から全権を委任され、その職務権限において異端の撲滅に当るということです。

この制度のミソは、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点でしょう。つまり、異端審問制というのは、最初から「その為の全ての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」という前提の下に生み出されているのです。

現代の官僚組織に準(なぞら)えると分かり易いと思いますが、恒久的な専門組織は必ず腐敗の温床になっていきます。そのような組織は、権力に胡坐(あぐら)を構(か)くだけでなく、常に権力と既得権益の拡大を自己目的化していくからです。

しかも、異端審問官が果たす機能は、裁判官のそれのみではありません。現代の司法制度で言えば、彼らは同時に警察であり、検察であり、処刑吏でもありました。白を黒と言い包(くる)めて人を殺す為の、人類史上最大の思想警察と言うべき存在です。

グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るう為の“秘薬”を、そっと注入することも忘れませんでした。異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。

インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた殺戮の加速システムが、ここでも応用されることになりました。しかも、今度は1回の遠征に限定されるものではありません。グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くよう、制度の中に埋め込んだのです。

〔資料〕Gregorius Ⅸ(Ugolino di Conti 1140?-1241) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%
82%A6%E3%82%B99%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)


〔資料〕Google Books - 『教皇グレゴリウス9世教皇令集 Decretales D. Gregorii Papae IX.―suae integritati, una cum glossis restitutae』(全42頁、1582年)
http://books.google.co.jp/books?id=BqcUOLC6_3IC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0
#v=onepage&q&f=false


http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/europian_law_20
06/shiryou/01/07.html


管理人より追加~異端カタリ派

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/357.html

ついでにダンテの神曲がありますが.....原題はLa Divina Commedia 「神聖なる喜劇」

安倍晋三発狂か

http://www.asyura2.com/17/senkyo221/msg/798.html





下は安倍政権の狂犬



西田昌司という男

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%8F%B8

ネオナチ団体代表との写真撮影[編集]

国家社会主義日本労働者党のホームページに同団体代表の男性と西田が写っている写真が掲載されていたことが2014年9月9日に判明した[59]。西田の事務所は、2011年8月31日[59]に男性から取材を受け、写真は取材終了後に男性の求めに応じて撮ったものであると説明した[60]。また、男性は取材時にライターを名乗り、素性を隠していた[59][60]として、団体の主張に賛同して取材を受けたわけではなく[59]、ネオナチ団体であることが予めわかっていれば取材に応じなかった[60]などと釈明した。
これに関し、米ユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部ロサンゼルス)は2014年10月9日、「(写真を見て)首をかしげざるを得ない。こうしたことが起きないよう責任を持って対処する人はいないのか」と強い不満を表明した[61]。

国家社会主義日本労働者党

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E5%85%9A

ウェブサイトに代表と自民党の国会議員である稲田朋美・高市早苗・西田昌司とのツーショット写真が掲載されていたことが2014年(平成26年)9月9日に判明した

以下にその写真がある

http://anchikaluto.blog.jp/archives/51985868.html

もうひとつ~https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/153298



2014/05/07 に公開

ここ日本には、山田一成という国家社会主義者がいる。彼は現在のネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダーとして活動している。今回VICEは、山田氏の一日に密着取材。民族の意思同盟と共にアメリカ大使館へ抗議にいく様子も捉えた。

検察は動かないと聞いている

http://tanakaryusaku.jp/2017/03/00015476




 
 
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