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ユダヤの告白 その10

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2017年 3月15日(水)00時32分25秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://oriharu.net/jADL10.htm

第十章、犯罪シンジケートへのイスラエル囲い込み】
 麻薬カルテル、メデリン

 公にはその操縦母体であるADLと距離を保ちながら、ヴェスコは一九七九年には、北米史上最大の利益をもたらす麻薬ルートをつくり上げていた。

 自動車泥棒とマリファナ密輸のかどでフロリダの刑務所に六年間服役したことがあるコロンビアのチンピラやくざカルロス・レーダー・リバスと組んで、彼はノーマンズ・ケイというバハマの島を購入した。その後三年間、この島はアメリカ向けコロンビア産コカインの主要中継点として利用された。密かにADLシンジケートのために働くヴェスコとアドルフ・ヒトラーに対する尊敬の念を公然と口にするコロンビアのチンピラやくざの共同事業というのは、どう見ても不自然なものであるが、これも戦略的背景があってこそ行われているのである。

 コロンビアにあるレーダーの組織は、メデリン犯罪組織の中心的グループと密接な関係にあった。メデリン・ファミリーはエメラルドの密輸によって財を築いたが、当時はボリビアとペルーでのコカイン生産を大幅に増やすために資金を注ぎ込んでいた。このコカインはコロンビアにある秘密工場で精製され、人目につかない小さな空港からアメリカに運び込まれた。このヴェスコとレーダーの共同事業は、今日いわゆるメデリン・カルテルとして知られるものにまで成長した。

 世間一般にはメデリン・カルテルというコロンビア新興勢力が、北米における従来の麻薬犯罪組織に取って代わったと言われているが、事実は全くその逆である。メイヤー・ランスキーは西半球一帯への麻薬の供給を目論んでいたが、カーター政権時代に銀行に対する規制が緩和された結果、その事業は大きく前進した。パナマ共和国と西インド諸島は一夜にしてダーティー・マネーの新たな逃避先となったが、ランスキーとADLはこういった一連の動きを背後から操るため事前にこの地に移ってきていた。彼らは苦労しながらもこうしたオフショアの資金洗浄の仕組みをつくり上げたおかげで、旧来の組織ではありながらメデリンや他の南米のコカイン・カルテルを牛耳ることができた。コロンビア人の方は有名になったが、ADLの大物たちをはじめとするランスキーの組織は大金を懐にすることに成功した。
 カーター政権内のADL

 ADLの支持者ソル・リノヴィッツはカーター政権のパナマ運河条約交渉特別担当官だった。交渉に際しリノヴィッツには、パナマの銀行にオフショアのダーティー・マネーを受け入れさせるという別の目的があった。彼は私欲のない人間などでは決してなかった。パナマ・ナショナル・バンクの代行機関であるマリーン・ミッドランド銀行の取締役として、リノヴィッツ自身は投機資金であるホット・マネーを操っていた。パナマ運河条約交渉の最中の一九七八年、マリーン・ミッドランド銀行は香港上海銀行に買収された。香港上海銀行は、一九世紀における中国でのアヘン戦争以来、世界でも最も悪名高い麻薬資金の洗浄機関である。

 さらに一九八〇年代にランスキー一味がコカイン取引でボロ儲けをする体制を築き上げていたちょうどその期間、カーター政権の商務長官はADLの最高幹部フィリップ・クラツニックだった。証言に基づいてつくられた公式のADL史『一日にして成らず』によると、クラツニックの商務長官選任に関してカーターのホワイト・ハウスと民主党全国委員長ロバート・シュトラウスが、副大統領ウォルター・モンデールの長年の友であるバートン・ジョセフに直接相談している。当時ADL全米委員長を務めていたこのバートン・ジョセフは、前にも再三述べた通り、以前リクリスとヴェスコを結び付けた人物である。
 カストロと麻薬ビジネス

 アメリカ政府捜査当局は、今日に至るまで、ロバート・ヴェスコがコカイン取引の中心人物であると考えている。一九八一年にアメリカ麻薬取締官の逮捕の手を避けるためコスタリカから逃亡して後、ヴェスコはついにキューバの独裁者フィデル・カストロからハバナに住む許可を獲得した。このカストロの行動は、キューバに一大カジノ帝国を築き上げるという野望を長年持ち続けていたメイヤー・ランスキーを非常に喜ばせたに違いない。ランスキーの長年の友であったファルゲンシオ・バチスタからカストロが政権を奪ったときに、彼のこの夢は打ち砕かれてしまっていたからである。

 このキューバの独裁共産主義者の厚意に応える形で、ヴェスコはレーダーと共に築き上げた麻薬密輸ビジネスの仲間にカストロを加えた。カストロは特にアメリカ人の助けを必要としてはいなかった。一九六〇年代の初頭からすでに、彼はソ連の情報機関の手引により麻薬取引に手を染めていた。コロンビア、ペルー及び中米の共産ゲリラは、麻薬商人との取引により武器購入資金を調達することを知っていた。極左ゲリラはコカインとマリファナの栽培農場を警護したし、自分たちで実際に麻薬を栽培、精製することもあったし、またある場合には麻薬の原料を精製所へ輸送する麻薬商人に武装兵を提供することさえもあった。

 しかし、ヴェスコはカリブ海経由の主要密輸ルートにキューバ人とニカラグア周辺にいた親キューバのサンディニスタを直接参加させた。ヴェスコの仲介によってキューバ人やニカラグア人は、メデリン・カルテルのための燃料補給をはじめとする輸送の中継の仕事を程なく請負うようになった。麻薬をアメリカに注ぎ込むことにより「ヤンキー」の文化的・精神的崩壊を早める一方で、彼らは何百万ドルもの米貨を手にしたのである。
 中米をおおう麻薬汚染

 一九八九年四月一七日、米国司法省はコカイン密輸の容疑により大陪審がロバート・ヴェスコを正式に起訴したと発表した。

 起訴に関する新聞発表の一部は次の通りである。「フロリダ中部地区担当のロバート・W・ジェンツマン検事は、メデリン・カルテルのメンバーによるコロンビアからアメリカへのコカイン密輸に関する捜査の結果、フロリダ州ジャクソンビル大陪審が新たに追加した二人の被告を起訴したと本日発表した。アメリカへのコカイン持込みを企てたことにより起訴されたのはロバート・リー・ヴェスコである。ヴェスコ(五十五歳)は現在キューバに住んでおり、一九七四年から一九八九年にかけ他の三十人の被告と共に行った共同謀議により起訴された。起訴状はヴェスコが以前メデリン・カルテルの首魁の一人であったカルロス・レーダーに対し、一九八四年末頃にコカインを積んだ飛行機のキューバ上空通過の便宜を図ったことを特に起訴理由として挙げている。レーダーは、一九八八年のフロリダ州ジャクソンビルにおいてコカインを密輸した事件で有罪判決を受け、現在終身刑で服役中である。もしヴェスコが有罪ということになれば、最高で終身刑と四百万ドルの罰金ということになる...」「ヴェスコは一九八九年二月に陪審員の答申が出たパブロ・エスコバル・ガヴァリア、ホセ・ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャ、ホルヘ・ヴァスケスをはじめすべてメデリン・カルテルのメンバーからなる三十人の被告に対する訴訟の中で罪に問われた」

 一九八四年五月の起訴状によると、カルロス・レーダー、パブロ・エスコバル・ガヴァリア、ホルヘ・オチョア・ヴァスケス、ファビオ・オチョア・ヴァスケスおよびゴンサロ・ロドリゲス・ガチャらはすべてニカラグア国外で活動していた。メデリン・カルテルの殺し屋によってコロンビアの法務大臣ロドリゴ・ララ・ボニラが暗殺された直後、彼らはニカラグアから逃亡した。彼らメデリン・カルテルの五人の頭目は、サンディニスタの役人に多額の賄賂を贈ってその密輸取引の拠点をこの中米の国に移行していた。そしてすでに千四百キログラムに及ぶコカインをロス・ブラジルズ空軍基地の格納庫の中に隠していた。

 一九八四年十月、レーダーはニカラグアのコーン島からキューバのケイヨー・ラーゴにいるロバート・ヴェスコのもとに手紙を持たせた使いを送り、この昔の密輸仲間にニカラグアからバハマのアンドロス島までコカインを運ぶメデリン・カルテルの飛行機のキューバ領空通過をキューバ当局に働きかけてくれるよう要請した。ヴェスコは数日のうちにキューバ当局から領空飛行の許可を得た。
 イラン・コントラの仲介者名簿

 ワシントンではADLラテン・アメリカ部の幹部ラビ・モートン・ローゼンタールが、サンディニスタ政府の反ユダヤ主義について大統領に状況説明をするためにホワイト・ハウスに招かれた。ADLはニカラグアの反ユダヤのサンディニスタ政権を転覆するための秘密戦争ではレーガン政権に協力することを約束していた。メデリン・カルテルもまたレーガンの政権の支持を約束していたと言われている。反サンディニスタ活動の一環として、メデリン・カルテルの銀行はレーガン政権のこの秘密戦争のために操縦士、航空機と何百万ドルもの現金を密かに用意した。メイヤー・ランスキーと彼のADLの仲間たちは、ずっと前から、それが選挙キャンペーンであろうと戦争であろうと、すべての闘いにおいて賭けのリスクを回避するため常に双方に投資するやり方をとっていた。

 皮肉にもケネス・ビアルキンの最大の顧客ロバート・ヴェスコが、その長年の友であるアラブの億万長者アドナン・カショギから買ったヨットの上でキューバの太陽を浴びてくつろいでいた時、レーガン政権の秘密チーム(オリバー・ノース海軍中佐と引退した空軍のリチャード・セコード将軍)がイランのアヤトラ・ホメイニとニカラグアのコントラ向けの武器の購入に要する数千万ドルの資金を捻出するために、ビアルキンはカショギに代わって、一連の秘密金融取引にあたっていた。手当てした資金の送金のために用意したスイスの秘密銀行口座の管理にはウィラード・ツッカーなるチューリッヒの弁護士があたっていた。ツッカーはウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所のヨーロッパ代表であり、ヴェスコによるIOS社の買収に際してはビアルキンに最も協力した人物だった。

 以上のようなことが起こっていた間、ケネス・ビアルキンは一方ではADLの全米委員会会長として精力的に働いていた。
 アメリカン・エキスプレスの買収

 米国大統領は次々と交替するし、戦争もいつかは終了する。しかし全米犯罪シンジケートをアメリカの政財界の中枢に送り込むというメイヤー・ランスキーの長年の目標は依然変わることはなかった。

 一九八〇年代中頃にはADL会長ケネス・ビアルキンは、新たな段階に入ったランスキーの壮大な計画にすでに取り込まれていた。つまりビアルキンは地下活動から毎年あがる何十億ドルという利益をアメリカに還流させるための金融機構づくりのために働いていたのである。

 ちょうどロバート・ヴェスコがランスキーの財産をカリブ海にあるオフショア・バンキング・ヘイブンに移すのに手を貸したように、ビアルキンは今度はアメリカ企業の大部分が全米犯罪シンジケートの後継者たちの手に落ちるこ
になる一連の劇的な企業買収を画策した。

 ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所に籍を置きながら、ビアルキンはシェアソン・ローブ・ローズやエドモンド・サフラのサフラ・バンクをはじめとする何社かのウィルキー・ファーの顧客をアメリカン・エキスプレス・コーポレーション(アメックス)に合併させた。アメックスとシェアソン合併のすぐ後、連邦捜査当局はクレジット・カード業務とマーチャント・バンギング業務からなるこのコングロマリット企業が、何百万ドルもの小切手を組織犯罪集団に代わって振り出していたことを発見した。ペンシルベニア州のフィラデルフィアとフランスのパリにあるアメリカン・エキスプレスの事務所が米国税関とFBI捜査官による手入れを受け、最高幹部が起訴された。
 麻薬ルートをたどる

 しかしビアルキンの顧客と国際犯罪組織との間にもっと重大な関係があったことは、起訴が言い渡される前にもみ消されてしまった。この事件にはスイスやブラジルの銀行のみならずニューヨークにあるリパブリック・ナショナル・バンクを所有し、ビアルキンの顧客でありまたADLの主要な後援者でもあるエドモンド・サフラも絡んでいた。

 一九八八年に、アメリカの麻薬取締局と税関の職員は、スイスのアメリカ大使館を捜査した結果チューリッヒに本拠を置くシャカーチ・トレーディング・カンパニーが中東とラテン・アメリカの麻薬取引組織網のために資金を洗浄していた事実をつかんだ。ベルンを拠点とする捜査官は、トルコ、ブルガリア経由でレバノンからチューリッヒにハシッシュとアヘンを持ち込むことで手にした金塊や現金が、その後どのようなルートを辿るか追跡した。チューリッヒでは、シャカーチから遣わされた運び屋が届いた現物を受け取った。金塊は売却され、その代金は別に受け取った現金とともにニューヨークにあるリパブリック・ナショナル・バンクの口座に振り込まれた。

 同時に、カリフォルニア州ロサンゼルスに本部を置き、メデリン・カルテルの資金を密かに洗浄している会社の徹底的調査を目的とする「ポーラー・キャップ作戦」に従事する麻薬取締局の操作官が、コカインによる利益もロサンゼルスからリパブリック・ナショナル・バンクの同じ口座に振り込まれていることをつきとめた。見たところ二つの別々の麻薬密輸組織間に、確固としたつながりがあることが判明した。つまりともにシャカーチ・トレーディング・カンパニーという同じ資金洗浄機関を使っていたのである。
 サフラが起訴されていたら

 シャカーチ社の背後関係を調査中の在スイス・アメリカの捜査官は、同社の創立者であるモハメッド・シャカーチが、リパブリック・ナショナル・バンクのオーナーであるエドモンド・サフラとは古くからの友人であり、仕事仲間でもあることをつきとめた。捜査官はさらに、スイスの副大統領でかつ司法大臣でもあるエリザベス・コップの夫がシャカーチ・トレーディング・カンパニーの重役をしており、スイスとアメリカで起訴される前に同社の取締役を辞任するよう警告していた事実をつかんだ。その後に起こったスキャンダルの結果、コップ夫人は辞職した。モハメッド・シャカーチの二人の息子は洗浄行為に関与したかどで懲役刑に処せられた。だが、どういうわけかその理由は今でも謎に包まれたままであるが、起訴されると見られていたエドモンド・サフラは、結局起訴されなかった。

 サフラが起訴されていたとすれば、ウォール街から国連プラザにあるADL本部までが大混乱に陥っていただろう。このシリア生まれのユダヤ人は、一時期アメックスのマーチャント・バンキング部門の筆頭に位置していたこともあるし、ヘンリー・キッシンジャーやビアルキンとおもにアメックスの取締役会にも名を連ねていた。さらにサフラは法律問題に関するパートナーであるビアルキンやイラン・コントラに関与する人物ウィラード・ツッカーと一緒になって、レバノンにいる米国人人質の釈放を巡ってテヘランと秘密交渉する期間、ノースとセコードが率いるチームにジェット便のサービスを提供するための会社を設立していたからである。
 企業買収マニアたち

 ケネス・ビアルキンが画策したアメックスによる大規模な買収は、その後に続くもっと大がかりな企業買収のの単なる先駆にすぎなかった。こうした大規模な買収行為は、アメリカの名門大企業の一部をADLの息のかかった人たちの手に渡すものだった。

 企業買収業務にもっと専念するべくビアルキンは一九八八年一月にウィルキー・ファー法律事務所を辞め、世界最大でかつおそらく最も悪辣な法律事務所スカデン・アープス・スレート・ミーガー・アンド・フロムに移った。スカデン・アープスが公表している資料によると、同法律事務所は現在千人以上の弁護士と二千人以上の事務職員、補助職員を抱え、アメリカ全土、極東およびヨーロッパに事務所を有している。一九八九年中に、同事務所が顧客に請求した報酬総額は四億ドルを抱えている。それほどの収益を手にしていながら、スカデン・アープスはこの一世紀最大とまでは言わずともこの十年間で最大のホワイト・カラー犯罪に関与してきた。

 スカデン・アープスは企業買収を得意とする。この事務所の共同設立者である弁護士ジョセフ・フロムは「レバレッジド・バイアウト(LBO、主として借入金による買収)」「ホスタル・テイクオーバー(敵対的買収)」あるいは「コーポレート・レイド(企業乗取り)」といった名で呼ばれる技法を開発したことで広く知られている。スカデン・アープスの顧客中最大の買収マニアで一九八五年から一九八八年にかけてアメリカ企業を総なめにしたのは、ジャンク・ボンドを編み出したマイケル・ミルケンの会社ドレクセル・バーナム・ランベールなる証券会社であった。

 ミルケンは彼と親しかった同僚のアイヴァン・ボウスキーと組んで、株式の買占め資金を高利回りの「ジャンク・ボンド」の発行で賄いながら、米国内企業を相手とする一連の劇的な敵対的企業買収を一九八五年に開始した。

 従来の見方に立つなら、こうしたやり方はいつかは破綻せざるを得ないものだ。米国、カナダ全土の一連のデパートを買収したキャンポー・コーポレーションの場合も、借金した買収資金の利子を払うのに、買収した会社から入る現金では足りないという事態が起こった。

 ほどなくして連邦捜査当局が、こうした企業買収がインサイダー情報に基づく株式買占めによって行われていることを突き止めた結果、ドレクセル・バーナム社、ミルケン、ボウスキーにとって事態は最悪のものとなった。彼らは、結局のところ買収した企業に全部ツケを回すことによって、株式の買占めで大きな利益を懐にすることができた。ボウスキー、ミルケンそしてドレクセル社のすべてが米国司法省により起訴された。
 ドレクセルのジャンク・ボンド

 しかしその間に、海外に蓄積した利益を「ジャンク・ボンド」のメカニズムを通してアメリカに還流させる見えざる仕組みが、かつてランスキーの組織のために金融面でこっそりと働いていた人たちにより考案された。一九八〇年代半ばから終わりにかけて企業乗取りが最も盛んだった頃、ジャンク・ボンドに投資された資金の約七割はドレクセル・バーナム・ランベールによるものだった。同社がどこからその資金を手に入れたかを尋ねる者はなかった。そしてドレクセルも同社が抱えるこうした特別の投資家の正体を明かすことはなかった。

 ドレクセルのジャンク・ボンドの大手顧客は、ウィルキー・ファー事務所時代からのビアルキンの顧客で、バーニー・コーンフェルドにならって英国ロスチャイルドのパートナーとなったリライアンス・グループのサウル・スタインバーグ、前々からランスキーの組織との関係を疑われていたオハイオ州シンシナティに本拠を置く抵当権保証業者のカール・リンドナー、それにもう一人ずっと以前からランスキーとは仕事仲間だったビクター・ポズナーといった人たちであった。

 ボウスキーとミルケンが連邦刑務所入りしたのに対し、乗取り策を練りインサイダー情報のやりとりをコントロールするという最高の立場にいたスカデン・アープス事務所の弁護士たちが起訴されることはなかった。
 RJRナビスコ買収劇

 ADLの会長ビアルキンはうまく立ち回ってきた。 ADLといういわゆる福祉事業に携わる他に、彼はニューヨーク証券取引所理事会の法律顧問委員会の一員でもあった。また米国弁護士協会の会社・銀行・商法委員会の議長でもあった。またそれ以前は同弁護士協会の連邦規制証券委員会の議長であった。レーガン政権時代には、彼は連邦政府の規制全体の研究と見直しを担当する大統領諮問委員会の委員に任命された。ビアルキンをこうした委員のメンバーにしたのがボイデン・グレイで、彼は当時ブッシュ副大統領の主席法律顧問だった。今日、グレイは大統領になったブッシュの主席法律顧問である。

 グレイはR・J・レイノルズ・タバコ・カンパニーの富を引き継いだ人物である。この会社はナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)と合併した後大きく成長した。ナビスコはADLが設立された頃から同団体と関係があった。一九八八年、このRJRナビスコは米国史上最大の企業買収の標的となった。最終的な買収金額は二百五十億ドルを超えた。スカデン・アープス法律事務所がコールバーグ・クラヴィス・ロバーツ社側の代理人として、この案件の一部始終に関与した。

 スカデン・アープスにいる「友人」からのインサイダー情報で一儲けを企んだ内輪の人たちが手にした利益は、とてつもない額に上ったようだ。 RJRナビスコとクラヴィスが最初に接触して以来、最後の株式移動が完了するまで十四ヵ月かかったが、その間RJR株の値段は四十一ドルの安値から高値百八ドルまで三倍近い暴騰ぶりを見せたからである。

 イスラエルの乗取り

 米国情報部のイスラエル政治研究の専門家によると、RJRナビスコ買収から得た利益ばかりでなく、スカデン・アープスやドレクセル・バーナム、マイケル・ミルケン、アイヴァン・ボウスキーといった人たちが手がけたLBOで手に入った利益のかなりの部分が、イスラエルの次期対アラブ戦争時用の軍資金に充てられた。

 このイスラエル担当の元情報部員によると、この不正資金はアリエル・シャロンを中心にした極めて好戦的なグループが一九八二年から密かに溜め込み始めたもので、今ではその額は二百五十億ドルを超えているという。その資金はおおむね非合法活動から手にしたものである。スカデン・アープス法律事務所がつくりあげたLBOによって手にした資金にはじまり、麻薬取引や武器の密輸、技術の盗用などもっと直接的な犯罪行為によって得た資金に至るまで、様々な不正資金からなっている。

 このシャロンが後ろ盾になった自称「イスラエル・マフィア」も、実際のところは北米全国犯罪シンジケートに属する組織の一つだった。その頃には、この犯罪シンジケートは、ケネス・ビアルキン、エドガー・ブロンフマン、メ
 シュラム・リクリス、リッチマン兄弟、エドモンド・サフラ、ヘンリー・キッシンジャーといったADL幹部たちの手で牛耳られていた。

 リクリスはADLのランスキー信奉者たちによって悪漢ロバート・ヴェスコとADLの間のパイプ役に利用されたが、その時と同様一九七〇年代初頭には再び、ADLのパトロンたちからシャロン将軍のために仕事をするよう命じられた。シャロンは冷酷で、堕落しており、異常なまでの野心の持ち主だった。イスラエルの王になれるのなら、悪魔とでも喜んで手を結ぶほどの人物だった。リクリスは資金面でシャロンを支えた。彼はシャロンのためにネゲブ砂漠にある農場を購入したが、この農場がイスラエルを完全に手中にする陰謀の本部になった。

 リクリスは、一時期イギリス警察のスパイだったことから、ユダヤ地下組織からは命を狙われた時もあった。その彼がシャロンと関係するようになった時、その所属する企業の中で中心的な位置を占めるのは、ラピッド・アメリカ・コーポレーションという通信器材リースとニューヨークにある一連の高価なオフィス・ビルを所有する業務を行う会社であった。リクリスの側近の一人、アリエー・ジェンジャーがシャロン将軍とリクリスの間をとりもった。彼は一九七〇年代末におけるリクード党のメナヒム・ベギン内閣で、シャロンがイスラエル国防相になった時、イスラエルに呼ばれその副官として武器の輸出入一切を任せられることになった。
 世界犯罪シンジケート本部に

 メイヤー・ランスキー自身でないにしてもその後継者たちによって、シャロンはユダヤ・シンジケートによるイスラエル経済および同国政府機関乗取り工作の采配を命じられていた。

 イスラエルをシンジケートの本拠地に仕立て上げるには、それを実行する戦士が必要であることをランスキーは知っていた。一九六〇年代後半、彼は長年の仕事仲間だったジョー(別名ドック)・ストラッチャーをイスラエルに送り込んだ。ストラッチャーの使命はユダヤ国家の中に永住し、メイヤー・ランスキー自身がイスラエルに移り住めるための道を拓くことだった。「帰還法」の下では、イスラエルへ移住したすべてのアメリカのユダヤ人は直ちにイスラエル市民となることができた。ストラッチャーはイスラエルの右派の有力政治家に、メイヤー・ランスキーは個人的にイスラエルの七億五千万ドル投資する用意があり、それでリゾート・ホテル、カジノその他レジャー施設からなる複合施設を建設すればこの国を「第二のリビエラ(フランスからイタリアにまたがる地中海岸にある風光明媚な避寒地)」に変えることができると説いて回った。

 イスラエルにとって幸いなことに、国防軍とそれに属する情報部を中心とした愛国者グループがこのランスキーの申し出を拒んだ。彼らはランスキーが代理人を通してすでにイスラエルに入り込み、組織犯罪機構をつくり上げている十分な証拠を集め、その結果全米犯罪シンジケートの頭目がイスラエル市民権を取得するのを阻止した。一九七〇年、ランスキーは到着後まもなくイスラエルからの国外退去を命じられた。アメリカ政府はイスラエル政府に対し、米国人の引き渡しに協力しない限り、同国が喉から手が出るほど欲しがっているジェット戦闘機の提供を停止すると脅した。

 イスラエルを世界の組織犯罪の本拠地にするというランスキーの願望は崩れたが、計画自体はその後も存続していた。彼にはすでに願望達成の目処はついていた。

 全米犯罪シンジケートがイスラエルで目をつけたのは、ユダヤ・ギャングの有する密輸能力がイスラエルの独立戦争に決定的な役割を果たしていたという事実である。ランスキー・シンジケートの指導者たちは第二次世界大戦直後、パレスチナにユダヤ国家を建設するユダヤ地下闘争のために武器の密輸に手を貸したが、そのようなシンジケートの助けがなければ、イスラエル国家は存在していなかっただろう。
 エルサレムの「億万長者会議」

 イスラエルの元大蔵大臣で一九六八年に同国のオフショア銀行ネットワークをつくり上げたピンチャス・サピアは、エルサレムのいわゆる「億万長者会議」の発起人である。その会議の表向きの目的は、アメリカの裕福なユダヤ人に対し急速に発展しつつあったイスラエルのハイテク産業への投資を勧誘することだった。しかしその参加者のほとんど全員がメイヤー・ランスキーの仲間であった事実は、この組織の実態が何であったかを示している。

 出席者の中には次のような人物がいた。ランスキーの仕事仲間として知られているルイス・ボイヤーとサム・ロスバーグの二人。かつてのユダヤ・ギャングの一人で、戦時中に行っていた金属のスクラップ事業をマテリアル・サービシーズ・コーポレーションなる一大企業にまで発展させたヘンリー・クラウン。ミシガン州デトロイトでウイスキーを密売していた禁酒法時代のパープル・ギャングの元頭目で、後にユナイテッド・フルーツ・カンパニーを乗取ったマックス・フィッシャー。かつてカナダのサム・ブロンフマン・ギャングとして知られていたブロンフマン・ファミリーの仕事仲間レイ・ウルフェ。イスラエルの武器密輸業者の大物で同国情報部モサドの最高幹部であるショール・アイゼンバーグ。イスラエル・ディスカウント・バンクの頭取でイスラエル・マフィアの影の支配者と広く考えられているラファエル・ルカナティ。そしてADLの最高幹部で、アメリカン・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨークの資金洗浄業務をアイゼンバーグと一緒に行っていたフィリップ・クラツニック。

 海外の犯罪組織によるイスラエル経済乗取り計画には皮肉にも「プロジェクト・インデペンデンス(独立計画)」という新しい名が与えられた。

 この会議の参加者が約束したイスラエル「投資」を一本にまとめるためにイスラエル・コーポレーションと呼ばれる国有企業が設立された。イスラエル・コーポレーションの銀行取引の面倒を見たのは、他ならぬタイバー・ローゼンバ-ムだった。彼はスイスを本拠とする国際信用銀行の頭取であり、かつてモサドの出先機関の責任者だった人物である。エルサレムの「億万長者会議クラブ」会議が開かれる以前にローゼンバ-ムはすでにコーンフェルド、ランスキーおよびランスキーの側近のアルヴィン・マルニックとつながっていた。このマルニックのカリブ海を本拠とする世界商業銀行は、ランスキーの利益のうち一千万ドルをローゼンバ-ムのスイスにある銀行にすでに移していた。

 マルニックとローゼンバ-ムは各々の銀行間の操作により、ADL最高幹部であるフィリップ・クラツニックのアメリカン・バンク・アンド・トラスト・カンパニーの中に、ニューヨークに本部を置く関連会社をすでに設立していた。クラツニックは「億万長者会議クラブ」設立委員の一人であった。
 パレスチナ人追放の理由

 ランスキー一味はストラッチャーの指揮の下、エルサレムのシェラトン・ホテルにその活動拠点を置いた。そしてストラッチャーはすぐさま工作を開始し、シンジケートの資金をイスラエルの国家宗教党役員のハイム・バソックを通して同党に注ぎ込んだのをはじめ、ラビ・メナヒム・ポルシェの率いる入植促進組織アグダス・イスラエルにも注ぎ始めた。この国家宗教党とアグダス・イスラエルは、ともにメナヒム・ベギン率いる右派のルートの活動と非常に近い関係にあった。ランスキーの資金はグッシュ・エムニーム(イスラエルの戦闘的な宗教的極右組織)の活動にも投じられた。グッシュ・エムニームは、一九六七年の六日戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に不法なやり方でユダヤ人入植地を拡げようとしていた。

 ランスキーの対イスラエル作戦は、次第にヨルダン川西岸とガザにおけるユダヤ人入植地拡大計画に収斂されるようになってきた。一九七七年にベギンのリクードが政権を獲得したとき、この計画は実施に移された。

 アリエル・シャロン将軍は、彼の資金面での後援者であるメシュラム・リクリスの勧めでクネセット(イスラエル議会)に立候補するため一九七五年にイスラエル国防軍から離れた。ベギンの下で農業大臣に任命されるや、シャロンはその地位を利用してユダヤ人入植地の急拡大に向け直ちに活動を開始した。この結果、一九八一年までには約三万人のユダヤ人が占領地へ移住したと推測される。

 一九八一年時点では、シャロンは国防相に任命されていた。イスラエル軍の高官が語ったところによると、彼は国防相在職中にキプロスでソ連の軍高官と密かに接触を開始した。その目的は向こう十年間で約百五十万人に上るソ連在住ユダヤ人をイスラエルに移住させることについて交渉することだった。シャロンの計画(実はランスキーの本来の計画を基にしたもの)によれば、これら大量のユダヤ人は、ヨルダン川西岸とガザに入植することになっていた。この計画は「ランドスキャム(土地詐取)」と名付けられた。

 ランドスキャム計画はアメリカのADLばかりか、ロンドンにおけるフリーメーソンの有力グループの一部からも熱狂的な支持を受けた。ロンドンのフリーメーソンは、シオニズムなる宗教を後援するスコティシュ・ライトの伝統を引き継いでいた。
 「占領地併合会議」のメンバーたち

 一九八二年初春のイスラエルによるレバノン侵攻の直前、この計画を実行に移すための一連の秘密会議が開催された。

 最初の会議はアリエル・シャロンが所有するネゲブ砂漠の農場で行われた。先に述べた通りこの農場は、ADLの表面要因メシュラム・リクリスがシャロンのために買い与えたものである。この会議は極めて異例な顔ぶれからなり立っていた。目撃者の証言やマスコミの伝えるところによると、出席者は次の通りである。☆ アリエル・シャロン☆ ヘンリー・A・キッシンジャー。当時においてはその私的国際コンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエイツの社長。☆ メジャー・ルイス・モーティマー・ブルームフィールド。ブロンフマン一家の利権を代表してこの会議に出席したモントリオールの弁護士。第二次世界大戦中は極秘の英国特殊工作部隊(SOE)のスパイで、戦後設立された北米におけるイギリスの情報工作用出先機関ブリティッシュ・アメリカン・カナディアン・コーポレーションのパートナー。彼は一九五〇年代後半にパーミンデックス(「パーマネント・インダストリアル・エクスポジション(常設産業博覧会)」)・コーポレーションを設立。同社はジョン・F・ケネディ大統領暗殺と、シャルル・ドゴール仏大統領暗殺未遂の両事件に関与したとして非難された。彼はエドガー・ブロンフマンの弁護士であるほか、国際信用銀行のオーナーであるタイバー・ローゼンバームとも親しい関係にあり、またパーミンデックス社の取締役会を通してユダヤ・ギャングの弁護士ロイ・コーンともつながっていた。☆ ラフィ・アイタン。モサドの生え抜き幹部で、シャロンの長年にわたる政治的盟友。彼はベギン政権では二つのポストに就いた。まず首相直属の対テロ局の局長、同局はイスラエル国家の「敵」であるアラブ人とパレスチナ人に対する秘密工作を担当する選り抜きの工作部隊だった。彼はまた、国防省に属し技術情報の収集を任務とするスパイ部隊LAKAMの首脳でもあった。イスラエル・ソ連のスパイ、ジョナサン・ジェイ・ポラードを使ったのがこのLAKAMである。☆ レハベアム・ゼイエビ将軍。元イスラエル国防軍将校。一九七七年に退役し、エクアドル政府のテロリスト対策のための「民間人」コンサルタントに就任した。彼が南米へ赴任したのは、シャロンとイスラエル・マフィアの代理人として行動するという目的を持ったものであった。ゼイエビは一九八〇年のボリビアにおける軍事クーデターに関与したが、この政変により悪名高い「コカイン大佐」が権力の座についた結果、彼らの指導の下でボリビアは世界でも有数のコカイン生産国となり、メデリン・カルテルのビジネス・パートナーともなった。この会議が開かれる前に彼は正式に呼び戻され、ベギン政権の法務大臣顧問に就任していた。しかしその立場にもかかわらず、彼はあの広く取り沙汰された一九八一年のシャロンの中米歴訪に同行した。そしてこの訪問の折、この二人の元イスラエル将軍は、ラテン・アメリカの麻薬密輸組織と手を組んで周到な武器密輸ネットワークを築き上げた。☆ アリエー・ジェンジャー。リクリスのラピッド・アメリカ・コーポレーションの元副社長。後イスラエル国防軍でシャロンの副官となり、海外への武器売却を担当する。彼はその職務の関係から、ゼイエビとシャロンがカリブ海全域に配置した武器密輸人との連絡係を務めている。☆ エリ・ランドウ。イスラエルのジャーナリストでシャロンの右腕。
 今日頻発する悲劇の背景

 二回目の会議は一九八二年十月十五日に、当時、シャロン国防相指揮下のイスラエル軍に占領されていたレバノンのシューフ山近くで行われた。シャロン、レバノンのファランヘ党の指導者カミーレ・シャムーン、オーストラリアの新聞王ルパート・マードック、それに加え数名のイスラエル及びレバノンの政府役人と作家のウア・ダンが出席した。ダンはメイヤー・ランスキーを賞賛する伝記を書いている。

 ランドスキャム計画への投資勧誘を目的とする第三回の会議は、一九八二年十一月十五日にロンドンで開かれた。シャロン及びヘンリー・キッシンジャーの他に出席者として、当時キッシンジャー・アソシエイツ社で彼のパートナーだったピーター・キャリントン卿、ケネディ政権時代の駐米英国大使で、キャリントンとは親しい仲のハーレック卿(サー・デービッド・オームスビーゴア)、元米国国務長官アレクサンダー・ヘイグ、英国下院議員ジュリアン・アメリー、イギリスのシオニストのサー・エドムンド・ペック、英国情報部の元中東局長で現在MI-6の幹部ニコラス・エリオットが顔を揃えた。

 正体を隠して働く手先の人間や組織をいろいろ使いながら、一連のランドスキャム計画会議の参加者たちは、占領地内のアラブ人の土地やエルサレム旧市街中のイスラム・キリスト教徒用特別割当地域の買収を始めた。

 ランドスキャム計画の最終段階に向けての段取りは、一九八〇年代末までにはすべて完了した。この最終段階においてはソ連在住ユダヤ人がイスラエルへ大量移住し、占領地に住む全アラブ人の最終的な大量追い出しが行われる。

 この段階でランスキー子飼いのADLの別の一員が、この計画の遂行上極めて重要な役割を引き受けることになった。これはちょうど一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、ADL全米委員会会長であるケネス・ビアルキンが、犯罪によって手にした何十億ドルもの利益をアメリカの企業や銀行業、不動産分野に再投資する工作を統括する役目を果たしたのと全く同じである。

 世界ユダヤ人会議会長、ブロンフマンの正体

 その人物とは、エドガー・ブロンフマン、禁酒法時代の酒の密売人サム・ブロンフマンの息子で、弟のチャールズや数人のいとこたちとともにシーグラム・ウイスキー帝国を引き継いだ人物である。ブロンフマン一族は赤貧からいかがわしい商売に手を染め、その結果大金持ちとなり、社会的地位も手にするというギャングの成功物語を地で行った。

 エドガー・ブロンフマンの祖父エチェルは、一九八九年にルーマニアのベッサラビア地方から、事実上バロン・ド・ヒルシュ財団の年期奉公人としてカナダにやって来たが、その時すでに同財団はブナイ・ブリスと緊密なつながりがあった。

 初代ブロンフマン(イーディシュ語で文字通り酒屋の意)は北米の地を踏むと直ちにいかがわしい商売を手がけ、何軒もの売春宿を経営するようになった。一九一五年にカナダで禁酒法が施行されるとブロンフマンの売春宿は不法ナイトクラブとなり、そこで国境を越えてアメリカから密輸入されたウイスキーが売られた。

 アメリカの禁酒法時代が始まるとともに、カナダで実験的に実施された禁酒法は廃止された。エチェル・ブロンフマンと彼の息子のエイブとサムは、違法ウイスキーと麻薬の取引きにおいて、買い手から売り手側に立場が逆転していた。一九一六年にエイブとサム・ブロンフマンは、一族が密売と売春で手にした利益をピュア・ドラッグ・カンパニーの獲得に投じた。ある報告によると、この会社は極東からカナダ向けに麻薬の輸入を開始した。アメリカの禁酒法時代の開始とともに、このピュア・ドラッグ社の生産設備がアメリカ市場向け安物ウイスキーの大量生産に使われたのはまちがいない。ブロンフマン一族は禁酒法時代を通じて、メイヤー・ランスキーの全米犯罪シンジケート向けウイスキーの有力供給者だった。この一族は「チキンコック」(彼らのウイスキーに与えられた名前)を売ることによって富を獲得した。アメリカ政府の記録によると、一九二〇年から一九三〇年の間に三万四千人以上の米国人が、ブロンフマンの醸造したこの酒を飲んでアルコール中毒により死亡した。

 一九二六年、カナダ警察が「ブロンフマン・ギャング」を取り締まる動きに出た時、エチェルの四人の息子たちはアトラス・シッピング・カンパニーを設立し、彼らのウイスキーをカリブ海に送り出した。そのウイスキーはそこで、ラインフェルド・シンジケートや「ユダヤ海軍」、その他のランスキー・シンジケートの息のかかった酒の密輸人が所有する船に積み替えられた。

 禁酒法時代が終わる頃、サム・ブロンフマンは過去に溯って数百万ドルの税金を支払うことを米国財務省と交渉した。その「延滞」税額は一族が禁酒法の下でウイスキーと麻薬密売から得た訃報利益のほんの一部にすぎなかった。そしてこの僅かな納税により、ブロンフマン一族は一夜にして、カナダにおけるシオニストのエスタブリッシュメントの名士に変身することにも成功したのである。
 慈善団体を装う外面

 一九三四年にサム・ブロンフマンはカナダ全国ユダヤ人民救済委員会の会長に就任した。一九三九年には彼はユダヤ植民地化委員会の理事に任命された。この委員会は元のバロン・ド・ヒルシュ基金で、ちょうど五十年前に自分の父親がこの基金から得た渡航費でカナダに渡ってきたものだった。第二次世界大戦が終わった時、サム・ブロンフマンはイスラエル・ユダヤ更正全国協議会を設立した。もっともその名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチナのユダヤ地下組織ハガナ向けに武器を密輸することだった。

 この頃までにブロンフマンの息子たちは初代ブロンフマンが密輸で得た資産を「合法的」ビジネスに移しかえていたが、それがシーグラムズ・ディスティラーズ・オブ・カナダである。次の世代になってこの一族は結婚により、北米随一のシオニスト・エスタブリッシュメントにのし上がった。エドガー・ブロンフマンはアン・ローブとの結婚により、直ちにウォール街のローブ・ローズの利権と結び付くことになった。フィリス・ブロンフマンがジーン・ランバートと結婚したことで、ブロンフマン一族は突如ロスチャイルド家の一員となった。ランバート男爵はロスチャイルド一族のベルギーの分家の一員だった。後にケネス・ビアルキンによる企業買収で中心的役割を果たしたドレクセル・バーナム・ランベールなるニューヨークの投資会社はブロンフマンの支配下に吸収された。

 ブロンフマン一族が赤貧から闇商売に手を出し、富を手にし、果ては社会的地位をも獲得するという途を着実に進んでいた間においても、一族の中枢を占める者の中には古いシンジケートとの結び付きを完全に断ち切ることのできなかった者が何人かいた。

 一九七二年、モントリオール犯罪委員会はエドガー・ブロンフマンの甥、ミッチェル・ブロンフマンをモントリオールの大物ギャング、ウィリー・オブロントの犯罪仲間と認定する報告書を提出した。この報告書によるとオブロントとミッチェル・ブロンフマンの関係は「不法活動にまで及び、彼らは相互にあるいは共同で犯罪行為に関与していた....、お互いの間で特別に便宜を図り合い、これによって高利貸し、ギャンブル、不法賭博、有価証券の絡む取引、脱税および買収等の事柄で互いに利益を獲得した」とされている。一九七〇年代半ば、オブロントとミッチェル・ブロンフマンのもう一人の仲間、サム・ローゼンはともに麻薬資金洗浄行為の罪で投獄された。オブロントとブロンフマンの共同事業の一つである北マイアミのナイトクラブ、パゴダ・ノースがニューヨークのマフィアの頭目、ビトー・ジェノベーゼがしばしば訪れるシンジケートの根城であることを、アメリカの取締当局は嗅ぎつけていた。

 世界ユダヤ人会議の会長、ADLの名誉副会長、そしてシーグラム・インダストリーズ社の会長であるエドガー・ブロンフマンは、慈善団体を装ったADLの資金集めの中心的存在であるノースイースト・アピールなる組織を通じていろいろの活動をすることにより、スカデン・アープス法律事務所が持っている企業買収ノウハウから多大の利益を手にしたいま一人の人物でもある。
 対米不動産投資の仲介者

 一九八〇年代の中頃、アメリカ企業としては最も古くかつ最大の企業の一つであるデュポン・ケミカル・コーポレーションの取締役会長だったアービング・シャピロは、同社を辞めてスカデン・アープス法律事務所のパートナーとなった。彼がこの法律事務所に入ってまもなく、エドガー・ブロンフマンが所有するシーグラム・コーポレーションがデュポン社株の買い占めを始め、ついに同社の支配圏を手に入れた。ビジネス円卓会議の議長在職期間中ブロンフマンとは親しく一緒に仕事をした仲のシャピロは、ブロンフマンのデュポン社乗取りに当たっては内輪の人間として中心的な役割を果たしたと言われている。

 ついでながら、デュポンからスカデン・アープスへ移って後、アービング・シャピロは自分の息子アイザックも同事務所へ引っ張った。アイザックは自分が前の事務所ブルーブラッド・ミルバンク・ハドレー・ツイード・アンド・マッコイに在籍していたときの顧客だった日本の対米不動産投資家中でも大手の顧客を手土産に移ってきた。

 指導的地位にあるシオニストの慈善家でかつ億万長者の会社経営者という一連の威光ある肩書を武器として、エドガー・ブロンフマンはメイヤー・ランスキーの二つ目の夢、すなわちシンジケートによるイスラエルの乗取りを実現すべく組織的な活動を一九八〇年代中頃に開始した。
 東欧諸国の実態は何か

 ソ連政府にユダヤ人移民の出国を促し、かつロシアのユダヤ人に対しイスラエル入国を保証することのできる人物を一人ADL幹部の中から探すとすれば、エドガー・ブロンフマンをおいて他に人はいない。

 自分の会社のシーグラムズ製品の独占販売権を通して、エドガーとその弟チャールズは、ドイツ社会主義統一党(共産党)エーリッヒ・ホーネッカーをはじめ共産世界の最有力者の何人かと友好関係にあった。ブロンフマン一族はシーグラムズの西ドイツ支社を通じて、東ドイツの共産党に対しシーグラムズの酒を無制限に供給することにした。こうして提供された酒は党の最高幹部たちに無料で分け与えられた。一九八六年、東ベルリンにいるブロンフマンの密使はクラウス・ギジと親密な関係を結んだ。彼は東ドイツの宗教問題担当大臣で、ホーネッカー書記長の後継者となったグレゴール・ギジの父である。ギジ父子はユダヤ人である。

 一九八八年に、エドガー・ブロンフマンはホーネッカーと東ドイツの共産党幹部ヘルマン・アクセンと会うために自らが東ベルリンに赴いた。その訪問期間中にブロンフマンはホーネッカーのワシントン公式訪問の手配をすることを約束した。その一年後、東ドイツでホーネッカーの追放と共産党独裁政権の転覆という事態が起こる直前、ブロンフマンは東独政府から民間人として最高の賞である「人民友好金メダル」を授与された。
 オーストリア大統領への中傷

 一九八六年十一月のレイキャビクにおけるソ連の指導者ゴルバチョフと米国大統領レーガンとの首脳会談以後冷戦が急速に終結したことに伴い、ブロンフマンは東ドイツへの働きかけと平行してモスクワに対する意欲的な外交活動を開始した。

 一九八九年一月二十三日、エドガー・ブロンフマンはニューヨークにある自分のペントハウスでソ連に在住するユダヤ人の移住を計画するための秘密会議を開いた。この会合に出席したのはアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド穀物カルテルの会長デーン・アンドレアスで、彼はウォール・ストリート・ジャーナルで西側におけるゴルバチョフの「親友」と称された。ブロンフマンの計画は単純明快なものだった。すなわちアメリカがソ連に対し緊急に必要とされる穀物の供給保証を行う見返りとして、モスクワはソ連に居住するユダヤ人のイスラエル移住を許可するというものだった。ソ連のユダヤ人が確実に西側に到着でき、その後アメリカへ行くかあるいはヨーロッパに留まることができるようにするために、ブロンフマンの世界ユダヤ人会議はオーストリアの大統領カール・ワルトハイムに対する中傷キャンペーンをすでに開始していた。それはワルトハイムに東ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関与した戦時中のナチ協力者としての汚名を着せようとするものだった。伝えられるところでは、ブロンフマンのキャンペーンはソ連のKGBその他のソ連ブロックの秘密警察機関が提供したでっち上げの証拠資料に基づくものであった。この醜聞事件は米墺関係に大きな亀裂をもたらした。結果的に、以前は西側へ逃亡する在ソユダヤ人の主たる通過地点だったオーストリアはこれら移住者を締め出した。これに代わってハンガリーとポーランド経由のルートが開かれたが、それはイスラエルへの移住のみが許されるという条件付きのものだった。

 ブロンフマンの計画は「穀物とユダヤ人」の取引きを行うという皮肉なものだった。彼の一族は「ブロンフマン・ギャング」と呼ばれ続けていた。ところがこのADLの一員は、彼個人としてはメイヤー・ランスキーに対する一族の長年にわたる負債を返済しつつあると同時に、この犯罪王の二つ目の壮大な理想であったイスラエルの乗取りを実現しつつあるのだと考えていた。




 
 
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