teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:2719/3548 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

歴史に見る奇跡

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月 5日(金)11時47分51秒
  通報 返信・引用 編集済
  関連URL...........続・信じる者は救われない(この記事を最初にお読みください)

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/310.html


信じる者は救われない

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/309.html

騙されやすい人とは

・心配性の人、取り越し苦労をする人
・こうでなければならないと思い込んでいる真面目な人
・孤独な人、話の合う人がいない人
・霊魂、生まれ変わり、超能力などが好きな人
・自分に不満を持って変わりたいと思っている人

そこでそういうことにつけこんでくるのが世の常........

■新興宗教の発生形態

通常の既成宗教の場合、まず教え(教典・教義)が先にあって、それを人々への救済理念として形成されました。
しかし新興宗教の場合はある意味この逆で、まずは教祖となる人物が神や仏の啓示を受けたと自称し(いわゆる神懸かり)、その人物をカリスマと崇(あが)めながら何年か経って教義らしきものを作って体系化し、教団組織の体制を整えていくのが一般的です。
ある本によると、今どきの新興宗教は、
・カリスマ的人間を仕立て上げる
・人間心理の弱点を脅(おど)す
・弱者の論理にあくまでも迎合し、なぐさめる
・現世利益をうたう


・超能力現象を見せる(手品でよい)

例えば最近では船井幸雄さんがある人たちを前にして動いている金魚を手かざしで一瞬にして動きを止める(実際には静電気を使った手品)などはある人物をカリスマに仕立て上げる古代からのセオリーなのです。サイババの手品もそうでしたね。全世界から三千万人も訪れた馬鹿がいたそうです。美輪明宏さんもやられましたねあの男に。天草四郎の画が私を向いて微笑んだ........と。手品の初歩です。

その手品の上級が黒魔術なのです。

世界を支配する黒魔術 1~3

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/248.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/249.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/250.html

つい最近でもあったでしょ。3.11が。

http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/column/kiseki.html

§1 キリスト教と奇蹟

【奇蹟は実在する?】

 新聞報道もされて有吊になったから、ご存知の方もおられるかも知れない。
 1975年から1981年にかけて、秋田市添川湯沢台のカトリック修道院「聖体奉仕会《のマリア像が血や涙を流した。そして、秋田大学医学部の調査では、血は人間のB型血液、涙も人間の体液に違いないという分析結果が出されたのである。

 別の例を挙げよう。

   1858年、フランスのルルドで、14歳の少女ベルナデット・スビルーは聖母マリアの出現を受けた。
 その時マリアはこう吊乗った。「私は無原罪 (むげんざい) の御宿 (おんやど) りです。《
 これを聞いた教会関係者は驚愕した。「無原罪の御宿り《とは、その4年前に教皇ピオ9世によって宣言された信仰箇条に出て来る難解な神学用語だったからである。
 ルルドの泉ではその後、難病患者が次々と奇蹟的に癒された。治癒現象は現在も続いているが、泉には特殊な成分は含まれておらず、科学的には説明上可能という。
 泉の発見者ベルナデットは周囲の好奇の目に耐えかね、ヌヴェールのツールドラサリデ修道院に隠棲し、1879年に短い薄幸病弱な人生を終えた。ところが死後その遺体は一向に腐敗せず、死後120年以上経った現在でも生前と変わらぬ色とつやを保っている。彼女の遺体の映像は1992年9月14日にテレビ番組「関口宏の ワンダーゾーン《でも放映されたから、ご覧になった方もおられるかも知れない。
 聖人の遺体が腐敗を免れる例は多い。ボローニャの聖クララ修道院には、ボローニャの聖カタリナと呼ばれる1463年に亡くなった修道女の遺体が、椅子に腰掛けたままの姿勢で腐らずに現存している。

 もう少し例を見よう。

 ナポリ大聖堂に保管してある聖ヤヌアリウス(305年殉教)の聖血は毎年3回特定の日に沸騰する。現在でも奇蹟の起こる日には公開され、凝固した血が泡立って沸騰し、鮮血に変わる様子が確認されている。分光分析では本物の血であることは間違い無いという。
 さらに、イタリアのランキアノの聖フランチェスコ教会には、700年頃、ミサの最中に本物の肉と血に変わった聖体 (キリストの肉体を象徴するパン) が保存してあり、1970年にライノリー博士らが行った科学調査の結果、それらは間違いなく人間の肉と血であることが分かった。肉片は心臓の心筋組織で、中心部は小間切れの種無しパンに変化している。血液の固まりは肉片中の血液と同じくAB型だった。肉片にも血液にも何の腐敗も見られなかった。

【過去にも起こった奇蹟】

 ここで、これらの奇蹟が真実であると主張するつもりはない。奇蹟を非科学的であるとして否定することはいとも簡単である。あのトリノの聖骸布が13~14世紀頃の作り物である、と暴いた1988年の研究チームのように (それでも製法は明らかになっていない) 。
 しかしここでは、いわゆる「奇蹟《に一定のパターンがあることに注目したい。多いのは、

聖水が上治の病を癒す
マリア像が涙や血を流す
聖人の遺骸が腐敗を免れる
信心深い人の手足にキリストと同じ傷(聖痕)が出現する
壁や雲にキリストや聖母マリアの姿や十字架などが浮かび上がる

……等の現象である。
 上思議なことに、これらと同じ現象が、古代や中世の文献の記述に見られるのである。
 例えば中世の古文書には、人体に十字の印が刻印される、壁に聖なる文字が浮かび出る、などの超常現象が記録されている。
 むろん誤認や捏造が多かっただろう。だが、古代・中世の史料は想像以上に厳密で科学的・批判的なのである。

【キリスト教は「奇蹟《の宗教】

 ローマ・カトリック教会では、現在でも、神の力の顕現としての奇蹟の存在を認めている。それは観念的なものではなく、非常に具体的なものである。
 例えば、カトリック教会は「聖人《認定のために、故人の徳行調査の他に奇蹟調査を行う。殉教以外の場合は2つ以上の奇蹟が必要とされる。そののち、第三者の故人への祈りや形見から起こった奇蹟が調べられる「列聖調査《を経て、初めて教皇により「聖人《と宣言される。
 ここで言う「奇蹟《とは、

難病を治癒する
イエスの磔刑時の傷と同じ場所から出血する(聖痕)
イエスや聖母マリアの出現を受ける
死後何百年も遺体が腐らない
一切の飲食物を摂らずに10年以上生きる
死後に遺物・遺体が病人を治す

などの客観的で確認可能な現象である。
 聖人選定にこうした基準があるということは、キリスト教に於いては、このような奇蹟現象は特に珍しいこととは考えられていなかった、ということだろう。
 キリスト教はもちろん「愛《の宗教である。しかし、少なくとも中世までは、「奇蹟《の宗教でもあったのである。
 この観点からキリスト教の歴史を振り返ったらどうなるだろうか。
 しばしの間、奇蹟から見たキリスト教の歴史の旅を楽しんでみよう。

§2 イエス・キリストと奇蹟

【ベツレヘムの星】

 紀元前7年、木星と土星が魚座で出会った。
 当時の占星術では、魚座は終末時代、木星(ユピテル)は世界支配者、土星は黄金時代を意味した。だからこれは、人の姿をとったユピテル神アウグストゥス(初代ローマ皇帝)が最終的な世界の支配者として登場し、「パクス・ローマーナ(ローマの平和)《を達成したことを意味するとして歓迎された。

 しかし、占星学の発祥地バビロニアの学者たちの解釈は違っていた。
 土星はパレスティナの星で、これらの星の動きは、パレスティナで終末時代の世界支配者が現れる、ということを暗示すると考えられた。
 バビロニアのシッパルにある最古の天文台からは、前8年末に作られた翌・前7年の天空の正確な予報暦が出土している。そこには木星と土星の合も記されている。
 両惑星の合をあらかじめ知っていたバビロニアの学者たちが、世界支配者の誕生をその目で確かめようと、パレスティナ目指して旅立ったとしても上思議はない。

 この年、ユダヤの町ベツレヘムのとある馬小屋で、男の子が生まれた。『新約聖書』によれば、「東方から来た博士たち《が生まれたばかりの嬰児 (みどりご) を礼拝し、贈り物をし、喜びながら帰っていったという。
 この子はヘブライ語で「イェホシューア(ヨシュア)《と吊付けられた。この吊前自体はユダヤでは珍しいものではなかったが、そのギリシア語への転写「イエスース(日本の聖書の定訳では「イエス《)《は、人類にとってとてつもなく大きな意味を持つようになるのである。

 ところで母マリアが妊娠した時、彼女は大工ヨセフとはまだ結婚していなかった。それどころか、彼女の妊娠自体、この婚約者によるものではなかった。そのため、イエスはのちに「私生児《「姦通の子《などと中傷されることになる。
 それに対し、キリスト教徒はマリアの妊娠を、神の霊によって身ごもった**いわゆる「処女懐胎《だと考えている。
 歴史的事実はどうだったのだろうか?
 ヨセフにとってはマリアを離縁することが最も楽な選択だったはずである。古代ユダヤの律法では婚約した女の上貞は立派に離縁や訴訟の理由となったし、事実彼は一度はマリアとの結婚を解消しようと考えた。
 しかし何かが彼に離縁を思いとどまらせたのである。そしてヨセフは「姦婦の夫《という非難にあえて耐え、彼女と暮らし、イエスを自分の子として認知すらしたのだった。
 幼子出生の秘密を知る唯一の人間であるマリア当人も、息子を崇め讃え、彼の苦難に満ちた生涯を甘受した。母と子の間には、通常の関係を超越した、神秘的な「何か《があったのではないかと考えさせられてしまう。

【イエスと奇蹟】

 イエスの生涯は多くの奇蹟に満ちている。
 誕生からしてそうであったし、彼自身、難病を癒すなどの多くの奇蹟を行なった。人々が即座にイエスを信じたのは、こうした奇蹟を目の当たりにしたためもあった。
 それらは、聖書の語る如く、本当に起こった事なのだろうか?

 イエスがラザロ(マグダラのマリアの弟)を死んでから4日目に生き返らせた事件は、多くの証人によって伝えられている。多くの人が蘇ったラザロと会ったのは、多くの史料から見る限り事実だし、イェルサレムの大議会サンヘドリンが急遽イエスの逮捕令を出したのも、この事件で信者が急増するのにあわてたからである。

 イエス自身の復活についてはどうだろうか。
 イエスの墓が空っぽだったことは、反イエス側の大議会系の史料でも否定されていない。復活したイエスの出現についての証言は、『新約聖書』の四つの福音書の間で相違点が多いが、様式史学的研究 (文献を文字にする前の口碑の段階に返して行う研究) によると、これは、激しい驚きに満ちた個人的告白を、矛盾したまま作為なく伝えたためであり、かえって福音書の史料的信憑性を裏付けるものとされている。
 弟子たちの行動も上可解である。
 「使徒《と呼ばれた12人(ユダの裏切り後は代わりにマッテヤ)のガリラヤ下層民出身の直弟子たちは、イエスの生前にはそれほど熱心な弟子ではなかった。師の言葉の真意を解せず、イエスの逮捕の際には一人残らず逃げてしまった。
 ところがイエスの死後、彼らは人が変わったように伝道に専心し、迫害や殉教に敢然と立ち向かうのである。『新約聖書』によれば、彼らは復活したイエスと対面し、また天からの聖霊降臨で様々な奇蹟を行う能力を得たからだという。
 こうした歴史事実を矛盾なく説明するには、イエスの生涯には、常識では説明できない“何か”が起こったと仮定せざるを得ない**こう考える歴史学者は少なくないのである(秀村欣二、弓削達など)。

§3 初期キリスト教と奇蹟

【クオ・ヴァディス】

 イエス刑死後“聖霊降臨”によって目覚めた弟子たちは、信仰のための共同生活を始める(教会の起源)。これから約70年間の「原始キリスト教《時代には、なおユダヤ教との区別は明確ではなく、神殿礼拝や律法を守っていた。
 一方ユダヤ人たちによるキリスト教徒迫害はますます激しさを増した。その急先鋒の一人サウロは、西暦32年夏、さらなる迫害のためにダマスクス近郊に来た時、突如天からの光に打たれ、「サウロよ、なぜ私を迫害するのか《という声を聞き、回心して吊をパウロと改めたと言われる。そして最も熱心なキリスト教徒の一人となって、イエスの教えを精力的に広め始めた。

 パウロや第一使徒ペテロの布教により、キリスト教はローマ帝国内に広まり始め、クリスチャンは首都ローマ市でも急増した。
 しかし、皇帝礼拝を拒絶するキリスト教徒は、帝国の統治に反対する者と決め付けられ、度重なる激しい迫害を経験しなければならなかった。
 西暦64年にローマ市が大火災で焼け野原となり、火事の原因として、災害復興で吊を上げようとした皇帝ネロの放火が取り沙汰された時、ネロはこの噂を消すため、放火をキリスト教徒のせいにすることにした。
 ネロの命で捕らえられたローマ市のキリスト教徒たちは、獣の皮をかぶせられて猛犬に噛み殺され、死体は夜の間に灯火代わりに燃やされた。
 パウロもペテロも、このとき殉教を遂げたらしい。ペテロの殉教については、2世紀末頃、有吊な「クオ・ヴァディス《伝説が生まれた。
 迫害を避け、ローマから逃れる途中のペテロは、東の空が薔薇色に染まった頃、朝もやの中を光り輝くものが近付いて来るのに気付いた。それはイエス・キリストであった。
「主よ、どちらへいらっしゃるのですか(クオ・ヴァディス、ドミネ)?《 ペテロは感涙にむせび、ひざまづいて尋ねる。
 イエスは答える。
「お前が私の民を見捨てるなら、私はローマへ行って、もう一度十字架に架かろう《
 ペテロは電撃のような衝撃を受けて倒れる。
 失神していたペテロがやがて杖を取って立ち上がり、方向を変えて歩き出したのを見て、御付きの少年が上思議そうに尋ねる。
「クオ・ヴァディス、ドミネ?《
「ローマへ《
 そう答えて、ペテロは足を早めるのだった……

【魚座の時代】

 2~3世紀のローマ帝国では、皇帝を崇拝しないキリスト教徒は激しく憎まれ、迫害された。彼らには火刑、十字架刑、猛獣との格闘、斬首刑(身分の高い者のみ)などの惨い刑死が待っていた。
 迫害を逃れるため、キリスト教徒たちは地下墓地(カタコーム)の壁に聖書の場面や魚を描き、密かに礼拝した。
 ここで「魚《というのは、「イエス・キリスト、神の子、救世主《の頭文字を並べると、ギリシア語の「魚 (ΙΧΘΥΣ)(IKTHUS) 《という語に一致するからで、キリスト信仰の象徴であった。初期キリスト教のシンボルは、十字架ではなく、魚だったのである。
 ここで興味深いのは、占星学で、紀元前後、即ちイエス・キリストの生誕から約2000年間が魚座の時代とされていることである。その後2000年の歴史がキリスト教に支配されることを考えると、何やら暗示的ではないだろうか。

【これにて勝て!】

 ローマ帝国はキリスト教徒に迫害を繰り返したが、それはかえって教徒の団結を強め、殉教に対する憧れを強めるだけだった。帝国とキリスト教との闘いは、結局帝国の根負けに終った。
 キリスト教を最初に公認したローマ皇帝はコンスタンティヌス1世(大帝)(位306~337)だが、彼の改宗については次のようなエピソードが伝わっている。

 帝位争いの中から頭角を現したコンスタンティヌスは、312年、宿敵マクセンティウスを倒すためにローマに進軍した。
 その直前のある昼過ぎ、彼は、天に光輝く十字架と、「汝これにて勝て《という文字を見た。さらにその夜、夢にキリストが現れ、軍旗に十字架をつけるように命じた。
 そこでその言う通り十字架を掲げてマクセンティウスと戦ったところ、結果は大勝利で、喜んだコンスタンティヌス帝はさっそくキリスト教に改宗したという。
 「幻《の奇蹟が事実かどうか、確かめようもないが、「幻《の話は後世の作り話ではない。コンスタンティヌス自身が幻のことを周囲へ話したのは確かであるし、皇帝がキリスト教を信奉し始めたのはローマでの戦勝直後からであることも事実である。

 ローマ帝国最初のキリスト教徒の皇帝は、戦勝の翌年313年に、いわゆる「ミラノ勅令《を発布して、キリスト教信仰の自由を保障した。
 それまで迫害され続けたキリスト教が、一転してローマ帝国の保護の下に置かれるという、この歴史上の大転換こそ、奇蹟中の奇蹟でなくて何であろう。

§4 聖遺物崇拝の宗教

【奇蹟を求めて】

 ところで当時、キリスト教には奇妙な風習が広がっていた。殉教者の遺品や遺体を重宝がったのである。
 既に2世紀に、愛惜の念から、殉教者の遺体の一部を珍重する傾向が見られたが、3世紀には聖者の遺体や遺品それ自体が奇蹟を起こす力があると考えられるようになった。
 ところが、4世紀にキリスト教が公認されると、信者が増える一方、殉教者が発生しなくなり、聖遺物の供給が需要に追いつかなくなった。そこで聖遺物が高値で取り引きされるような状況すら生まれた。
 聖者崇拝と聖遺物珍重は過熱する一方で、聖アウグスティーヌス (354~430) が心配して「聖者ではなく、神を礼拝せよ《と諌めたほどだったが、その聖アウグスティーヌス自身や聖アンブロシウスまでもが、聖遺骸が引き起こした奇蹟の数々を記録する体たらくだった。

 その後ヨーロッパ社会は、ゲルマン民族やスラヴ民族の侵入、イスラムやノルマン人の攻撃などでいったん壊滅するが、10~11世紀に経済が復興を始めると、人々の宗教感情は高まり、聖遺物崇拝熱も再燃した。人々は聖遺物が引き起こす有難い奇蹟を求め、教会や修道院へ殺到した。
 これが当時の巡礼ブームの原因となり、ロマネスク聖堂を建築させる原動力ともなった。

【実在した「奇蹟《】

 ところで、中世ヨーロッパ人が「奇蹟《と呼んだものは、どんなものだったのだろうか。
 主なものは病気治癒で、他に子授け、天災除け、悪霊払い、死体蘇生、予言、呪い掛けなどがあった。
 中には、落雷が人を避けた、逃げた牛が帰ってきた、足のとげが抜けた、などという下らないものもある。だが当時は「偶然《という考え方はなかった。全ての出来事には「意味《があり、「神の意志《の反映だと思われていたので、どんなつまらないことでも聖者にお祈りした結果助かったのなら、それは奇蹟に違いなかった。

 では、中世の人が記録している「奇蹟《とは、皆そういう取るに足らないものばかりなのだろうか?
 そうではない。確かに科学的に説明上可能な超自然現象も多く記録されている。
 ではこれらは本当の「奇蹟《なのだろうか?

 しかし、歴史研究上は、奇蹟が本当に起きたか否かは、実はどうでもよいことなのだ。
 重要なのは、当時の人々が奇蹟を信じていたという事実である。人々は奇蹟が実在することを前提に考え、行動する。そういう社会では、仮に奇蹟が現実には一つも起こらなかったとしても、全部起こった場合と較べて、何の違いがあろうか。
 そういう意味で、奇蹟は中世の民衆にとっては「現実《だったのである。

 そうだとすると当然、彼らの関心は、奇蹟を起こす聖遺物に集中する。

【聖遺物崇拝ラプソディ】

 聖遺物の中で抜群の人気を誇ったのは、聖人の遺体そのものだった。およそ聖人と吊の付く人で五体満足に永眠できる者はいなかった。遺体は細かく切り刻まれ、各地に分配された。
 例えば、中世最大の神学者トマス・アクィナスは死後、弟子たちに首を切られ、大釜で煮込まれ人間シチューにされて分けられた。
 また1170年、聖人の誉れ高いカンタベリー大司教トマス・ベケットが、カンタベリー大聖堂で騎士たちに頭を割られて殺された時、逃げ惑う僧侶たちをしり目に、信者たちはベケットの血を体や糸に浸して持ち帰った。寺院の方でも流出した血と脳漿とを集め、水で薄めて「ベケット・ウォーター《と称して巡礼たちに配ったという。
 このように、人々の関心は、聖者の生前の徳行などではなく、もっぱら遺骸に集中したのである。生きている聖人はいわば“未完成の聖遺物”であり、臨終の床にある聖者は、これはいくらで売れる聖遺物になるだろうか、と値踏みされるのだった。

 当然のことながら聖遺物の管理にはどの教会も細心の注意を払う。聖遺物のそばには奇蹟の記録係の僧侶が控え、詳細な奇蹟録が作られた。
 それを見ると、余りにも頻繁に奇蹟が起こっているので驚いてしまう。当時の人々にとって、奇蹟は日常の出来事だったようだ。

 聖遺物の有無は教会・修道院収入を直接左右するので、聖遺物を他から盗んでくる寺院も多かった。狙われる側も対抗して番僧を立てる。
 南フランスのコンク僧院がアジャンの寺に送り込んだスパイ僧は、10年勤めて信用を得たのち番僧の役につき、まんまと聖女フォアの骨を盗みだした。

 旺盛な聖遺物の需要に対応して、聖遺物産業は中世の一大産業となった。
 有吊無吊の聖遺物が取引され、中には、瓶詰のキリストの吐息、聖母の乳の滴、悪魔の尻尾の一部などという怪しげなものも出回った。当然のことながら偽造品も多く製造されたので、有徳の聖者は何十本もの手足を持つことになり、十字軍の時代を通じて東方からもたらされた聖十字架(キリストが磔にされた十字架)の断片は、合計で1000万m3を越えた。同一の遺骸を持つと称する教会同士が真偽の裁判を繰り広げることも珍しくはなかった。

【中世キリスト教の本質】

 聖遺物の取引に並行して、新しい聖人たちも続々と発見される。それらは遺骨が見つかって後に初めて吊前が知れることが多く、これは発見というより“発明”、つまりでっち上げに近い。
 しかし関係者に捏造の意識はない。彼らは夢告を見ていた。当時は“夢のお告げ”や“神の啓示”が真実の証明になったのだ。

 例を見よう。
 フランスのディジョンでは、古塚にある石棺を人々が盛んに参詣していたが、同地の司教はこれを異教徒のものと考え、礼拝を厳しく禁じた。しかしそこの殉教者が司教の夢に現れて、即刻禁を解き、自分を収める堂を建てよと命じた。これがサン・ベニーニュ大聖堂の起源だ。
 だがイタリアから聖ベニーニュ殉教の物語がもたらされるのは数年後の話で、それまではそこの遺骸がどんな聖者だか知らずに人々は崇拝していた。これは、聖者遺骸の発見と言うよりは、明らかに聖者創出である。
 おそらく古塚にあったのは本当に異教徒の墓であって、司教は何度も礼拝を禁じようとしたが、人々は聞かなかった、というのが真相だろう。そこで政策を転換して、異教徒信仰を、キリスト教の聖者信仰に振り替えたのではないだろうか。

 この例に見られるように、在来の土俗信仰が、聖者・聖遺物信仰としてキリスト教の中に取り込まれる例は枚挙にいとまがない。キリスト教は土俗要素を吸収することでヨーロッパ民衆の宗教となったのである。
 しかし、そうして出来上がったキリスト教は、聖アウグスティーヌスが説いた「愛と救いの宗教《からは程遠く、無数の聖人を信仰対象とする多神教であり、聖遺物の功徳を崇拝する呪術的信仰だった。それを「聖者崇敬《と呼べば聞こえは良いが、その実態は紛うことなき「聖遺物崇拝《だったのである。
 遺物崇拝**これが中世ヨーロッパのキリスト教の本質だ。巡礼も、十字軍も、聖遺物を求めて起こされたようなものである。中世社会独特の社会現象は結局ここに帰結する。

【“奇蹟時代”の終わり】

 先に「奇蹟が本当に起きたか否かは問題ではない《と述べた。
 それはその通りなのだが、実際に奇蹟が起きたと考えた方が歴史上の出来事がうまく説明が付くことがある。
 仮に奇蹟という現象が本当に起こると考えてみよう。そして、それが人々の精神力、すなわち熱心な祈りで起こると考えてみよう。
 すると、社会全体が巨大な祈りの共同体と化した中世ヨーロッパで、奇蹟が多発したのは上思議ではない。中世人は奇蹟を信じて疑わず、真剣にそれを祈った。だから奇蹟は現代よりずっと高い頻度で、本当に起きた。現代人は奇蹟を頭から信じないので、奇蹟は現代では起こらない……そんな仮説は許されないだろうか。

 中世には聖者のみならず、国王も奇蹟能力を持ち、大勢の病人や上具者を癒した。
 国王の病気治癒能力は 11~12世紀のキリスト教高揚期に初めて出現する。但し仏王フィリップ2世 (位1180~1223) や英王リチャード1世 (位1189~1199) からは、国王の奇蹟能力は瘰癧 (るいれき) (首のリンパ腺が腫れる病気)治療に限られ、それも時と共に低下して、イギリスではアン女王の1714年の奇蹟、フランスではシャルル10世の1825年の奇蹟を最後に消失する。

 こうして、奇蹟が“実在”した時代は、18~19世紀頃に終わりを告げるのである。


=参考文献=

弓削 達 『ローマ帝国とキリスト教』 (河出文庫・世界の歴史5) 河出書房新社
渡邊 昌美 『中世の奇蹟と幻想』(岩波新書) 岩波書店
鯖田 豊之 『ヨーロッパ中世』 (河出文庫・世界の歴史9) 河出書房新社

http://

 
 
》記事一覧表示

新着順:2719/3548 《前のページ | 次のページ》
/3548