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JFAシンボルマークと八咫烏の関係

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月11日(木)21時32分12秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://intec-j.seesaa.net/article/18850345.html

サッカーワールドカップ2006ドイツ大会は、いよいよ6月
9日からはじまります。F組に出場の日本は、6月12日にオー
ストラリアと対戦します。
 ところで、日本サッカー協会(JFA)が採用しているシンボ
ルマークをご存知ですか。日本代表選手のユニフォームには燦然
と輝く黄色いワッペンに何が描かれているのです。
 そこには、三本足のカラスがデザインされているのです。三本
足のカラスが二本足で立ち、もう一本の足でサッカーボールを押
さえている図柄です。(添付ファイル)
 このカラスの本当の名前は「八咫烏(ヤタガラス)」というの
です。ヤタガラスは、記紀神話に登場するカラスです。その神話
とは、神武天皇が東征するときの話なのですが、これについては
2001年4月2日のEJ587号でご紹介しています。しかし
ヤタガラスについては説明を省略したのです。
 九州を出発し、一路東に向かった神武天皇は、今の大坂のあた
りに上陸したのです。そこで先住民のナガスネヒコの軍と争いに
なり、それが全面戦争に発展します。しかし、このナガスネヒコ
の軍は強く、神武天皇の軍は退却を余儀なくされます。
 敗因を占った結果、天照大神の子孫でありながら太陽に向かっ
て軍を進め、戦をしたのが敗因であると出たのです。そこで、神
武天皇は、改めて戦略を練り直し、今度は太陽をつねに背負う形
になる南から攻め入ることにしたのです。具体的にいうと、難波
から紀伊半島を迂回し、熊野に上陸。そこから紀伊山脈を越えて
大和地方に入ることにしたのです。
 しかし、紀伊の山は道が険しく、神武天皇の軍は道に迷ってし
まいます。周囲には敵も潜んでおり、再び神武天皇の軍は窮地に
陥ってしまいます。そこに、どことなくあらわれたのが巨大なヤ
タガラスなのです。このカラスは、天照大神によって、神武天皇
を先導するよう使命を帯びていたのです。
 神武天皇はヤタガラスを神の使いと見抜き、それについていく
と、森を抜けることができ、吉野から大和に入れたのです。そし
て再びナガスネヒコと戦うのです。しかし、今回は太陽を背負っ
ての戦いであり、戦況は有利に運んで、ナガスネヒコの退治に成
功します。こういう経過から、ヤタガラスは勝利に導くシンボル
とされているのです。
 この再度の神武天皇とナガスネヒコの戦いにもうひとつ有名な
話が伝えられています。戦争が始まったとき一羽の金色の鳶(と
び)が飛来して、神武天皇の弓の先に止まり、あたり一面に金色
の光を撒き散らしたのです。ナガスネヒコ軍はこれによって戦意
を喪失したといわれているのです。そういう意味で、金色の鳶も
勝利のシンボルとされています。
 道を先導して勝利に導くヤタガラスと敵の戦意を喪失させて勝
利を決める金色の鳶――どちらも鳥が神武天皇を助けているので
す。このうち、金色の鳶については、のちに金鵄勲章にデザイン
されて一躍有名になります。
 それでは、日本サッカー協会はなぜヤタガラスをシンボルマー
クに採用したのでしょうか。
 それは、ヤタガラスが単に勝利に導くシンボルであること――
それはもちろんあります。しかし、それだけではないのです。そ
れは、明治時代に近代サッカーを日本に紹介した中村覚之助氏と
いう人物に関連があるのです。
 中村覚之助氏は、和歌山師範学校(現和歌山大学)を卒業後、
宇久井高等小学校の教師から東京高等師範学校に入学し、4年生
のときに米国の「アソシエーション・フットボール」という本を
翻訳して、そのうえで蹴球部を創設するのです。本は鐘美堂とい
う書店から、東京高等師範蹴球部の名前で出版されています。
 この本は当時、東京高等師範学校の運動部長であった坪井玄道
教授が海外視察のときに原書を手に入れ、帰国後、それを中村覚
之助氏に翻訳するよう託した結果、できあがったものなのです。
 当時、サッカーに似た競技はあったのですが、フットボールと
呼ばれており、ラクビーと渾然一体のスポーツだったのです。中
村覚之助氏は、正しいルールを記述した「アソシエーション・フ
ットボール」という本によって、日本で初めて「蹴球」というこ
とばを使ったのです。それ以後、現在のサッカー・スタイルの蹴
球は「ア式フットボール」または「ア式蹴球」と呼ばれるように
なったのです。
 中村覚之助氏は、和歌山県那智町(現那智勝浦町)浜ノ宮で生
まれています。ここには、ヤタガラスを祀る神社があるのです。
ちなみに神武天皇東征軍が上陸したのは那智勝浦海岸です。ここ
は熊野であり、ヤタガラスは、熊野三山――本宮大社、那智大社
速玉大社――では、霊鳥として祀られています。
 また、平安時代に「蹴鞠」の名人といわれた藤原成道は、その
技能向上を祈願するため、何度も熊野詣をしたと伝えられていま
す。つまり、熊野から日本サッカーの歴史が始まったといっても
過言ではないのです。そういう経過から、日本サッカー協会は、
その旗章にヤタガラスを使ったと考えられます。
 しかし、不思議なことに日本サッカー協会は、そのホームペー
ジにおいても、シンボルマークの三足烏は、中国の故事に基づく
ものとしか認めていないのです。日本サッカー協会は、昭和6年
にシンボルマークをデザインしており、図案の発案者は、当時の
東京高等師範学校の内野台巌教授を中心とする人々であるとされ
ています。
 内野台教授は、明治39年当時の蹴球部員であり、中村覚之助
氏をよく知る人の一人です。中村覚之助氏は、1906年7月に
中国から船で帰国する途中発病し、神戸で緊急入院したのですが
亡くなっています。まだ27歳の若さだったといいます。
 ヤタガラスについては、まだまだ述べることがあります。これ
を機会にもう少し古代史の世界をのぞいてみましょう。
                   ----[八咫烏01]

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