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Ω祖型とはなにか?

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年 9月27日(木)20時29分6秒
  通報 返信・引用 編集済
  いかなる物体も神ではない。表象から表象へ,やがて沈黙に行きつくほかはないのだ。それが叡智の偉大なる掟である。やがて偽りの神々は消え本当の神は現れるだろう。それが神の認識でありそこに嘘はない。

管理人様は牧師さまか神父さまなのでしょうか?という高校生からコメントをいただいたことがあります。私は藤沢市鵠沼のルーテル教会で幼児洗礼を受け結婚式もジュネーブのルーテル教会でしました。だからと言ってクリスチャンにはなりませんでした。成人してから聖書を理解しないと西欧文学などは分からないと考えずっとぼんやり考えていましたが同時に闇の世界(イルミナティ)を理解するには聖書を理解する必要があると考えここのところ12年以上ずっと集中して勉強してきただけの話です。一つだけ言えることは断崖絶壁に何度も何十回も何百回も立ったとき何者かが相手を含む背中を押して助けてくれたのは事実です。紛れもない事実なのです。聖書とは関係ないのですが小学生の頃何回やっても飛べなかった跳び箱がその当日の通学路で倒れていたお地蔵様を元に戻してあげたその日跳び箱が飛べました。それが何であるのかぼんやり考えていましたがそういうことってこの世にあるのですね。本当に。キリスト教がVernal Equinox Precession(春分点歳差運動)だったなんて...........キリストは太陽崇拝じゃあね~か...なんてどうでもいいいのですよ。謙虚な気持ちでマラキ書とかヨブ記を読む気持ちが大事なのです。下はそういうどうでもいい関連記事

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/42.html

その1 http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=127094

その2 http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=128844

その3 http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=129896

衒学のためのレクイエム2005年より

http://archivelago.com/Garden/annaiban.html

関連URL........Ω祖型からバチカンまで

http://megalodon.jp/2009-0311-0916-06/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/337.html

『イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えているというキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか? そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか?

こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。(管理人注:多くの聖職者はキリスト教は許しの宗教であると言う。それは過去から現世までを俯瞰して視る能力がない表れでもある)。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう』。

関連URL.......ヨブへの答え・教会の原理と精霊の原理

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/122.html


人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか.........に対するある見解

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/789


エリ エリ レマ サバクタニ


聖書
 「さて、昼の12時から地上の全面が暗くなって、3時に及んだ。そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは、『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』と言う意味である。」マタイ27:45,46

はじめに
 ★カトリック教会の十字架には、復活が無かったかのように、キリストの苦悩する像が添えられています。神父たちは「キリストはご自分を十字架にかけた、あなたがた罪人に怒っておられるから、聖母マリヤに執り成しの祈りをお願いしなさい」と教えています。はたして、聖書はそんなことを教えているでしょうか。
 ★キリスト像なしの十字架はプロテスタント教会のシンボルです。主はすでによみがえられ、十字架上にも墓にも残って居られないからです。キリスト者にとっては、十字架は救いと永遠の命のシンボルです。
 ★キリスト者でない多くの方々が十字架を飾りとして、アクセサリーとして愛用していますが、十字架は非キリスト者にとっては実は地獄での裁きのシンボルなのです。


〈キリスト者にとってのこの言葉の意味〉

 1.私たちの受けるべき罪の裁きと呪いを主イエスが身代わりに受けてくださったことの証明であるということ
 ★「誰が彼(神)の憤りの前に立つことが出来よう。誰が彼の燃える怒りに耐えることが出来よう」 (ナホム1:6)

と言われる人類の罪に対する神の怒りを、キリストが身代わりに真正面から受けてくださったということを証しする言葉が、この「エリエリレマサバクタニ」なのです。

 ★「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私達が、彼(キリスト)に在って神の義となる(罪を赦され、神の前に正しい者とみなされる)ためなのである」(Ⅱコリント5:21)。

 ★私たちの罪に対する神の呪いを、罪のない聖よい神の御子が、十字架上で受けてくださったのです。

 「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを十字架の呪いからあがない出してくださった。聖書に、『木にかけられる者は、すべて呪われる』と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、私達が信仰によって受けるためである」 (ガラテヤ3:13,14)。

 2.エリエリレマサバクタニはキリストの私たちへの愛のことばです
 ★キリストが自ら進んで十字架刑を受けられたのは、私たち信じる者に対する愛のためでした。
 「しかし、まだ(私達が)罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである」 (ローマ5:8)。

 3.「エリエリレマサバクタニ」のこの言葉は旧約聖書詩篇22篇1節にあるダビデ王の詩の中の一節です
 ★主イエスは
「私は律法と預言者を成就するために来た」(マタイ5:17)
と言われたように、ここで主はメシヤ預言の成就のために、この言葉を口にされました。
 ★この詩篇22篇は「十字架の詩篇」とも呼ばれ、十字架より1000年も前に書かれたものでありながら、詩人が主イエスの十字架の前で目撃していたかのような正確さで、その情景を描き出しています。
 ★この22篇は「エリエリレマサバクタニ」の言葉で始まっていますが、あくまでも神への賛歌であり、

 「主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろの末よ、主をおじ畏れよ。主が苦しむ者の苦しみを軽んじ、いとわれず、またこれに御顔を隠すことなく、その叫ぶ時聞かれたからである」 (詩篇22:23,24)。

 という賛美のことばに満ちています。
 ★主はこの言葉を十字架上にありながら、「大声で叫」ばれました。主は十字架上の暗黒の時間にも、「我が神、我が神」と神への絶対的信頼を表明されたのです。

 4.主イエスはこの言葉によって、逆境と迫害の時にも父なる神に信頼することを私達に教えておられます
 詩篇は23:4で

 「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」。

 と歌っています。これこそ、主の「エリエリレマサバクタニ」の心でした。


〈キリストを信じない者にとってのこの言葉の意味〉

 1.キリストが十字架上で耐え忍んだ6時間の苦悩は、キリストの救いを拒否する全ての人々が受ける地獄での永遠の苦悩の象徴であるということ
 ★神が最愛の罪の無い一人子イエス・キリストを十字架上で苦しませるほどに人類の罪を憎まれ、ご自身で父子共に苦悩されて、痛みに耐えて提供された救いの道・十字架を拒否する者には、神は地獄の硫黄の燃え盛る火の池を用意しておられるのは至極当然のことです(黙示21:8)。

 2.万人救済主義者は、「神は愛であるから、たとえ罪人でも地獄に落とすようなことはするまい」と空しい希望を抱いています
 ★しかし、主の救いは「主の十字架と復活」を「私のためだった」と信じる者にだけ与えられるものであって、決して「信じない者」に与えられることはありません。

 「彼(キリスト)を信じる者は、裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の一人子の名を信じることをしないからである」 (ヨハネ3:18)。
 「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」 (Ⅰコリント1:21後半)。


結び
1.主イエスの十字架の死は、自発的死でした
 ★主イエスは、

 「私はよみがえりであり、生命である」 (ヨハネ11:25)

と言われ、更に、

 「(私が)命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが、私からそれを取るのではない。私が、自分からそれを捨てるのである。私には、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」 (ヨハネ10:17後半~18)。

と言われました。

 ★その言葉の通り、主は十字架の上で「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られました(ルカ23:46)。十字架に掛かってから、6時間後でした。十字架に掛かった人は、2~3日後に死ぬのが普通でした。十字架上の死刑囚を多く見て来たピラトが、主イエスの死が余りにも早く驚いた程です(マルコ15:44)。

2.主イエスは死の力に勝利し、3日目に、死なない栄光のからだによみがえられました
 ★私たちキリスト者の希望はこの復活に掛かっています。

 「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなた方の信仰は空虚なものとなり、あなた方は、今なお罪の中にいることになろう。・・・・・しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」 (Ⅰコリント15:17~20)。

 ★私たちキリスト者の復活信仰は、論理的科学的証明によるのでなく、聖書を読み、祈るうちに心の中で語りかけてくださる神の御霊の証言によるのです(エペソ1:14)。

注・分かったようなそうでないような(笑い)

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