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古代日本とヘブライ一掃政策

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月 8日(水)11時37分13秒
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ロスチャイルドが異常な関心を寄せる神代文字

http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/720.html

http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/mokuji.htm

歴史上における大ユダ(大倭)の消滅

ヘブライ一掃政策をどう理解したらよいか?
このサイトの読者の多くは日本人だと思いますが、当然、読者には祖先があります。
そして、聖徳太子が存命していた頃の時代(この時には太子はまだ聖徳太子とは呼ばれていませんでした)には、筆者も含めて読者の祖先は、この日本列島でヘブライ語を喋っていたということであります。太子も当然ヘブライ語です。
即ち、大ユダは、ヘブライ語を話す国であったのです。その国では、ヤーウェ神が信奉されていました。
そこで或る日、聖徳太子にヤーウェ神が懸かり、万葉集のヘブライ語修復訳の項で述べたように、太子に霊示を出し、新しい国を建国することを宣言されたのであります。
自分達の太古の祖先から信奉されていた神であるが故に、当時の民達は皆、その神の方針に従わざるを得ませんでした。その神の主旨とは、ヘブライ人の国を消滅してしまうことにありました。
当時、世界に散ったヘブライ人の中で、大ユダは唯一残ったヘブライの国でした。
「隋書倭国伝」には、「卑弥理国」とありますが、卑弥理とは、ヒブリに充てた言葉でヘブライ人という意味です。
卑弥理国とは、ヘブライ人の国という意味です。

そして、新しい国では新しい言葉を使うことも決められたのであります。
太子はヤーウェ神からの霊示を公開の場で行うこともあったでしょうが、多くの霊示が筆記の形で出されたことにより、文書は大量になりました。
別項で説明したように、その大量のヘブライ文の母音を変え、そして、五十音に基づく平仮名、片仮名を作り、「天地の歌」「伊呂波歌」によって若干の語彙造語も行われました。
太子は全ての仕事を成し終える前に亡くなられ、その仕事に関る文書の類い一切は、生前の太子を心から慕っていた人達によって分散して持ち帰られ、保管されることになったのです。
古来からの、平仮名、片仮名は太子が作った、「天地の歌」を含む「大為爾」も、「伊呂波歌」の載った「金光明最勝王経音義」も、法隆寺から出たという伝承通りでありましょう。
太子没約百年後、日本最古の文書「古事記」と「日本書紀」が編纂されますが、まだ日本語の造語は充分でなく、それらは「歌謡」を除いては、すべて漢文で記されたのです。
これら新しい国の国威称揚の為に編纂された文書には、古来からの言い伝えに従って、大ユダに関するヘブライのことは一切伏せられました。文書の上からは、大和の国、日本国の歴史の始まりは大ユダの歴史が始まった時期にまで引き上げられ、大和の国は、太古から続いてきたことになったのです。
即ち、記紀からは、1000年以上にも亘って続いた大ユダの歴史は消滅することになったのです。この事から、大ユダの歴史は私達日本人の現在意識には認識として上ることはなくなったのです。
記紀の前身となっていた文書は、すべてヘブライ語で記されていたでしょう。
その内容からはへブライに関することは、一切削除され書き改められたのです。それらの文書は、記紀が編纂されるに及んで不用のものとなり、焚書とされたでありましょう。

そして、程なくして、万葉集の編纂が始まり、新しい国の言葉の為の、多くの語彙造語の集成、一つの成果をそこに見ることになります。
ここではまだ、太子の残した表音羅列文を、巧みに意味付けして、解釈するという段階であって、新しい言葉を用いて、純粋に自分達の歌を作るというところまではいかなかったでありましょう。それが生じるのは、古今和歌集の編纂(905)以後なのであります。
そして、それ以後、「土佐日記」「伊勢物語」「竹取物語」といった文学作品によって、新しい国の言葉は一つの結実を見たのであります。これらの作品は、新しい国の言葉のテキストの役割りを果たしたことでしょう。
それが「枕草子」「源氏物語」といった優れた文学作品が出るに及んで、より定着が確実なものになったのです。
太子が、新しい国の為の言語を用意するべく、神からの言葉に手を入れ始めて、新しい言葉が一つの結実を見るのに、実に300年以上の歳月を要したということであります。
私達の祖先、太子以後の民達の間では、その語り言葉としてのヘブライ語から日本語へ、どのように推移させていったかは、テープレコーダーもない時代であるので知りようもありませんが、奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷が、先導役となって万葉集の編纂と、勅撰和歌集の編纂事業や、和歌を作ることを推奨していったことが、それを大きく推進させたことでしょう。

新しい国の為の神名の書き換え
大ユダの消滅とは、同時にその民を導いた主神名の消滅をも意味しました。
民の信仰の対象として崇められていたヤーウェ様の神名も、ミカエル様、ガブリエル様、ウリエル様、他の神々の名も、ヘブライ一掃と同時に新しい国では忘れ去られました。
ただ、ヤハウェ、ヤーウェ、は、弥兵衛、八重、といった人名として、或いは、地名としてその痕跡を残すのみとなりました。神名を自分の子に名付けるのは世界的傾向です。
万葉集は、神からの語りを、和文に封じたものでしたが、一方ヘブライに関する伝承も、和文に封じられることになりました。倭歌とは、ユダの歌の意味で、内容は主に、日本列島へ移住してきたユダの民に関する事柄について述べたものです。
そこには、旧約聖書にはない、大ユダ独自の伝承があるのです。
神武天皇即位の年は、紀元前660年とされていますが、大ユダの歴史はこの頃から始まるのであります。
南ユダ王国の一族長イザヤの三人の子が、国を興すべく、日本列島へ移住してきたのが、ちょうどこの時期にあたります。イザヤと三人の子は神格化され、いざなぎの尊と三貴子として、日本書紀に録されています。
イザヤ一族の犠牲的奉仕と献身的努力は実り、後にユダ王国は再建され、これが後の大ユダへと発展したのであります。
古事記と日本書紀には、イザヤは、伊邪那岐命[記]、伊弉諾尊[紀]として、長女ヘフジバは、天照大神[紀]、天照大御神[記]。長男ツァクヤム、またはヨサブは、月読尊[紀]、月夜見命[記]。次男スサナウェは、素戔嗚尊[紀]、須佐之男命[記]として、記載されました。([記]は古事記、[紀]は日本書紀の略)
ここに挙げたように、記載された名前の漢字の当て字が、古事記と日本書紀とではその表記が異なるのであります。
何故、表記が異なるのでしょうか?言うまでもなく、統一されていなかったからに他なりません。
統一されていなかったということは、この漢字で当て字された名前は使用されていなかったということです。
国家の神の名であるのなら、使用されていない筈はない、それらの名前は古くからは知られていて民の間では、当然、親しまれていました。つまり、筆者が言いたいのは、イザナギと三貴子の名前は、称えられていたが、漢字に当て字された名前は、記紀編纂以前には使用されていなかった、という意味です。
即ち、この当て字は、記紀へ記載する為の当て字であったということです。だから、統一されていなかったのであります。それが、筆者が、記紀が編纂される前の文書は、ヘブライ語で書かれた文書ではなかったのかと推論する理由なのです。
もっとよい例が、聖徳太子の名前です。新しい国は、太子がきっかけで興ったにも関らず、新しい国で呼称される太子の名前は決まっていなかったのであります。
日本書紀より数年前に編纂された古事記には、聖徳太子の名前はどこにも出てこないのです。これは、上宮厩戸豊聡耳太子という呼び名が、日本書紀編纂時に決められたからに他なりません。
古事記の中では、稗田阿礼が太子です。ヤーウェ神が懸かった太子に該当する人の名がないと、神の国の国家の文書とするにはおかしいのです。
該当する人を古事記から捜すとしますと、太子の名として上宮之厩戸豊聡耳命がありますが、稗田阿礼が妥当なのであります。
古事記は太安万侶が一人で編纂したものです。
そして、古事記の前身となったヘブライ文書に載っている太子に該当する人の固有名詞をそのまま出すわけにはいかないので、太安万侶は、「そのユダの神」というような一般名詞を、ひとひねりして、稗田阿礼という仮名を作り出したと考えられます。
太安万侶の先祖は、大ユダの中でも邪馬台国の流れを汲む家系で、太子とは少々距離のある関係でもありました。
ところで、記紀の間では、当然、一致している表記もあります。それは、神武天皇から始まる歴代天皇の名と、天御中主、天照大神です。天御中主、天照大神は、漢字文で書かれた覚書が、一緒に残されていた為で、それらは、編纂以前から、恐らくは太子によって決められていた事柄でしょう。(神武から始まる漢風の名は奈良時代のもの)
ただ、天御中主(あめのみなかぬし)は、天之御中主神[記]、天御中主尊[紀]とあって、かつて実在した人を神格化して充てた名前であるだけに、神とするか、尊(みこと)とするかの見解が一致していないのです。
そして、そのヘブライ文書とは、今日の平仮名や片仮名に似たヘブライ文字で記されていたことでしょう。(11.10.)

聖徳太子時代の人々はヘブライ語を話していた
このことの大きな根拠として挙げられるのは、言うまでもなく太子を通して語ったヤーウェ神がヘブライ語を用いたことにあります。当時の人々が日本語を喋っていたにも関らず、神の霊がヘブライ語で霊示を出すなどということはあり得ません。それでは神の意志は人々に伝わらないからです。
マホメットの場合はアラビア語、ゾロアスターの場合はペルシャ語、インマヌエル・イエス様の場合はヘブライ語というように、神の霊は通常、その霊媒の民族の言語を用いて、民達に伝言を伝えるのであります。ですから、ヤーウェ様がヘブライ語を用いられたということは、太子を始め、当時の人々がヘブライ語を語っていたという何よりの証拠なのです。
ゾロアスター、マホメット、インマヌエル・イエス様の場合、神の霊からの霊示や啓示は、すべて教典類に書き表わされ、後世、大宗教となって発展を遂げました。ところが、聖徳太子の場合は、そのヤーウェ神による霊示文の悉くは隠蔽され覆われることになりました。その偉業の殆どは後世の人々には知られることなく忘れ去られることになったのです。
ですが、その隠蔽された神からの力による霊示文は新しい国日本語の造語へと発展し、大きな原動力となったことでしょう。太子に対する称賛は、ほぼ100年後の「日本書紀」編纂時に至っても衰えることはなく、ヘブライ一掃によって偉業は忘れられるであろうことを弁えた編纂者は多くのページを割いて、明らかに出来る事柄を見つけ出し、太子を讃えたのであります。
厩戸皇子の記述も含め、これらの事柄が現代日本の研究者にとっては、太子という人が不可解で分り難い人物像と映じているのであります。

倭から日本への改号
聖徳太子(574~622)が主に活躍されたのは、古代中国では「隋」(589~618)の時代でしたが、次の「唐」(618~907)の時代に撰録された「隋書倭国伝」はおろか、それ以前の古代中国の史書には、「日本」や「天皇」の名称は一度も出て来ません。
「日本」の国号が出て来るのは「旧唐書倭国日本伝」(900年代)「貞観22年(648)」の条からで、「天皇」の称号が見えるのは「新唐書」(1000年代初頭)からです。
大化の改新が、645年。外国の史書に「日本」という国号が現れるのは、「三国史記」の「新羅本紀」の中、文武王十年(670)十二月の条に、「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名と為すと。」とあるのが、最初でありましょう。
まだ日本語が誕生していないうちから国号が改められることが外国に知らされたのであります。
漢文の表記のみで外国との意志疎通は充分行えること。日本語の誕生まで当分の間は、漢文を代替として使用しなければならなかったこと。それらが当時の人々を大胆にさせ、新しい国の語彙も充分ではなかったにも関らず、外国に改号を知らしめたのであります。
そして、700年代に入って、「記紀」の編纂。我が国の漢文には、訓読みによる読み下し文があって、「記紀」などの読み下しを読んだりすると、読み下し文は当時から存在していたかのような錯覚を私達は受けるのであります。大和言葉としての読み下しは、ヘブライ語がまだ忘れられていない時期に早々に行なわれていたことでしょう。そこにはヘブライ語の意味のこもっているものが多く見られるからです。
次に、国内での改号は何時行われたのでしょうか?
太子へヤーウェ神からの啓示が降り、大ユダの消滅が確定したその日からです。
日本国始まりの日は、紀元前660年にまで遡ることになったのです。
ですから、今年西暦2003年は、日本皇紀2663年であり、改号記念日は存在しないのであります。

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